六連銭の系譜に滋野氏筆頭として頭角を現した初代幸隆『真田一族』書評1

その出自は信州の古族 滋野 氏の嫡流 海野 氏の有力支族とされるのが 真田十勇士の大将として有名な 真田一族 であり、中にも戦国末期の 幸隆から昌幸、信行、幸村について扱ったのが 本記事に紹介する 小林計一郎 氏が新人物往来社より上梓した 真田一族 です。 本記事にはその初代 真田幸隆 を取り上げたく思います。

滋野氏の遠祖参議宮内卿貞主の女が清和天皇の兄の惟彦親王を生んだとされ 貞主の一族滋野朝臣恒蔭が信濃介として土着し清和源氏流の系譜も言われるようになったものの、 日本中が源平藤橘に統一される中、真田氏は後に松代藩主となるも滋野の姓を捨てませんでした。 滋野一党には盲人、医術、妖術と関係が深い事柄が多く、 それが真田十勇士の武勇の用いる術に影響を与えているとされるのも面白い処です。

滋野氏は鎌倉初期から信州小県及び佐久方面に勢力をはっていました。 その支族の真田氏は上田市の東北真田の里を早くから根拠地としていました。 これを幸隆の時、天文10年、武田信虎、諏訪頼重、村上義清に責められ失い流浪を余儀なくされます。 幸隆は本貫地恢復を懇願し信虎を追った子、武田信玄に与し 其の名は天文18年の信玄が望月氏へ与えた朱印状に仲介役として 初めて確かな文献に名を現しました。 武田信玄の東信濃攻略に当地の地理、人情に詳しい幸隆は 旧領恢復も相俟って一方ならぬ貢献を果たしたのです。 滋野姓筆頭として頭角を現したのですが真田一族としては 幸隆を以て初代と見て良いのではないかと思います。

幸隆は信玄の信州攻略の先鋒として手腕を揮います。 天文19年には村上氏攻略を狙い砥石城を攻めますが此処に 砥石崩れ は起こったのでした。 真田家をフィーチャーしたドラマなどでは信玄に諫言するも聞き入れられず 若さに任せた大将が生涯に残る数少ない敗戦を招いたとされますが本誌では 幸隆をこの戦の演出者と見て、 謀将幸村、策士策に溺れる とするのには成る程と思わされます。 当の砥石城が翌天文20年には幸隆に依り不意な乗っ取りが成功したのも、 前年の砥石攻めを信玄の責に求める材料となっているのでしょうが、 この乗っ取りは必死の幸隆の一世一代の謀略とも思えるのです。

これらの数々の戦が効を奏し一進一退を繰り返しながらも信玄の信濃攻略は漸進し、 川中島の合戦を永禄4年の大激戦を挟む五度を数えながら支配の安定へと帰着しました。 此処に幸隆の働きが大きかったのは言う迄もありません。

天文の終わりから弘治を経、永禄へ掛けて 奥信濃の調略に明け暮れた幸隆でしたがこの手腕と、 滋野氏に連なる血脈を見込み信玄は再び 上州攻略の急先鋒として幸隆を起用します。 鎌倉以来滋野氏の蕃衍した上州には未だ多くの血族が起居し 幸隆の謀将としての能力を活かされるのを求められたのです。

川中島停戦を見るとき、 武田は兎も角、上杉は良く目の前の信濃国境で矛を収めたものだといつも思います。 それほど 関東管領 は特に謙信に重いものだったのが分かります。 信玄に取っても佐渡金山の魅力はあれ、 永禄3年桶狭間の今川義元の横死で南に大海への道が開け、 強敵謙信なくとも越後の魅力は薄いものとなったに違いありません。 それ以上に関東は源氏の主流に近い武田に取っても魅力的だったのではないでしょうか。 若しかしたら都指向の謙信より信玄の方が関東への渇望は強かったのではないかと思うのです。

幸隆はそんな信玄の要請に応え西上野に転戦、 大戸城、要害岩櫃城、岳山城、と次々と攻略、 岩櫃城に武田の急先鋒として在陣し上杉、北条の2大勢力と良く対峙しました。 岳山城攻略時の永禄7年信玄5月書状に 勿論この時点で滋野一党の頭目は幸隆と目されてはいますが、 海野、禰津と並び真田衆が上げられているのは本誌に注目すべきとされています。 同年3月の書状には真田一徳斎幸隆の一徳斎号が初めて見えると共に 上州計略の中心人物と推し量られます。

なお永禄7年は信玄が正室及び壮年の長子を退けても今川と断交し駿河進出が明瞭になった年、 今川と結ぶ北条もこれにより武田と断交し上杉と結び、 上州攻略の長たる幸隆の前に立ちはだかったのでした。 太平洋岸からの塩の調達を失った武田に謙信が塩を送った 敵に塩を送る 故事の縁起とされるのは真偽はともあれこの時のことです。

元号が元亀に変わるまで幸隆は良く持ち堪えました。 北条の大将氏康の氏を切っ掛けに甲相同盟が復活、 幸隆も再び攻勢に立ち白井城を陥れます。

しかし翌元亀3年は信玄の寿命の尽きる時でした。 時に齢60を数える幸隆も病の床に伏せ勝ち、 天正2年に武田の跡を襲った勝頼が徳川領の高天神城奪取の僅か数日前に逝去していました。 享年62歳、本領を失い上州に流浪しながら失地恢復し、 晩年は流浪の地西上野攻略の責任者として真田一族の確かな地歩を築き、 出自の滋野、海野の筆頭たる名を得た、逆転の人生と言って良いでしょう。

その翌年、真田を継いだ長子の信綱は次弟昌輝と共に長篠の露と消えました。 幸隆が与し、真田復活の後見となった武田はこの後急速に衰えて行きます。 真田一族に戦国の激動はまだ安寧を許さないのでした。

真田一族は追うことで戦国末期の混乱から 天下統一へと収束する時代の推移を権力者の傍らから 時には敵として概観することが出来る 歴史に興味を持つ者に取っても稀有な一族と言えます。 幸隆は天下統一の一段階以前、後の天下一統者をも恐れさせる地方の有力勢力武田氏の下に 真田の名を世に出さしめ、その地歩を確かなものとした初代でした。

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