短文信仰の怪しさはその前提から疑われるものであるに起因する

文章についてとても興味深い記事が 読書猿Classic: between / beyond readers ブログさんで2記事連続で投稿されていました。

前者に於ける 短文信仰 については、そのような傾向が世に見て取れるのを大いに首肯できる処で、 常々苦々しく感じていたものですので、とても面白く拝見しました。 記事を参考にかたむき通信にも些か考察を試みてみたいと思い本記事をものする次第です。

後者は短文信仰の主要信者とも言うべき新聞記者の手になる新聞記事が 平均を取ってみれば小説やブログなどと比較しても短いものではないのが明らかである、 と言う要旨で、併せて文豪たる谷崎潤一郎の 『細雪』 と夏目漱石の 『坊っちゃん』 に大凡挟まれているとなれば、 短文信仰が其れ程意義を有しないだろうことが汲み取れもします。

前者の短文信仰のご本尊は 達意の文章 であるでしょう。 読者に作者の作意が伝わるのを善しとする訳です。 この判断基準も高いとするものは、その作品が長く世に残るのを以てするか、 当世に広く流布するを以てするか、特定の層の支持を受けるを以てするか、 などなかなか難しいものがあるようです。 即ち短文信仰の布教者の主張もそれらしき状況証拠だけ揃えた検察官のようなもので それだけで長文を有罪の追い込むのは的外れにして些か堂々巡りの感も有り、 ゴールと明後日の方向にボールを蹴飛ばしている 息切れした下手の横好きサッカーファンの如くあります。

さて、短文信仰が些か怪しいものと以上だけでも容易に推測されるのですが、 更には後者記事に比較の基準として文章の文字数の 平均値 を用いているその一事に因って、果たしてその基準が用をなすのかと言う疑義が 短文信仰の怪しさに拍車を掛けるものです。 なんとなれば平均値を以てした際に文章の類型化の根拠が薄弱であり、 類型化も儘ならない基準が判断材料になる訳もないからです。 短文信仰の主張の是非を問うためにはこのような意味のない基準を 使わざるを得なかった記事執筆者に同情する処です。

作家なり、論文や新聞などの一括りの文章分野の性質を比較するに 文字数を考えた時には恐らくその一文に於ける文字数の平均値は意味がないのです。 この平均値を基準として考える脳裏には明らかに分野毎の一分の文字数は 正規分布をなしているのを前提としています。 この前提がそも訝しく思われるのです。

確率分布の話しには必ず付き物の所得分布の話しがあります。 例えば厚生労働省発表の 平成20年国民生活基礎調査の概況 に於いては 所得の分布状況 が用意されています。 此のデータを主張の材料に用いるに平均値を使うのは詐欺師の初歩の手口だとされるものです。 勿論厚労省も詐欺師の手先呼ばわりは堪りませんのでグラフ上には確り平均値より低い メディアン中央値) が記入されているものです。 更には モード最頻値) はそれを下回る政府としては余り基準に用いたくない数値をなっているのが見て取れます。

確率分布には幾つもの種類があるのは周知の如くです。 滋賀大学経済学部サイト内に さまざまな確率分布 (2019年8月24日現在記事削除確認)が分かり易く用意されているが如きです。

文章の類型化を試みるに文字数を以てする際、 正規分布を前提とするのが先ずは如何なものかと思われるのです。 若しかしたら類型化は確率分布の種類を以てされるものかも知れませんし その方が正規分布一本に絞るより自然な気がします。 或る作家はポアソン分布であるかも知れませんし、 或るメディア形式はパスカル分布であるかも知れません。 そうであるならば勿論其々パラメータは異なってきます。

しんば全て正規分布であったとしても、 パラメータたるは平均値のみにあらず、 分散も堂々たる重要性を持って来る筈です。 否、標準偏差の方が類型化を考えたときにはその一括りの性質を表すものとして 遥かに蓋然性は高いものであるでしょう。

こう見て来た時に短文信仰なるものはその取っ付きは易きものの 実質は如何にも空虚なもので何らその内に汲み取れる主張のないものと考える次第です。

これとは別に 達意の文章とは如何なるものかと言うはなかなかに敷居の高き難問で 孰れ折り在らば考察をなしてみたいとも思うものです。

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