天下布武の武の字義『信長と十字架』書評

戦国末期を題材にした良くある陰謀物の小説として楽しめば面白いのかも知れません。 信長と十字架 ―「天下布武」の真実を追う(集英社新書) (以下、本書)です。 しかし歴史数寄が知識欲に燃えて何某かを得んとして読めば失望することになるでしょう。

その要旨は イエズス会のために立ち上がった武将、信長 であり、その仲介役は 細川幽斎 であると言うものです。 幽斎を媒介としてイエズス会の意に沿って信長が立ち回った、 なる発想をまるで論証するかの如き構成に見せた小説として楽しめば好いでしょう。

その筋立てとしては 第1の疑問として 天下布武 はどの時点から芽生えたか? などの問い立てを番号付け、時に大命題なるこれ等のまとめと思しき主張が提示され、 お話しは進行するものです。 此処に於いては些か命題の用法も心許無いものではありますが。

幾つかの疑問が項目立てられた後、 いきなり命題を飛び越えて大命題が登場します。 それは「信長の全国制覇の第一歩は、イエズス会と、それを中心とした南欧勢力の示唆によって踏み出された」とあり、 成る程本書の題目も頷けようという著者の主張となっています。 これを更なる疑問で矯めつ眇めつして数章を閲して後、 新たに新大命題が提出される。 それは「信長は全国制覇遂行にあたり南欧勢力の援助を受けていた」とされ、本書の要旨はただ一点この新大命題の発想にあり、 その正当性の主張に終始するのが内容となっています。

然らばなお、この新大命題は少々オブラートにつつまれており、 それよりは一つの項目立てに過ぎない一条こそが本書の主張の要旨と断じ構わないでしょう。 それこそが本記事冒頭に掲げたものでした。

主張の正当性のための重要な概念の一つに 天下布武 が取り上げられます。 この概念を考証するに当たって朝日新聞の天声人語を用いているのはいただけません。 天声人語はその可笑しな主張がしばしば面白可笑しく取り上げられることはあっても 凡そ真面に取り上げられるべき内容を聞いた例がありません。 況してや歴史上に何某か貢献すべき内容がある筈もないでしょう。 ここには武の字義を取り上げられていますが その内容は混乱を招かぬように敢えて此処には記さないでおきましょう。

さて、本書とは別に武の字を調べて見ましょう。 現代では漢字の本義を覗うには 白川静 先生が著し平凡社から上梓される 字統 を引くのが一番です。

其処には武は会意文字であり ほこあし とに従う、とあります。 止は歩の略形です。 戈を執って前進することを歩武という、と続き、 また説文に、文において、止戈を武と為す、とする解をとるが、止は前進の意、としています。 説文を全面的に批判した白川先生の面目躍如たる処が覗われます。

  • 武は迹なり(詩、大雅、生民)
  • 歩武尺寸の閒に過ぎず(国語、周語)
  • 堂上には武を接し、堂下には武を布く(礼記、曲礼、上)

更には上の如き例文引き、みな歩武の意であると説明してもいます。 舞と同声であるため、武舞を原義とする説もあるが、もと武徳をいう、と結論付けています。 従って古くから文武と対称し、殷に文武丁があり、 周では文・武相嗣ぎ、その専字として玟珷がある、としています。

以上より武の字義に於いては決して 戈を止める のではなく 戈を以て進む のが明らかです。 天声人語の主張の如き現代人にも特に薄っぺらい人種の単なる思い付きで決定されるべき意味では決してありません。

なお、 武徳ぶとく とは大辞林の第三版の解説に先ず、「武人として守るべき徳。」が、次に 「武事の威力。武士階級の権力。」が意として挙げられ後者の例文として太平記の 「今は天下ただ武徳に帰して」が引かれます。

本書には時折恣意的な解釈も頭を擡げます。 材料を己の都合に合わせて取り上げるのは統計などに於ける処理にもしばしば見られることで、 分析者としてはなるべく避けたいものではありますが、 なかなかに難しいのも確かだとは言えましょう。 或る時は信長の言の文献がないことで拒否するかと思えば 或る場面では信長の言はないが至極当然と自説を展開する場面が見られるのは それでも矢張りいただけません。 自説が文献に見付けられないとなると早速 秘中の秘とする(P193)のは何をか言わんやです。

そして織田信長に於ける陰謀物と言えば 本能寺の変 に帰結するのは謂わずもがな、です。

本能寺の黒幕としてしばしば挙げられるのが時の朝廷です。 大凡其処では朝廷とだけされ、それが正親町天皇であるのか、 誠仁親王であるのか、関白近衛前久であるのかは明記されませんが、本書も例外ではありません。 大抵は曖昧模糊とした意識の集合体を其処に想像せしめようとするだけです。

更には本書は例に拠って明智光秀を実行犯とし使嗾せしめた 真の黒幕 を希求します。 勿論、本記事を此処迄読み進めた方には明瞭でしょう、 それはイエズス会に結論付けられます。 傀儡政権が親政に奔ったのを厭うた、と言う訳です。

此の手の主張に折々感じられる如く全体的に結論へ至る思考も 後から見た事実を整合性良くまとめようとし過ぎる陥穽に落ちている印象が拭えません。 総てはイエズス会の筋書き通りに破綻無く物語りは進行したと言う訳です。 従って本書はイエズス会を主役とした小説として見れば面白いものとなるでしょう。

その一般へ主張する手法は見るべきものがあるものの、 本書の主張が定説となるには先ず至らないでしょう。 本書が強く主張する様はまるで事務所にせっつかれた崖っぷちのバラドルが 何とか出演したテレビ番組に爪跡を残したいと焦る様にも通じる様子が髣髴されます。

とまれ本書執筆には相応の資料を渉猟した様子が伺えます。 学会へのインパクト等は度外視して、 実直な結論を導き出せば他に評価も有っただろうと思うと残念です。

教訓として歴史界に衝撃的な展開を齎すのが希望ならば 新事実としての文献発掘の僥倖を得るか、 若しくは丹念に実直に文献を読み込むことが必要なようです。

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