織田軍桶狭間に迂回奇襲せず『信長の戦国軍事学』書評2

稀代のドキュメンタリー作家に負い、 戦国時代の軍事史を矯めんと試みたのは 藤本正行 氏(以下、著者)執筆の 信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像 (歴史の想像力) (以下、本書)でした。 書評の初回には本書の序章にその作家 太田牛一 を先ず以て検証したものに対する記事としました。 そして本書の白眉は第1章にあるでしょう、 書評の2回目としてその 桶狭間合戦~迂回・奇襲作戦の虚実 を見ていくことにします。

桶狭間の合戦、 小勢の織田信長が大軍の今川義元を当地に破り奇跡的勝利を挙げたと言われる合戦です。 本書本章の結果から記せばそれは驚くべきことに 定説にこの合戦が奇襲戦とされるのは全くの小瀬甫庵に因るフィクションであるとするのです。 近年この著者に依る説が随分普及したため幾分そのショックも和らいだ感が有りますが、 1993年初頭に本書が上梓せられた当時は驚愕の新説でした。

桶狭間古戦場公園に並び立つ両軍大将の銅像(2017年6月10日撮影)
桶狭間古戦場公園に並び立つ両軍大将の銅像(2017年6月10日撮影)

信長の奇襲が万事都合良く成功するのはフィクションであればこそと本書は主張します。 甫庵の小説家としての手腕は評価すべきですが、後の史家、 延いては軍部がこれを容れたのは悲劇でした。 創作を史実と誤解し、これを精神的支柱として作戦立案した太平洋戦争など最たるもので、 その後世に与えた影響が只ならぬものであるのが知れます。 桶狭間の奇襲戦は現代に生きる亡霊、と本書は断じるのです。

著者が疑義を抱く切っ掛けの一つに太平洋戦争レイテ海戦について記された 戦藻録せんそうろく敵が同一場所に居ると言う保証はない なる一文を認めたことだと言います。 桶狭間に於ける合戦では大高城に兵糧を入れられ、 丸根、鷲津の両砦は落とされ戦場は凡そ今川方の支配する処となっていました。 通信技術の現代と隔絶するこの時代には戦場を敵に支配されるのは、 情報収集、伝達力の決定的な低下を意味しました。 しかも以て銘記すべきには桶狭間は当時今川領であったのです。 此処に奇襲の成功する確率は零に等しくなります。 後の信長の作戦立案を見ても奇襲の如き戦術は取られ得ないと言う訳です。

沓掛城本丸と諏訪曲輪を繋ぐ階梯(2017年6月10日撮影)
沓掛城本丸と諏訪曲輪を繋ぐ階梯(2017年6月10日撮影)

其の視点から改めて見れば信長公記はこの論に於ける重要な立証事実を齎します。 牛一は当時34歳、信長公記は現在知られる内には唯一無二の 当事者の手になる桶狭間合戦の戦闘記録として著者に遺憾なく力を与えます。 織田軍は信長公記に地理、方角が明記される通り、実際迂回路は取りませんでした。 戦場を支配しつつある今川が定石通り中島砦に向かって高地に布陣したのに 二川の合流地、低地に位置する中島砦から東へ向かい今川前軍に正面から戦闘を仕掛けたのです。 今川前軍は数に劣る筈の軍勢に低地から仕掛けられた戦闘に形無く破れ敗走、 嵩に掛かった織田軍が進軍した先に後方に陣した今川旗本が在り、 此処で初めて最前線の信長は義元を把握したのであって、 初めから布陣を察知して義元個人に狙いを定めたのではありませんでした。 織田軍に取っては義元を討ち取るのは望外の結果であったのです。

これを織田の勝利した数十年後に織田の勝利を分かった上で小説をものした甫庵の筆は走ります。 小勢の織田が大軍の今川に勝利出来たのも以て奇襲の齎すもので、 従って情報戦に勝利し旗本位置を察知し迂回路を取り谷間に布陣した今川旗本を急襲、 織田は勝つべくして勝ったと相成るのでした。 しかし今川旗本が陣したのも信長公記に依れば 桶狭間山 でありそれは沓掛から尾張へ向け進軍し鳴海と大高への分岐点にある交通上の要衝で 全く当時の軍事に於いて定石通りの問題ない布陣だったのであり、 決して谷間に遣られるべくして陣したのではありませんでした。

丸根砦中腹から名古屋市郊外を望む(2017年6月10日撮影)
丸根砦中腹から名古屋市郊外を望む(2017年6月10日撮影)

甫庵の筆は更に走り、小説内に適当な敵役を作り上げお話を盛り上げる手腕も発揮し その適役が後に信長に追放された 林佐渡守秀貞通勝) でした。 信長の果断さを引き立てるために前夜の軍議に信長に一蹴された籠城戦を主張したと言うもので これも確り後の世に通説となりましたが、 信長公記に依れば軍議らしい軍議は開かれていません。 其世の御はなし、軍の行は努々これなく、色々世間の御雑談迄にて、深更に及ぶの間、 帰宅候へと御暇下さる、とあるだけです。 小説としての組み立ての妙技は史実を直接見るには時には邪魔となる一例です。

史跡鷲津砦址石碑(2017年6月10日撮影)
史跡鷲津砦址石碑(2017年6月10日撮影)

信長公記に依る論からいけば今川義元の上洛戦の一旦と桶狭間を捉えるのも問題が有るようです。 桶狭間に義元が横死したのは事実ですからその目的は最早伺うべくもありませんが、 当時の常識から考えて今川軍の上洛は考えられないもので、 では常識から図られる目的は何であったかと言えば、 新たに織田領から調略で手に入れた鳴海、大高の確保に相違ありません。 信長も調略を受けて黙ったいるだけにはあらず、 両城への付け城として丸根、鷲津、中島、善照寺、丹下の各砦を築いていたのであり、 この圧迫を今川方は取り除く必要があったのでした。 この類例は戦国時代に限っても枚挙に暇がないものです。 信長が今川旗本を追い詰めたように状況に依ってはどう転んだかは分かりませんが、 これ等砦を落としてしまえば今川方は満足して引き上げ、 恐らくは那古野城への進出さえなかったでしょう。 これに逆らい無理のある上洛戦が採用されるには矢張り劇的効果があるからだと考えられます。 林道勝の籠城献策もこの流れの上にあるでしょう。 義元上洛の前提がなければ那古野城籠城の意味も薄くなるからです。

鳴海城跡公園から名古屋市街地を望む(2017年6月10日撮影)
鳴海城跡公園から名古屋市街地を望む(2017年6月10日撮影)

更には信長が自軍を鼓舞するに用いた言も状況判断に於ける誤解、過誤、を孕んだものでした。 今川前軍に攻め掛かるに、敵は労軍、即ち大高、丸根、鷲津に一線を交えた部隊であり、 自らは新手として必勝を約しているのです。 実際は労軍は徳川家康、当時松平元康の部隊でこそあって、 今川前軍は織田軍と同様、全くの新手でした。 結果この状況判断の誤りが敵の虚を突くことともなり、織田に大凱旋を齎しもしたのです。 全く以て事実は小説より奇なり、の感を強くさせるものです。

戦闘に合理的解釈を与え読者を惹き付けるに甫庵の手腕は見事でした。 しかし飽く迄フィクションであれば、織田、今川の勝敗を分けたのは如何なる理由か、 本書、本章にはこの面からも日本海軍のミッドウェー敗戦など引き 興味深い考察が加えられており一読の価値を有するものです。

追記(2017年6月24日)

桶狭間の戦い関連地を訪れたのを機に 桶狭間現地を訪れ信長公記桶狭間の戦いを再読す を配信しました。 また現地で撮影した写真を本記事に2017年6月29日に追加しました。

信長の戦国軍事学書評記事一覧(※)
  1. 当代随一のドキュメンタリー作家太田牛一(2012年11月12日)
  2. 織田軍桶狭間に迂回奇襲せず(2012年11月14日)
  3. 墨俣一夜城は築城されず(2012年11月23日)
  4. 異例戦国大名姉川に正面衝突す(2012年12月3日)
  5. 攻城戦開城慣習に反する殲滅鏖殺(2012年12月9日)
  6. 新戦術は長篠合戦にありしか(2012年12月24日)
  7. 鉄甲船本願寺の補給路を断つ(2013年1月1日)
  8. 本能寺と甲州武田氏の滅亡(2013年1月7日)
スポンサー
スポンサー

この記事をシェアする