攻城戦開城慣習に反する殲滅鏖殺『信長の戦国軍事学』書評5

日本軍事史にも類例を他に見ない余りにもあからさまな裏切り行為は 織田信長に因って長嶋の地に為されました。 時は天正2年(1574)9月29日、長嶋一向一揆対織田軍の戦闘に於いてです。 この日一揆軍は長引く籠城に兵糧も尽き織田軍と談判の上、 最後の砦たる長嶋城を退去することとなりました。 そのとき殲滅、鏖殺、皆殺し、未曾有の大量掠殺は実行されたのです。 その様を太田牛一[※1] 記す処の 信長公記 は以下のように簡略ながらも生々しく活写しています。

九月廿九日、御詫言申し、長嶋明退き候。 余多あまたの舟に取乗り候を、鉄砲を揃へうたせられ、際限なく川へ切りすてられ候。

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かたむき通信に記事下の書評記事一覧[※] を記したのは 藤本正行 氏(以下、著者)が400年の時を越えてその軍事史料としての価値を掘り起こさんとする 太田牛一の代表作 信長公記 を活用して上梓された 信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像(歴史の想像力) (以下、本書)について章立て毎に取り上げ紹介したものにて、 本記事がその第4章 長嶋一揆攻め の書評として起こす記事となります。

乃木将軍に次々と要塞攻略に注ぎ込まれたように近代国家の兵士は 愛国心、軍律、社会的制裁などに因って行動を雁字搦めに規制されていますが、 戦国当時の兵士はこれと異なり或る程度自由度の高いもので 攻城戦のような危険性の高い戦闘は露骨に嫌がりました。 或る意味コストパフォーマンスが図られ市場経済が働いていた訳です。 本書にも度々言及されるように兵士を率いる武将側も 損耗の激しい戦闘は補填は全て自腹で賄わなければなりませんから厭うべきものです。

当時には開城に関して暗黙のルールが存在し、 それは決して其の場限りの都合で左右されるものではなく、 上記のような環境、条件を鑑みて古くから交渉が実践され、 その長い間の経験を積み重ねて出来したものでした。

しかし信長はこの暗黙の諒解を反故にして 二万余と謂われる一揆勢を老若男女問わず皆殺しにした空前の大虐殺を施行しました。 今日歴史家の中に信長公記は家臣が主君を書いたものであるから、 信長に不都合のものは省かれる筈であると主張する向きも少なくありませんが、 この眉を顰め嫌悪感を示さざるを得ない長嶋一向一揆殲滅、鏖殺、皆殺しと言う事跡を 其の儘に書き残された信長公記を其れ等は如何なる如く捉えるのでしょうか。

筆者は当時の開城の事例の中でも異質のこの殲滅作戦を取り上げることで その背景の当時の籠城戦の実態と交戦中の敵味方間の交渉ルールを浮き彫らんとした、としますが、 その実、而して信長公記が信頼の置ける一級の史料であることを 訴求しようとしているように感じられます。

信長と一揆軍の交渉には篠橋城を開き長島城へ追い入れるなどの経緯がありましたが 全て信長の掌の上に展開していました。 石山本願寺が元亀元年(1570)に挙兵以来、信長実弟の討ち死になど 手痛い目に合わされ、何度も煮え湯を呑ませられ我慢させられ続けての4年間を 信長の如き人間に強いれば交渉の余地などはない、と筆者は記します。 一揆軍の運命は包囲された途端に決定したのでした。

さて、興味深いのは著者は本書に於いて第1章では桶狭間に於ける奇襲[※2] と言う、第2章では墨俣一夜城の築城[※3] と言う通説を舌鋒鋭く覆して来ました。 では本章に於ける通説の扱いはどうなっているでしょうか。

講談や小説に取り上げられる長嶋一向一揆攻めの信長の戦略の通説に 一向宗の虚を付く用兵がありました。 上に見る如く全てが信長の意向通りに運んだのには事前に条件がその条件が整っていたからでもあります。 その状況を作り上げたのが信長の用兵でした。

天正2年には甲斐武田勝頼に依る遠州高天神城攻めがありました。 用兵果敢な信長が徳川の懇願にも関わらず救援が遅れ 高天神城は敢え無く落城しましたが、 由って信長の手元には兵糧を整え戦闘準備の整った大軍がそのまま残りました。 これが其の儘長嶋に振り向けられたのです。 従って長嶋一向宗は不意を突かれた形になりました。 長期籠城の仕度も無く直ぐに兵糧は尽き、 以下牛一が記す如き籠城は悲惨な様相を呈したのでした。

雑兵悉く柵際迄罷出で木草の葉を取り中にも稲かぶを上々の食物とし 後には是も事尽きて牛馬をくらひ霜露にうたれ弱き者は餓死際限なし。 餓鬼の如き痩衰へたる男女柵際へ寄、悶(本文は口偏に旁は長)焦、 引出し扶け候へとさけび叫喚の悲しみ哀れなる有様目も当てられず。 鉄砲を以て打ち倒し候へば片息したる其者を人集まり刃物を手々に持て続節(関節)を離ち実取り候キ。 身の内にても取分け頭能きあぢはひありと相見へて頸をこなたかなたへ奪取り逃げ候キ。

思わず目を背けたくなる惨状、正しく地獄絵図です。 これでは戦闘処ではありません。 ことは信長の思うように運ぶ他ありませんでした。

この状況を出来せしめる高天神城救援軍の振り向けを以て 信長の用兵の妙として巷間定説、通説となって流布している訳です。 そして今回についてはどうやらそれは著者に捏造の謗りは受けずに済んでいます。

使用写真
  1. Fireworks at Nagashima Spaland( photo credit: emrank via Flickr cc
信長の戦国軍事学書評記事一覧(※)
  1. 当代随一のドキュメンタリー作家太田牛一(2012年11月12日)
  2. 織田軍桶狭間に迂回奇襲せず(2012年11月14日)
  3. 墨俣一夜城は築城されず(2012年11月23日)
  4. 異例戦国大名姉川に正面衝突す(2012年12月3日)
  5. 攻城戦開城慣習に反する殲滅鏖殺(2012年12月9日)
  6. 新戦術は長篠合戦にありしか(2012年12月24日)
  7. 鉄甲船本願寺の補給路を断つ(2013年1月1日)
  8. 本能寺と甲州武田氏の滅亡(2013年1月7日)
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