信長の戦国軍事学~書評8~本能寺と甲州武田氏の滅亡

章立て毎にかたむき通信に記事末尾に一覧 〔※〕 を記す関連記事をものして来た 藤本正行 氏(以下、著者) の信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像 (歴史の想像力) (以下、本書)に関する書評も愈々最後に終章 本能寺の変―謀反への底流 を残すのみとなりました。

本能寺址

太田牛一の代表作 信長公記 を改めて真摯に紐解くことで世に流布する通説の訝しさに疑義を発し、 幾つもの新発見とも言って良い業績を本書になされたものですが、 その白眉たる 桶狭間長篠 に比して本能寺に於いては些か肩の力を抜いて書かれている様子もあり、 力説の相次いで息詰まる思いの読者に不図浮揚感を与え、 余韻を残すかの如き効果を与えるものとなっています。 著者が典拠とする信長公記の部分を幾つか引き、 其々に本能寺に興味深い内容を認めるも本書には触れぬものとするのに併せ 其の中に一本終章に筋を通さんと用いられるのが甲州武田氏の滅亡であるのも この余韻を助長するものかも知れません。

天正3年5月21日、長篠に織田軍に大敗した武田勝頼は家運衰退止めようもなく 天正9年には徳川氏に高天神城を後詰もせず奪回されては信長公記に 天下の面目を失ひ候 と記される為体でした。 信玄の御世に人は城とした躑躅ヶ崎館も新府築城の後移っては領内の動揺を招くばかり、 遂に翌天正10年(1582年)2月1日、木曽義昌が織田の調略に降りました。

調略を以て出陣のあるのは当時にも織田軍にも定石とて、 勝頼も諏訪上原に出動しますが約1ヵ月の後には呆気無く滅亡の憂き目を見ます。 本書にその間の信長公記の抜書きが引用され、著者は士気の衰えた武田軍の 崩壊する様が目に見えるようである、とします。 愈々崩壊の度を増す武田軍からは最大の兵力を擁する穴山梅雪が2月25日に離反、 勝頼の弟仁科信盛の高遠城も3月2日に陥落と将棋倒しの様相を呈します。 勝頼は3月3日新府城に火を放ち逃走するも重臣小山田信茂の裏切りを以て天目山に散りました。

著者はこの木曽義昌の離反から武田の滅亡迄僅か1ヵ月余りの短時間に注目します。 この甲信上駿に巨大な大領主が一気に消え去ったのですから 余りに大きな穴が其処には空かざるを得ませんでした。 宛らブラックホールの如きものでその強大な引力に 信長自らもが引き込まれてしまった、と言うのが著者の主張です。 信長が過去5年間に自領としたものとほぼ同等の旧武田領を僅か一ヶ月で手に入れては 幾ら梅雪や徳川に恩賞を与えても異常な領地拡張であるのは否めず、 新領地へは慌ただしく配下の武将達が派遣されますがそれが信長の周囲を手薄にさせ、 明智光秀に謀叛に踏み切らせる機会を与えた、とします。

派遣された一人に滝川一益がありました。 様々言われる光秀の心理に動きを与えたとされる事案にも 著者はこの滝川一益の関東派遣をこそ最も影響が大きかっただろうと推測するものです。 光秀に惟任の姓を与えて鎮西守護の中心人物足らしめようとしたのは 一益の件と併せ通説として流布するものですが、 著者は本書に此の説を最も強く推すものです。

斯くて、 勝頼は自らが慌ただしく滅びることで信長を道連れにしたといえなくもない、 と本書は結ばれるものです。

物語の末尾が其の後を予感させる如く終章は穏やかに筆を擱く筆勢で書かれれば 本能寺と武田の滅亡を一揃えに語られる面白さはありながら 些か喰い足りぬ面の残る向きもあるのは否めぬ処でしょう。 本書が上梓されたのは平成5年(1993年)と二昔前、 勿論著者は其の後も精力的に著作を重ね、実は2010年10月21日に 洋泉社の歴史新書yに 本能寺の変~信長の油断・光秀の殺意 を上梓してもいます。 幸い当該書籍を入手しましたので 折有らばまた書評をかたむき通信にものする予定でいます。

使用写真
  1. 本能寺址( photo credit: noriqnub via Flickr cc
信長の戦国軍事学書評記事一覧(※)
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  7. 鉄甲船本願寺の補給路を断つ(2013年1月1日)
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