豊臣政権東の抑え水口岡山城の破城の様子も明らかな虎口石垣跡の発見

東へ向けての最前線と言われれば些か違和感のあるのは甲賀国 水口岡山城みなくちおかやまじょう ですが、西国総司令官として本能寺の折には中国大返しを敢行し、 徳川家康と言う大大名を東に冊封せざるを得なかった豊臣秀吉の拠って立つ基盤を思えば首肯出来るものですし、 また太閤死して天下分け目の決戦が関ヶ原であったのを考えれば尚更其の意を強くするものです。 此処には太閤秀吉の命を受けて中村一氏が築城した後、 豊臣政権の5奉行の内、増田長盛及び長束正家が相次いで城主となったのは 其の如き状況があったからでした。

下に記す地図を見れば如何にも地の利を得た築城であるのが窺われ、 なる程、東への押さえとして重要な役割を与えられていた城であろうと思われます。

より大きな地図で 全国遺跡マップ(水口岡山城) を表示

この重要性を後押しする新発見がなされたのを昨日2013年2月27日に甲賀市教育委員会が公表しました。 この城の人工的に破砕された石垣跡が見付かったと、日経新聞〔※1〕 及びMSN産経ニュース〔※2〕 に伝えられるものです。 石垣は当時の最先端技術でもあれば、天正13年(1585年)に築城された此の城の重要性を窺い知れる、と言う訳です。 豊臣政権に重要な役割があれば徳川の天下となれば邪魔なものであるのも又確かで 慶長5年(1600年)関ヶ原に長束正家は破れ廃城、人為的に破壊、即ち 破城はじょう された様子が垣間見える程に確りと残された状態で発見された、と伝えられます。

此の石垣の位置していた箇所も又興味深いもので、それは城に於ける大手門にて 枡形虎口ますがたこぐち の形態を為している、と言うのでした。 戦国時代に著しい発展を遂げた攻城戦に敵の攻撃に晒され易い城門は 虎口こぐち と化してその戦闘度を高めました。 喰違虎口くいちがいこぐち はやがて西国では枡形虎口に、東国では 馬出うまだし と言う類型的な形態を取り、大阪城に東国タイプの馬出の形態を取った 真田丸 が設けられたのは真田が信州上田と言う東国の武将〔K1〕 であれば又興味深いものであり、西方の東への備えたる此の水口岡山城に枡形虎口の形態がとられ それが石垣に備えられていたのも当時の東西のパワーバランスを彷彿とさせます。

僅か15年にて破城の憂き目に遭った水口岡山城ですが、 今長い年月を超えて、我々に様々な事実を齎してくれるものと思います。 甲賀市教育委員会歴史文化財課では現地説明会を告知〔※3〕 しており、発掘調査現地は山中のため参加者には充分の注意を呼び掛けているのが要害の山城たる所以でしょう。 この如き迅速な情報発信は評価されて然るべきものでかたむき通信的格付けにも高評価を付けたいとも思いますが 今少し現地説明会資料などの開示で埋蔵文化財情報を発信してくれれば最上位となった惜しさを含みつつ 今回はBと勝手にさせてもらいましょう。 CGM(消費者生成メディア)として嬉しい多くの画像情報を発信をしてくれているサイト〔※4〕 なども当該発信の際には参考にして貰いたいものです。

かたむき通信参照記事(K)
  1. 真田一族3~英雄幸村の等身大像を垣間見る(2012年8月29日)
参考URL(※)
  1. 秀吉、天下統一夢見た石垣 滋賀・水口岡山城の山頂に(日本経済新聞:2013年2月27日)
  2. 虎口に破城石垣跡 水口岡山城「重要拠点」裏付け 滋賀(MSN産経ニュース:2013年2月27日)
  3. 水口岡山城第1次発掘調査現地説明会(甲賀市:2013年2月28日)
  4. 近江・水口岡山城写真館(城郭放浪記)
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