細川幽斎~書評中編~出生から本能寺迄

幼少期、足利将軍家と深い関係にあって数奇な運命の許に翻弄されながら 見事に日本史にも稀な動乱戦国期を生き抜き、細川家の命脈を江戸期に繋いだ 細川幽斎 は長子の越中守忠興を藩祖とする肥後細川家の礎ともなったのでしたが、 その系図を連綿と受け継いだ昭和に 細川護貞 氏(以下、著者)が当主としてあり、その手になるのが1972年12月に求龍堂より上梓され、 1994年にまた中央公論社より復刊された 細川幽斎 (以下、本書)でした。 中央公論社に復刊されたカバー絵の永青文庫に収蔵さる和歌扇面に ぬれてほす山路の菊の露のまにいつか千とせを我はへにけむ と主人公の細川幽斎の直筆が見られるのも其の人の物語に興味を抱かせる本書はかたむき通信に 書評前編 として取り上げ、歴史家、研究者に用立つ書籍として先ずは本書を分類しましたが 勿論随所に歴史数寄にも面白き話が盛り込まれています。 此の中編には研究者ならぬ一般にもゆかしかろう其れ等を取り上げましょう。

中公文庫版細川幽斎

先んじて取り上げるべきは第1章に相当する幽斎の出生と簡単な細川家の家譜でしょう。 細川家は清和天皇第6皇子貞純親王に始まる八幡太郎義家より足利に繋がる武家の家、 その分枝となる細川義季を祖とし室町政権に斯波、畠山の両家と共に管領職を重ねた家であり、 しかし応仁の乱以降家運衰退するのを再び勃興せしめたのは本書主人公である 細川幽斎藤孝 その人で、これを初代と数えた第17代当主が著者 細川護貞 その人であり、その子 細川護熙 氏が第79代内閣総理大臣となったのは多く覚えられてもいるでしょう。 子の総理となったのを受けたインタビューでは、 当家は代々首位に上ることのない家柄だから果たして、 の如き応答が有ったかに記憶します。

幽斎その人が細川家家督を継ぐにも紆余曲折があったのが知られるのが本書冒頭です。 其の因は一重に足利12代将軍義晴のご落胤であったのが確からしい処にあるようで、 母御は幽斎を胎に三淵に嫁ぎ最初幽斎は三淵の子として誕生したのでした。 従って幽斎が前半生流浪を供にした将軍家義輝、義昭は実弟に当たる訳です。 両将軍家とは特別な関係であったのは幽斎自身の心中にもあったでしょうが、 今日の兄弟の概念と当時の支配階級の其れが大きく異なるのは論を俟ちません。 兄たる幽斎は将軍家家臣として三淵家の者であり、将軍義晴の意向も有って細川家の養子となります。 三淵家は足利、細川と深い由縁が有り幽斎は細川の養子として宗家を継ぐのですが 本書にこの経緯は詳しく記されるものでもあり、 幽斎の故実有職の堪能振りは母方の清原の家の関係のあったことも知られるのでした。

幽斎が細川を継ぐ頃にはさしもの威勢を誇ったその家も領地は漸次簒奪されつものでしたが 織田信長の下に参じて運を開き将軍家の降伏のあった天正元年7月に山城を自領とした信長から 桂川より西の地域を与えられた10日付けの朱印状が74頁に記載されるものです。 幽斎藤孝が長岡を称したのは城州の歌枕の地、 奈良から平安に移る間に存した長岡旧都に因んだものとされます。 幽斎が義昭と共に流寓していた時期、永禄8年(1565年)には岩成主税介等に奪われていたものを 義昭を伴う信長の永禄11年の上洛戦の際、奪還していた父祖伝来の青龍寺城(勝竜寺城)には こうして長岡の地を得て安座し得たのです。 奪還の際のエピソードが37頁に紹介され、 この際信長の加勢の申し出を断った幽斎には矜持が感じられるものの 末裔が語るには些か面映さも如何かと忖度されます。 此処等辺りの経緯のあってWikipediaの 勝竜寺城 項目にはその翌年の山城拠点としての普請下命があるのでしょう。

こうして家名を乱世に繋いだ細川家伝来の研究者に垂涎の豊富な史料は 末裔当主を以てその一端がこうして世に出されているのでした。 其れは必ずしも一般受けを狙う内容にはあらぬものの決して遠ざける意図はないのも勿論で 中には歴史数寄の心を擽る内容なども多く記載されています。 以下に幾つか紹介しましょう。

永青文庫

第1章 出生 の章には上の家譜のあり、また天文流浪の近江朽木谷に於ける読書の明かりの灯油の恵みの伝説もあり、 そして上杉景虎の上洛して将軍家の偏諱を賜った際に 三好、松永を蹴散らす上申を退けた6年後に弑逆の憂き目を見た足利義輝の挿話などあります。 第3章に記される 将軍との不和 に於いては第2章に 将軍足利義昭と共に と苦労を供にし、将軍家の感謝に細川家の今の家紋の由来の在りながら、 怪しい雲行きは信長より先に幽斎との間に醸し出されていたのは注目すべきでしょう。 この不和は讒言が齎したものとされ、また 細川家記に属するものにて些か幽斎に身贔屓なのは感じられますが、 61頁には幽斎の忠義浅からずとして、63頁には以前と変わることなく私なく勤めたとして、記され 後の幽斎の本能寺や関ヶ原に於ける対処を思い起こさせるものでもあります。

そんな中、漸次家臣も増え行き細川家の家風を形作るべく逸話も生まれていくのでした。 玄猪の日に餅を食えば縁起の良い風習を 正しく其の日の出陣に当たって馬上の幽斎に餅を差し出したのは家臣 有吉将監立言 でしたがこの気付きを善しとした幽斎に細川家の吉例になったと言います。 将軍との不和が表立つ中に本拠青龍寺を保つに与って力のあった家臣が 何某の先祖として在ったなどと言う話しは細川家以外には余り取り上げられもしないものですが、 自らのものにしても家系に興味を持つ向きには面白くあるでしょう。

細川家の風習の抑もの成り立ちは第4章 幽斎と信長 にも 青しないのたぐい が記されます。 此れは一より二が優れていることを指して家中で言ったものでその由縁は 天正5年(1577年)泉州紀州の境信達に紀伊の徒党と争った際、 一番鑓の米田、有吉である処を見誤った信長が下津に与えたために 米田、有吉の出奔を幽斎が引き止めるべく先陣米田、一番鑓有吉と定めた故事に由ると言います。 細川家が信長に振り回されるの致し方のない処だったでしょう、 此の章の冒頭に長子忠興の明智お玉ガラシャとの縁組を強いたのも信長でした。 此処で幽斎は忠興の剛強に過ぐのを理由に辞退しようとしているは、 天正5年(1577年)9月29日の河州片岡城攻めの若干14歳の忠興の血気の様の描かれるのを 併せて見れば第1章の細川家に初代を幽斎とするのに抗う自力で大々名となった 三斎忠興の自負も窺い知れようと言うものです。

愈々勢い盛んとなった細川家は信長の指示で光秀と供に 丹波、丹後攻め を敢行する第5章となる時期は天正5年10月より、 翌天正6年正月には信長は諸侯を安土に呼び殿主を披露した頃に当たります。 この章には実に興味深い書状が写真入で紹介されます。 其れは信長直筆の黒印状でその冒頭に と記されるものです。 謂わずもがな猿とは秀吉のことですが、これが講談や漫画の中ならぬ 信長直筆の書状に見られれば実際に彼は彼をこう呼んでいたのであるとの実証になり 実に貴重なものに感じられますが、如何でしょうか。 信長が秀吉夫人に宛てた書状には禿鼠とあるのは文献に伺い見たこともありましたが、 猿とあるのは初見にて何とはなしに時を越えた親近感が抱かれるものです。 以下に其の書状文面を記しおきましょう。

猿帰り候て、夜前の様子 つぶさ に言上候。先づ以つて然るべく候。 又一若を差し遣はし候。其面油断なく相聞え候と雖も、猶以つて を入るべく候。各辛労察せしめ候。 今日の趣徳若に申し越すべく候也。

此れは天正6年3月15日付けで丹波攻めの光秀と与力の丹羽、滝川、幽斎に連名で与えた書状で、 例に依って秀吉の丹波攻めに関わる状況の説明は本書にはありませんが、 兎角情報及び報告を重視した信長の様子と君臣の普段の呼称が窺い知れ、 此れからは胸を張って信長は秀吉を猿と呼んでいたと断言出来るのも愉快なものです。

丹波、丹後攻めに於いては本能寺の遠因となったとも巷間言われる 天正7年(1579年)6月降伏する波多野兄弟との約束を光秀、幽斎の意に反して 信長が違えた件も記されています。 特に兄弟に連座した但馬守政孝は幽斎藤孝の偏諱を戴いておりなお心中穏やかでなかったでしょうが、 残念ながら本書には此れ以上記されるものではありません。

此の時期は織田と毛利が中国に激しく争い始めた時期でもありました。 荒木村重の謀叛もあり混沌としていた播磨にては秀吉の三木の干殺しもあり、 吉川、小早川が上月城を攻め尼子が自害し山中が誅された記載も本書にありますが、 此の方面にては細川は飽く迄も与力で一時的な参陣に過ぎず、余りにも軽い扱いが無常の感を強くします。 この参陣から馬を納めた天正6年8月に忠興婚礼の儀が1行記されるのも戦国の世を髣髴させるものです。

上に細川家の伝承の発端など記される旨、述べましたが のみならず本書には家臣有吉家の伝承も記されてもいます。 天正7年正月荒木有岡城の端城に細川の攻め寄せた際、 有吉は一番乗りしたその働きの印に城門の7段の松を引き抜き帰り、 細川父子に高名の証として陣屋の門に立て置けと言われたその松は赤松であり、 以降有吉家では門の片方に城松と称し黒松を、 片方に武功の松と称し赤松を立てるのがならわしとなったとあります。

天正7年7月には愈々細川家が丹後1国を治める月ともなりました。 一色の弓の木城に立て篭もるのを中心とする丹後衆最後の抵抗を御すべき出陣には この戦の勝利が即ち丹後領有に繋がるのを知った人々で 細川軍の自ずから見積もりより多く3千を数えたと 綿考輯録編者の小野武次郎が記していると著者は記します。 一色を降して8月幽斎は青龍寺から信長から正式に与えられた丹後へ入国、 本書には丹後国を誌して以下の如く歴史書に屡見られる形式で述べています。

丹後国は和銅6年(713年)4月、丹波の5郡をさいてその一つを丹後と称した。 後一条天皇(第68代)の寛仁年中(1017~20)藤原経藤が国司となった。 その後、左京大夫藤原保昌が丹後守となり、 明徳年中(南朝元中、1390~93)足利義満から丹後を一色修理太夫満範が賜って領有して以来、 その子、詮範、その子左京大夫義直、その子次郎義春、その子三郎義季、その子式部太夫義幸、 その子左京大夫義行が継ぎ、先年、防戦の半ばに卒し、その子五郎が幼年で跡を継ぎ、 弓の木城に住していて、今度、藤孝に帰降したのである。

丹後国を幽斎が納める尽力する中、翌天正9年となり、4月、 備中高山城を秀吉が囲む状況下、幽斎と一色五郎連名宛てで 信長より1通の書状が齎されるのが本書に以下の如く紹介されます。

中国進発の事、来秋たるべき処、今度小早川備前児島より敗北せしめ、 備中高山に楯籠もるの間、羽柴藤吉郎出陣せしめ取巻くの由、注進候。 重ねて 一左右いっそう (一報)次第出勢すべく候。油断なく用意専一に候。 猶、惟任日向守申すべく候也。謹言

事態は本能寺の変へ向け大きく転回し始めました。 本書も第6章 本能寺の変 へと章立ては移りますが、中公新書版に総375頁を数える中にも 歴史的な大転回のあり幽斎の生涯に大きな影響を与えた筈の此の章は僅か6頁しか割かれていません。 運命の天正10年正月、安土に賀した幽斎は7日、 信長に軍議に招ばれた其の席には光秀が既に数刻を過ごしていた、とあるのは実に興味深くあります。 5月29日信長父子の上洛から6月2日の其の日に至るのは僅か2行に記されるのみにて、 以降は細川家の対応が大半を占めます。 この時幽斎藤孝は剃髪して初めて幽斎と名乗り、光秀及び秀吉から届いた書状も本書に記される処です。 爾来明智関係の書状は逆賊として殆どが闇に葬られた中に 光秀の憤りを隠さずも冷静に対処しようとする幽斎に宛てた書状は必見でしょう。 細川家は幽斎が忠興に国を譲り、古く八田村と言った地に田辺城に隠居しました。 5月19日には生母が卒去し、7月20日に信長追善の百韻連歌興行を仕切り、 7月23日には弟の玉峰永栄西堂の遷化のあった日本にも細川家にも、 殊に幽斎には激動の天正10年の夏でした。

使用写真
  1. かたむき通信
  2. 永青文庫( photo credit: Satoshi Kobayashi via Flickr cc
細川幽斎書評記事一覧
  1. 前編~歴史学者、研究者のための書籍(2013年2月1日)
  2. 中編~出生から本能寺迄(2013年3月10日)
  3. 後編~秀吉の天下から幽斎の死迄(2013年4月12日)
かたむき通信参照記事(K)
  1. 三木城跡及び付城跡・土塁が史跡の新指定受け2014年大河ドラマ軍師官兵衛にも影響有り(2012年12月28日)
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