細川幽斎~書評後編~秀吉の天下から幽斎の死迄

発句に連歌など、歌道関係に興味のある向きには愈々期待の高まる後半部に突入するのは かたむき通信に書評を 前編中編 と書き連ねた肥後細川家の始祖 細川幽斎 の系図を連綿と受け継ぐ昭和の当主 細川護貞 氏(以下、著者)の手により1972年12月に求龍堂より上梓され、 1994年にまた中央公論社より復刊された 細川幽斎 (以下、本書)です。 此れを著すに当たっては本後編に扱う第7章 秀吉天下をとる (181頁)には 小野武次郎 の編んだ 綿考輯録 を底本とし 奥野高広 氏の著述などと共に幽斎の著す処の 耳底記 も参照しただろう旨が伺える記載もありました。

其の誕生から本能寺の信長の横死迄、 凡そ平安とは遠い人生を歩んで来た 細川幽斎 でしたが、波乱の続く天下にも静寂に感じられる程の一時が幽斎の人生に訪れたかに見えるのが 豊太閤秀吉政権下に於いてでした。 戦国武将として名を成した幽斎のもう一方面を成す 文化人としての行動が本書に顕著に示され始めれば 斯界にゆかしい人物へは恰好の内容としてお薦め出来る訳です。

  1. 出生
  2. 将軍足利義昭と共に
  3. 将軍との不和
  4. 幽斎と信長
  5. 丹波、丹後攻め
  6. 本能寺の変
  7. 秀吉天下をとる
  8. 和歌の日々
  9. 田辺籠城
  10. 幽斎の死
  11. 幽斎の歌集
  12. 付録
    • 九州道の記
    • 東国陣道記
    • 細川家系図
    • 年譜

前に示す本書章立てに於いてからもかたむき通信に後編として扱う 秀吉天下をとる 以降に特に古今伝授者として歌道に励む幽斎の在り様が伝わります。 前編 に歴史学者、研究者に用立つ書籍として本書を紹介したのでしたが 同様に冒頭述べた類の方々にも役立つだろうであるのは 当時当代切っての歌人でもあった其の人を思えば論を俟ちません。 細川家に伝来する研究者に垂涎の豊富な史料が 末裔当主を以て一般を決して遠ざける意図もなく世に出されていれば その一端は斯様な役割を示しもするでしょう。

斯くの如く 中編 の末尾は激動の本能寺であったのでしたが、 それを生き抜いた幽斎に秀吉の天下取りは至極平穏なものであったのかも知れません。 此の時期に幽斎が親交を暖めた戦国武将が本書には2人現れます。 1人は今は一端雌伏した次代の権力者 徳川家康 と豊太閤に征伐されんとする 島津義久龍伯 です。 天正14年10月、秀吉と和睦して初上洛した家康を甚だ喜び饗応した秀吉に幽斎も相伴したのが始まりで 殊に幽斎と家康は睦まじくなったとあります。 屡歴史方面では陰謀説が持て囃されますから家康との接近は何某かの材料にされ兼ねませんが、 唯でさえ人と人は思ったように付き合いの促進されるものではなく 況してや一国の衰亡を伴う親交が意図的に作り出せるものではありませんから、 其の方面の向きはご注意召されるよう。 歴史が決してから見れば細川家存続に有利に運ぶ家康との交際でしたが、 此れと正反対に御家存続処か幽斎自身の命を絶たれ兼ねない交際がもう1人、島津義久でした。

予ねて和歌を好み茶の湯を通して千宗易とも遣り取りのあった義久に 幽斎と宗易連名で豊太閤の意向を伝える書状が送られたのも天正14年10月でした。 九州での大友との鉾楯を諭し鎮めるためのものです。 和歌と茶が如何に政治的に活用されたかが分かる事例であるとも言えるでしょう。 鎮まるべくもない九州情勢に而して天正15年3月、討伐軍が催され、 この際に孰れ書評付編で紹介する積りの 九州道の記 がものされるのでしたが5月には島津は豊太閤に屈し以降幽斎と義久に親交が生まれたようです。 文禄元年、正しく文禄の役の年、秀吉の不興をかった島津に舎弟切腹厳命の説得に出向いた幽斎は 刺し違える覚悟を以て臨んだと言います。 其れが義久に伝わらぬ筈もないでしょう、 目的の達成を名護屋に注進した幽斎に8月2日付けで家康からの返翰があった中に 偏へに貴殿御才覚ゆゑと存じ候。 此の中の御苦労、察し入り存じ候。 早々御隙明かせられ御帰陣、待ち入り存じ候。 猶、面を以つて申すべきの条、 ことごとく する能はず候。 とあるのは幽斎と家康の関係を垣間見せるものです。

この死を賭すべき程の2つの重い交際からに於いて 外様からは中央に近い部分に居た幽斎も実際は綱渡りの続く外様に過ぎず、 それでいて尚且つ華麗に生き抜き存在感を保つ彼に家康も義久も魅かれるものがあり、 痛く事情を察せる幽斎が彼等に応えて見せたのが実際本当の処であったと考えます。

此の密でいて古今伝授師弟の島津義久との間柄も後押ししたかも知れません、 本能寺に斃れた信長の構想に鎮西仕置きと目された光秀も同時に亡ければ、 秀吉政権に此れを担ったのが黒田如水 〔K1〕 であり、そして織田政権下に 光秀の与力として期されていたでもあろう幽斎であるかの趣きも見えて来ます。 而して7章の紙幅は大いに薩摩島津に割かれてもいます。 この際には此れも孰れ書評付編で紹介する積りの 九州道の記 が幽斎にものされているのでした。 かたむき通信書評 前編 にて大凡の本書の性質を述べ、 中編 及び此の後編に研究者ならぬ一般潜在読者にもゆかしかろう事例を求めるに上記の2つの厚誼に加え第7章 秀吉天下をとる には秀吉政権下の幽斎の比較的平穏な時期を思わせる幽斎の所願が載せられるのが、 天正16年8月、幽斎は藤原定家自筆の 伊勢物語 の所望であれば、文武の均衡の取れた戦国武将としての幽斎も見えて来るのでした。 当時にも世に唯1冊のみ残る武田本と号した1書は紆余曲折のあって三好長慶の元にあったものを 其の没後数年、泉州堺から入手し後年家康の手に渡ったとされます。 天正19年2月28日には利休生害がありました。 此れについては本書は唯、大徳寺の諸長老を聚楽の城へ呼び寄せ 家康と幽斎を以て尋ねることがあった、とするのみですが、 文人幽斎の存在感が覗える事例でもあるでしょう。

中編 に信長の死に関し5月29日信長父子の上洛から6月2日の其の日に至るのは僅か2行に記されるのみとした 其の扱いは秀吉に関しても同様でした。 若し幽斎が記せば其れは今日に一級史料として伝わったであろう本能寺も 信長は生害し、信忠も同日二条城で討たれた とあるのみで、一切前後の事情の記されないの如何にも残念な仕儀でしたが 其の方針は秀吉にも一貫していた訳です。 慶長3年の太閤の死の部分を以下引用しましょう。

この年八月十五日太閤薨ず。 幽斎は吉田に閑居していて、十二月までそこにおり、 その内伏見にも行ったりしていた。

第8章 和歌の日々 は幽斎の平穏の中の和歌三昧が記される中の冒頭に近い部分に一輪挿しの如く据えられた 素っ気無いとも思える浪花の夢の扱いは其の日々を齎した天下を取った 太閤秀吉への或る種鎮魂歌とも言っても良いのかも知れません。 著者は此の章に慶長5年(1600年)の古今伝授の誓状など関係文書を一括して掲載し、 同時に此れによって古今集相伝の様子がほぼ明らかになったであろう、と記します。 家康の三成を軽く上回って見せる細川家をも巻き込んだ老獪な調略、謀略などが記されると共に また章の末尾には文禄当時の秀吉を含む能番付が其の儘掲載され 其の道に通ず者にも垂涎の資料足りて、 歴史学者、研究者に益すると共に当該方面に用立つのはまた本書の面目躍如たる章でもあります。

そして続く章は本書に圧巻と申しても宜しいでしょう 田辺籠城 であり、幽斎の老境の戦いが克明に記されます。 此の慶長5年(1600年)関ヶ原にも影響を与えた篭城戦は 正しく幽斎その人を表しているかのような戦いの感もあり、 ご先祖の老いて猶盛んな獅子奮迅の働きに著者の筆も弾んでいる印象も受けられます。 丹後の国中に宮津城さえも焼き払い領内に田辺1城を残すのみの決死の構えは壮絶とも言えるものです。 兵力の殆どは嫡男忠興に従い出征した中、 女房衆から子供迄国中の衆生を田辺に集めたのには お玉ガラシャの7月17日の仰天の生害(231頁)もありました。 20日より国境に進出した寄せ手との小競り合いが始まり、 ゲリラ戦で打撃を与えつつ城に退き上げる篭城戦の開始なるが如何なるものかが知らされ、 24日には遂に四方から敵の貝が聞こえる四面楚歌状態、 翌25日には一戦が交えられるなど籠城側からの攻城側の観察が詳細にて経緯なども記される内容は、 浅学に於いては他に余り目にしたこともなく貴重な史料ではないかとも思えます。 此の如き一局地戦は大合戦関ヶ原に於いてはなかなか取り上げられることも少ないものですが その詳細が細川家文書と言う一級史料に由って知られるのは幸甚と言えるでしょう。

小野木縫殿助を大将とする寄せ手が1万5千の大軍であったのは関ヶ原に影響も少なからぬものであれば、 田辺籠城戦に濃縮された時の中には珠玉のエピソードが醸成せられ、鏤められるものです。 関ヶ原軍記大成 の一人の女丈夫の記録が紹介されるのは 網野の沢田次郎助の妻女の内助でした。 7月25日の籠城戦に於いては敵方ながら天晴れな働きを見せた 井門亀右衛門重行 なる武将があり、忠興が後年これを細川家に召し抱えた件などは当時の主従関係、兵力の構築について 歴史家などは固より作家など創作家には是非とも目を通すべき事例と言えます。 7月27日、そして寄せ手がことを構えぬ長期戦に移った8月にも寄せられた幽斎の歌道堪能を惜しむ 後陽成帝 の下城の叡慮も表立つ以前の内証の内に固く辞すのは決死の覚悟が伺えます。 前編 には後の寛政5年(1793年)に綿考輯録編者小野武次郎が発見し、 其の文面に感涙に咽ぶ様の描写も記した勅諚への返信の下書き反故は 武次郎ならずとも当時の情景を髣髴せらるものです。

loneliness soldier

武田が徳川の三河の拠点長篠城を攻囲した奥平の籠城に於いては 鳥居強右衛門とりいすねえもん の活躍があったのは巷間良く知られもするでしょう、 其れは当地に限られず各地の攻防戦にも存したのではないかと思われるのが 此の田辺籠城に於いても強右衛門の如き偉丈夫の細川家にもあったと知られ、本書に其の名を 中津海五郎右衛門小島六左衛門 の両名記される処です。 8月3日、忠興から命を受けた両名は越前の知己を頼み迂回田辺入りを敢行したのは 強右衛門に於いては基本的に長篠迄徳川領であったのを思えば尚更の感があり、 両名が苦労の末田辺城入りしたのは8月末でした。 強右衛門の場合を思う迄もなく斯くも彼等が命を軽んじて囲みを縫うのに 此の如き使いは戦場に実に重要な役割を担っていたのだと知れるものです。 2011年3月11日の大震災に情報が如何に重要なものであったか伝えられれば 危機的状況に於いては情報と言うものがどれほど大事なものかが本書にも知られるのでした。 本書に依れば両名の如き使いを為したものが、忠興からは森三右衛門が3度、 中津海五郎右衛門、小島六左衛門、魚住十助が夫々1度、 幽斎からは雲龍寺のみ出したと記され、7月18日の籠城開始から9月18日のちょうど2ヶ月の間に 史料に残るだけでも此れだけ人物が情報伝達に命を賭していたのです。

慶長5年9月15日に関ヶ原では僅か1日で勝敗の決せられ、 度重なる叡慮もあって下城した幽斎は嫡子越中守忠興と20日、亀山城に再開します。 その際の遣り取りが本書には具に記されており、面白くもあるので以下に引用しましょう。

朝七つ時分忠興は馬堀まで到着、幽斎は乗物で馬堀へ出迎え、 「何事なく帰陣目出度し」 と忠興に呼び掛けたが忠興は、返事をしないので、幽斎は更に 「そなたは身共が下城いたしたるを腹立ちと見えたり。 年寄りて命の惜しきにも非ず、三度まで勅使を受けて下城せし者、我等ならで外には有間敷」 といったので、忠興も平伏し落涙して釈然と了解した。

忠興は寄せ手の総大将、小野木縫殿助をせめて切腹させ日ごろの無念を散じたと 本章末尾付近に記されるものです。

田辺籠城、即ち関ヶ原の戦いは慶長5年(1600年)、 天文3年(1534年)生まれの幽斎は66歳の老境に達していた勘定になります。 其れより10年、徳川幕藩体制が段々と固まるのを見遣り過ごし、 慶長15年に幽斎も死を迎えます。 第10章 幽斎の死 です。 9月の関ヶ原に功の有った嫡子忠興は其の年11月恩賞として豊前国を拝領し、 幽斎は6千石の隠居領を格別に受け取りました。 此の10年は隠居の10年でもあったので本章には又和歌三昧の様子が覗えるものとなっています。 小倉に消光していた幽斎は慶長14年10月上洛、翌年没する件を引用しましょう。

慶長十五年庚戌夏のころから、幽斎は何となく健康が勝れず、八月に入って容体は悪化し、 同二十日未の下刻(午後二時過)三条車屋町の屋敷で逝去した。 年七十七であった。

此の章に以降、荘厳な葬送の様子の描かれ、膨大な遺物と宛先が記されます。 其の中から一つ拾い上げたく思うのは歌集や著述、ならず、 また宛先も嫡子や嫡孫にあらずして時の大御所、即ち徳川家康へ献じられた 碁盤と碁石及び碁笥です。 幽斎の死に際し将軍家から弔使が豊前へ飛脚を以て下り、三日の間、 碁、将棋が差し止められた、とも記されるものです。 この際の将軍家は2代秀忠ではありますが、元和偃武も未だ大御所の意向も大きかったでしょう、 徳川家康の囲碁、将棋好きはかたむき通信にも名人位成立についてものした記事 〔K2〕 に大橋宗桂に初代名人位を与えたに依っても垣間見えるものです。 この初代名人誕生が慶長17年(1612年)、細川幽斎の死より2年の後でした。 若しかしたら文人幽斎は此の方面にも大きく影響力を持っていたのかも知れません。

使用写真
  1. loneliness soldier( photo credit: dsin via Flickr cc
細川幽斎書評記事一覧
  1. 前編~歴史学者、研究者のための書籍(2013年2月1日)
  2. 中編~出生から本能寺迄(2013年3月10日)
  3. 後編~秀吉の天下から幽斎の死迄(2013年4月12日)
かたむき通信参照記事(K)
  1. 三木城跡及び付城跡・土塁が史跡の新指定受け2014年大河ドラマ軍師官兵衛にも影響有り(2012年12月28日)
  2. 名人位成立よりちょうど400年の平成24年将棋第70期名人戦始まる(2012年4月10日)
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