かつてゼニス(Zenith)はゼニットと呼ばれていた

'Timeless' vintage Zenith Clock Sign in the Carrer de l'Espaseria, Barcelona Spain

ジンギスカンと言い習わせられていたのも今は昔、 現在はチンギスハーンの方が通りが良い様で、 アメリカ大統領では最初はロナルド=リーガンと称していたものがレーガンに何時しか移り変わったり、 企業名では Nestle はネッスルからネスレへ、台湾のPCメーカー ASUS はアスースと呼んでいたものがエイスースと変わり、 腕時計で言っても Rolex は現在ロレックスで統一されていますが ローレックスと長音符を割り込ませて発音する向きも少なくないようです。 かたむき通信に時折参照するイソザキ時計宝石店メルマガでも ティソTissot) は以前は日本ではチソット(若しくはティソット)と呼んでいた旨、 バックナンバーの第107話、第116話に記載〔※1〕 がありますし、またかたむき通信にムーブメント エル・プリメロEl Primero) の数奇な運命を取り上げた〔K1〕 Zenith は現在日本語表記は ゼニス で統一されるものの嘗ては ゼニット と呼ばれていた旨、同じく第12話〔※2〕 に記載があります。

斯様に同一人物、同一企業、同一事象を呼ぶに発音が変化するのはなかなかに枚挙に暇なく、 其の背景としては古くは漢音、呉音のありご維新以降は英語読み、仏語読みなどあるでしょうし、 政治的、経済的な意図や、時代背景、個人的事情を鑑みた際もあるでしょうし、 また長音記号に至っては雰囲気、ニュアンスでもあるのかも知れません。 時期も公式にはっきりしているものから、 曖昧模糊として良く分からないまま呼称の変化していたものもあるようです。

さてかたむき通信に扱った縁を以てゼニスを特に見てみれば 先ずは公式サイトにゼニットの文字は見付けられず、 次にイソザキ時計店メルマガ第12話〔※2〕 に代理店とあり高級腕時計などの卸、小売、輸入代理業を営む 東邦時計株式会社 のサイトにはゼニスは今見られませんし1957年に同社輸入時計部の分離された 株式会社河合時計店にも見付けられません。 また現在ゼニスと90年以上に渡る連携のあると言う 天賞堂 でもゼニスと表記するのみです。

他に時期を当たって見ればAll Aboutの2011年3月7日の記事〔※3〕 にゼニットが仏語読みであり、其の名で親しまれていたのが大正時代であること迄遡れます。 またWikipediaに日本にゼニットと呼び親しまれた最初が 昭和初期に国鉄に懐中時計が正式採用された為である〔※4〕 と説明されているのは、 世界の腕時計No.16 ブランド物語(ワールド・ムック) にも、日本国有鉄道が昭和2年に其の精度への信頼から鉄道時計としてゼニットを正式採用し、 世に広く親しまれた旨、記された記事〔※5〕 もあります。

大正年代に製造されたと思われるゼニスの置時計を紹介する記事〔※6〕 には上の天賞堂の扱いになる大正15年6月15日発行の広告に 瑞西ゼニット製 の表記があり、文面にはまた 腕時計以前の時代は「ゼニット」と呼ばれ た旨、記されています。 どうやら昭和初期迄、ゼニットと呼び習わされたのは確実ですが、 其れ以降、何時頃ゼニスに発音変化したのかは見当たらないようです。 昭和一桁に変化があれば平成も二桁の今になかなか証言者たる古老を頼るのも難しそうですが、 しかし昭和二桁の時代にもゼニットを用いている文面がありました。 それは1967年の論文ですから昭和で言えば42年のもの、 此れならば腕時計のちょっとしたオールドファンならばゼニットと呼んでいた記憶も鮮明でしょう、 恐らくはイソザキ時計店メルマガ執筆者氏も其の口で、 又其の論文は当のメルマガ時計の小話の第2話(スイスのコンクール)〔※2〕 にセイコー舎の有名な技術者として登場する 小牧昭二郎 氏、その人の著したものであり、 氏が正しくロンジンの天府に超高振動数の音を聞いた其の当時のものでした。

当該論文はネット上には 国立情報学研究所(National Institute of Informatics) から辿れる1967年3月15日発刊の日本時計学会誌第41巻の6頁から28頁に渡り寄稿されたもので、 其の題目を 腕時計の性能の進歩と将来の展望(<特集>10周年) とされており、スイスニューシャテル天文台コンクールの成績の分析から、 各種メーカーの腕時計の性能面の進歩と其の将来を論じたものです。 〔※7〕 此のコンクールに出品する頂点に鎬を削り合うメーカーに オメガOmega) があり、 ロンジンLongines) があり、そして ゼニット の表記、即ち当時のZenithが在ったのでした。

1967年と言えばセイコー社が刻苦勉励研鑽し 欧州に機械式ムーブメントの性能で追い着き追い越さんとする正に其の時、 かたむき通信にも腕時計クォリティ認定についてものした際言及した処〔K2〕 です。 此の僅か2年後、1969年にはゼニスは超高振動ムーブメントであるエルプリメロを〔K1〕 またセイコーはクォーツムーブメントを搭載した アストロン を発表した〔K3〕 のですから縁は奇なものと言うべきでしょうか、 此の後アストロンに依って巻き起こされた クォーツショック で機械式腕時計は瀕死の状態に追い遣られた後スイス時計界と共に雄々しく復活、 エルプリメロは数奇な運命を辿って復活〔K1〕 、セイコーも畢竟機械式超高振動数のムーブメントを開発せざるを得ない処となった〔※8〕 運命の織り成す不思議な綾でした。

小牧氏論文はクォーツショック前夜、 機械式腕時計界に其の社名の如く頂点にあったゼニスの様子が覗われ、 腕時計ファンには是非のご一読をお薦めしますし、 其の直後、最高峰の機械式ムーブメント、エルプリメロを開発しながらも潮流に圧され 時代の影に隠せざるを得えず、 やがて復権のなった機械式腕時計に請われた超高振動ムーブメントを再び世に問うた時、 日本のファンへ向けた自らの呼称をゼニスと発音するようになったのかも知れぬ、 と考えるのは些かセンチメンタリズムに走り過ぎているでしょうか、 孰れそう遠くない過去のことにてオールドファン、若しくは関係者に問えば 明瞭とはなるものには違いありませんが、 若しや事情は違えども其の如く思い秘めたるもまた一興だと考えるのです。

なお Zenith Webサイトは去年2012年のかたむき通信記事 〔K1〕 の冒頭で其の手法の古めかしさに苦言を呈したものですが、 現在では修正されていて喜ばしい限りです。

追記 (2013年9月9日)

世界3代高級腕時計の一つ Vacheron Constantin も今は ヴァシュロン・コンスタンタン と呼び習わされていますが、少し前迄は バセロン・コンスタンチン と呼び親しまれていました。 右の2002年発刊の冊子 インターナショナル・リスト・ウォッチ No.35 誌に於いても29頁に バセロン・コンスタンチンのニューモデルたち なる題目で以下の腕時計が紹介されています(価格は発表当時のもの)。

  • 1972アメリカ・シアトル・レディ(135~145万円)
  • ロイヤル・イーグル・クロノグラフ(135~150万円)
  • マルタ・グランクラシック(110~125万円)
  • コメモレーション・ヴェルニサージュ(130~145万円)
使用写真
  1. 'Timeless' vintage Zenith Clock Sign in the Carrer de l'Espaseria, Barcelona Spain( photo credit: Arjan Richter via Flickr cc
かたむき通信参照記事(K)
  1. 高級腕時計ゼニスのムーブメント~エルプリメロの危機と復活(2012年3月21日)
  2. グランドセイコー規格~世界に冠たる腕時計クォリティ認定(2012年11月8日)
  3. 世界初クウォーツムーブメント35SQ~世界にショックを与え日本を一躍腕時計界の中心に至らしめたセイコーアストロン(2012年8月25日)
参考URL(※)
  1. 時計の小話(イソザキ時計宝石店メルマガバックナンバー101~120話)
  2. 時計の小話(イソザキ時計宝石店メルマガバックナンバー1~20話)
  3. ゼニスの歴史 [男の腕時計] (All About:2011年3月7日)
  4. ゼニス (時計)(Wikipedia)
  5. ZENITH ゼニスの歴史(Curious Curio(キュリオスキュリオ)|VINTAGE WATCH :「世界の腕時計 №16」より引用)
  6. ゼニス石枠小型目覚クラブツース - ZENITH WATCH Co.(TIMEKEEPER kodokei.com)
  7. 腕時計の性能の進歩と将来の展望 (<特集>10周年)(CiNii 論文)
  8. グランドセイコー:挑戦をする魂が、現代のハイビート36000を生み出した。(セイコーウオッチ株式会社)
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