服部金太郎伝

服部金太郎氏こそ現在の セイコーホールディングス株式会社 の創業者であればセイコーの腕時計についても数多く記事をものするかたむき通信に於いては取り扱わざるを得ない題材です。 ちょうどテレビ東京系の人気クイズバラエティー番組 和風総本家 の2014年3月20日の 日本を支えるスゴイ機械 ~知恵が生んだ宝物たち~ と題された放送回の中盤以降に 日本の機械の歴史を変えた伝説の職人 の一人として取り上げられれば此れを潮に本記事をものしたものです。

30歳頃の金太郎(1890年)セイコー社服部金太郎物語より
30歳頃の金太郎(1890年)セイコー社服部金太郎物語より

今回は短時間のコーナーでもありまた同番組の特徴として冒頭人物の名を明かさずして 様々な苦難を乗り越え吾人の日常に必要欠くべからざる或るものの国産化の情熱を燃やし続けた人物であると物語れば 漸次自ずから見る者に当該人物を彷彿とさせる手法を取っていますから 畢竟ダイジェスト版とならざるを得ず他資料から補完しながら筋を追うのも面白からんと思い実践してみました。 参考資料としては当のセイコー社の提供するホームページの 服部金太郎物語〔※1〕 、ネットには欠かせぬWikipedia〔※2〕 、及び経済から人物を見たブログ記事〔※3〕 に負いたく思います。 後者のブログ記事は1972年に時事通信社より上梓せらる 時計王服部金太郎(一業一人伝) の書評の体裁を取られていますので更に深く知りたい向きには当該本を入手されるが宜しかるべしと思います。

其の生年は西暦1860年、 番組では桜田門外の変に井伊大老が斃れた年と紹介するのは万延元年、 数年後に大政奉還を控えた折しも文明開化の花開く明治に先駆けて 後の時計王として生まれるべく時期に生まれたというべきでしょう、此処は各資料に齟齬はありません。

江戸の町に生を享けると番組は紹介するに止まった生地は Wikipediaには京橋采女町、セイコーでは更に詳しく現在の銀座四丁目角からほど近く、今の銀座五丁目辺り、としています。 此処で面白いのが命名の意図が強く逞しくと願いの込められた名とは番組にだけ紹介されていることで他に見られず、出典を知りたくある処です。 他は父親が古物商を営んでいた点に触れ商人の子として育ったことが知られます。 番組では幼き金太郎の楽しみに時計店で修理する職人の手際を見ることであったとされており、 繊細で緻密な部品が重なり合う時計に金太郎は心を奪われ子供心に時計屋になる決心を固めた様子などが描かれてもいますが、 些かものづくりの偉人としての取り扱いに重きを置いて職人気質を特性として持たせようとした感があります。 其れよりはどうやら商人としての気質の方が勝つようで当のセイコー社では 寺子屋で学び子供心に商売に志を立てたと其の侭に描かれますし、 Wikipediaには同じく寺子屋で習字・算盤等を学んだとし、 参考ブログ記事には更に詳細に青雲堂という私塾で初学を修めたものと紹介されます。 青雲堂師匠からは養子の申し出のあったともされている挿話など床しいものです。

幼少期を終えれば当時の順当なキャリアデザインとして丁稚奉公がある訳ですが、 番組では上記などからいきなり13で時計店に入ってものとされますが、 他では皆11の年に京橋、即ち近所の洋品雑貨問屋の辻屋に上がったものとしており、 この際近所の老舗時計店でもあり恐らくは仕事先でもあった小林時計店のあって 当時は時計と言えば修理が付き物でありましたから雨天にも店員の遊ばぬ業態であって また販売のみならず修理でも利益が得られると算盤を弾いて 時計屋を志したものとされる処などは商人気質が露骨に現れています。

斯うして2年で辻屋を辞し番組の紹介する所の時計店に丁稚奉公に上がったのでしたが、 其処には時計好きの素朴な少年の初めての奉公ではなく既に商人として経験も積んだ計算高さをも併せ持った金太郎像が浮かび上がります。 先ずは日本橋の亀田時計店に入るも店の都合で2年程で上野の坂田時計店に移ったようですが、 此処も倒産したようですからなかなかに当時の時計店の経営は難しくもあり幾分山師の傾向もあったのかも知れません。 此処では主人の恩に報いようと貯金全額の7円を献じたのが美談として残る、と番組以外には取り上げられもしていますから、 どうして計算高いだけの人物ではない様子も窺えるものです。

時は明治初期とて後の偉人となるのも決定事項ではありませんから年の詳細を今窺い知るのは難しいようで 兎も角も時計店で販売、修理の修行を積んでセイコーには公式な独立の4年前とありWikipediaには1877年とある明治10年、 即ち金太郎17の年に采女町の実家に戻り 参考ブログ記事にはアルバイトとして扱われますがセイコー、Wikipediaに見える如く 服部時計修繕所 の看板を掲げたのが独立の最初であるのが窺え、中古時計の修理、販売を扱い始めたようで、 同時に当時の有名店であった桜井時計店に技術者として勤めた様子も窺えますが、 どちらに重きがあったかは経済的にはいざ知らず心情的には独立独歩に傾いていたものでしょう。 番組では此処等辺りは取り扱いませんが折しも明治初期の時代状況として 江戸時代に使われていた不定時法の採用され干支で時間を表示する和時計から 明治に入り西洋式の時計が輸入されるに至って 一日を24時間に分ける方式へ移り変わる時期だったとテレビながらに簡潔達者に紹介されるのは参考になるでしょう。 時計店々頭には最新の海外製時計が並べられ客の目を引いているのを見た金太郎は いつか海外製の時計に負けない素晴らしい国産の時計を作ってみせる、なる思いを強くした、 と言う志を立てた様子が描かれているのも説得力を持ち、 セイコー社にも時計の国産化という目標を当時から抱いていたとされているのが後押しします。

此の修業時代をダイジェストに省いて番組が紹介したのが丁稚奉公の8年後の西暦1881年、明治で言えば14年の21歳で自分の店の開業です。 セイコーにも漸く自宅に近い京橋采女町に待望の 服部時計店 を創業した、とされますから此れがセイコー社公式の起業でもあるようですし、 番組では見方に拠っては此の時、精工舎の看板を掲げた様にも取れる描かれ方をしていますが、服部時計店で間違いないでしょう。 此の時の資金は150円であったそうです。 番組に当時の一般的な海外製の時計の値段の6円は現在の価値に直せば25万円程とあるのから換算すれば625万円となりますから 現在の一般的なベンチャーと同様の規模であったのが知れます。

起業から国産時計開発迄の道程は番組には省かれますが 上に有る様に当時の海外製時計の相場が紹介される際には 一般には輸入された部品などを組み立てたものが国産時計として販売されており、 其れは壊れ易いなど品質は決して褒められたものではなく海外製が大半を占めていた世相の説明が参考にもなるでしょう。 他資料が揃って紹介するには盆暮れと言う年に2回の支払いの旧慣習を他商店が続ける中、 一箇月占めの採用で外国商人の信用を得、 輸入が業態の大きな比重を占める時計商いに於いてアドバンテージを保った様子が見えます。 参考ブログには余談として最初の妻を1年にして離縁した挿話も有り興味深くありますが、 他に紹介している資料は有りませんので此処に以上は追いません。

時計の国産化の野望を抱きつつも商人気質の金太郎は地道にステップを踏む現実家でもあり、 番組が省いたに因って然う見える様に一気に国産時計開発に着手した訳ではありませんでした。 上に記した如く商習慣の隙を突くなどして着実に事業を成長させた金太郎は Wikipediaに依れば西暦1883年(明治16年)、即ち創業2年目に銀座の裏通りに店を移転させ、 創業後6年目となる西暦1887年(明治20年)には、銀座四丁目の表通りへの進出を果たした様子はセイコー社にも紹介されます。

此の如く順調に業容を伸ばした金太郎は創業10年を経て初めて番組が紹介した処の国産時計の開発に着手するのでした。 時に西暦1892年(明治25年)、金太郎31の年本所区石原町に工場を設立し、 此の時、精巧な掛時計の生産に成功するよう願掛けとしての社名が 精工舎 であったのです。 此の際恐らく重要事として欠くべからざるのは機械技師 吉川鶴彦 氏の獲得でした。 吉川は懐中時計の修繕、加工職人として金太郎から依頼を受けており 時計の国産化の大志を共有した結果でもあったのです。 参考ブログには天才的技師と評される吉川こそ 若しかしたら和風総本家の番組企画の本意に適う人物であるのかも知れません、 恐らくは一冊の伝記をものされるべきでもあるのでしょう。 参考ブログには販社から製造業への業容の一大転換には一人の技師の獲得に併せて松方デフレの時期の終息が挙げられています。 お手軽簡潔にまとめざるを得ないテレビには兎も角斯うした時代背景の紹介も人物伝に更に踏み込むには有用です。 セイコー社には工場設営の前には両者は揃って名古屋に視察に出掛けたともありますから 当時名古屋が時計産業に於いて重要な役割を負っていたようで、 セイコー社は名古屋は柱時計の産地であったこと、部品メーカーから部品を集めて組立だけを行い安価で強い競争力を持ったこと、 同時に低品質であれば金太郎は部品内製で以て品質を上げた分少し高値を付けて対抗した、とも伝えています。

Wako Department Store
Wako Department Store

斯うして金太郎は国産時計の開発に着手したのでしたが、 手頃で品質の良い、との紹介は兎も角、番組が言う処の当時需要の高かった懐中時計の開発に力を入れた、と言うのはもう少し後の話のようです。 此処等辺セイコーの始まりが機械式腕時計に直結するのはマニアに堪らない処ですが、 事実はなかなか然う巧くは行きません。 最初から小型の時計を開発するのは如何にも技術的に無理がありますし、 どうやら名古屋視察を見ても柱時計の開発が最初であったようで、 参考ブログには最初製造したのは大型のボンボン時計であるとされています。 服部時計店の計略は功を奏したようで事業は弥増す発展し 1894年(明治27年)には買収した銀座四丁目角地に今も銀座の象徴として在る時計塔を擁した店舗が構えられたのでした。 懐中時計の国産化は此の翌年のことでした。

番組に懐中時計の開発は苦悩の連続でもあり其れは14年にも及んだ、とされますが、 其の間に懐中時計が製造されなかったのではなくセイコー社には精工舎として西暦1895年(明治28年)、 最初の懐中時計 タイムキーパー の製造の成功が伝えられます。 また参考ブログには西暦1899年(明治32年)製造発売の エキセレント は好評に付き恩賜の時計に指定されとも紹介されています。 此の時点では国産時計開発着手から7年を閲した時期です。

しかし確かに事業としてみればセイコー社に伝えられる様に 懐中時計の容易ならざる製造を以て輸入品との競争に破れ15年間の赤字を余儀なくもされました。 番組では壁にぶつかったまま懐中時計開発は14年連続赤字を計上した、と紹介され、 ドラマチックな演出を以て描かれるのはテレビ番組ならではでしょう、 社員から此れ以上の開発は時間と金の無駄であり諦めるべきとの主張も出る中、 こんなことで諦めていたら日本人の名が廃る、 と一蹴し開発の飽く迄の続行決定処か大胆に行動に打って出た、と描かれます。 処で此の演出は強ち大げさなものになく、 事業で10年以上に渡り赤字を垂れ流すのは経営者には余程の決意が必要でセイコー社にも最早時計事業は 本記事冒頭に商人として算盤を弾いて始めたのではないかと勘繰るが如き地位になく 利益を得る手段ではなく後の世に残す事業として考えられていたもの、として良いでしょう。

番組の言う日露戦争の終結の翌年は明治39年、西暦で言えば1906年に当たる大胆な行動とは 欧米の時計工場の視察であり、セイコー社には2回目の実施として吉川を同行したものと伝えられます。 此処等辺りはテレビの本領発揮の場面で映像を交えながら 欧米の時計工場へ視察で最先端の技術を目の当たりにし、 帰国すると視察で見たことをヒントに懐中時計の部品を自動で製造する機械 ピニオン自動旋盤 を独自に開発、そして視察から3年後、ついに自らをも満足せしめる海外製に負けない懐中時計の開発に成功した、 と実に以て感動的に綴られます。 10年以上に及ぶの苦労があったから海綿の水を吸うが如き吸収が有ったのでは、と思わせれますし セイコー社には懐中時計量産の課題となっていた部品を自動加工する新機械、即ちピニオン自動旋盤の考案に 帰国した吉川が明け暮れ遂には完成させた旨、記されているものです。 因みに参考ブログには日露戦争で精工舎は軍の命に因って軍需品生産に携わったとされていますが、 精密機械産業としては当該機関に目を付けられるのも致し方なく、 此の如き時代背景にも現実家たる金太郎の特質が窺えるようです。 満を持して勇躍金太郎と吉川は欧米視察に飛び立ったことでしょう。

斯うして開発のなった懐中時計こそが西暦1909年(明治42年)発売された エンパイアEMPIRE) であり番組が一足飛びに飛んだ機種へ辿り着くものです。 番組には当時約10円、現在の価値にして約15万円の値が付けられ、 其れは海外製に比して低廉な値付けで以て大ヒットした、と紹介されますが、 セイコー社にも此の機種は後10年以上に渡り精工舎の代表的製品となって 翌年には懐中時計事業に黒字化を齎したものと紹介されています。

此処迄来れば更なる小型化は必然的な流れとなるでしょう、 ファンお待ちかね、国産初の腕時計の登場です。 番組には西暦1913年、日本では大正に元号の代わった2年、 ローレルLAUREL) を発売し其の値付けは当時約16円、現在の値段で20万円ほどで発売したものと紹介されます。 参考ブログには最初生産した腕時計の商標はロ-レルと マ-シ- ともされています。

ローレル発売の翌年、折しも第1次世界大戦が勃発、1914年から1918年に渡り、 日本は大戦景気を迎えますが、精工舎に取っても世界飛躍への切っ掛けともなりました。 当時時計の主要生産国であったドイツの輸出が止まったからです。 此の際セイコー社にも参考ブログにも時計の部品の調達が途絶えることを予め見据えた金太郎が 大量に在庫として確保していた挿話が紹介されますが、 此れ等、商人としての面目躍如たるものがあるでしょう。 セイコー社には 懐中時計から腕時計への転換は軍人向け需要が大きい ものと伝えられますから 大戦前年に開発成功、発売に漕ぎ着けていた金太郎には其処でも予言者足りていたのでした。 精工舎の輸出としては既に1895年(明治28年)に清国へ向けて開始していたとセイコー社には伝えられており 明治末期には年間10万個を越える規模であったと言いますから世界進出は既定の路線でしたし、 海外製を範として国産化に情熱を燃やした人物の計画としては当然の流れでもあったでしょう、 参考ブログには西暦1904年(明治42年)、即ち懐中時計の製造も侭ならぬ時期に 既に上海では時計販売量でドイツ製を圧倒していた、と伝えられます。 其れが大戦景気に乗じ輸出高を一桁上げた訳で、 アジア市場に於いては嘗て追い掛けて已まなかった欧米メーカーと覇を競う迄となり、 遂に金太郎は 東洋の時計王 と称されるようになった、とセイコー社に誇らしげに紹介されるものです。

テレビ的手法にはどうしても立志伝をものすとき艱難辛苦を乗り越え、と謳い勝ちになるものですが、 斯うして見て来ればどうしてなかなか金太郎の事業は全般的には順風満帆であってことが知れ、 参考ブログに至っては何の波乱もなく立志伝としての面白みに欠けるくらいの言い様でもあります。 しかし人生万事が上手く運ぶ訳に無いのは周知、番組がしたりとばかり取り上げるのが西暦1923年(大正12年)に起きた 関東大震災 です。 金太郎を62の年のことでした。 店や工場は火事で焼失、全てを失った、と番組に紹介される背景の映像には 震災で焼失した工場から出て来た抽象芸術の奇妙なオブジェの如き物体が映し出されます。 火事の灼熱にどろどろに溶けた金属が再び固まった懐中時計の塊でした。 この火災の激しさを物語るオブジェはどうやらセイコーミュージアムに保管されているらしく セイコー社ホームページにも最大の危機、と題された項に写真が掲載されています。

今までの苦労は全て灰になり此の状態から再びやり直しても生きてる間に 自分の作った時計を見ることは出来るや否や、もう時計作りは止めよう… と絶望のどん底に突き落とされた金太郎を再び奮い立たせたのは部下達の言葉であったと番組は映し出します。 此の如き小事に諦めるべからず、吾人時計開発に諦念なく何年も努む、 今や時計製造の知見は自家薬籠中のもの也、必ずや直ちに同じきものの出来ならん、大丈夫ならず哉! と言う訳です。 部下の励ましに背中を押され震災の2ヵ月後には工場などの営業を再開、 先ずは震災前、修理のため客から預かっていた約1,500個余りの時計の弁済から開始し、 お客に迷惑は掛けないと言う金太郎の男気は会社の信頼を高めた、 と此処等辺りがテレビ番組制作社としての手腕の見せ所、と力が入っているのが伝わって来ます。 セイコー社には一旦落胆するも4日後には精工舎の再開を宣言、10月下旬仮工場一棟の完成、11月仮営業所が落成、 と関東大震災が9月1日ですから凡そ符合します。 また修理のために手元に置いていた顧客の時計は1,500余り、 顧客に迷惑を掛けないという態度を貫徹を以て同程度の新品で返済、大きな話題となったことにも触れられ、 震災後の修理品返済についての広告の画像も掲載されています。 気概を以て難事に当たり災い転じて福と為すのは立志伝中に扱い易い題材でしょう。

番組は此処で初めて金太郎がセイコー社の創業者である旨明かし、 関東大震災で全てを失った教訓を活かし大切な時計を災害から守る為 当時としては珍しい鉄筋コンクリートの頑丈な店を建築したものが、昭和の東京大空襲をも乗り越え今に残る銀座のランドマーク 和光の時計塔 である、と紹介しています。 上に時計塔の話題で掲載した写真こそが其れで初代が関東大震災で消失したものでした。 新時計塔の落成は1932年(昭和7年)、震災より10年を経ずして成ったものです。

金太郎の魂は連綿と引き継がれ西暦1964年(昭和39年)の東京オリンピックの際には公式時計を担当、 其の5年後、1969年(昭和44年)には世界初のクォーツ式腕時計を発売する、 と番組が結ぶ此処等辺りは最早読者の方が詳しい処でしょうし、 かたむき通信にも アストロン を記事〔K1〕 として扱った処です。 去年2013年は上に記したローレル発売より記念すべき100年を経て創業来初となる金太郎の名が冠された SEIKO ASTRON 100周年記念 服部金太郎特別限定モデル SBXA100 が発売されました。 裏蓋には1900年(明治33年)に金太郎が商標登録した 丸角Sマーク の中央に配され、限定モデルシリアル番号と共に其の周囲には金太郎の理念である 時代の一歩先を行く の意の英文 "ONE STEP AHEAD OF THE REST" KINTARO HATTORI が刻印されています。

金太郎の没年は1934年(昭和9年)の3月1日、 新時計塔の落成した翌々年のことでした。 享年73、数えで言えば75の年でした。 本記事には商人金太郎に些かかたむいた感もありますが、 参考ブログには金太郎は社会への寄付、利益還元を好んだ旨も記されています。 彼は生前私財300万円を投じ発明、研究、学術奨励を目的とする財団 服部報公会 を設立し諸々の事業を援助、また 服部商業学校 を作って事務系職員の育成をも計ったものと紹介されています。

セイコー社ホームページの服部金太郎物語には参考書籍の名も挙げられており、 其処には参考ブログが取り上げた 時計王服部金太郎(一業一人伝) の他に精工舎が自ら編じ1968年(昭和43年)に上梓せる 精工舎史話 と芙蓉書房出版から2010年(平成22年)に上梓せらる 世界を驚かせた技術と経営(シリーズ情熱の日本経営史7) が挙げられています。

使用写真
  1. 30歳頃の金太郎(1890年)( photo credit: 服部金太郎物語
  2. Wako Department Store( photo credit: raitank via Flickr cc
かたむき通信参照記事(K)
  1. 世界初クウォーツムーブメント35SQ~世界にショックを与え日本を一躍腕時計界の中心に至らしめたセイコーアストロン(2012年8月25日)
参考URL(※)
  1. 服部金太郎物語(THE SEIKO MUSEUM セイコーミュージアム:2014年3月28日時点)
  2. 服部金太郎(Wikipedia:2014年3月28日時点)
  3. 経済人列伝、服部金太郎(経済(学)あれこれ:2010年11月22日)
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