神原町の最後の猪堤

神原町かみはらちょう は静岡県浜松市の西区に区分される町です。 浜名湖の東、佐鳴湖の西に位置し佐鳴湖の東に位置する浜松城下町を通る主要陸路は佐鳴湖と浜名湖を避けるように分かれて 南に東海道、北に本坂街道が通りますから勢い神原町を避けるような配置とならざるを得ず 神原町を含む、神ヶ谷町、大久保町、西山町の地域を総称として今も通用する明治に作られた 神久呂 地区は昔より隠れの里とも呼ばれてきました。 神ヶ谷町に鎮座する式内社 賀久留神社 の社名の由来が隠れにあるともされる所以です。 神久呂公民館の発行した神久呂地域史の書かれる書籍 わがまち文化誌「ふるさと神久呂」 (以降ふるさと神久呂)によれば神久呂村の頃、神ヶ谷区中部落小字 奥新田 と称した地域が昭和23年に当地の一部であった通称 原山 を襲い神ヶ谷区神原部落を組織したのだそうです。 その後昭和30年浜松市へ合併の際 神原町 が正式に開始されました。

神原町公会堂
神原町公会堂

隠れの里と呼ばれるような様子から察しが付くかも知れません、神原町を含む神久呂地区の主要産業は農業でした。 ふるさと神久呂によれば平成3年には267戸を数える戸数も町制適用時は47戸に過ぎずその七割が専業農家であったと言います。 現在では神原町から農業が姿を消してしまうのではないかとの懸念も江戸、明治から昭和に掛けては 農業を以て成り立っていた地域であったのでした。 三方原台地の切れる辺りで解析谷の地形豊かな神久呂地区も北に当たる神原町は平坦な地形を成しますが水利は決して良くはありません。 三方原用水の充実するまでは谷間の地区より水稲耕作も困難で畑作が主に営まれていたのです。 そして従事者を悩ませていたのが獣害でした。 当時多く出没した猪に大切な農作物を荒らされれば対策を立てざるを得ません。 斯くして 猪堤ししづつみ の出来となったのです。

猪堤地図
「ふるさと神久呂」記載猪堤地図

ふるさと神久呂には右に引用する如き猪堤の地図が掲載されており 神久呂小学校の北手に南西から北東へ約4、500メートルの線が猪堤を表すものとして延びています。 猪除けのための防御壁は現在でも販売されており其れ等の説明を見れば 猪は1メートルほどの障壁は飛び越える運動能力を有するとのことで それ以上の高さの土手を数百メートルに渡り築いたとは先人の悩みの深さと苦労と生きるべく執念が窺い知れるものです。 さて其れだけの土木構築物となれば目立ちもするでしょう、 平成3年刊のふるさと神久呂に未だ一部が残るともありますので 人々の貴重な生活に密着した文化財を此の目で確めんものと2016年は一昨日、 9月4日の昼間は未だ暑さの盛んな日に神原町に出掛けたのでありました。

其れ程の苦労もなく見付かるだろうと高を括っている積りもありませんでした、 他にも神久呂地区を見て回り其の序でに拝むくらいの積もりではありましたが然うは問屋が卸しませんでした。 昔は農業用水として活躍した溜池を目指しいつの間にか人の通らなくなって夏草の鬱蒼と茂る最早人跡未踏の趣も感じられる古道を行き 谷間の上下の道を下から上、上から下を確認しながら汗まみれになって凡そ満足しつつ いざ当初の目的の猪堤を目指すも何処にもそれらしき構築物は見当たらないのです。 好い加減諦め掛けながらそれらしき辺りを歩けばしかし 神原町の比較的整然とした区画割りに隠れた斜めの線が見え始めます。 其れは垣根であったり畑であったり隣り合う隣家の合間であったりして 猪堤の遺構を窺わせる線を残しているように感じられるのでした。 しかし猪の跳躍を許さぬ高さの土手などは影も形も見当たりません。 希望的観測から明らかに異なるだろうと思われる石組みを写真に収めたりしながらそれでも歩みを進めてみます。

谷間に設置された自動販売機
谷間に設置された自動販売機

自動販売機でジュースを購入し水分は補給するものの好い加減足も棒になって 竹藪夏草の中で擦れた肌に熱射を受けて軽い痛みを感じる両の腕を振るのも面倒臭くなった頃、 手押しの農作業用の一輪車の両の取っ手を引き上げたまま道路を渡りあぐねているお婆ちゃんを見掛けました。 近付く迄渡れないでいたら訪ねてみようとゆっくり歩みを進めれば それほど交通量の多くない筈の神原町の道路に珍しく自動車が続いたのは何かの印しであろうかとの予感を少々抱き 挨拶をして用件を切り出す日焼けして赤鬼みたような不審な男に声を掛けられてお婆ちゃんが訝しがるのも当然ながら 直ぐに拙い説明を了解して其れならと話し始めた意外な内容の都合の良過ぎる余りそれは此方側が咄嗟には了解できないものでした。 暑さに頭を多少やられた風采の上がらぬ男のふるさと神久呂がうろ覚えの猪がどうした除けるがどうした土手がどうしたとの纏まらぬ質問に それなら猪堤で うち にあるとの答えを受けたのでした。 朦朧とした頭にも漸くお婆ちゃんのお話を把握出来始め確かに掴んだ身には 何という僥倖かと小躍りしたのは言う迄もありません。

人懐こいお婆ちゃんの性格を受けるに加えて図々しさ序でに 是非とも其の御宅の猪堤の現物を拝見させて下さい 加之しかのみならず 写真に収めさせて下さいとの申し出に 気の良いお婆ちゃんは一輪車を道路脇も構わず置いて振り向いた垣根の合間の屋敷内に此方を招き入れてくれます。 躊躇なくお婆ちゃんに続いて入り込むと玄関辺りで息子さん夫婦と思しき家人が訝しがるのにお婆ちゃんが気の好い遠州弁で説明してくれます。 なるほどとお三人連れ立って屋敷前のコンクリの打ちっ放しを通り抜け土の現れる庭内に招き入れてくれて 思い出せば恐縮を禁じ得ませんが其の時は得たりとばかり招かれるままに奥に進んで お三人それぞれが指差してくれる猪堤に漸く巡り合えたのでした。

猪堤
漸く巡り会えた数百メートルに及んだ猪堤の最後の一間ほどは高さ30cmほどであった

残された猪堤の高さは一尺足らず、毎日見るにしていても徐々の変化が気付くほどであるのでしょう、 問わず語りにお婆ちゃんお父さんは口々に昔は自らの身長ほどもあったものだと掌を己の頭ほどに掲げながら 特に訝しがるでもない感激に身を震わせている此方に説明してくれます。 従って往年にはその土手の高さは五尺から一間ほどはあったのでしょう、現代販売される防御壁の説明とも符合します。 何故このように低まったのか所有者のお三方と 喧喧囂囂けんけんごうごう たるのは不可思議ながらも楽しいものでした。 曰く、自然と崩れるのもあるし折に触れ飛び越え、乗り越える内に土手もだんだん崩れてきたのだろう、 土が周りに崩れれば其処が高まって土手は低くなる理屈、 意識的に土を周りに運んだこともあるかも知らん、などなど、 であるならば一連の失われた猪堤もいつの間にか高さを失い 意識しなければ保存の叶わぬ状況となり何某かの機会に其の姿を消したのだと思われます、 恐らくは全てが潰そうとして潰されたものではないのでしょう。

根の上がってしまっている猪堤に植えられた樹木
根の上がってしまっている猪堤に植えられた樹木

丈が低いながらも聞けば猪堤の上の樹木は元から、 恐らくは猪堤の築堤された当時から植えられていたもので家人が特別に植えたものではないそうです。 しかし右の写真をご覧いただければ分かる通り残された3本の樹木は軒並み根が上がってしまっていますので 此れも根の周りの土が次第に崩れた立証となりそうです。 一間ほどの高さに植えられていた木が土台が低まるのも構わず立ち続けているのは 生命力に当てられるというか不思議な感慨を抱きもしました。 お婆ちゃんは 此方こなた から 彼方かなた を真っ直ぐ指差しずっと猪堤は続いていたのだと、 其の時は指差す先に山も池もあったのだと遠い目を遣ります。 其の様は来し方行く末の直線上の中央にお婆ちゃんが位置するかのように見えました。 お婆ちゃんの指し示した方向は地図にあり歩きながら見えない線を感じた方向そのものでした。 数百メートル連綿と繋がる一間高の猪堤に青々として樹木が立ち並ぶのも猪を退けてなお其の壮観を彷彿とさせられ、 当時の村人、農家の矜持が感じられもしたのです。

山や池があったが前の道路ができる時に全部なくなったと笑いながら話すお婆ちゃんに 猪は猪堤のどちらから現れたのですかと問えば 若しかしたら猪堤の活躍したのはお婆ちゃんの親の世代迄だったのかも知れません、 実は此方の記憶も遠いものでお三方と又もや賑やかに議論が始まりました。 曰く、出るのは山からだろうから、畑は此方にあったから、否此方にも少し、屋敷は此方だから、 否々隣家は当時は影も形もなかったから、などなど愉快ながらも 様変わりした現代の神原の土地の上では確かな結論は得られませんでした。 お婆ちゃんの野良には猪が影響を与える頻度も低くなっていた証左でもあるのでしょう、 どちらから出現しようが最早とんじゃかない訳です。 ただ 猪塚ししづか と呼ばれる場所もあったとのお話でしたのでお婆ちゃんの若い頃にも兎も角 往年の猪堤は弔いが必要なほど成果を挙げていたのには違いありません。

残された猪堤を思うにお三方は様々 あそこはどうだ、こっちはどうだと、あの屋ではどうした、この屋ではどうした、 と考えるにお三方の一人が思い当たればお三方の別方は直ぐ様、否それは今はとの具合で 矢張り何処にも現存を思い当たる当てもなく全てが既に失われたのを再確認する作業となるしかないのでした。 勿論既に機能を必要とされなくなった当の此処の猪堤とて孰れ消え行く運命であるのは間違いありません。 時の権力者が建立した神社仏閣や時運に乗じて富を形成した長者が大枚叩いた家屋敷などにはありませんが 人々の生活に密着した此の如き猪堤は立派な文化財と考えますし 実際出会った感動は千年の時を隔てて巡り会う文化財に劣るどころか上回るものでさえありました。 猪堤の最後の姿に巡り会えた幸運と感動と其の機会を与えたくれたお婆ちゃんを始めとするお三人に 精一杯のお礼を述べ御宅を辞したのでした。

神原町遠景
神原町遠景

いつまでも其の姿を留めて欲しくは思うものの 当局に文化財などに指定されてしまえば予算は下りるものの維持手当ては強制となり監視も付きますので 民家宅で一般の方が生活の乱されぬ中で保存されている其れが万一嫌悪の対象になっては元も子もないでしょう、 保存の運動などを起こす気持ちは毛頭ありません。 なればこそ此の記事も或る程度の意味を持ってくれるでしょう。 最後の猪堤の現存せるは個人宅にて全くのご好意にて拝見が叶いました、 此処に実名を挙げてのお礼は無論すべきではなく当該行為は叶いませんが本当に感謝しています。 また実名に併せて詳細な住所など記すのは勿論控えるところです。 ふるさと神久呂には猪堤の尽きた辺りに猪の落ちるように大きな穴を仕掛けてあったとの記載がありましたが 以上記したような塩梅で今となっては確認する術はありませんでした。

読み取り難い書籍の片隅の地図に併せて正確な地図、そして現地を実際に歩き回って森林の繁茂や河川、地形の高低を鑑みれば 恐らくは猪堤は東は釜穴川の渓谷を駆け上がって今では失われた西ノ谷川の起点となる溜池を回り込み 現在の神久呂小学校の東を南北に通って西ノ谷川の渓谷に落ち込むように築かれていたのではないかと思います。 西ノ谷川の起点に今では埋められてしまった溜池があったのは後日、神久呂交番の横で草取りをしていた 二本木にほんぎ の地主のお婆ちゃんにお聞きしたものです。

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