日の丸弁当少考

日の丸弁当 をキーワードに少し近現代の日本の産業と食事を考えてみたく思いものしたのが本記事になります。

五社公園の日の丸弁当の考案者男爵前田正名君碑
五社公園の日の丸弁当の考案者男爵前田正名君碑

浜松市の中央部、出世城の異名をとる浜松城にもほど近い 利町とぎまち の五社公園には東南隅に記念碑が3基設置されています。 其の内の右の石碑は大正12年(1923)8月に建立された 男爵前田正名君碑 で明治期の経済官僚、産業運動指導者である前田正名男爵(嘉永3年1850〜大正10年1921)の顕彰碑とされます。 浜松市が2001年に刊行した 浜松市石造文化財所在目録 の14頁、17項 利町五社公園 の3番には此の顕彰碑についても記されていますので下に引用しましょう。

公爵松方正義の題額「男爵前田正名君碑」を掲げる。農商務省次官などを務めて近代日本の殖産興業に尽力した前田正名を顕彰する。碑文は平山成信書。中邨なかむら利隆書。五二会遠江本部が建碑を企て浜松市ほか9団体が賛助して建てた。公爵松方正義が題額を書き五二会遠江支部が建碑を企て、浜松市他9団体が賛助して建立された。

ブログ かさぶた日録 の2015年12月16日の記事 浜松五社公園の「男爵前田正名君碑」を読み解く に此の顕彰碑の漢文を読み下している くだり がありますので此れも下に引用します。

男爵前田正名君碑
正二位大勲位、公爵松方正義題額

君諱 正名まさな、姓前田氏、考諱善安、妣澤氏。 家世、鹿児島藩に仕う。 君幼く 頴悟えいご 好学、明治元年、朝命を奉じ、 法国フランス に游ぶ。 農学を修め、一時法を学び、兵と交り、圍巴里を はさむ軍に学ぶ。 君、城中に在り、 つぶさ に艱苦を嘗める。 (明治)九年帰朝。
十一年法国、大博覧会を巴里において開く。君、事務官長を拜す。 掌理、庶務、数官を歴任し、農商務次官に至る。勅選貴族院議員、前後二回。従三位勲三等を叙す。君、身を倹素に奉ず。
当事、戦益を覆す、興業意見、数万言、また五二会を起す。 東奔西走、席を暖むる暇あらず。 殖産に始終如一力を致す。
大正十年八月、病革まる。朝廷、その功を り、特に男爵を授け、正三位勲二等に叙す。 十一日、薨越。二十四日、芝妙定院塋(墓)域に葬る。嘉永三年三月に生まれ、 へだたり、享年七十二。
頃者(この頃)、浜松人、某、某等来り、 つげて曰く、前田君、浜松に実に百余回来たる。 産業の勃興、その奨励者と頼む。 郷人の追慕、鮮やかならず。 将に碑を建て、以ってその徳を彰さんとす。 この銘を余に願う。 久辱きゅうじょく、 君誼を知る。辞すべからず。 因って、その梗概を敘す。係るを以って銘に曰く、

法国之遊  農学専修  勧行是務  富國是謀
于朝于野  勤労不休  遺澤洋々  永傳千秋
(銘の意訳、七五調で)
朝命受けてフランスに、農学修む専らに、産業奨励これ務め、国を豊かに謀るべく、官と民とを駆け回り、休むことなく働きて、恩沢遺す洋々と、いついつまでも伝えけん。

大正十二年八月   従二位勲一等平山成信撰
中邨利隆書

前田正名男爵は明治期殖産興業に尽力すると共に 山梨ワイン日の丸弁当 の創始者としても知られ、 在任期間は明治21年(1888)6月29日から明治22年(1889)2月27日と短いながらも第7代山梨県知事として過ごしています。 山梨県のサイト、 山梨県ワイン百科 の6章 国産推進者の前田正名 にも取り上げられており、 記載中には短い在任期間ながらも日常は質素で昼食は梅干しであったとされ此れから連想したものか口碑によるものか直後に 日の丸弁当の提唱者として知られている と言い切っています。 理由の調べは残念ながら付かず推測に過ぎませんが浜松市中央部の公園に顕彰碑が建立されたのは 山梨県に隣県に当たれば東海地方への所縁も深く浜松への来訪も百度を数え、 当地に彼を慕う知己を得たのかも知れません。 孰れ日の丸弁当の発想が前田男爵の山梨県知事時代にあるとすれば 早くても明治21年(1888)の創始となります。

日の丸弁当と言えば一般に白米の敷き詰められ真ん中に梅干しを配置したアルミ弁当箱が想起されるでしょう。 現代人の感覚では戦中戦後に一般に白米の得られる余地の有る哉否哉が疑われますが 昭和5年生まれ、当時を生きた方の話では流通の具合もあり都心部では白米が一般に食されていたけれども 地方では粟、稗、麦などを多く含む状態ではあったと述べられ、此れは 壺井栄 が昭和3年(1928)から大戦翌年の昭和21年(1946)の昭和初期の瀬戸内海の寒村の状況を描いた 二十四の瞳 (本記事では 昭和32年9月5日発行、平成17年4月15日85刷改版、平成18年6月5日91刷の新潮文庫「二十四の瞳」 を底本としています) にも前半部、二十四の瞳が小学校の一年生から五年生と成長するのに麦飯が与って力があったと書かれるのに符合します。 ただ雑穀は米に比べて炊いた後の足が早くお櫃に入れておけば晩にも食べられる状態が保たれるものではなく 度に煮炊が必要となれば薪炭の浪費にもつながり米飯はその意味で経済的でもあったともし、 そのような状況下にも配給制は国民に米飯を届ける役割をしたとも述べられました。 二十四の瞳では時期は終戦直下おなご先生の母親の死期の迫った際には子供達の口には入らぬ粥のために ビール瓶で米を搗く場面もあるのは時代は遡り重くなりはすれ意味を同じくするでしょう 末期の水 ならぬ 振り米 を想起させ米飯食の一般でもないのが知られもし 時代が下がるとともに分づき米の精白度合いは 3分づき、5分づき、7分づきと下がったともされますが 恐らくは現代人の想起に比較して色は多少濃いながらも日の丸弁当は大きくは異なるものではないようです。 因みに国が威信を掛けて体裁を繕う戦前、戦中に比して戦後の方が食糧事情が悪かったのも 知らぬ向きには曖昧模糊とした当時を彷彿させ膝を打たせる情況かも知れません。

さて当時を生きた3名から5、6名の面々に尋ねれば 当たり前のように日の丸弁当は梅干しだけがおかずでそれ以外におかずはないと述べられますが 普段の食卓に昭和一桁以前も然うであったのかは前段の考察から甚だ疑問に思い機会を得た中の一人に執念く尋ねてみれば 勿論比するのが現代であれば豊かでないには違いないものの唯に梅干しをおかずにするばかりではありませんでした。 上記の振り米は末期に口には入らねどせめてもの音だけでも冥土の土産にするという話を聞かせてくれもした 東京蒲田に少年時代を過ごした其の軍国少年氏に伺えば 一度に供されるものではないものの時には里芋もあり山芋もありキャベツもあり、 自ら海岸に貝を拾いに出掛けたり、また時には行商から鮪の切り身を購入して食したこともあったそうです。 鮪の切り身は玉子焼きと椎茸などと共に寿司のネタとして少年の食膳に上ったのも珍しいとは言えあったと懐かしそうに話されます。 また弁当の定番としては日の丸弁当以外にも 猫弁 を挙げられました。 現在でも醤油と削り節で和えたネコマンマは一般的で容易に想像出来るとこの其の物のオカカご飯弁当だそうです。 二十四の瞳には戦後おなご先生の長男の大吉が山へどんぐりを拾いに行き苦いパンを食べるのを厭う件がありますが 戦前の話を戦後大分経ってから同級生であった朝鮮国籍の女性から聞いた話として軍国少年氏の話されたのは 貧しさから弁当のままならない彼女に先生の与えた薄く切られた両端にジャムを挟んで合わせた食パンの忘れられない味であったとの思い出で 大吉と朝鮮少女の置かれた立場はありこそすれ其々に感慨を抱かされる当時にパンの味の一般であったのも知られるでしょう。

以上、戦前の食糧事情は世界恐慌から少しくした頃多少日本の経済が持ち直した頃とは言え その後国際連盟を脱退し戦争へと突き進む状況下にはありましたから 若しかしたら大正モボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)連の跳梁した頃にはもう少し良かった可能性も疑えますが 軍国少年にお父上の言を尋ねても流石にはっきりとした証言は得られませんでした。 食糧事情にはありませんが二十四の瞳には冒頭分教場から本校へ上がる年齢の五年生が 独り立ちの証明たる藁草履を綯う場面が描写されますが 二十四の瞳より一回り世代の新しい幾人かも自ら綯う経験を持ち 更には歴史談義に宿場町を往来する旅人の草鞋はどれほど保ったかなる話柄で 一日であったからこそ時代劇にも宿屋の軒先には草鞋が吊るされているのだなどとも話される昭和初期、 また其れに先立つ明治、大正、食糧事情の差異については孰れ機会があればもう少し詳しく知りたく思うところです。

斯様に実際に当時を過ごした 方々かたがた に尋ねればまた面白い言及が得られます。 アルミ弁当箱にも日の丸弁当の梅干しに因り 蓋の真ん中の溶け出すものと然うならないものがあったと言います。 ではアルミ弁当箱とは如何なるものでしょうか。

アルミ弁当箱には方々の主張の如く2種類在ったのは確かで其れ等を截然と分けるのが弁当箱の蓋を溶かした梅干しのようです。 即ち溶けるアルミ弁当箱は古く、新しいものは梅干しに強かったもので新しく開発された アルマイト加工 に依り梅干しの影響から保護されるのでした。 アルミの弁当箱の中央、即ち日の丸の部分が溶けて穴が開くのはアルマイト処理の施されていない蓋が酸化されて溶けてしまっていたからでした。 ではアルマイト加工が開発されたのはいつなる哉、此れは日本の理研で開発されています。 『理研ニュース』2005年5月号 に当時の経緯が記されており大正13年(1924)にアルミニウム製の三角定規を使うと製図用紙が汚れて困難するので 此れに酸化被膜を施すように依頼された理研の研究者の偶々の不注意が新素材 アルマイト が生み出されたとされています。 理研の記念史料室の失敗の記録はアルマイトの発明は正しく セレンディピティ serendipity であったことを如実に物語っているのが大きな発明の定型の一つとして記憶されても良いものでしょう、以下に引用します。

数枚の定規を重なり合わせたまま、お湯の中で煮てしまった。 その結果、取り出したときに部分的に変色したところができた。 この失敗を取り戻すために再び電解したところ、いくら電流を流しても変色した部分の色が消えなかった。 この部分を詳細に調べた結果、多孔性を失って電解液が染み込まない状態となっていることがわかった。 これは前々からわれわれが欲求して満たし得なかった多孔性の滅失ということが偶然にも達成されていた

理研は昭和3年(1928年)になると静岡にアルミニウム陽極酸化被膜工場のパイロットプラントを設営する一方で アルミニウム関連企業に特許実施権を与えてアルマイトの普及促進を図ったと言います。 昭和9年(1934)には初のアルマイト専業企業として 理研アルマイト工業株式会社 が設立され平成の今に至っています。

小説 二十四の瞳 に目を転じれば本作は昭和3年(1928年)から大戦翌年の昭和21年(1946)、激動の昭和前半が描かれており、 上梓されたのは昭和27年(1952)ですから作者に戦争の記憶も生々しい頃と言えるでしょう、 其の物語中には大石おなご先生と本校で再会を果たした二十四の瞳に百合の花柄付きのアルマイトの弁当箱が流行り 家計から入手の難しい二十四の瞳の一人の松江が欲しさの余り母親に強請る件があります。 アルマイトは軽く、硬く、丈夫で錆びないため生活用品をはじめとする様々なものに利用されたと理研はしますが、 二十四の瞳によればお洒落だったから流行りだったから広く普及した様子が汲み取れます。 ただし昭和10年生まれの女性に話を聞けば アルマイトの弁当箱はごくごく普通だったと言いますから一回り強の時代を経てアルマイトは普及が達せられたのでしょう。 普及すれば値の下がるのが一般で小説中にも無粋な弁当箱として記され当時主流であったと思われる柳行李と安価を競い普及したかは判然しませんが 現代では柳行李の弁当箱などはどちらかと言えば手入れの必要な高級品として扱われるのを思えば隔世の感があります。 柳行李と共に本ブログにも記載した 曲げわっぱ弁当箱 は此れも現代では比較的高級品の部類に属しますが当時アルミ弁当箱と比較して 利用可能期間も含めた経済性がどちらが上回っていて 其れがアルマイト弁当箱の普及にどのように影響を与えたのかは機会があれば調べてみたく思うところです。

さて此処で疑問なのはではアルマイト以前のアルミ弁当箱は如何なるものだったかというものです。 アルミニウムは軽量故の需要はあるものの其れ自体では柔らかくて金属としての用途に適しませんので 通常、銅、マンガン、ケイ素、マグネシウム、亜鉛、ニッケルなどの他の金属と化合してアルミニウム合金として用に足します。 斯様に多種多様のアルミニウム合金ですが化合に用いる金属でも主要なものは銅であり代表的なものには ジュラルミンDuralumin が挙げられるでしょう。 ジュラルミンはWikipediaの ジュラルミン の項に依れば明治36年(1903)ドイツ中西部の デュレンDüren で軽い合金を求めてアルミニウムを銅の合金として当初開発されたアルミニウム合金の嚆矢であり、 一般にはラテン語でhardを意味するdurusとaluminiumの合成語とされますが 一説には地名とアルミニウムの合成語でジュラルミンと命名されたとも言われます。 日本では大正5年(1916)に 住友伸銅所新日鐵住金株式会社 の母体の一つ住友金属工業の前身)でジュラルミンの研究が開始されたました。 此のジュラルミンの開発以降アルミニウム合金は広く一般に普及し始めるものとされますし、 アルマイトより先の話でもあることから アルミ弁当箱はジュラルミン製であったと考えるのが自然の流れ のように思います。 しかし現在80代世代の方々に聞けばアルミ弁当箱がアルマイト弁当箱の前にあったとの記憶で内2名は斯くと確言されました。 時系列から見てジュラルミン弁当箱ではなかったかと問えばそうではない、との話です。

此処に疑義を抱きネットを繰れば以下はネットにも数少ないジュラルミン弁当箱に言及した記事でサイト 懐かしチャンネル の2003年12月24日の記事 第12回「アルマイトの弁当箱」の巻 がありました。 記事中に テイネン工業 取締役工業品部長の話が掲載されていますので以下引用します。

アルミ弁当箱で六、七割のシェアを持つテイネン工業の話ではこうだ。 「終戦直後は高級な材料がなかったのでジュラルミンの弁当箱がありました。 ジュラルミンは強度を増すためアルミに亜鉛や銅を混ぜたものですが、耐腐蝕性に難があります。 長期間使用していたら酸やアルカリと結び付きやすいのです。 また、アルマイトはアルミに酸化被膜を施したものですが、当時の技術力が不充分だったことも考えられます。 現在は純度が高いので梅干で穴が空いたりはしないでしょう」(同社取締役工業品部長)

引用文には終戦直後とされているのは 現在80代の方々でも別の方の主張で軍需用に需要がなくなったジュラルミンが民需に転用されたとの主張とも符合しますが、 アルマイト以前のアルミ弁当箱の素材としてのジュラルミンとは時系列が合いません。 また当時の少年の心にはジュラルミンが軍需に重く用いられ弁当箱と全く連想の繋がるものではありませんが 若し戦時下であってもジュラルミンが弁当箱の主要な素材であれば親世代から言及を受けるのも必然のように感じられますので はっきりと方々の記憶に残っていない通り 必ずしもジュラルミンがアルマイト以前の弁当箱の主要素材であったとは言い切れません。 此のジュラルミンにも幾種類もあり 日本アルミニウム協会 のサイトの アルミニウムの歴史 なるページを見れば昭和11年(1936)に 超々ジュラルミン が日本で開発されたとあり溶ける弁当箱が軍需の其れとは異なるジュラルミン製であった可能性は残りますが 此処は機会あれば孰れ知りたく思うところです。

アルミ弁当箱は現在80代の方々の少年少女時、 即ち昭和一桁にアルミ合金製品の普及していた裏付けとなります。 代表たるアルミ合金はジュラルミンではありましたが此れがアルミ弁当箱の素材であったか否かは判然しませんが、 アルミ合金製の弁当箱は確かにアルマイト加工以前に存在し 其の蓋は日の丸弁当の梅干しに真ん中を溶かされたものであったのは多くの人々の記憶に残っています。 其の際はアルマイト処理されたアルミ弁当箱は柳行李の弁当箱やマゲワッパに比較しても高価で子供が強請り欲しがるものでしたが ほんの少し時代が下れば充分に普及すべくもありました。 そして昭和20年(1945)の終戦を経てジュラルミンは民需転用され 軍国少年達の根本的意識転換にも関わらず軍事用素材として認識され続けたのです。 戦後数年して小説二十四の瞳は発刊され其の2年後映画二十四の瞳は大当たりを取り 二十四の瞳は国民的な物語として人々に知られるようになりました。

昭和4年(1929)10月28日がブラックマンデーとなり世界恐慌の引き金を引き 不況の波は当然ながら日本にも押し寄せれば 昭和の始まりは重なり途中幾分持ち直したものの国際舞台で日本が孤立し戦争へと突入する長く続く不況期の開始でもありました。 従って現在80代の方々の少年少女時代は世界恐慌の真っ只中でもあり 例えば今年85歳なら生まれは昭和6年(1931)の勘定で現在の若者が神武景気、岩戸景気、日本の昭和の経済発展を知らずに育ったように 大正モボも、モガも知らない世代に違いありません。 しかし日の丸弁当は梅干しのみをおかずとする質素の代名詞と言えど米飯を主とするのも間違いなく 軍国少年が一汁三菜を聞いてどうしてうちは おかずは沢庵だけなのかと異議を申し立てる一幕もあったものの 終戦後に比較すれば戦前、戦中は食糧事情は良く 勿論現代に比べれば決して豊かではないながら思い出されるだに食卓を彩る菜汁もありました。

以上述べた戦前、戦中、戦後の食糧事情、金属事情を垣間見られる 日の丸弁当をキーワードとした出来事を年代別にまとめれば以下の如くなるでしょう。

和暦西暦出来事二十四の瞳
明治21年1888前田正名山梨県知事日の丸弁当考案
明治33年1900壺井栄生まれる
明治36年1903ドイツでジュラルミン開発される(発想はアルミニウムと銅の合金)
明治39年1906おなご先生生まれる(22で岬分教場へ赴任したとしての計算)
大正元年1912映画監督木下恵介浜松に生まれる
大正5年1916日本でジュラルミンの研究開始
大正10年1921二十四の瞳生まれる
大正12年1923男爵前田正名君碑建立
大正13年1924理研アルマイト開発
昭和3年1928理研アルマイトパイロットプラントの建設と普及促進策二十四の瞳小学校入学
おなご先生自転車で登場しモダンガールの評を得て二十四の瞳を岬分教場で一学期間担任し落とし穴でアキレス腱を切る
昭和4年192910月28日ブラックマンデー
昭和6年1931満州事変
昭和7年1932第一次上海事変二十四の瞳麦飯で生き生きと育ち本校登校年齢五年生に達しおなご先生と再会す
松江百合の花柄付きアルマイト弁当箱を欲す
昭和8年1933国際連盟脱退※
小林多喜二獄死※
金比羅修学旅行
昭和9年1934おなご先生赤の評を得る
二十四の瞳卒業し同時におなご先生おめでた退職
昭和11年1936日本で超々ジュラルミンが開発される
昭和12年1937日華事変※
昭和13年1938国家総動員法交付生活必需品が配給制となる
昭和14年1939ノモンハン事件※
昭和16年1941治安維持法改正※
戦線太平洋に広がる※
徴兵検査の二十四の瞳男子に三児の母となったおなご先生再会す
昭和17年1942ミッドウェー海戦※
昭和19年1944サイパン陥落※おなご先生亭主戦死
昭和20年1945原爆投下※
玉音放送※
おなご先生の母親と娘 八津やつ 死亡
昭和21年1946おなご先生岬分教場で助教として復職しなきみそ先生となる
昭和27年1952小説「二十四の瞳」発表
昭和29年1954映画「二十四の瞳」公開
※ 二十四の瞳に記載あり

以上近現代の食事事情と金属事情が日の丸弁当から敷衍出来るのを面白く思い一文をものしましたが 資料渉猟及び記事記述中には男爵前田正名君碑は浜松に建立され 現代と当時の紐帯とした小説二十四の瞳を映画化し人々の記憶に刻み込んだ 木下恵介 監督は浜松出身であったのは奇しき縁に思われたものです。

追記 (2016年11月7日)
梅干しに蓋の溶けて穴の開くアルミ弁当箱は果たしてジュラルミンであったのか否か、 専門家の方に尋ねて解決に至りましたので此処に追記します。 解決への糸口となる関連言及としては テイネン工業 取締役工業品部長の話でしたので 事情に詳しいご本人に尋ねるに如くはなしと連絡を取るため調べるとテイネン工業株式会社は 帝国撚糸織物株式会社として創業し住友軽金属工業株式会社の完全子会社となったのち 株式会社住軽テクノ恵那に社名変更、そして株式会社ナルコ恵那に事業継承していました。 そして現在は 株式会社UACJ金属加工 に編入されています。 従ってご連絡申し上げたのはUACJの産業機器事業部産機営業部宛てです。 突然の不躾な質問にも関わらず電話口に立たれた方が電話中社内に連絡を取るなどしてご丁寧に対応下さり以下をご教授下さいました。 即ち 戦前のアルミ弁当箱の素材はジュラルミンではなく1000番台のアルミ合金である とのことです。 アルミ合金とは言えアルミの含有率が99%を超えるために純アルミとも呼ばれるもので 素材としては柔らかいのだが弁当箱はプレス加工するに依って多少の硬さは担保できる、 とのお話でした。 株式会社UACJ金属加工産業機器事業部産機営業部担当者様ありがとうございました。 貴重なご教示のお陰で戦前派には懐かしい梅干しに穿たれるアルミ弁当箱の素材は アルマイト加工品でもジュラルミンでもなく最も古い形式のアルミ合金であるのが判明し 嘗ての軍国少年達との論争に終止符を打てたのをご報告申し上げる処です。 此れにて戦前の少年の心に70年以上の時を経た今においても其れは違うものだと断言出来るほど アルミ弁当箱のアルミとジュラルミンとが截然と区別され心に刻まれていたのがはっきりとしたのは小さな驚きでもありました。

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