杉浦国頭の書き残した浜松の二つのうとう坂

浜松諏訪神社大鳥居の礎石(2017年4月15日)
浜松諏訪神社大鳥居の礎石(2017年4月15日)

浜松市の中央部にほど近く 今は五社神社に合祀せられた 諏訪神社 は徳川氏浜松入府以前より尊崇を集め 其の社殿は国宝指定を受けるも第二次世界大戦々災にて消失し 残された大鳥居の礎石に其の豪壮さを窺い知るのみです。 此の諏訪神社に江戸時代中期大祝おおはふり として務めたのが 荷田春満かだのあずままろ に学び門下に 賀茂真淵かものまぶち を擁す 杉浦国頭すぎうらくにあきら にて遠江国学の始祖です。

国頭は浜松に於ける話柄を聞き覚えたものをまとめ書き残しており今に 曳馬曳駒拾遺 として伝わります。 物故から幾星霜明治維新を越えた後には相続人氏名義で 今は浜松の書店として市民に馴染み深い 谷島屋書店 から刊行され市内図書館などで閲覧が可能となっています。

遠江の国名から始まる六十六の話柄の内には国頭の幼き頃に老翁から聞き覚えた説話などもあり其の一つが 鴨江観音 の功徳に関するもので題目を うとう(宇登宇) と銘打っています。 曳馬拾遺の内に四十七番目に配置さる話柄は 其れ程長い文章にはあらずして以下に全文を引用しましょう。 分かり易さののために変体仮名や極端な崩し字は本記事執筆者の恣意で下付きにしてあります。

鴨江寺前山門(2016年6月25日撮影)
鴨江寺前山門(2016年6月25日撮影)
名は、一ツして二ツの坂有り、一方本坂の大路にして有玉村より三方原に登る坂を云ふな、其文字は宇藤とかり、かなる故ありてや、此文字をかくらんいとおぼつかなし、今一方は大すゝきの谷より登る入野の山路なり歌唱とかけり、此坂をうたふ坂といふ事或者語りつるは、今は昔入野の村何某とかやに仕遍天年頃住みける男子ありける、かれつね〳〵もすなにして殊に佛を敬ふ心ざしの浅からずありければ、晝はひねもす勤めて草〳〵の所業にいとまなく、夜は疲れてうちもねなんをさる事もいはて、夜々鴨江詣でしてけり、もうで來る道のしをりも定かなら春゛、山路のさしきを下るに、長月廿日りの影も山の端にかゝりて出でかてなるに、行く道のたど〳〵敷氣すさましき折柄、坂もはやなからり下りけるに、誰としもおも間近く歌うたふ聲してり、人やあると松陰に休らびて四方を見やる、さる事もなければさりけなく打過ぎて大鱸の谷下り、漸々詣でゝ歸りぬ、くるつあしたかへりて人に語るに、誰と云ふ人もなしいかさまに狐のたぶらかさんとて歌ひけるにや有りけんと云ふ、其後も彼処にてうたふ聲の折からは聞えけれども、此男敢てお春゛して終百夜詣でしけるとなり、去ればこの物語によりて此坂をうたふ坂と云ふ由、年高きおの子の語りげるを我いとけなき時に聞き侍りぬ、
蜆塚のうとう坂(2017年4月15日撮影)
蜆塚のうとう坂(2017年4月15日撮影)

此処に紹介されるのは発音を同じくする二つの坂道で一方は 宇藤坂 と書きもう一方は平仮名で うとう坂 と書き勿論共に うとう と発音するものです。 国頭は前者に付いては当該漢字を用いるのは何故だか分からぬとしほぼ触れぬまま後者を 歌う と掛けたものとし其処に伝わる歌うに掛けられた説話に付いて物語っています。 些かギリシア神話のセイレーン染みており得体の知れない歌声は洋の東西を問わず 不気味なものとして扱われ此処でも当時の人家のない昼なお薄暗い 谷間たにあいの道を行く 人々の気持ちを彷彿とさせられるようです。

さて平仮名の方のうとう坂は今は蜆塚町2丁目に編入されていますが 以前には辺りの小字を 歌謡うたうたい 若しくは うたい としてあったようです。 歌の前に付く前者は 角川地名大辞典22静岡県 地誌編・資料編の小字一覧の1464頁、蜆塚町の項目内に記され、同じく 城北地区わが町文化誌いろはの「イ」 なる郷土史冊子の 城北地区略図 にも記載があります。 坂を下って暫く進めば 三謡さんよう公園 と小字名を織り込んだかの命名の公園がありますが此れに関して記述の有る蜆塚町の郷土史冊子 山神社改築記念誌蜆塚町のあゆみ では63頁に 伝承と信仰 が章立てられ小字を謡としていますので以下に引用しましょう。

歌謡坂一帯から台地の上にかけての小字を「謡」という。 その坂を下って南下した所に、市内第十番目の都市公園三謡公園がある。 昭和13年(1939)九月二十二日に設立した三謡区画整理組合の名をとったもので、 その事業は9.8ヘクタールの宅地造成を目的として四万円をかけたという。 三謡は地名だろうといわれているが、「謡」は小字からきていることが分っても、「三」の意味は分からない。
三謡公園南側出入り口(2017年4月15日撮影)
三謡公園南側出入り口(2017年4月15日撮影)

台地は三方原台地を言っています。 幾らか調べてみても公園名に於ける算用数字の三の意味は矢張り分かりませんでした。 昭和の初期には謡なる小字は公的事業に命名されるほどには一般化しており 其れは国頭の時代にも同様であったのは曳馬拾遺の書き具合からも判然します。 但し坂名の由来については説話としては面白くも些か信憑性に欠ける嫌いがあります。 では同じ発音の有玉の宇藤坂も歌声は命名された頃には歩く者に聞こえてきたのでしょうか。 実は宇藤坂も三方原台地を上る坂道であるにも関わらずです。 曳馬拾遺にも標題に変体仮名で確りと 宇登宇 と記載するにも関わらず片方だけ歌うに引き摺られるのは少々奇異にも映ります。

曳馬拾遺に国頭の紹介するうとう坂二つは 発音を同じくするだけでなく三方原台地に掛かる共通点があります。 旧浜松市域は洪積台地を貫いて三方原台地と磐田原台地を分ける天竜川に齎された沖積平野の一帯の西側を成しています。 従って旧市域を西北に進まんとすれば嫌でも三方原台地を上り下りせねばならず街道の当該地区には畢竟坂の出来する訳です。 二つのうとう坂は共に其の一つでもあるのです。

有玉の宇藤坂
有玉の宇藤坂を上から覗き込んだ左写真と下から見上げた右写真(2015年11月27日撮影)

宇藤坂は本坂通りと言う浜松に於いては古くからの東西を繋ぐ主要道として機能した街道の台地の上り口に位置します。 浜松は徳川家康入府以前は現在のような政令指定都市となる程の賑わいはなく 今は浜松の中央部に程近い蜆塚一帯も第二次世界大戦前でさえ今と異なり人家は少なくあったと言いますから 幹線道路と迄は言わずともうとう坂は地域の住民に取って佐鳴湖の東岸に北から南の入野村へ向かう南北を繋ぐ重要な道であったものでしょう。 然者されば両坂は 街道の台地を上り下りする坂という共通点もあったことになります。

但し蜆塚のうとう坂の繋ぐ南北の道は官吏の行き来さえあったであろう本坂通り程には主要道の位置は占めませんので 命名より後世の地域住民の恣意的な認識の及び易い状況にあったのを重要な点と考えます。 即ち発音を変え難く其の儘伝えた有玉のうとう坂に対して 蜆塚は発音の似た歌うに認識を引っ張られ 遂には小字に影響が及んだものであろうと考えます。 但し蜆塚にも今もうとうと発音は其の儘残りますから愈々発音たるものは長寿を保つものと驚きを禁じ得ないでもありません。

ではうとうとは歌唱に寄せる以外にどのような意味合いを以て命名されたのでしょうか。 此処に民俗学者として名高い柳田國男の著作 地名の研究 があります。 講談社学術文庫から以前に古今書院から刊行されたものを一部編集して再刊行された文庫版ですが 日本の地名を問題とした30年に及ぶ研究の成果を上梓した書籍です。 全体は四編に分けられた最終の 地名考察 の四十二番目に位置するのが 八景坂 にて八景の意味する所は名所にあらずとして ハケ 若しくは ハッケ は別のものではない例証を示し東国で一般に岡の端の部分を表すもので 多くは古くから の字を当てられているとします。 高千穂峡や昇仙峡に用いられているのでは分かる通り峡は山間の狭隘地を示す文字にて また 新篇風土記稿 の入間郡下安松の条にある 峡つづき を実際に行って其の目で見れば 台地の外縁 であるのは直ぐ分かるものと断言します。 勿論浜松の二つのうとう坂も台地の外縁に位置します。 ハケについて書かれる当該章を読み進めると末尾に興味を惹かれる部分がありました。 256頁の中央部になりますが下に引用します。

八景の見当らない大森の八景坂は、岡の上(ハナワ)の村里から浜辺へ下りていく坂のことで、風流という物を知らぬ人の附けた名だ。 この坂一名をヤゲン坂、ヤゲン坂は八景をヤケイと呼んでからの誤りだろうという人もあるが、 これも素読学問時代の憶説でヤゲンは語のままに薬研のこと、 久保を利用した緩傾斜の坂であったがゆえに、両側が高かったからの命名に違いない。 古くはこういう地形をウトウ坂と呼んだものが多い。

ハケを称すのが如何なる地形か説明の上で古くは当該地形を ウトウ坂 と多く呼んだと結んでいます。 はけつづき を台地の外縁とするのを考え合わせれば浜松の二つのうとう坂と強い繋がりが伺えます。 最早当たり前のようにウトウについて説明がないのは 一般とは言わずとも研究者界隈に良く知られている事象であるのかも知れません。 其のような知られた地名の語源であれば調べれば容易に当たりが付きそうです。 調べてみました。

先ず東京堂出版から刊行されている 地名用語語源辞典 を繰ってみれば65頁に うとう の項目がありますので下に引用しましょう。

うとう 〔謡、有東、有洞、烏頭、宇藤、雲洞、歌道、宇頭、善知鳥〕
①ウトに同じ。とくに「狭く長い谷」の例が多い。
②奥羽方言で海浜が岬のように突き出ている所〔山中襄太〕。
【解説】ウト④の凹型の通路を、奥南方言では「隠れ道」と呼ぶらしい〔小井出幸哉〕が、本書ではウト⑤の「狭長な谷」を仮に「ウトウ型の谷」と呼ぶ。②はウトシ(疎)で「外れている意」とも考えられるが、やはりウトの⑧と同じく波浪に侵食された海岸を示すものとみたい。

浜松の二つのうとう坂の謡も宇藤も漢字として記載されています。 ウトに同じとありますから同書の64頁から此れも、 また63頁にはうと、うとうに同じとして うつ が記載されていますので共に下に引用します。

うと 〔歌、唄、椌、宇土、宇戸、海渡、宇都、烏兎、鵜渡、鵜図、鵜戸〕
①崖([方言]大分)。
②掘れ窪んだ所([方言]青森県三戸郡ほか)。
③河岸のえぐれてくぼんでいる所([方言]山口県豊浦郡ほか)。
④両側が高くて切り込んだ道([方言]秋田県鹿角郡)。
⑤谷。狭い谷([方言]長野県北安曇郡ほか)。
⑥山の奥深い所([方言]長野県更級郡)。
⑦洞穴。ほらあな([方言]青森県ほか各地)。
⑧波打際。遠州榛原郡で〔山口貞夫〕。
⑨連峰([方言]長野県上水内郡)。
⑩鈍頂の山や丘〔鏡味〕。
【解説】語源としては、一応ウツ(空。虚)の変化した語(『日本国語大辞典』)と考えてもよいが、①〜⑧(⑥を除き)を通じて共通する特徴は、崖から洞穴、波打ち際に至る「崩壊地形、侵食地形」を示す用語であることである。山口貞夫はこれらと「波打ち際」を表すウドとを別語源と考えようと下が、そうではあるかい。とすると、動詞ウツ(打)につながるか。方言としてはウトル(「倒れる。ころぶ」)という動詞もある。なお⑨、⑩は全く違う意義のように見えるが、⑨は侵食され崩壊したあとの岩石が露出した尾根(上水内郡では戸隠連峰が其の典型)、⑩は侵食谷(⑤)によってとり残された台地の平坦面を見たものとも考えられる。

うつ 〔内、打、洞、現、移、宇都、宇津〕
①ウチ(内)の転。
②ウツ(空)で、「空洞」の意か。「地溝状の狭い谷」に命名されていることが多い。ウト、ウトウに同じ。
③鹿などの獣が常に通う道([方言]東京都西多摩郡小河内ほか)。
④オツの転か。
⑤ウツ(打)、またはウツ(棄)で、崖などの「崩壊地形」をいうか。
⑥山と畑との境の入口([方言]伊豆大島)。

両うとう坂共三方原台地に掛かるたかだか20メートル程の高低差を上り下りする坂道にあれば 狭くとも長いと言う感覚は実際に歩いてみてありませんがうとうの解説に共通する属性として 崩壊地形 である旨述べられています。 浜松の両うとう坂を鑑みれば確かに両側の台地の崖が崩れたであろう狭隘地を抜けています。 実際に比高が10数メートル程でも台地周縁を歩いて見れば何処にても一旦上がろうと試みればかなり難儀な心持ちになるでしょう。 其処に両側の崖が崩れればこそ人々の上り下りするに適した坂道が出来しようとも言うものです。

一応偏狭の誹りを免れる為にも他に角川書店の 地名の語源 と校倉書房の 地名語源辞典 からも関連部分を引用しておきます。 先ず下は地名の語源の86頁からの引用になります。

ウツ
⑴*ウト、せまい谷、崖。
⑵内(ウチ)。分布は全国に及ぶ。
〔宇津・宇都山・内(ウツ)江・内海(ウツミ)〕

ウツロ
崖、洞(*ウト)。
〔宇津呂・宇津呂谷・ウツロ尾〕

ウト・ウトー
⑴低くて小さい谷。袋状の谷、せまい峠道。
〔有道・有戸・宇登・宇頭・有堂・宇土・宇戸・宇藤・宇筒舞・宇都・有東木・凹道(ウドー)坂・内扇(ウトゲ)・内尾(ウト)串・鵜頭・鵜峠(ウドー)・善知鳥(ウトー)・謡(ウトー)・唄(ウトー)・海峡(ウト)・大通越(ウトシ)・右渡(ウド)・打当内・唄(ウト)貝・蘭木(ウドギ)〕
⑵連峰、鈍頂の山や丘。
〔善知鳥・善知鳥山・烏兎山・宇道(〜ド)・諷坂(ウトーザカ)・宇度木・宇藤木・釜ヶ宇都・大都(ウト)・猜(アベ)ヶ宇都・宇都川内(ウトンコチ)・大戸越(ウドンコシ)・有渡〕
⑶崖。
〔宇土・宇都・宇頭(ウトーゲ)ノ滝・宇戸崎・宇都良・木屋宇都・大戸(ウト)ノ瀬戸・ウドノセ鼻・ウドウチ・鵜渡根島・鵜図島・鵜渡瀬・椌(ウト)木〕
⑷洞穴。
〔鵜戸・鵜戸崎〕

ウド・ウドー
洞、河谷。全国に分布。
〔宇道(ウド)・凹道・有渡(ウド)・宇藤・藪野(ウドノ)・鵜渡根島・鵜殿窟〕

次は下に校倉書房の 地名語源辞典 の64頁、65頁から引用します。 勿論互いに影響を及ぼす部分もあるでしょうが、 幾つかの辞典書籍を繰ってみて大凡偏狭な 崖岨がけそわの地形をなすものと考えて宜しいように思います。 語源を見れば各地でうとうが謡に変化した様子も伺えるようではあります。 歌うに変化する類例も多く見られますが其れだけの材料で予断を許せば 坂の途中で必ず鵜が左右の崖から崖へ渡るのだと言う今此処で捏造した説話も受け入れる必要があることになってしまうでしょう。

うつ、うと【宇津、宇戸】
これらは「渓谷」の意、河谷や谷壁にある地名。分布は中央部がウツ、周辺部がウト。九州はウトが多く、ことに鹿児島に密集(40ほど)、東北は15。ウツは少なく、全国で40ほど散在(日本地名学地図編 fig.300)。方言としてはウツはケモノの通路(静岡)。これをウチ(和歌山、鹿児島)、ウジ(熊本、宮崎、奈良)という地方もある。戸上駒之助氏、三島敦雄氏等は、ウツ、ウト、ウチ、ウヂ、ウサ、ウス、オチなどの地名は、バビロニアの日神、ウト、ウツ(Ut)を祭ったところの地名だという。

うど【宇土、鵜戸、有度、有度、宇戸】
波打ぎわ(静岡県榛原郡)、洞穴(東北地方、兵庫県家島、四国、大分)、落し穴(山形)、穴(高知、大分県西国東郡)、狭くて深い谷(静岡県庵原郡、対馬)、山奥(長野)などを意味する方言。ウドという地名は宮崎、鹿児島、熊本、大分など九州に多く、静岡にもある。宮崎の鵜戸神社などは岩壁の洞穴のような位置にあり、洞穴の意味に一致している。このウドはウロ(洞穴)と音韻関係がある。静岡県清水市の有度は和名抄に見える郡名で、宇止と読んである。ウトウという地名が各地にあるが、ウト、ウトウは関係の語か。三島敦雄氏はここの有度は日神ウト(元バビロニアの日神)を祭ったからの地名だという。同氏および戸上駒之助氏等は日神ウト(Ut)を祭った地名は、宇土、ウツ、ウチ、ウヂ、ウサ、ウス、オチなどとなっているという。

うとう【善知鳥、有東、宇頭、宇筒、宇東、宇藤、烏刀】
奥羽方言で海浜が岬のように突き出ているところをウトウ(烏頭)というが善知鳥(ウトウ)は夏季繁殖期に上くちばしの根元に上に向かって突起を生じるからウトウというらしい。猟師がウトウとよぶと、巣穴の中からひなどりがヤスカタと鳴いてとび出すので、すかさずそれをとらえると伝えられるが、実際はクルルルと鳴くという。善知鳥と書いてウトウと読むわけはわからない。善知鳥と書いてウトウと読む地名は各地にある。たとえば−青森県青森市に善知鳥町、善知鳥池、善知鳥神社、その東北方に善知鳥坂、善知鳥崎。秋田県大曲市の東方、県界に近い山村部落。栃木県塩原の西北に善知鳥沢、尾頭峠。長野県塩尻市の南に善知鳥山、善知鳥峠など。宇はちがうがウトウと読む地名が各地にある。たとえば、有東坂(静岡県安倍郡)、宇道坂(青森県上北郡)、宇頭茶屋(愛知県碧海郡)、宇筒原(千葉県夷隅郡)、宇藤原(千葉県君津郡)、宇頭(愛知県碧海郡、岡山県小田郡)、有藤木(岡山県児島郡)など。謡坂、善知鳥坂は近畿以東によくある地名で、峡間の通路をいい、まれには小さい切通しをもいう。そこを通る時に歌をうたうことを忌む例が多い。埼玉県川越市仙波字岸の北端に善知鳥坂がある。准后道興の廻国雑話に「河越より勝呂へ到る間、うたふ坂と云へる処にて、うたふ坂越えて苦しき行末をやすかたに鳴く鳥のねもがな」とあるのはここであろう。静岡県浜松市北部のもと積志村の姫街道が、有玉、欠下から三方原へ上る坂を宇藤坂という。遠江風土記伝には宇多布坂とあり、もとは有頭坂と書いた。家康が馬上で歌を歌って通ったからウトウ坂というとの伝説は、後から作ったものであろう(中山太郎民俗学辞典)。

地名語源辞典にはうた、うだ、も項目立てられますが引用が長くなりますし 強い関連は伺えませんでしたので端折りますが頁としては63頁に記載されます。 うとうの項目では折良くも正しく浜松有玉の宇藤坂に触れています。 坂途中にて歌うのを忌んだり、家康の伝説は迂闊でしたが 実は此処に有玉の宇藤坂も歌うに引っ張られていた過去を持つのが判明しました。 崖の岨、崩壊地形、狭隘地などの地形から生まれた地名の うとうは全国的に歌うに引き摺られる傾向にあり 其れは浜松の二つのうとう坂も例外ではありませんでした。

なお柳田國男は地名の研究で大いにアイヌ語に頼る部分もありましたので 此処でもアイヌ語でうとうが如何なる意味を持つか二つの書籍から抜き出してみます。 先ず三省堂より刊行される 萱野茂のアイヌ語辞典 では112頁に ウト゜ル/ウト゜ル(フ)、utur/uturu(hu) が項目立てられ次に草風館から刊行される アイヌ語千歳方言辞典 では64頁に ウトゥル/ートーケ、utur/-(u)-ke が項目立てられ共に何某か の間 を意味しており強ちうとうと無関係でもないようですが 関係有りと主張すれば牽強付会の恐れも有りや無しや其れ程強い連関が伺えるでもないようです。

向坂鋼二先生直筆の蜆塚うとう坂地図(2017年3月18日)

恐らくは蜆塚のうとう坂に於いては国頭の頃には うとううたう の転訛したものと捉えられた認識が一般化していたでしょう。 国頭は聞き語りをしただけにて其れを命名の由来の真実だとは主張してもいず 地元の説話の面白さを地名に引っ掛けて拾い上げ残そうとしただけでしょう。 本人に悪気はなくともしかし後世に高名が弥増すに連れ 確たる根拠のない話柄も何時の間にか真実としてまことしやかに語られ 遂には土地本来の地形から齎された地名が失われるならば 説話は説話として残しながらも気を付けて臨みたく思うものです。 但し様々のものの消失し行く中に今も蜆塚の当該坂道名がうとうと言う発音の命脈を保っているのは 国頭の記した曳馬拾遺の為せる技でしょう、 本記事も曳馬拾遺あってこそものしたものです。

なお蜆塚うとう坂を現地調査のため訪問するに当たっては向坂鋼二先生は教示に当り 直接地図をお描き下さり勿体無くもあり好事家のためにも此処に掲載いたしますが 其れのみにてうとう坂に関する見解は全く伺っておらず 従って本記事は先生のご見解、ご意向とは全く無関係のものであるのをお断りしておきます。

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