歴史学泰斗による古代史まとめ『日本国家の起源』書評

木簡が木簡として此の世に現出せしめられたのは1961(昭和36)年1月24日の午後2時頃[K1]、 此の世紀の発見は歴史学会に大きな衝撃を齎し 二旬経ずして1979(昭和54)年には木簡学会が組成され新学問たる木簡学の創始となりました。 今や初期に発見された木簡群は国宝の指定の諮問を受けるほどです。 木簡は書かれた時代的にも多岐に渡りますが 特に他に一次史料の乏しい古代史に与える価値は絶大です。

さてでは木簡発見以前の古代史の研究は如何様に進んでいたかを把握するに 絶好の一冊があります。 1917(大正6年)生まれにして昭和を生き、1983(昭和58年)に泉下の客となった昭和の歴史学の泰斗 井上光貞いのうえみつさだ の手になる著作にて岩波新書青版D-90として上梓された 日本国家の起源 (以下、本書)です。 本書の奥付には1960年4月18日第1刷発行とされており 昭和35年に出版された一冊です。

六所神社境内から入野古墳を望む(2016年8月6日撮影)
六所神社境内から入野古墳を望む(2016年8月6日撮影)

以下に本書の目次を記します。

浜松博物館に常設展示される複製木簡、左から浜津木簡、具注歴木簡、過所木簡(2017年4月28日撮影)
浜松博物館に常設展示される複製木簡、左から浜津木簡、具注歴木簡、過所木簡(2017年4月28日撮影)
  • まえがき
  • はじめに
  • 前篇 国土統一の過程
    1. 中国史書からみた日本
      1. 北九州の国々
      2. 卑弥呼の出現
      3. 邪馬台国はどこか
    2. 記紀の伝承は信じられるか
      1. 神武東征は史実か
      2. 神功皇后の新羅征伐
      3. 皇室系図は信頼できるか
  • 後篇 二つの国家起源論
    1. 日本に英雄時代があったか
      1. 英雄時代とは何か
      2. 邪馬台国は専制国家か
      3. ヤマトタケルとオキナガタラシ姫
    2. 国土統一者は征服王朝か
      1. 騎馬民族の襲来
      2. 騎馬民族説は成り立つか
      3. 応神朝という時代

上記から本書が前後篇に大きく二つに分けられているのが見えます。 前篇では西暦起源前後から4、5世紀に渡り史実を主眼に記述されています。 後篇では推測の要素をあまりにも多く含み過ぎているとしながらも、 日本国家の起源の問題を他諸民族との比較、関連の検討により把握しようと試みるものです。

前篇 国土統一の過程

前篇は史実を主眼に据えるに当たり中国史書が主に利用されるに 記紀の脇に追い遣られるのを訝る向きに向け 同時代史料を尊ぶ と言う 史学の鉄則 が主張されています。 狭義には三、四世紀の本邦を鑑みるに八世紀に成立した記紀よりは同時代に成立した中国史書を尊ぶ此処に於ける姿勢であるのですが 広義に歴史に向かう重要な姿勢と受け取れもするでしょう。

前篇に取り上げられる題材は以下の二つとして良いものです。 前者に於いても後者に於いても中国史書が縦横無尽に活用される学界の様子が活写されています。

弥生時代後期(1、2世紀の)三遠式前原銅鐸(2016年6月12日撮影)
弥生時代後期(1、2世紀の)三遠式前原銅鐸(浜松市立博物館所蔵2016年6月12日撮影)
  • 邪馬台国論争
  • 大和朝廷皇統譜

前者の 邪馬台国論争 ではお馴染みの 畿内大和説 及び 九州説 が両者合間見えてしのぎを削り本書発刊当時未だ決着の見えない状況が記されます。 本書を一瞥するに伝説的な学者の説が一蹴される場面もあって痛快に感じる思い違いも有りはしましたが 互いの主張が往来する中の一場面のみ切り取った為の本記事執筆者の不勉強に因る錯誤に過ぎず、 論争に於いては言ってみれば弁証法によって互いが論説の質を高め合っている当然ながら質の高い議論が展開されているのでした。 畿内側が命題を呈すれば九州側はアンチテーゼを呈し両命題は互いの矛盾を包含しつつ統合 止揚aufheben され其の度毎に精密さを増していき、 また逆に九州側がテーゼを呈し畿内側が反対命題を呈して更に議論がアウフヘーベンされ 両者伍して論を高め合う様は頼もしくもあります。 しかし井上も記しているように基本的な構想は明治、大正に出尽くしているのでしょうか、 また1960年本書出版に至る迄に戦後の考古学的ブームも手伝って互いの実証も微に入り細を尽くしたのでしょうか、 本書刊行当時から其の後約半世紀、今年2017年となっても状況の変わらず大枠変化があるようには見受けられません。 以て本書を現代でもなお通用する古代史まとめとして評す処です。

前篇、後者では従とする記紀の史実性を漢書、後漢書、魏志倭人伝、百済記などの中国、朝鮮の同時代的史料、 及び銅鐸や銅鏡、鉄剣などの存在と其の金石文から批判します。 主に対象となるのは目次にあるように、神武東征であり、 神功皇后じんぐうこうごう新羅しらぎ征伐、皇室系図です。 八世紀に成立した記紀を現存こそしませんが六世紀に成立したのが明らかな 帝紀旧辞 に分解し検討を加えて行きます。 単純に記紀成立以前の内容は史実として信ずるにたらぬものとは扱わぬ姿勢が其処にはあります。

神武東征については井上自身の考えは前篇に明言せず保留します。 読者の叱責を招きかねない此の保留も多くの学者が議論を重ねているにも関わらず史実としては分明ならぬ状況を嘆きます。 しかし 讖緯しんい 説から定められた皇紀元年を遥かに下る六世紀に神武伝承の骨子が形成されたとする 津田左右吉つだそうきち の説を尊重しながらも当然六世紀以前の状況と捉えられる北九州文化の東遷は肯定する様子が窺えます。 実は後篇に井上は九州説の支持を明言しているのを此処に記し置きましょう。 井上は九州説を支持しつつ東征に相当する何某かの動きは有り得べきとしながらも 神武東征は説話であって主体が神武であるとは考えていないのは本記事にも後段記す処です。

神功皇后の新羅征伐については記紀に日本書紀を特に取り上げ 其の内容を古事記に相通ずる前半部と朝鮮の記録、 百済記 を用いたらしい後半部に分けられるとし、 神功皇后を主体と捉えるには疑義を差し挟みながらも其処に四世紀の史実が発見出来ると結論付けています。

皇室系図については先ず中国の記録を鑑みて帝紀の信憑性を検討します。 かなり改作が加えられた様子が窺えながらも 倭の五王 に関しては遣使年表を呈示するなどして史実性と天皇諡号とを結びつけるのに成功しています。 そして遂に倭の五王に先立つ第15代 応神おうじん 天皇の実在性を疑い得ず、皇統図は応神迄はほぼ信用し得るとの津田以来の定説に同調する結論に達します。 此の際、皇室では応神天皇、氏族では 葛城襲津彦かずらぎそつひこ が不可知の世界から忽然あらわれいずる感を 井上自身に抱かせしめるとする描写は達意の文章として出色かに思います。 応神こそ新羅征伐の主体でありながら 胎中たいちゅう天皇として母親神功皇后に手柄を譲らしめたのは誰あろう邪馬台国の卑弥呼であり 日本書紀編纂時の宮廷内に深く刻み込まれていた其の名に於いて 神功皇后と同一人物たらしめる空気が充分以上に醸成されていたものとします。 皇室系図に関して冒頭 金田一京助 の言う 一番早く忘却されるのは人名である なる一言を記し重く見ているのは後に此の主張を述べる必要からかも知れません。 応神初めて実在してこそ其の人及び続く、 仁徳にんとく履中りちゅうの 三代の巨大な陵墓が国家統一のモニュメントたりて現出したのでした。 現代に史実性を確たるものとするためには古代に国家統一を成し遂げた時代の大いなる威勢を以てのみ悠久の時の壁を破り得るのでしょう。

後篇 二つの国家起源論

斯くて史実性を主眼たる前篇について井上は記したのでした。 続く後篇については史実の検証だけでは語り得ない国家の形成を促すものは一体何か、と言う設問に対して 深く社会の内部構造に立ち入り且つ世界史的に視野を拡大すべく仮説の域を出ないのを已む無しとしますが 当時提唱された所論を何某かを得るべく問題点等を考慮しながら考察を重ねます。 後篇は其の分前篇に比べて普遍性が薄れ幾分1950年代と言う時代性が感じられるようにも思います。 取り上げられるのは以下の二つの所論となっています。

  • 英雄時代論
  • 征服国家論

結論を先に書いてしまえば井上の本書に通底する主張としては応神天皇を皇統の開祖としており、 後篇は応神天皇を中心に前者を以前、後者を以降と捉えると把握し易くなるでしょう。 此の際一つ歴史資料の時系列検討に於いて一般に、 雑多なものより統一的なもの、生活的なものより政治的なもの、具体的なものより抽象的なものの方が後世的である との井上の判断基準が記されており 吾人の態度にも大いに参考に供されるべきではなかろうかと考えます。

前者の英雄時代論とは1930年代 高木市之助日本文学に於ける叙事詩時代 の発表から漸次本邦に盛り上がりを見せたもので 古代貴族の英雄時代 を1948(昭和23)年書いた 石母田正いしもだただし の言を借り、原始社会から国家、階級社会へと発展する過渡の段階である、とします。 原始社会は 氏族共同体 の時代であったけれども社会の基礎構造を成していた氏族は階級社会への変質に伴い徐々に変質したものの族長は階級的支配者ではなく代表でした。 此の時の変質した其れは本書に 氏族集団 と呼ばれています。 更に階級社会が進展して国家が形成されると族長は血縁的無関係な隷属民をも政治的に支配し此処に所謂 氏族 が誕生したとします。 此の政治的氏族以前の氏族集団の族長こそ英雄たりて物語の中心人物として活躍する時代を英雄時代と呼ぶのでした。 従って本書に国家形成の開始者たる応神天皇以前を英雄時代とする所以です。 井上は英雄時代論について個々の点に問題はありながらも構想としてはおそらく正しい、としており 此の立場からの発言と見れば国家起源に関する英雄時代論の井上の主張する処の意図も汲み取り易くなるでしょう。

此の英雄には目次にある処の ヤマトタケルオキナガタラシ姫 、即ち神功皇后が挙げられているのです。 此処に英雄物語としての神武東征の扱いがないのは其れが英雄時代の記憶ではなく 六世紀以降に成立した階級社会の自らを肯定するための作り出された英雄であるからです。 井上は神武を以て 理念の化石の如き作り出された英雄 と評しています。 此処で井上は英雄の紡ぎ出す物語の判断基準に叙事詩的な、所謂生々しさを重視しています。 決して理路整然とした因果説に基づいてはおらず筋立てのある小説が如きものではないのです。 叙事詩的英雄物語に於いては事件の信仰を支配するのは明日をも知れない運命であって 時々刻々に周囲の状況が主人公の運命を指示し行動規定していくもの、と記しています。 無論ヤマトタケルもオキナガタラシ姫も其の実在は疑われる処で 前記した英雄時代の氏族族長の活躍をまとめて架空の個人に仮託した説話上のものとされます。 ヤマトタケルについては多くの族長達の活躍が英雄ヤマトタケルに集約されたものですが 神功皇后については特に応神天皇の成し得た事跡の写像となっている部分が多いものとなっています。

英雄時代の項では終始邪馬台国が、即ち応神以前の体制が、 専制国家ではなく緩やかな連合体であったと言う井上の主張に貫かれているのも考慮しておくと本書の理解が進むでしょう。 目次にこそ邪馬台国は専制国家か否かなる項目が立てられていますが 井上はむすびの項目で其れは無理であると結論づけています。 此処にも中国等他国の史書を引いて緩やかな連合体を率いているのが盟主権の弱い邪馬台国であったのを論証しています。 緩やかな連合体から逸早く王権と隷属民の世襲的階級社会を構築し得た大和朝廷が諸国から抜きん出て 地方国家の王の系譜を引く 国造くにのみやっこ を次第に支配下に納めて行った時代が英雄時代でした。 邪馬台国から大和朝廷に分離的なのか、連続的なのかは図り兼ねるも兎も角、 孰れにせよ此の接続の時代こそ英雄時代に相応しい状態と言い得るものです。 其の主役たる英雄がヤマトタケルとオキナガタラシ姫であって旧辞から古事記に引かれる物語に生き生きと活写されていたのでした。 斯くてヤマトタケルの孫でありオキナガタラシ姫の子である応神朝を出来せしめたのです。 因みに現今生前退位問題なども加え喧しい皇統の男系相続問題ですが応神朝出来に其の萌芽があると考えます。 井上が応神、継体時に男系が断絶しつつ律令国家の形成時に其の事実が糊塗されていると記す処で 本記事執筆者懐中に私案が有りますが其れは孰れ稿を改めたいと思います。

都田郷ヶ平3号墳出土人物埴輪と馬形埴輪(浜松市立博物館所蔵2017年4月28日撮影古墳時代中期五世紀中葉の出土物)
都田郷ヶ平3号墳出土人物埴輪と馬形埴輪
千人塚古墳出土鉄製革綴冑(浜松市立博物館所蔵2017年4月28日撮影古墳時代中期五世紀中葉の出土物)
千人塚古墳出土鉄製革綴冑
共に古墳時代中期五世紀中葉の出土物(浜松市立博物館所蔵2017年4月28日撮影)

英雄時代論については些か文学的に傾くためか文壇を超えての般世間的な広がりはなかったようですが、 征服国家論、就中なかんずく此処に取り上げられる1948(昭和23)年に発表された 江上波夫騎馬民族説 は世間一般にかなりセンセーショナルで英雄時代に比較してメディアを通して広く受け入れられたようです。 評して井上は大枠で魅力的だがあらも多い、としています。 正面切りはしませんが総じて軽い論調にしろ騎馬民族説に反対している様子が明白に感じ取れます。 しかし本書を通じて重要であるのは特定の説が真実か否かにあるのではなく 検討に値すべき説を取り上げるによって史実に迫ろうと言う姿勢にあるのは改めて此処に強調したくあります。 頑なに史実を追うだけでは考察の行き届かない国家起源に 多少の問題点は内包しよう一見突飛に思える説も俎上に乗せようとする後篇に一貫した井上の姿勢が見られるものです。

好意的とは言えない騎馬民族説に対する学会の反響を鑑みるにでは何処に問題点を包含するのか 井上は沈黙した日本史家は措いて概ね批判的な東洋史家、考古学者、言語学者達の意見を列挙した上で ミマキイリヒコ、即ち崇神すじん天皇、騎馬の風習などの点から自身の反駁を述べます。 そして応神、継体にに於ける 王朝交替説 に繋げていますが其の論説の展開は正しく止揚aufhebenとして宜しいでしょう。

先に最も早い時期の実在性が信用にたる葛城氏と並んで倭の五王の時代に外戚として勢力を張った日向氏がため 皇室は遥か日向の地を発祥地と考えるようになったのではないかとの仮説も此処では提唱されます。 応神の実在と九州説を採る井上はまた此処で 応神を九州に起こった征服者とし、 南九州の狗奴国くなこくと結びつける見解にも成立の可能性があるとします。 翻って古墳文化の前後期のギャップについて、鉄と王権の確立について、灌漑事業の発達についてなどの諸問題の論考を進めるに当たり、 四世紀後半に前後に比類のない大規模な朝鮮経営があった考古学的事実が大きな要因として挙げられています。 多数の帰化人の日本土着は古墳文化は前後期に隔絶を生ぜしめるでしょうし、 後期古墳時代には任那を放棄した結果鉄鋌てってい、鉄器も減少、其の後鉄産地の内製が開始され、 鉄資源の独占は成し遂げた勢力に国家統一の原動力を与えもしたでしょう、 そして朝鮮経営から得られた大規模灌漑技術は大和朝廷の権力を他に抜きん出るものとしたろう、 と日本国家起源の様子が彷彿と語られます。 井上は最終的に応神朝をエポックメイキングな時代と捉え其のモニュメントとして三大天皇陵を位置付けています。

もう一つの主張

さて此処迄本書に於いて本編を見て来ましたが本書には今一つ重要な主張が書かれていると考えるのは まえがき に於いてです。 日本国家の起源を天皇制を神聖視して記された記紀は明治の政治家に都合良く利用され、 江戸期に始まり、明治、大正から昭和の初期に掛け数多の学者が明らかにして来た真実は隠蔽され 遂には記紀の厳正な文献批判の礎石をつくった津田左右吉の純学問的著書さえ 出版法違反の憂き目を見たと言い恰も焚書坑儒の如き感を覚えます。 太平洋戦争後は其の反動から考古学偏重に傾き、 即ち学生の知識は大国主命や日本武尊から弥生式土器や古墳文化の偏重していると言います。 しかし記紀を聖典化する社会と考古学ブームに踊る社会の中庸にこそ其の華やかならぬ研究の速度も遅々たれども 日本国家の起源を探る唯一の方法があると著者は言います。 大凡国家の起源は孰れにも曖昧模糊なるも本邦に於いては如何なる状況にあるか、 出来得る限り包括的、体系的に紹介するのが本書の述作の狙いであるとします。 本書を古代史まとめと標題する所以です。

伊場遺跡三重環濠跡北辺(2016年5月15日撮影)
伊場遺跡三重環濠跡北辺(2016年5月15日撮影)

付記

ところで井上光貞は明治の元勲 井上馨 及び 桂太郎 の孫に当たるそうで 六次の隔たり 宜しく僅かな人数を経て遠く知っていた歴史に描かれる当事者に当たるのは歴史を通した歴史なる 歴史学と言う小世界の奇妙で心弾む不思議な縁を思わせられもするのですが、 其れ以上に両長州傑物の血を直接引く自身の専門分野に於いて誠実たらん為に 両祖父を含むでしょう明治の政治家を悪し様に言うのは歴史の織りなす綾の上に現出した風変わりな文様にも感じられ趣深くあります。

本記事執筆者は伊場遺跡発掘の責任者であった 向坂鋼二[K2] 先生に教えを受けています。 伊場木簡の指導を受ける際には屡々井上光貞の名が先生の口から漏れるものです。 名前と共に語られるのは向坂先生が調査主任として携わった伊場遺跡の発掘で出土した木簡群について井上光貞が当地に視察に訪れた際の言葉です。 其れは 木簡一点は正倉院文書一通に匹敵する というものです。 向坂先生の心には此の言葉が深く心に刻まれ残っているのでしょう、 伊場木簡のお話をされる際には折に触れ聴講者に伝えられます。 本書の上梓されたのは1960年、木簡が木簡として初めて発掘されたのは其の翌1961年、 発掘前には思ってもいなかった伊場から木簡が出土したのは1975年でした。 歴史学会の泰斗の言葉が現地発掘者たる向坂鋼二先生にどれほどの力を与えたか窺いしれる処です。 また同時に此の言葉を発せられた井上光貞自身に取っては 議論百出しなお閉塞感の漂っていたとも思える古代史に光明を投げかけた木簡がどれほどの希望を与えたか察するに余りあるエピソードに思います。

かたむき通信参照記事(K)
  1. 故きを温ねる新しい学問〜書評〜木簡から古代がみえる(2017年2月15日)
  2. 遺跡に於ける大溝命名について(2017年5月20日)
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