高柳光壽に依る明智光秀研究基本書〜書評〜明智光秀

浜松は元魚町もとうおちょうに生を享け歴史学者として多くの業績を残した 高柳光壽みつとし (以下、高柳)が在りました。 生年は明治25(1892)年、 東大史料編纂所に資料編纂官の職を得て 昭和23(1948)年には自ら初代会長となり日本歴史学会を創設しており、 浜松の産んだ日本歴史学泰斗と申して差し支えないでしょう。 没年は昭和44(1969)年、享年77でした。

高柳の業績中にも戦国史は出色で多くの執筆論文、書籍が遺されています。 其れ等の中にも今回吉川弘文館から上梓された 明智光秀 (以下、本書)拝読の機会を得ましたので高柳の文献批判を主眼、切り口に書評をものしたく思います。

高柳光壽を育んだ元魚町

高柳の生まれた元魚町は城下の南の方、大手門前から南へ折れた東海道を東へ少し入った辺りに位置します。 文彬と号す曾田忠の著書[※1] には元魚町は古くから浜松城下の魚町であったところ享保年中以後魚商が 肴町さかなまちへ一軒残らず移ったので元魚町となったものと紹介されています。 また肴町の項では寛永年間から漸次開け元禄、享保にかけて元の魚町から魚商が移り寛延から宝暦にかけては戸数百を超え 旧幕時代は浜松城下中に此の町以外に魚商はなかったものとも紹介されています。 此の書は少しく断定的で出典も記される頻度が少なく大きく飛ぶ時代を同列に扱ったり地名としての浜松の由来にも誤謬が含まれるなど鵜呑みにするには些か問題のある面も窺われますし、 各町の紹介に取られる紙幅も少ない嫌いはありますが、 曾田は明治33年に浜松市新町で生まれており高柳とほぼ同時代に同空間を生きておれば 維新から未だ数十年、口承も活きる当時の大凡の常識として得る所も少なくないでしょう。

本稱寺境内の御坊と刻まれた浄水鉢(2017年9月17日撮影)
度重なる火災の中にも残された本稱寺境内の浄水鉢、御坊と刻まれるのは万治元(1659)年 本願寺十三世良如上人から濱松御坊に指定されたのを表している[※3](2017年9月17日撮影)

元魚町に魚商の失われてからはではどのような街だったのでしょうか。 元魚町には浜松に唯一の本願寺派の古刹本稱寺ほんしょうじがあり山門から南へ向かって 花の栽培をする人々が多く花屋敷と呼ばれた一帯辺り迄を幕末に描かれた浜松御城下細見絵図に ホンショウ寺長屋と記されており足軽長屋が占めていたのだそうです。[※2] 即ち幕末には下級武士が多く居住していたことになります。 また和銅年間(708〜715)創建であれば当時に浜松と言う地名はありませんから古名浜松神社と呼ばれたのは遡っても室町ではあろうけれども 当地切っての古社に天正5(1577)年に浜松城内守護神の松尾社を合祀した茅の輪くぐりが知られる現在の松尾神社があります。[※3] 此の社の南を東西に通る松尾小路の西に突き当たる処を元魚町四ツ角と呼びましたが 四ツ角と呼ばれるだけあって実は此処から真西に建つ本稱寺へ向かうにコの字に迂回するのを嫌った町民が空き地を地主に無断で通り いつの間にやら公道のようになってしまったそうで、 中々自由闊達な地元民の生活が伺われます。 更に昭和に入ると此の自然公道には浜松で初めての民間市場が立ち大層な賑わいを見せ人々に 松葉市場まつばいちばと呼ばれたのだそうです。[※2] 高柳は其の様な町民の活気溢れる空気の中に幼少期、青年期を過ごしたのでした。

現在の花屋敷辺りには愛称標識が立てられ、道は手前西から奥東になだらかに坂になって下っている(2017年9月17日撮影)
現在の花屋敷辺りには愛称標識が立てられ、手前西から奥東になだらかに坂が下っている(2017年9月17日撮影)

戦前に生まれてからずっと元魚町にお暮らしと言う女性に取材の道行き尋ねてみましたところ直ぐ南の三方原台地の南端に位置する 稲葉山いなんばやまは眺望も南に開け樹々は鬱蒼とし木ノ実も豊かで 子供達には格好の遊び場だったそうで 幼い頃に明治後期の稲葉山で団栗拾いや鬼ごっこで駆け回った高柳が彷彿されます。

現在の静岡県立浜松北高等学校正門(2017年5月3日撮影)
現在の静岡県立浜松北高等学校正門(2017年5月3日撮影)

高柳は明治42(1909)年に静岡県立浜松中学校、現在の静岡県立浜松北高校[K1] を卒業してから以降は東京に学びの場を移し、奉職先もご自宅も亡くなったのも葬られた寺院も東京ですので ほぼ東京に全面的に生活拠点を移されたのでしたが 多感な少年時期を浜松に過しておれば浜松と言う地方が高柳に与えた影響も少なくはないないでしょう。 ただ上記した戦前生まれの地元女性に話を聞けば 高柳と言う姓のお宅はご存知ではありませんでしたので 若しかしたら在所も今はなく縁が切れている可能性もあり 縁者にご迷惑でなければ知りたい処でもあります。

因みに高柳光壽史学論文集()()の肝煎りとなり序文も寄せている 竹内理三氏は明治40(1907)年に愛知県に生まれていますので高柳より15歳年少ですが 東京帝国大学史料編纂所に奉職しており高柳の薫陶を受けたのは間違いなく 自身の研究テーマがありとも言え伊場木簡に大いに興味を寄せた[K2] のも其の様な関係が生み出した所産だと考えられます。

菅原町から北へ東伊場一丁目をグランドホテル浜松を左に見ながら登るとステーキレストランいなんばの敷地内にオルガン坂と書かれた愛称標識が立つ(2017年9月17日撮影)
菅原町から北の鴨江方面へ東伊場一丁目をグランドホテル浜松を左に見ながら登ると ステーキレストランいなんばの敷地内にオルガン坂と書かれた愛称標識が立つ(2017年9月17日撮影)

高柳の手法は史料を互いに突き合わせ照合し整合、不整合を論理的に導き出すという 科学的な文献の比較考証を重んじたもので其れは現代の常識人を納得させ得るものでした。 高柳の此の手法は維新後、山葉寅楠(嘉永4、1851年生)、豊田佐吉(慶応3、1867年生)、 河合小市(明治19、1886年生)、鈴木道雄(明治20、1887年生)、本田宗一郎(明治39、1906年生)、など 多くの産業人を育んだ浜松に特有の職人気質を尊重する土地柄が影響しているようにも思えます。 元魚町こそ塩町と同様商人町ですが浜松城下町の其の周辺には職人町の紺屋町、利町、大工町、鍛冶町、などありましたので 其れら職人気質を受け継ぐ地域の影響も少なくなかったでしょう。 其れこそ稲葉山の中腹、現在の呉竹荘の裏手の菅原町のマンション辺りに 山葉寅楠は現在のヤマハ株式会社の前身である合資会社山葉風琴製造所を明治20(1887)年、 即ち高柳の生まれる5年前に創業しており、 日本のオルガン製造の嚆矢となり稲葉山南麓をオルガン山と呼ぶ由来ともなっていました。[※3] 明治21(1888)同社は移転しますが元魚町周辺に遺風は残っていたでしょうし、 菅原町から見れば元魚町を越えた向こうとなる移転先の板屋町とてさして元魚町から遠くはなく 高柳の生活圏から直ぐそばですから若しかしたら オルガンの製造工程に職工の手元を興味深く眺める少年があったかも知れず、と考えると楽しいものです。 因みに同社は明治24(1981)年には山葉楽器製造所として引き継がれ、 明治30(1897)年には河合小市が11歳で職工として入社しており、 同年10月には日本楽器製造株式会社に改組し、 長く板屋町に操業したのでした。

閑話休題、ともあれ昭和33(1958)年、一般向けに本書が上梓されて以来現在に至るも、 明智光秀を知るに本書の梗概を諳んじれば大凡世間に大きな恥を掻くこともないものと申して宜しいでしょう。

目次

本書の描く明智光秀に関わらず旧来の通説は誤謬も多く含まれ中には妄説にまで落ちた旧説が多くあります。 高柳を以て通説というものが全く様変わりしたからです。 処で高柳以降にも関わらず全くの妄言も世には如何ともし難く多く流布するもので 従って先ずは明智光秀に関するノイズを封じる為にも 基本書たる本書の概要を述べるにくはないものと考えます。 従って以下に本書目次を記した後、次段に光秀の大凡の事跡を記すものです。

  • はしがき
  • 一、光秀の登場
  • 二、京都の政治
  • 三、光秀と義昭
  • 四、坂本城主光秀
  • 五、丹波の経略
  • 六、近畿慣例光秀
  • 七、光秀の叛意
  • 八、光秀の境遇
  • 九、本能寺の変
  • 十、光秀の敗死
  • 十一、光秀の教養と家族
  • 十二、結語
  • 略年譜
  • 明智光秀関係地図

明智光秀事績あらまし

明智光秀の出自ははっきりしません。 生年も分かりませんので享年も分かっていません。 歴史に名の登場するのは漸く織田信長の配下となってからです。 信長に仕える以前は越前に身を寄せたのは其のようであるかも知れない、と言った程度です。 高柳は嘗て光秀は朝倉義景に仕え、のち信長に走ったようではあると述べています。 此の頃の諸国遍歴の上で兵法や鉄砲術を学び得た話などは物語的な伝説と言っても宜しいでしょう。 光秀の良質史料初出は 永禄12(1569)年正月5日、三好三人衆に本圀寺ほんこくじを囲まれて 出馬した織田軍の後巻うしろまきの一員としてで 信長上洛以降の話となっています。 但し高柳は細川藤孝宛の信長の元亀年間のものとされている書状が永禄11(1568)年7月のものであり 光秀の名の良質史料への初出の可能性を示唆してもいます。

光秀が頭角を現し、歴史の表舞台に現れて来るのは信長の支配下にある京都の政治に於いてです。 此の頃には光秀は羽柴(豊臣)秀吉と同様、柴田勝家や丹羽長秀と同格、若しくは準ずる地位を織田家に確立していました。 政軍分離の未だ分明ならぬ織田家に於いても特に政治的能力を以て抜擢されたのでした。 元亀元(1570)年には早くも光秀は京都に屋敷を有し 信長上洛の折には宿所として機能していたと考えられます。

光秀は同時に将軍足利義昭の近習きんじゅう申次もうしつぎのような地位にもありました。 その地位を最も良く物語るものとして永禄13(1570)年正月の信長が光秀に宛て 義昭の証印が捺されている条書じょうがきです。 また元亀4(1573)年の書状に光秀は義昭から 下久世荘しもくぜのしょうを与えられた様子が伺えますが、 此れを高柳は信長の家臣でありながら義昭の給人きゅうにんでもあって まことに微妙と述べています。 此の頃、光秀が幕府衆と多く行動を共にしているのは注目すべきと高柳は述べます。 義昭が追放されると幕府奉行衆は光秀の 麾下きかに収容されることになるからです。 また光秀が義昭の奉公人であったのは確実であるともします。

二君に仕える状態については高柳はしかし近世社会の機構から見れば一般に不可思議に見えるかも知れないが 中世にあっては何ら不思議ではないと言い切ります。 貴族、社寺の被官である荘官が同時に武家の家人であった例はいくらでもあるどころか むしろ其れこそ普通であったと言います。 此の様子が些か異なって来て家臣はただ一人の主人に仕えるようになるのが常識化するのは戦国時代に入ってからです。 光秀以降も秀吉は他家の家臣に所領を与えたりしていますから 光秀の二君に仕える状態は謂わば端境期にあった訳ですが此の特殊が容認される辺りにこそ 光秀の微妙な人間価値を認めないわけには行かない と高柳は評するのです。

元亀年間には信長は全くの苦境にありました。 此の間、光秀は京都の政治だけでなく近畿各地に転戦し軍事にも其の才能を発揮しました。 元亀元(1570)年には朝倉征伐に従軍しています。 金ヶ崎撤退を余儀なくされた信長は数ヶ月後、姉川の合戦で浅井、朝倉連合軍を大いに破って京都に帰陣した際は 其の宿所を手配していることから光秀の従軍はなかったであろうと高柳は見ています。 元亀3(1572)年年末には武田信玄が西上し三方ヶ原で大いに家康を破っています。 信玄の宣伝に乗せられて義昭は反織田を鮮明にしていますし、 毛利の後押しを受けた大坂本願寺にも信長は梃子摺っていました。 光秀の京都での政治的役割は天正3(1575)年の初め頃迄続きましたが 夏頃から村井貞勝の京都所司代の色彩が濃くなるに連れ京都の政治からは漸次離れることとなりました。 京都の政治から離れたのはまた才能の認められた軍事方面の役割が重くなったのかも知れません。

軍事的方面に活躍が移るにつけ光秀は織田家に更に重きをなして行きました。 坂本城を与えられたのは判然しませんが高柳は元亀元(1570)年3月ではなかったかとします。 当初与えられたのは志賀城だと思われますが 信長は元亀2(1571)年に比叡山の焼き討ちをふれると同時に光秀に滋賀郡を与え、 光秀は坂本に在地し元亀3(1572)年には当地に城普請を行った様子が、 同年中には落成した様子をも伝える文書が残ります。 天正元(1573)年には義昭を槇島城に陥れた帰途、 降した近江の木戸、田中の両城も光秀は与えられています。 近江では此の直後、信長は浅井も落としています。 此の作戦に主軸となって漸く長浜城に光秀から一年半遅れて城主となった秀吉に先んじて 此の時光秀は越前の戦後経営に当たっていました。 天正2(1574)年には信長の命で大和は 多聞山城たもんやまじょう に、東美濃は岩村、明智に、摂津中島は一向一揆に、 河内高屋城たかやじょうに、と各地に転戦しています。 そして天正3(1575)年後半からは専ら軍事的方面に活動することとなってのでした。 近畿方面に忙しく立ち回る中にも其の主要舞台は丹波でした。

天正3(1575)年、信長は長篠に武田を破ると丹波経略に乗り出します。 此の方面担当を命じられたのが光秀でした。 11月には丹波国衆は過半光秀に味方する状況ではありましたが 翌天正4(1576)年に一味していた丹波 八上城やかみじょう 々主波多野秀治はたのひではるが叛くと状況は一変します。 事態の悪化を受けても光秀は丹波経略に専念する訳には行きませんでした。 4月には織田軍は大坂石山本願寺を攻め光秀も参陣していますが5月には攻め手大将の原田直政が討ち死にする苦戦にて 光秀は佐久間信盛と共に本願寺勢に天王寺に信長が此れを破るまで囲まれています。 6月には光秀は病に罹り曲直瀬道三まなせどうさんの 療治を受けて7月に平癒したものの 翌天正5(1577)年には2月の紀州征伐、其の後8月の信貴山攻撃にも参陣し 尚10月には丹波籾井もみいを攻めています。 翌天正6(1578)年、再び居城坂本を発した光秀は丹波に攻め入りますが八上城の守りは固く 落とせぬまま摂津への転戦を余儀なくされますが麦苗を薙ぎ捨てると 直ぐに丹波にとんぼ返りして園部城の水の手を切り此れを陥れ また時を置かず播磨に秀吉の救援に向かっています。 更に年末には娘の嫁ぎ先の舅荒木村重が信長に叛き、摂津伊丹城を囲まねばなりませんでした。 天正7(1579)年にも丹波攻めは継続されます。 宇津城うづじょうを攻め黒井城を囲み、 細川藤孝と共に丹後に進んで峯山城を攻め 弓木城ゆみのきじょうをも攻め、 再び丹波福知山に鬼ヶ嶽城を攻め落としています。 この年の10月、光秀は経略開始より5年を閲して漸く信長へ丹波、丹後平定の報告がなったのでした。 丹波平定を終えた光秀の組下くみしたには 細川藤孝、一色義有いっしきよしありが配属されていたのは確実です。

天正8(1580)年には光秀には余裕が生まれたであろうと高柳は言います。 此の頃光秀は秀吉の援軍など命じられますが大坂本願寺も片付き 潮が引くように光秀の身辺が落ち着いたであろうと推測します。 同じく此の頃、信長は佐久間信盛親子、林通勝、安藤守就親子、丹羽右近を追放しています。 信長に余裕が生まれたのは明らかです。 高柳ははしがきに 光秀の伝記は信長の行動を離れては記述できなかった と、そして結語には 信長の行動を記さなければ彼の伝記が書けなかった と、本書の内容を挟み込むように此の旨を繰り返すように述べています。 後に本能寺の変で信長が斃れるとほどなくして光秀も命を落とせば 信長と光秀の人生は正しく表裏一体の存在と捉えられましょう。 丹波平定を以て光秀には様々考えを巡らす心の隙間が生まれた訳ですが 此れ以上は迂闊に浅はかな持論を述べるのは差し控えましょう。 ともあれ光秀には恐らくは佐久間信盛配下のものも附属され 高柳は謂わば近畿管領と呼んでも良い地位に光秀は登ったものとします。

翌天正9(1581)年2月には煌びやかにも 馬揃うまぞろえが催されました。 盛観を極めた此の観兵式の奉行を光秀は勤めたものとされ 高柳は適任であったに相違ない、と述べています。 6月付けでは光秀は明智家中の軍規を定めています。 また信長に命じられ丹後の検地も行なっています。 軍事的方面では秀吉の兵站に協力などしていますが、 丹波平定以降如何にも淡々としている流れが感じられます。

天正10(1582)年、信長は甲斐征伐に発進し光秀も従軍しています。 3月5日に安土を進発しさしたる抵抗もなく武田を滅ぼした信長は21日に帰城しました。 5月15日に家康が加封を謝すため安土に上り此の馳走を在荘、 即ち軍事方面の役割を解かれていた光秀が命じられました。 其の翌々日17日に毛利と対峙している秀吉から援軍要請があり 光秀は出陣を命じられ坂本に帰城しています。 26日には坂本を発し丹波亀山城に入り 27日に愛宕山に詣でて其の夜参籠し2度、3度と籤をさぐりました。 翌28日には同所西ノ坊で連歌師 里村紹巴さとむらじょうは らと百韻を興行して神前に納め同日中に亀山に帰りました。 此処に高柳は第7章光秀の叛意はんい、 第8章光秀の境遇、と多くの紙幅を割いています。

天正10(1582)年6月1日の刻(午後10時)、 光秀は軍を発し、秀吉救援に向かうならば三草みくさ越えすべきを 老ノ坂おいのさかへ向かい峠で馬首を東に巡らし桂川を渡りました。 全軍が渡河し終えると攻撃すべき敵は本能寺に在る旨、触れました。 後の世に言う本能寺の変です。 明智軍は戦闘準備を終えると2日、未だ夜の明け切らぬ内に京都に入り黎明に及んで信長の宿す本能寺を囲みました。 光秀は本能寺への攻撃を終えると直ちに嫡子信忠が宿所妙覚寺から移った二条御所に向かいます。 京都の戦闘を目論見通り終え、様々手配した光秀は其の日の夕刻本拠地坂本城に入りました。 3日には近江、美濃の諸侍誘降に力を尽くし4日に殆ど平定しました。 5日には瀬田城主山岡景隆が焼き落とした瀬田の橋を修理を終え安土城に入り、 8日には明智秀満に此処を守らせ自らは坂本城に帰城しています。 9日に京都に入ると人心の収攬に尽力します。 10日には京都をたって洞ヶ峠ほらがとうげで 筒井順慶の参会を待つとともに河内に兵を出しましたが遂に順慶は現れませんでした。 11日に洞ヶ峠を退き下鳥羽に帰ると一部の兵で淀城を修築し 12日には山崎及び八幡に在る兵をも撤退させました。 中国大返しを敢行した秀吉軍と此の日勝竜寺の西で既に小競り合いが発生しています。 雨の13日、午前中は両軍動かず睨み合うも さるの刻(午後4時)頃戦闘が開始されました。 奮戦大いに努めるも大敗を蒙った光秀は勝竜寺城に逃れました。 其の夜の曇天に乗じ城を脱出すると巧みに包囲網を掻い潜って 淀川の右岸を久我こが縄手から伏見方面に向かい 大亀谷を過ぎて桃山北方の鞍部あんぶを東へ越えて 小栗栖おぐるすに出た処を土民に襲撃され 今は是迄と覚悟を決め後事こうじを託した溝尾庄兵衛尉の介錯を受けたのでした。

史料一覧

以上の概要を導き出すに高柳が用いた本書に記される所の221の史料名を以下に 上から下へ、左列から右列へと登場順に列挙します。

鎌倉高徳院蔵朝倉家記晴豊公記
細川護立氏蔵武徳編年集成岩淵夜話
明智軍記神田孝平氏
所蔵文書
武家事紀
上杉家文書増補筒井家記川角太閤記
中島紀次郎氏
所蔵文書
大日本史料秀吉事記
多聞院日記革島文書梅林寺文書
言継卿記年代記抄節別本川角
太閤記
吉川家文書竹内文平氏
所蔵文書
柏崎物語
原本信長記田代文書続武者物語
足利季世記溝口文書義残後覚
細川家記村井重頼覚書祖父物語
総見記伊能文書落穂雑談
一言集
浅井三代記土屋文書甲陽軍鑑
甫庵信長記護国寺文書豊鏡
重編応仁記慈恵寺文書白石紳書
五十嵐氏
所蔵古案
堅田(村)旧郷士
共有文書
老人雑話
続群書類従本
土岐系図
牧田茂兵衛氏
所蔵文書
元親記
明智一族宮城家
相伝系図書
勝興寺文書蟲簡集残編
鈴木叢書本
明智系図
日本耶蘇会
年報
筒井家記
系図纂要革島家記
(細川家記所収)
寛永諸家
系図伝
林鐘談北野拾葉
(元亀四年筆記)
毛利家日記
校合雑記フロイス書状歴代古案
籾井家日記二条宴乗日記古今消息集
御湯殿上日記東光寺明講
過去帳
深沢文書
宮内省
図書寮文書
元亀二年記一蓮寺文書
公卿補任観音寺文書吉村文書
公卿消息集廬山寺文書高木文書
光源院文書吉田文書松平義行
所蔵文書
立入文書根岸文書佐竹文書
古簡雑纂誓願寺文書石川忠総留書
沢房次氏
所蔵文書
朝倉記北条五代記
太閤記乃美文書千曲之真砂
東寺文書橘文書森家先代実録
阿弥陀寺文書滝谷寺文書上杉年譜
本圀寺文書横尾勇之助氏
所蔵文書
別本歴代古案
益田家什書宝慶寺文書伊佐早文書
細川両家記天正二年
春日祭遂行記
能登国鳳至郡
諸橋次郎兵衛伝書
曇華院文書稲葉家文書中村不能斎
採集文書
曇華院殿
古文書
宇都江文書荒山合戦記
京都上京文書市島謙吉氏
所蔵文書
前田家年譜
元亀二年
御借米之記
関戸氏
所蔵文書
温故足徴
東山御
文庫記録
細川家文書前田家譜
当代記山下文書秘笈叢書
実相院文書竹生島文書寺尾越三郎氏
所蔵文書
妙智院文書島崎与志
雄氏文書
九鬼四郎
兵衛覚書
来迎院文書古文書十河物語
岩清水文書小畠文書北畠物語
賀茂別雷
神社文書
泉氏所蔵文書明良洪範続篇
清涼寺文書因幡民談浅野家文書
織田文書来迎寺文書丹羽家譜
長岡寺文書享禄以来
年代記
京都町家
旧事記
兼見卿記細川家譜竹森家記
中山家記松井家譜永源師檀
紀年録
宣教卿記萩藩閥閲録天正日記
言経卿記家忠日記宗及茶湯日記
顕如上人
御書札案留
竹中家譜源氏物語
成簣堂文書黒田家譜脇本十九郎氏
持参文書
東寺百合文書陰徳太平記常山紀談
毛利家文書立入隆佐記森川勘一郎氏
所蔵文書
継芥記久下文書今井文書
武家雲箋丹波志宮坂伊兵衛氏
所蔵書状
三河物語依田記西教寺文書
松平記譜蝶余録後編輯古帖
岩淵文書赤井家記新撰豊臣実録
尋憲記富永文書諸系図
福地源一郎氏
所蔵文書
寛政重修
諸家譜
史籍雑纂
成就院文書別所長治記武辺咄聞書
知恩院文書播州征伐記丹波天寧寺御領主
暦(歴)代系図記
大徳寺文書南行雑録中島寛一郎氏
所蔵文書
妙心寺文書続古文書類纂武功雑記
離宮八幡宮文書高野春秋三宅家記
(細川家記所収)
保坂潤治氏
所蔵文書
槇尾寺文書
広隆寺文書織田信長譜
伏見宮御記録御霊神社文書
小早川家文書蓮成院記録

定量的分析データ

上記史料一覧に於いて出現頻度を主なものに限ってグラフ化したものが以下になります。 高柳が頼った史料が一目瞭然でしょう。 特に太田牛一の書いた 原本信長記 は群を抜いて多く用いられ、 また光秀と深い関係にあった藤孝の系譜に伝わる 細川家記[細川幽斎書評記事一覧参照]、 及び 吉田兼見かねみ山科言継やましなときつぐの両公卿、 そして奈良興福寺の塔頭たっちゅう多聞院たもんいんの僧侶に書き継がれた日記が多く利用されているのが見て取れます。 先ずは此れ等史料が無ければ高柳は明智光秀の伝記を書き得なかったとして宜しいでしょう。 原本信長記、細川家記は明智光秀に特徴的なものですが 中世史に於いては特に公卿、僧侶の日記が一次史料として珍重されるのを示しているかのようでもあります。

史料登場頻度図(6回以上TOP26)

但し頻度だけで高柳が其の史料を信頼しているとは言い切れません。 其処で其の史料が登場する周辺の言葉の毀誉褒貶を探って見ました。 其れが以下の色付きの表になります。 各色の説明は表下に記しますが、 特に赤くページを印した処の史料は高柳が酷く貶めているものです。 頻度が高いものの中にも幾つか該当する史料が見て取れるでしょう。

全史料登場頻度図(登場ページ及びネガティブキーワード着色図)
※ スマホではピンチアウトで拡大すると細かい数字まで見えるように大きな画像を用意しています。PCではクリックすると別画面で大きな画像を見られます。
※ ネガティブキーワード等着色意図説明
赤:非常に悪い
橙:かなり問題のある部分が見受けられる
黄:意図したものではない誤謬等が含まれる
薄緑:重複可能性
薄黄:鈴木叢書所収、若しくは鈴木叢書本を合算
薄青:特殊例

データに基づく考察

最も本書に利用される原本信長記については比較的良質であるがそれでも所々に誤りがある、と数箇所で述べています。 原本信長記については別稿[K3] に記した様に桶狭間の戦い勃発年について自らも過りを見付け戸惑った処ですので全く同意出来る処です。 しかし頻度データを見ても光秀の伝記は此の記なくしてなし得ないのは確かです。 此処で比較的良質と高柳が言うのは誤りに恣意的な企図が感じられないからであると忖度します。 想像を逞しゅうすれば誤謬を見つける度に漏れる高柳の困った様な苦笑いが見える様です。 従って基本的には原本信長記を元にして含まれる過誤を他の一次史料で補う形を取っています。 其の一次史料たるのが吉田兼見、山科言継、多門院の各日記である基本構造が頻度データからは見えてきます。

他に一次史料として重視せられるのは書翰しょかん、書状一般で 随所に光秀伝記本編を史実たらしめるのに利用されています。 但し各書状は差出人も宛て主も定まらず、またまとまって所蔵されるものでもなく 散在するものから高柳が必要に応じて拾い上げているもので頻度に於いてはどうしても低くなります。 従って頻度が低い、若しくは単発の採用であっても重要度の低さには直結しません。 基本的に色付き頻度表に無着色の史料は良質な史料として高柳が採用していると考えて良いものです。

処で此処に特筆すべき史料があります。 着色頻度表に唯一薄青で着色した兼見卿記が其れです。 本書162、163頁の当該部分を以下に引用します。

この際の光秀について『兼見卿記』の記事は甚だ微妙な記載をしている。 『兼見卿記』は天正十年の分が二冊ある。 一冊は正月から始って六月十二日で終っており、 他の一冊は正月から十二月まで完備している。 と言うのは六月二日光秀が本能寺で信長を殺すと、 その七日兼見は勅使として安土に赴いて光秀を見舞い、 八日光秀が禁中に銀五百枚を献じ五山にも百枚ずつをそれぞれ寄附したとき、 兼見も五十枚を貰った。 それで十三日光秀が敗死すると、 十四日に津田越前入道というものが信孝の使といって兼見のところに来て、 実情を報告せよと脅迫したことがある。 それで正月から十二月まで完備している分は十三日頃にそれ以前の分を書直し、 以後の分を続けてこれに書いて行ったのであろう。 六月十二日で切れている方がそれまでは本当の日記であるのである。

兼見卿記は天正10(1582)年の二つの日記の内にも6月12日以前の内容は 意図して書き換えられた分があり以降の日記が途切れているものこそ採るに足る本来の日記であると言う塩梅です。 己の生死、家系の断絶も有り得る事態であれば恣意的捏造も勿論糾弾されるべきではなく 両者突き合わせれば尚深く当時の事情を知り得よう史料ともなり得るものです。 例え一次史料、一級史料とは言え貴族の日記の性質から 史料として用いるに実に大事な考え方を高柳が示唆しているのが分かります。

原本信長記については此れを写して軍記物などが多く書かれたのが本書から分かりますので 古くから良質の一級史料として珍重されたのでしょう。 悪書第一群の小瀬甫庵の著述は其の手のものです。 此の手のものには原本信長記に含まれる誤謬を検討せず其の儘採用している部分が多く見られるのを高柳は警告しています。 影響力の大きい原本信長記の功罪相織り成す処です。

高柳が悪書と決め付ける中にも登場頻度の高いものは 従来通説の輔けとなった史料ですが其れが余りにも通用し過ぎて史実が如く扱われているのを高柳は問題として 繰り返し本書内で問題点を叩く事態が出来しています。 良質史料と整合性の取れない此れ等史料は職人気質の高柳には 読んで居心地が悪いのを通り越して不愉快にも感じられたようで 筆者の腹が見え透いて不愉快と直接記している くだりさえあります。

悪書指定にも特に頻度の高いものは 太閤記(23回)、明智軍記(14回)、甫庵信長記(8回)の三つです。 此れ等に共通するのは江戸初期に書かれた二次史料であることです。 明智軍記こそ著者は知られませんんが特に太閤記と甫庵信長記は作者が同一人物の 小瀬甫庵おぜほあん です。 戦国末期から江戸初期を生きた儒医で美濃土岐氏に出自を持つと言われ 池田家、豊臣家、堀尾家、加賀前田家と禄を食んだとされますが多くの軍記物も著す処です。 豊家は勿論、堀尾吉晴登場場面の追従が過ぎると高柳に罵倒を浴びせられています。 甫庵も数百年を隔てて在所を同じゅうするであろう光秀の伝記の内にに斯くも貶められるとは思わなかったでしょうが 歴史家として必要以上に名を馳せたために其の反動として下げられるのも致し方ないでしょう。 現世に一時持て囃されるのも気分の良いものかも知れませんし糊口を凌ぐに用立つかも知れませんが 死後何百年ものちに馬鹿にされては堪りません。 現代の歴史家も甫庵を以て他山の石とすべきかと強く感じるものです。

此処では此れ等を悪書第一群と分類します。 第一群に関しては特に高柳は憤懣遣る方無い様で相当の言い様が見られます。 先ず光秀の出自を記したものは畢竟ひっきょう悪書ばかりではあるのですが 高柳は憤りの余り出鱈目と迄言い放っています。 其の筆頭が 明智軍記 です。 諸国遍歴については 博学振りをやって尻尾を出した愉快な記事 と迄揶揄されています。 また太閤記には出鱈目を平気で書いている本なる批判が与えられています。 上に筆者の腹が見え透いて不愉快と高柳に言わしめているのは 甫庵信長記の天正6(1578)年の年賀の式の参賀者列記の序列に於いてで 秀吉を信忠の次に上げた上で実際には参賀している光秀を除いて時の権力者に取り入ろうと目論んだと思われる記述部分です。

悪書第一群を以上とすれば頻度の落ちる悪書第二群は4回に固まって見えます。 明智一族宮城家相伝系図書、鈴木叢書本明智系図、林鐘談が当たりますが 先ず以て俗に言われるように系図はあてにならぬのを証明しているようかでもあります。 林鐘談も俗書と登場の度に切り捨てられており信頼度は 幾らでも捏造の窺える系図程度と言えるでしょう。

悪書第三群は続武者物語の2回以外は単発で登場するだけのもので 偶々光秀関連の記述に問題のあった可能性もあり以て悪書と断定は出来ませんが 利用の際は充分注意深く検討する必要のある史料と言えるでしょう。

処でかなり強い口調で此れ等悪書を貶める文章は高柳の性格も垣間見える様で 聊か癇が強い御仁であったのかも知れないように感じられます。 いつか機会があれば直接高柳を知る向きに確認して見たいものです。

以上悪書を三群に分類できる種類が本書に言及されているのは 高柳が唯に明智光秀の伝記をものするだけに本書の目的を留めず 史実にあらざるにも関わらず史実の様に通用する旧説の弾劾をも目論んだからに違いありません。 従って此処の特に第一群、第二群に列挙した史料は基本的に史料として用いるべきではありませんし 第三群も採用には細心の注意を払う必要があり 第一群、第二群については尚史料として採用するにたる論拠を示す必要があります。 此れを略して尚歴史書を称した俗書など多く書肆しょし店頭に並びますので 気を付けたいものです。

世に知られたる語り草

戦国史ものでは巷間人口に膾炙する良く知られた話説があります。 此れが如何なる史料に基づくものかを窺い知られる記述も本書には幾つか見られます。 如何にも伝説的な物語染みていて些か眉唾物であったはなしなら尚 其れが一次史料に見られるとなると驚きを禁じ得ないと共に何某か嬉しくなってきはしないでしょうか。 また逆に如何にも有りそうな噺で疑義を差し挟むのを忘れる程の噺が 一次史料には見られず此の史料を以て捏造されたのであったかと知るのも楽しくあります。 本書には此れ等が史実か否か、史料に基づいた言及も用意されています。

信長は高ころびにあおのけにころび、秀吉はさりとてはのもの、と持ち上げ見事に 未来を言い当ててみせた安国寺恵瓊あんこくじえけいの噺があります。 一体予言などと言われると如何わしい感が強いものですが此の事実を示す書状が実際に存在するのですから驚かされます。 恵瓊は毛利の使者として織田を訪れ代理の秀吉に対面したのでしたが 此の際の事情を毛利氏家臣井上春忠らに宛てた書状で実際に述べているのです。 此の書状が書かれたのは天正元(1573)年12月正しく10年後を見事に予言して見せているのでした。

本能寺の変直前光秀が詣でた愛宕山の連歌百韻興行冒頭に光秀が詠んだ 発句ほっくである
時は今あめが下しる五月哉 を受けた里村紹巴の下の句の 花落つる流れの末をせきとめて も様々解釈がなされ最早伝説的な作られた物語であろう感もありますが しかしこれは原本信長記に見える噺であるとされます。 確かに手元の桑田忠親校注の信長公記[※4] を閲すれば確りと巻十五に記されています。

洞ヶ峠ほらがとうげについては 此れを決め込むのは日和見の意として広く知られる処ですが 此の故事の主人公たる筒井順慶が洞ヶ峠に陣したとする良質の史料はありません。 順慶が島左近の勧めで洞ヶ峠に陣して羽柴、明智の両軍の間で日和見を決め込んだ、とするのは 太閤記や増補筒井家記等の俗書に見られるのみですが 日和見順慶なる言葉は早くから広く用いられていた様ではあります。 洞ヶ峠に陣したのは光秀自身であり順慶の味方を待ったのでした。

プロ野球のリーグ戦等には此の一戦の勝敗が優勝の行方を左右する際に天王山と称しますが さて此の由来は中国大返しを敢行した秀吉と光秀が衝突するに其の勝敗を左右したのが天王山の占拠で 両軍が挙って天王山に陣を張るべく奮迅したとするものです。 しかし此れを主張するのは、太閤記、川角太閤記、及び両書の説を行き過ぎて主張した竹森家記、 また戦闘に参加してもいない人の名を出している永源師檀紀年録などで、 良質な浅野家文書や秀吉事記などでは山崎合戦にかなり詳細に言及するものの天王山には少しも触れていません。 高柳は天王山の争奪が勝敗を決したと言うのは作り話であって事実ではない、と述べています。

光秀の女婿じょせいの 明智弥平次秀満が山崎の敗戦の報を知り守っていた安土城を退いて坂本城に入らんとするに名馬に跨り湖水渡りを披露した、 なる噺も良く知られる処ですし 宮崎駿監督のアニメーション映画 もののけ姫Blu-ray)では 恐らく此れをモチーフにした主人公が味方の篭る砦を囲む湖を 馬と鹿の間の子あいのこの様な動物に跨り 湖水を渡り砦に向かう場面も見られるのですが、 此の秀満の颯爽たる雄姿も初見は川角太閤記で以後の雑書が記しているばかりである、 とされ残念ながら事実ではない様です。

結言

上のあらましの段に述べた如く、 光秀の人生は信長の人生の裏返しであり信長描かずして光秀描き得ず、 なる旨、いみじくも高柳が序跋に繰り返し主張するのは 明智光秀伝記の為事しごとを遣り終えた正直な感想なのでしょう。 斯くあれば織田信長の伝記も今回此処に列挙された内の良質と考えられる史料を駆使せねば書き得ぬ道理になり 書肆に戦国史書籍を手に取る際の参考になるものです。 此の表裏一体の人生は蓋し、高柳が主張する両者の似た合理的性質、に由来するものと考えます。 両者は似通った合理的考え方、合理性を有していました。 光秀は合理的であるが故に保守層を取り込む戦略に出たのでしたが 此れが浅学者に光秀を保守的と思わしめ 時に光秀の保守的性格が主張され、 此の性格に起因する陰謀説の蔓延る要因ともなっているのは嘆かわしいことです。

此の事実を確り受け継ぎ主張しているのが本ブログにしばしば 書評をものする処の著述の著者藤本正之氏です。 特に明智光秀に関しては本能寺の変を扱った著書 本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意[本能寺の変、信長の油断・光秀の殺意書評記事一覧] に詳しく、此れを閲すれば藤本氏が高柳の強い影響下にあるのが窺い知れるものです。 両者の合理的性質については藤本氏が本書を直接引くのを書評後編[本能寺の変、信長の油断・光秀の殺意書評記事一覧3] に記した処ですし藤本氏は ウマがあった光秀と信長と迄表現しています。 高柳は光秀の最期に紙幅の制限もあったでしょう、其れ程詳しくは言及していませんが 藤本氏の著作では本能寺の変に主題を絞っている為其れが有るのも当該記事に記してあります。 此処に繰り返し述べる必要もなかろう高柳が紙幅を多く割く陰謀説への反駁を継承したかに見紛う 藤本氏の論に関する書評記事[本能寺の変、信長の油断・光秀の殺意書評記事一覧2]もものした処です。

現在中世史でも其の末期に近世への橋渡しとなる戦国史物は 其のダイナミズム故の人気からか巷に氾濫する処ですが 本書に悪書指定された史料に依拠するものは 特に従来にない整合性の検討が多くの良質史料を以て加えられたものでない限り 歴史学の概念の整った現代に歴史に真摯な向きは読むべきではありません。 個人的には唯に商業主義、快楽主義の大衆娯楽なるエクスキューズ付きでも 其れを明確に謳わない限りは史実を追う研究を装って誤解を招き兼ねない為 世に出されて良いものではないと思っています。

悪書第一群に二書もエントリーした小瀬甫庵の名誉の為に少々補足すれば 歴史学の概念の無い時代に本人に史実を書く積もりは毛頭なかったのかも知れません。 本人は人々、と言っても彼の想定した読者は多くは武士階級支配者層だったでしょうが、 を楽しませようとしただけのエンターテナーだったのかも知れません。 斯くあればこそ必要な部分に入手可能な記録が足りなければリアリティーを求め 甫庵の戦国末期から江戸初期を生きた時期的に調査に基づいた事実を書いた可能性もあります。 高柳は光秀の丹波八上城調略の場面は明快で記述されている、とします。 斯くあればこそ人の機微を穿った記述をなした可能性があります。 高柳は波多野兄弟捕縛の場面の記述を悪書であるが良い面もある、と批評しています。 歴史関連書籍の難しい処です。

昭和の高度経済成長期に研究の発展に考古学の与って力のあった古代史に比較して[K4]、 特に戦国史に於いては著しい発展は残念ながら見られなかったように思われるのは 高柳の為事を継承したかにも思える藤本氏の著作を読めば 詳細を穿つ学術的知見を求めるでもない一般に於いては大凡昭和後期を飛び越えても宜しからん状態にあるからです。 テレビや新聞などマスメディアの影響でしょうか、 視聴者を短時間で捉えんが為キャッチーに単純化された内容と以て訴求力とする方面の能力を伸ばした演者、 また団塊の世代に見られる分かり易さを求めて 時には自分に分からなかれば其れは説明が悪いのだと迄主張する時風と相俟って タレント学者の跳梁跋扈を招けば此の事態も無理からぬように思えます。

藤本正行氏の著書を幾つか眺むれば 凡そ高柳には強い信頼を置いているに依って影響が強く伺えるのが分明に分かります。 信長の戦国軍事学[信長の戦国軍事学書評記事一覧] の跋文には長篠の鉄砲数で高柳が著書 長篠之戦に記す三千挺と 藤本氏が底本として扱う奥野高広、岩沢愿彦よしひこ両氏の校注になる 信長公記角川文庫本の千挺との原本信長紀間の異動を怪しみ 牛一の原本、池田家文庫本にその修正跡を発見したときの忘れられぬ感激が紙面からも伝わるべく記されていますが 此処では高柳が加筆訂正された三千挺を採用してしまったものの 返って藤本氏の高柳に対する高い信頼が覗われる逸話でもあるでしょう。 誤解を恐れず言えば藤本氏の著作は高柳の著作を焼き直すに 丹念に自ら一次史料に当たった成果が盛り込まれた著述でもあります。 また高柳の説に異を唱えるにはこれほどの論拠が必要にもなる事例にもなります。 本書に関して言えば藤本氏は共著 信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う[※5] の中で光秀謀反の動機について未だ怨恨、謀略の跋扈する中 本書の以下の部分を引用して追随しており 如何に高柳以降発展が乏しいかも窺い知れるでしょう。

信長は天下が欲しかった。 秀吉も天下が欲しかった。 光秀も天下が欲しかったのである。

しかし藤本氏は其の様な真摯な研究を積み上げた結果 本稿に高柳が高い評価を与えたと分析した史料には藤本氏も高い評価を与えているばかりか 定量的データに高柳が最も頻度高く採用した本稿に高柳に従って原本信長記と呼ぶ 太田牛一の信長公記には新たに重要な一次史料として光を当てるのに成功しています。 研究の画期とは此の様に生ずるものなのでしょう。 戦国史に新たな視点を齎した藤本氏は斯様に高柳を高く評価し影響も受け 而して彼の為事を為し得たのでしょうし、 数十年を経て尚斯くも影響力の大きい高柳の本書を本稿に基本書とする所以でもあります。 斯うした真摯な積み上げこそが歴史学を発展させ延いては歴史を記す行為ともなるものと考えるものです。

参考文献(※)
  1. 濵松風土記(曾田文彬著、浜松出版社刊)
  2. 県居翁のさと愛称標識(県居地区愛称標識設置委員会、平成9〈1997〉年)
  3. わが町文化誌学びの里祈りの丘(浜松市立県居公民館編、平成12〈2000〉年)
  4. 改訂信長公記(太田牛一著、桑田忠親校注、新人物往来社)
  5. 信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う(藤本正行、鈴木眞哉共著、洋泉社)
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  2. 中編~出生から本能寺迄(2013年3月10日)
  3. 後編~秀吉の天下から幽斎の死迄(2013年4月12日)
本能寺の変、信長の油断・光秀の殺意書評記事一覧
  1. 書評前編~是非に及ばす(2013年2月23日)
  2. 書評中編~突き動かしたもの(2013年3月28日)
  3. 書評後編~謀叛機会と謀反人の最期(2013年8月5日)
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