スウォッチ・グループ(The Swatch Group Ltd.) と言えばスイスの世界最大の時計メーカーであることは周知の事実でしょう。 設立は1983年、グループの名前ともなっている スウォッチの発売と共に設立されました。 スウォッチは当時世界を席巻していた日本製の時計から 主権をスイスに奪い返さんとして、スイス伝統の機械式ではなく敢えて自らを苦しめる日本勢の得意とする クォーツ時計として設計され、安価でありながら斬新なデザインでパッケージングを施し 遂には目論見通り世界中で受け入れられ、 スイス時計業界の救世主となったのでした。
スウォッチグループ創業者はニコラス.G.ハイエク(Nicolas George Hayek)氏です。 ハイエク氏についてはネット上にあまり情報が見えないため英文のWikipedia項目 Nicolas Hayek から拙訳するとともに再構成して本記事としたいと思います。
ハイエク氏は1928年2月19日にレバノンのベイルートで レバノン人の母親とレバノン系アメリカ人の父親の間の3人の真ん中の子供として産まれました。 家族はギリシャ正教を信仰しており父親は米国シカゴのロヨラ大学で学んだ歯医者でした。
お姉さんのモナさんは、有名なレバノン人建築家ジョセフ·フィリップ·カラム氏の未亡人、 弟のサムさんはスイスのグループ企業Sibraの元最高経営責任者です。
1950年にハイエク氏はベイルートでお手伝いをしていた若いスイス人で 実業家エドゥアードメッツァー(Eduard Mezger)さんの娘の マリアンヌメッツァー(Marianne Mezger)さんに出会い 翌1951年に所帯をスイスで持つことにしました。
夫婦は二人の子供に恵まれました。 ナイラ・ハイエク(Nayla)氏、現スウォッチグループ会長と G. Nicolas (Nick) Jr.(ニック・ハイエク・ジュニア )氏、現スウォッチグループのCEOです。 1964年にはこの子達を連れ チューリッヒの35km西の村マイスターシュヴァンデン(Meisterschwanden)に引越し ハイエク氏は以降の人生を其処で過ごすこととなります。ハイエク氏はそのキャリアをスイスの保険会社のアクチュアリーとしてスタートしました。 アクチュアリーとは保険数理士と訳される職業で 保険事業に於いて毎月の支払額や掛金率を算定する専門家のことです。 それから義父のメッツァー氏の所有する技術企業の経営を引き受けましたが まだ若く野心にも好奇心にも満ち溢れていたためでしょう、 程なくこの地位を手放し自ら毎日研鑽の図れる道への転進を図ったのでした。
そして1957年、ハイエク氏は自らの経営コンサルティング企業 ハイエクエンジニアリング(Hayek Engineering)をチューリッヒに設立しました。 会社設立後間もなくヨーロッパの大手多国籍企業数社でコンサルティングの実績を挙げ コンサルタントとしての地位は確立されました。 このハイエクエンジニアリング1979年時点で30カ国に300社以上のクライアントを擁しており、 スウォッチグループの創業者として有名なハイエク氏はまた亡くなるまでずっと ハイテクエンジニアリングの代表であり続けたのでした。
コンサルタントとして名を上げたハイエク氏に1980年代初頭、 スイスの銀行家連から或る相談が持ち掛けられます。 スイスの銀行連はそれぞれに関係の深い時計製造業者グループで 1930年に発足したオメガを中心とする SSIH(Société Suisse pour l'Industrie Horlogère) 及び1931年に発足したロンジンを中心とする ASUAG(Allgemeine Schweizerische Uhrenindustrie AG) の破産管理を依頼して来たのでした。 両グループはセイコーやシチズンなど日本勢に所謂クウォーツショックで 完膚なきまでに叩きのめされていたのです。 しかしハイエク氏はリストラとリブランドに依り お互いが今迄競うようにして世界の時計産業をリードしてきた このグループはその競争力を維持出来ると考えたのです。
両グループのリストラは伝統的な腕時計より少ない部品で構成される スウォッチ腕時計に合致する施策でした。 またスウォッチ腕時計は低価格レンジをカバーすることを視野に入れて開発されており、 目論見通り日本勢に奪われていたシェアを回復することに成功し、 文字通りスイス時計界の救世主となったのです。 カラフルなパッケージがややもすれば取り上げられ勝ちなスウォッチ腕時計ですが、 ハイエク氏に依ればそれは技術的ブレークスルーの産物であったのでした。
4年に及ぶSSIHとASUGAGの再編を主導し、 遂にはスウォッチやETAとの大合併に導いたハイエク氏にはスイスの投資家と共に その新グループの株式の大変を引き継ぐことになり、 ハイエク氏は会長に就任することになりました。 このグループがハイエク氏に依る創業とされる スウォッチグループの前身となる会社、 SMH(Société Suisse de Microélectronique et d'Horlogerie) であり、その創業年は1983年、スウォッチグループの快進撃の始まりでした。
ハイエク氏は スウォッチ(Swatch)、 ブランパン(Blancpain)、 オメガ(Omega)、 ロンジン(Longines)、 ラドー(Rado)、 ティソ(Tissot)、 サーチナ(Certina)、 ミド(Mido)、 ハミルトン(Hamilton)、 ピエールバルマン(Pierre Balmain)、 カルバンクライン(Calvin Klein)、 フリックフラック(Flik Flak)、 ブレゲ(Breguet)、 ランコ(Lanco) など、多くののブランドの復活に決定的な役割を果たしました。 その功を賞されたのでしょうか、 ハイエク氏は1996年にスイスのヌーシャテル大学から法と経済学の名誉博士号を授与され、 またその2年後、 1998年6月にはイタリアのボローニャ大学からも法と経済学の名誉博士号を贈られています。 そして1998年には社名はスイス時計業界を救った腕時計の名前から スウォッチ・グループと改められたのです。
苦境の底から遂には世界時計業界の主導的立場に蘇ったスイス時計は 日本国民にも親しまれています。 スウォッチが出始めの頃は若者が我先にと腕に巻いたものですし、 今では復活のなったスイス高級腕時計は成功者としてのステータスシンボルとして 憧憬の的でもあります。
ハイエク氏の名は2007年にオープンした 銀座のスウォッチグループジャパンの店舗兼本社ビルの名称 ニコラス・G・ハイエックセンター にも冠されています。 5月24日のオープンの約1ヶ月後にSWISS info.chでは スイス時計の救世主、ハイエック氏に聞く なるタイトルでハイエク氏へのインタビュー記事を配信しています。 ここに記されるにはスイス時計界を苦しめた当の日本への敬意が表されているのは驚きですが、 であればこそ、スイス時計を奈落の底から救い上げ、 仇敵とも思える日本からも愛されるブランドに仕立て上げることが出来たのでしょうね。
ハイエク氏は2010年に、 推定資産額を39億ドルとされ世界で232番目の富豪としてランクインもしています。 しかし同年2010年6月28日にビールのスウォッチグループ本社で仕事中、 予期せぬ心不全のため帰らぬ人となりました。享年82歳。
スイスの時の連邦大統領ドリス・ロイトハルト氏は 「われわれ(スイス国民)はハイエク氏に多くを負っている」 とコメント、ハイエク氏の功績を讃えたそうです。 今もなおスイス時計界の救世主としてスイス国民に親しまれ それはこれからもスイス時計の歴史と共に長く受け継がれていくのでしょう。