関が原の合戦は西暦1600年、 今年2012年はそれから412年となります。
将棋の名人位はその成立よりちょうど400年、 初代大橋宗桂名人が徳川家康公に初代名人位を贈られたのが西暦1612年、慶長17年[K1] でした。 この年は宮本武蔵対佐々木小次郎の巌流島の決闘のあった年でもあります。 この2年後慶長19年には大阪冬の陣が、その翌年慶長20年に夏の陣が起き元和偃武と相成ります。 斯様に400と言う数字はこれを中心に現代と戦国の世を結ぶものです。
400と言う数字を基に故人を偲ぶお年忌を見ていくと その繋がりに想いを馳せられると共に何やら戦国史の裏面を見る感もありなかなか趣き深いようです。 例えば今年2012年はちょうど織田信長の正室 帰蝶 姫、即ち 濃姫 の400回忌[※1] なのだそうです。 濃姫の生涯については諸説あるようですが、 妙心寺史 や 安土総見寺泰巌相公縁会名簿 により慶長17年壬子の7月9日が祥月命日[※2] とされているそうです。
去年2011年に400回忌だったのは
前田慶次(利益)
公で、此方も加賀藩史料に慶長10年11月9日(1605年)前田慶次利太没す、
時に年73と記載があるそうでなかなか一筋縄では行きませんが、
前田慶次郎供養塔がある当堂森善光寺にて祥月命日にあたる2011年6月4日に
400回忌供養祭を
お年忌は1周忌、3回忌、7回忌、13回忌…と営まれ
仏教の宗派に依っては33回忌、若しくは50回忌で弔い上げとなりますが、
宗祖などは矢張り特別ですから50年毎の節目の年には
歴史上の人物もそれに準じると言うのではないでしょうが、 子孫が檀家であったりお墓があったりするお寺では追善供養を催すことが多いようで 400回忌を中心に戦国武将のお年忌がオンパレードとなると言った塩梅です。
先月2012年7月13日には今孔明として鳴らし 豊臣秀吉の天下統一に至るその前半を補佐した不世出の名軍師 竹中半兵衛重治 公の433回忌が兵庫県三木市平井[※5] にて営まれました。 公の生誕地は美濃ながら秀吉公の三木城攻め陣中に没したため当地での法要となるそうなのですが、 これが攻め込まれた側の地元の有志に守り継がれてきた伝統と言うのですから驚きます。 三木の干殺し は有名ですが、ここに軍師として秀吉公に無用の殺戮のないよう進言したのも関連するようで、 結局落命したのは城主一族に限られましたのでそれを感謝しての行為だとのことです。 お年忌には三木平井の地元は勿論、播磨黒田家の眷属、 そして半兵衛重治公の地元は岐阜県小野町からも町民が集まり来たったと言います。 400年以上前の故人のお年忌にこれだけの人々が集合するとは今更ながらその遺徳が偲ばれます。
今年はまた本能寺の変、天正10年6月2日より430年、 秀吉公が天下盗りの中国大返しの年でもありますから備中高松城々主 清水宗治 公がこれ又人々の助命と引き換えに水上に自ら果てた年でもあります。 これを以て430回忌、 宗治祭 が営まれた[※6] そうです。 このように見て来ると地域に密着した歴史上の人物が地域の親しまれる人々に依って 継承され弔い上げを過ぎても尚営まれていくべき性質のもののようですね。 勿論本能寺に斃れた織田信長公もお年忌は営まれますが 今年430回忌となるそれも決して生前をイメージさせる大掛かりで派手なものではない[※7] ようです。
この方式を以て実際に営まれた法要を430年周りに見て行くだけでも、以下列挙する如くあります。
もう少し調べればそれだけでもちょっとした戦国史をなすでしょう。 歴史の勝利者ながらお年忌の数は数えていたり、 敗者ながら400回忌を切る数字であったりと、 夏草に思う兵どももさながらの感慨を催させます。
かたむき通信参照記事(K)- 名人位成立よりちょうど400年の平成24年将棋第70期名人戦始まる(2012年4月10日)
- 濃姫、信長のもとへ・・・・・濃姫400回忌(華月洞からのたより:2012年7月9日)
- 帰蝶(濃)姫(女誠国)
- 前田慶次400回忌供養祭ポスターが完成!
- 親鸞聖人大遠忌法要(本願寺)
- 秀吉の天下取りに貢献 三木で竹中半兵衛433回忌法要 兵庫(MSN産経ニュース:2012年7月14日:2019年8月30日現在MSN産経ニュースはサービスを停止しています。)
- 宗治祭(430回忌)(Bitchu瓦版 :2012年6月3日)
- 信長忌 2012(阿弥陀寺)(京都のITベンチャーで働く女の写真日記:2012年6月2日)