伊予松山城の石垣を守る石樋、水受け、はばき石垣

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、讎は敵なり とは 甲陽軍鑑 の品第三十九に名将 武田信玄 の名と共に紹介される歌ですが、 さしもの猛勢を振るったその甲斐武田軍も次代勝頼の頃には衰え 遂には石垣と恃んだ人も当てにならずとして新府城を構築するも 一度も使用されることなく勝頼自ら火に掛け失われました。 なかなかに石垣も堅牢に見えて手を掛けなければ脆くも崩れ去るものであります。

Matsuyama castle 松山城 天守閣 photo credit by norio.nakayama

武田を滅ぼし天下を取る寸前に本能寺に散った織田信長の跡を継いだ 豊臣秀吉の賤ヶ岳の七本槍の一人に 加藤嘉明 が在り、文禄慶長の役に依り伊予国10万石正木城主として関ヶ原の戦功で20万石に加増を受け 現在の愛媛県松山市に築城を開始した平山城が 松山城 でした。 落成なる前に会津転封となった加藤嘉明に替わって24万石松山藩主と同時に松山城主となったのが 蒲生忠知 で彼の死に因り断絶した蒲生家の跡を継ぎ明治の世迄伊予松山15万石藩主、そして松山城主なったのが 松平家と松平定行でした。 松山城はその初期以外は四国の徳川親藩として連綿と維新迄在り続けました。

この如き歴史を有する松山城史跡に発見された遺物こそ 石垣を守るための仕組みとも言える 石樋 であり 水受け 、そして はばき石垣 だったのです。

この国史跡松山城の本丸跡の発掘調査に於ける発見は一昨日2013年1月31日に 愛媛県松山市公園緑地課及び同県教育委員会から発表され メディアの昨日2月1日に伝える処となりました。 幾つかリンクを下に貼り置きましょう。

  • 松山城の排水設備確認 市発掘調査(愛媛新聞ONLINE:2020年2月16日現在記事削除確認)
  • 松山城:本丸に「水受け」跡 市教委2例目確認 あす現地説明会(愛媛- 毎日jp:毎日新聞:2020年2月16日現在記事削除確認)
  • 松山城に石組排水遺構(愛媛:YOMIURI ONLINE:読売新聞:2020年2月16日現在記事削除確認)

城郭に於いては本丸内にある天守郭、天守曲輪を本壇とも呼び 大天守と小天守、南隅櫓、北隅櫓を渡り櫓で結んだ連立式様式を持つ 松山城はその代表として有名です。 この本壇の雨水から守りために速やかにこれを本丸の外に排出しなければなりません。 その為の仕掛けが 石樋 であり、今回それと対を成すようにして見付かるのは同城に2例目となる 水受け でした。

伊予松山城を 大きな地図で見る

水は流体にて如何にも弱く見えながら時には奔流となり大災害を齎し、 または小さな雫なるも長い月日を重ねれば岩をも穿つ鑿となるのは尤もです。 建築物に雨水対策は勿論、石垣にも同様のことが言えるのでした。 対策には先ずは水捌けを良好に保つのが第一とて、 一般の建築にも用いられる雨樋と同様の仕掛けが城郭にも用いられており、 石造りのそれは 石樋 と書き いしひ と読まれ、他にも粘土や漆喰で固めた 土樋どひ瓦樋かわらひ などの形式が見られますが 松山城のそれは石樋であるとされます。

石樋は石垣から直下に雨水を溢ち、此れを受けるのが 水受け であり今回、石樋の通した水を受ける部分に対になり、 また其れを囲む複数の石と同時に発見されたその一枚石の大きさは 幅85cm、奥行きが65cmと伝えられます。 石樋から水受けへのその落下差は約8m、 この高低差を勢い良く雨水の落下すれば滝の滝壺を穿つが如く 石垣が根元から掘られてしまうのですから如何にも具合の好いものではないのは容易に想像が付きます。 石垣を守る先人の知恵と言えるでしょうか。 此れが発見されたのは本壇東側の石垣であるとされます。

更には曲輪を支える石垣もその重みに耐えかねて膨らみ崩落し兼ねない場合には はばき石垣 で当該部分の下側を支えます。 松山城本壇南側にこの跡が発見されたのだそうです。 はばき石垣はブログにも盛岡城の例を写真入で伝えてくれる記事[※1] もありますし当の松山城の記事[※2] もありました。

はばき石垣となると段差が敵方の攻撃の便にもなり兼ねず 些か戦国から遠のいた感もありますが、 この松山城天主は1784年の落雷で焼失して1854年に再建されたものであるそうで これはちょうど嘉永6年(1853年)ペリー来航の翌年に当たる黒船大騒動に日本中が揺れる中での竣工となり 本邦最後の完全な城郭建築となるもの[※3] でした。 お江戸300年の泰平の眠りの中で城郭も大きな変化を遂げていたのかも知れません。

今回の発見を見せた発掘調査は松山城の本丸跡を中心に、防災設備等整備の事前調査のために 去年9月から今年平成25年(2013年)2月、今月末までの限られた予定で実施されるもののため程無くこれ等遺物は埋め戻されるそうで、 急ぎ現地説明会が開催されることも併せて発表[※4] されました。 従って本日平成25年(2013年)2月2日の午前10時半から1時間程度のこの説明会は貴重なものとなりますが、 些か急にも過ぎる感があるのは否めません。 上記したように松山城は最後の城郭建築でもあるので遺憾ながら現場説明会に間に合わぬ際には 其方を主眼にゆっくりと見学するのもまた宜しいのではないでしょうか。

追記(2021年6月1日)

2016年(平成28年)4月は14日と翌々16日の二回に渡り九州を今迄経験のなかった震度七を計測する最大級の地震が襲いました。 当然ながら肥後熊本の象徴たる熊本城も被害を免れ得ませんでした。 其の惨憺たる状況は熊本城調査研究センター文化財保護主事 嘉村かむら 哲也てつや 氏の文責でwebサイト「文化遺産の世界」に配信[※5] されています。 記事には、重要文化財建造物の被害など詳細に被害状況が綴られていますが、 特に石垣の被害は甚大であると言います。

加藤神社境内の北大手門の石垣の崩落についても詳細が記載され、 崩落前と崩落後の写真も掲載されれば全壊と称すべき状態が判然します。 天守閣西方に加藤神社と棟を並べ、 宇土櫓うとやぐら が建ちます。 大天守と小天守が西南戦争直前の焼失で、1960年に復元の鉄筋コンクリート製であるのに対し、 第三の天守とも呼ばれる宇土櫓だけは数多の災害を潜り抜け、 創建時の姿を今に伝える貴重な歴史的建造物として国指定重要文化財に指定されています。 此の宇土櫓こそ屋根・外壁・建具破損で済んだものの、続櫓は倒壊が招かれたともされおり、 其の下の石垣は極めて不安定な状態と評されています。 此の続櫓下石垣に関して昨日2021年5月31日に熊本城文化財修復検討委員会による はばき石垣 設置案が提示[※6・7] されました。

はばき石垣は熊本城では既に東櫓門から源之進櫓下の石垣など五箇所に採用される実績が有り、 石垣を全面修築するより費用が抑えられる利点があります。 また、本記事に紹介した通り黒船来航の時節に松山城に導入されている様に、 江戸時代から既に石垣の修復に使われてきた工法でもあります。 謂わば戦国時代及び江戸時代初期の新築時と現代の修築時の中間に位置する技術とも言えるでしょうから、 現代的に過ぎる余り景観を棄損する心配も有りません。

嘉村氏は、従前熊本城では文化財保護及び活用への傾注であったものから、 熊本地震以後は安全対策の必要性も其れ等と同等との認識を得た旨、述べています。 安全対策とは、即ち現代工法の導入や養生に、伝統技法の継承、安全距離の確保等の人的管理など、 文化財的な価値や景観を損ねない方法を併せ考慮されるべきとも述べています。 嘉村氏の言及を鑑みた時、はばき石垣は、上述の如く現代工法と伝統工法の中程に位置する手法とも捉え得れば、 熊本城宇土櫓続櫓下の空堀への設置はなかなか此れ以外は考え難い妙案であるものと思われるのです。

使用写真
  1. Matsuyama castle 松山城 天守閣( photo credit: norio.nakayama via Flickr cc
かたむき通信参照記事(K)
  1. 本能寺と甲州武田氏の滅亡『信長の戦国軍事学』書評8(2013年1月7日)
参考URL(※)
  1. 旅 日本百名城④-8 (盛岡城 - 団塊世代:還暦からの自己鍛錬(筋トレ・空手入門・囲碁入門・写真)(のぶ nobu):2012年7月3日)
  2. 松山城 ♪ 石垣 ♪(to 2012:2012年7月13日)
  3. 豆知識 松山城のひみつ(松山城)
  4. 城山公園(丸之内地区) 埋蔵文化財確認調査の現地説明会を開催します(松山市ホームページ:2013年1月26日)
  5. 熊本地震による熊本城の被害と復旧(文化遺産の世界:2017年12月4日/2018年6月22日更新)
  6. 熊本城の宇土櫓に隣接する続櫓下の空堀に『はばき石垣』を設置する案(テレビ熊本:2021年5月31日)
  7. 宇土櫓石垣、新たな補強案 熊本城修復検討委に提示(熊本日日新聞:2021年6月1日)
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