歴史学者、研究者のための書籍『細川幽斎』書評前編

森鷗外の歴史小説からかなりの感化を受けているのではないか、 というのが一読した感想であるのは 中公文庫より上梓される 細川幽斎 (以下、本書)であり、執筆したのは末裔である 細川護貞 氏(以下、著者)です。 森鷗外の著作は当該分野の嚆矢たれば その影響下にある書籍が昭和の世に送り出されるのも怪しむには足りませんが、 平成とも元号の代わり愈々可笑しな歴史本の登場もある中には些か新鮮な本書でもあります。

本書は最初1972年12月に同題にて求龍堂から上梓されたものを 1994年に中央公論社より復刊したものです。 この跋文を見れば本書は宝暦2年(1752年)から享和3年(1803年)の半世紀以上もの年月に渡り 小野武次郎 (以下、編者)なる人物が熊本藩に於ける細川家に関連する史料を駆使して編んだ 綿考輯録めんこうしゅうろく を底本とし、 奥野高広 氏の著述 織田信長文書の研究、上巻 、及び下巻を参照しつつ現代に読み易く纏めたものだとされています。

本書は従って此れ等先達の骨太な著述精神を受け継ぐだけに それは決して読み易いものではありません。 例えば幽斎の生涯に大きな影響を齎した筈の太閤豊臣秀吉の死については第8章に当たる 和歌の日々 内の205頁に この年八月十八日太閤薨ず。 と記され、続いて 幽斎は吉田に閑居していて、十二月までそこにおり、その内伏見にも行ったりしていた。 と淡々と筆の進められるのみです。 その恬淡とした筆致は殿様筆法とも言えはしますが、 底辺からは縁遠い故に、 鼻息も荒く歴史を暴くが如きの言いっ振りも少々怪しい売らんかなの売文屋の書いた書籍に見られるような くだくだしくて余計な言い訳が当然の如く省かれるのは有り難くもありながら、 更には記す必要のあると思われる読者として知りたい処迄が省かれているのは、 些かあっさりとし過ぎた印象すらあります。

118頁には天正6(1578)年の発句御会初に関連して 著者の発句集と試筆間の齟齬や暦を見た上での出典についての私見が 註として括弧付きで記されているなどの例がありますが、 特別な事情がない限りはこうして特記はされるものではありません。 それは136頁には綿考輯録編者の註記などの大意も記され、 これは142頁に天正8年7月、信長から光秀に丹波が、幽斎に丹後が与えられ、 8月幽斎が丹後入りした際の丹後国について是非とも誌すべき必要が発生した段に 特に編者の言を引く箇所にも見受けられるものの、この如き記述は多くはなく、 返って余分な装飾は抜きにして本書をものしようと言う著者の姿勢が感じられるものです。 この姿勢は同時に底本に明らかに加えられたと思われる内容は 著者が特にこれを必要と感じたものであるのも知られ、 例えば日付についてなど跋文に奥野氏著書を参照した旨記され慎重を期した様子も伺えます。

同様に第10章に相当する 幽斎の死 の段の272頁に、 なお吉田の館は神龍池の前にあったので風車軒と号したともいう。 なる件は神龍と風車が如何なる繋がりを持つものか浅学者には判じ兼ね 一行なりとも解説の加えられるのを望むものの本書に其れは期待出来ません。 中には同章284頁に末裔の手前味噌となるのを敬遠してでしょう、 幽斎の葬儀にあたって嫡子忠興の装束を 愁傷の御中御粧ひ人に超え御威光に感じた と編者の筆になるものと明確にした件もあり、 子孫が先祖の物語をものする際の難しさについて編者を上手く利用した部分と言えます。 また同章には284頁、幽斎の死の前年、慶長13年(1608年)については 綿考輯録に全く記述がない旨に言及されるのは勿論 慎重を期すとは言え編者の声を大事に扱う姿勢をも表しているものです。

P2176878(天橋立) photo credit by merec0
P2176878(天橋立) photo credit by merec0

編者の声は他にも直接聞こえる部分が幾つか見られます。 第9章にあたる 田辺籠城 は関ヶ原の際の幽斎の丹後に於ける籠城戦を扱う段にて、 寄せ手、即ち敵軍に於いて働きの目星かった者を後の世に召抱えると言う、 当時の軍隊の在り様について興味深い事例が挙げられていますが、 此れを取り上げる際に編者がその細川家に召し出された者の子孫に尋ね、 其れに対する回答としての書付のあった旨など記されています。 また同章には和睦交渉に朝廷の使者が城中を訪いそれの返状を幽斎が認めている文章が記されますが、 後寛政5年(1793年)にこの下書きである途中で破かれた反故を編者が発見し細川家文庫に収めると共に、 文面が記され正式の書状とも比較も興味深いものですが、 編者のこの文面に感涙に咽ぶ様なども描写されゆかしいものです。

また著者は編者に拠るのみになく奥野氏の著述をも参照し、 出来得る限り事実に記す処を近づけようと意を払ってもいます。 92頁には天正3年(1575年)3月3日に信長に招ばれた席での 本願寺を攻め討つに当たっての幽斎への待遇の約束や、 細川家記に天正7年(1579年)とされる信長自筆の忠興への消息を 天正5年(1577年)9月の河州片岡城攻めの際の忠興の働きを記した箇所に記載するのも 奥野氏の著述に拠るものです。

即ち本書は学者の為の本、と言っても良いでしょう。 生半可な歴史数寄如きでは先ず歯が立たない内容を擁しているのは、 著者の細川家長として、永青文庫顧問としての立場が存分に活かされた 一般にはなかなかお目に掛かれない史料がふんだんに盛り込まれおり、 記載に当たって特別解説するような書き方はされていないにも因を発します。 従って予め豊富な歴史知識を有して当たる必要のある本書は 更に言えば学者に取っても用立つ書籍ともなっているでしょう。

例えば第4章に当たる 幽斎と信長 の段94頁から96頁には天正3年5月15日、20日、21日に 信長から幽斎宛てに送られた黒印状3通が紹介されます。 天正5年5月21日と言えば 長篠の合戦 のあった正しく其の日でした。 15日、20日には鉄砲手配の心配りを褒め、武田を根切りにすると息巻き、 20日には愈々長篠との距離を3里余に詰めた旨、 21日には完勝の余韻覚め遣らぬ如く残らず敵を討ち捕り候と戦勝報告がされ、 加勢の細川鉄砲隊を任を解いた旨、記されるもので 長篠の合戦の様子も生々しく前後合わせ髣髴とされる貴重な書状に覗えます。

此の3通の書状についてちょうどかたむき通信に書評をものした 信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像 (歴史の想像力) の第5章 長篠合戦―鉄砲”新戦術”への挑戦 に正しく引用されるものでした。 同書229頁に引用される3部分を以下列挙します。

  • 15日: 去る十五日の折紙、披閲せしめ候。鉄砲放、同じく玉薬の事、申し付けらるるの由尤に候。
  • 20日: 折紙披見せしめ候。鉄砲の事申し付けられ、祝着せしめ候。
  • 21日: 仍って鉄砲申し付けられ候。祝着せしめ候。爰許隙を明け候条、差し上せ候。

これを以て同書は信長が長篠の合戦に後方の戦闘不参加の武将からの鉄砲隊に付いては動員し 信長が鉄砲を重視すると共にその部隊は通常編成にはない臨時編成の合戦後即時解散されるべき 性質のものであり、以て長篠の合戦に新戦術の見られない支証となす訳です。 勿論同書が本書より引いたことは粗ないでしょうが、 学者に何某かのインスピレーションを与える潜在力を本書は有しているとも言えるでしょう。 従ってこそ本書を学者の為の本と言うべき処のものです。

併せて申せば56頁及び228頁には幽斎3男の妙庵還俗して幸隆のその生涯に能を極め、 豊前に37歳を一期とし、能に関する幾多の書付を残している、とあり、 また能学史研究の上から重要な人物ともありますから、 本書には此れ以上扱われないものの関連研究者には垂涎の史料が 当家管理下には眠っているのも推察されます。 また田辺籠城の段も終盤、268頁には編者の言を細川家中のものとして 敢えて表出を抑制せしめた部分も見受けられますので、 此れ等も実際に田辺籠城に功の有った家中名簿の何某かにて入用の際は その導きとなる本書の有り様を示しているものです。

本書主人公幽斎を初代として2代忠興の子が3代忠利にて 森鷗外の 阿部一族 に冒頭 従四位下左近衛少将兼越中守細川忠利 として現れる人物ですから本記事冒頭に記した如く 著者も鷗外の歴史小説に無関心ではいられなかったでしょう。 斯くて幽斎の学問を尊ぶ精神が連綿と現代にも受け継がれ、ものされた本書でもあると感じます。

本記事最後に本書の章立てを記し置きましょう。

  1. 出生
  2. 将軍足利義昭と共に
  3. 将軍との不和
  4. 幽斎と信長
  5. 丹波、丹後攻め
  6. 本能寺の変
  7. 秀吉天下をとる
  8. 和歌の日々
  9. 田辺籠城
  10. 幽斎の死
  11. 幽斎の歌集
  12. 付録
    1. 九州道の記
    2. 東国陣道記
    3. 細川家系図
    4. 年譜

さて以上が第10章に相当する部分迄に言及した本記事ですが、 本書に於いて此処迄が綿考輯録の第5巻に当たると著者はしており、 第6巻は幽斎への追悼歌の収められるのみにて本書では割愛、 第7巻以下の幽斎の筆になる詠歌、発句、連歌、教戒の歌、狂歌等に関し誌した章が最終章の第11章 幽斎の歌集 になり、合わせて付録に幽斎の道中記2編が収められるものです。 この本書末尾部分を中心とした書評を後編に、 また本記事で扱ったと同じ部分に於いて研究者ならぬ一般にもゆかしき内容を抜き出して 書評中編をも予定するものです。

追記1(2018年7月10日)

本記事に紹介する 『細川幽斎』 の底本こそ『細川家記』、即ち『綿考輯録』でしたが、 此れを所蔵するのは大名細川家に伝わる貴重な史料を保管する 永青文庫 でした。 其の顧問たる著者、細川護貞氏は大名細川家の末裔であれば底本を存分に利用した著書をものできた訳です。 さて、頃日、此の永青文庫が話題に登る状況が出来しました。 昨日、2018年7月9日に JBpress が配信した記事[※1] に状況が詳しく知られます。 先月、2018年6月の26日に永青文庫の所蔵する処の漢籍が、 中国国家図書館に寄贈された旨の発表を知らせたニュースです。 関して当該漢籍の重要性に付いて多方面から見た位置付けを鑑みたルポライターの 安田峰俊 氏が外交的意味合いを含ませ報じたものです。 中にも中国本土では散逸した一方、遣唐使が持ち帰った本邦では書写や刊本として伝えられ 其の内の天明7(1787)年に尾張藩で刊行された『群書治要』は今回の寄贈の目玉であれども、 極端に貴重なものではないとされるのが興味深い処でしょう。 古文書を学ぶ者に取っては江戸中期でも充分古く、読むのに難儀する処ですが、 此処では同じような方面からは論じはしません。 此処で注目したいのは永青文庫の実力です。 JBPressの元記事となった AFPBB News が2018年6月29日に配信された記事[※2] を見れば寄贈された漢籍は36部4175冊にて、 内、中国語版が25部、日本語版が11部とされています。 加えて文献の保存状態は、種類も全て整い、欠けた部分も殆ど見られない、非常に良好なものとされています。 流石は元肥後熊本藩々主の家系の連綿たる永青文庫の力量推して知るべし、です。 専門家に凡庸と評価されながら此れだけの良好な蔵書を他所に寄贈して微動打にしない蔵書量も相当の器量です。 恐らくは未だ未だ大名細川家秘伝の蔵書は発見され切らず秘蔵されているものと思われ、 なお一層の研究と其の成果共有が大いに期待されます。

なお、AFPBB Newsの記事では北京の式典に出席の細川護貞氏のご子息である 細川護熙 氏が永青文庫理事長と肩書きされています。 大名細川家の嫡系であり元総理大臣でもあれば順当な肩書きに違い有りません。 従ってこそJBpressの記事では政治的意味合いが強く読み取られたのでしょうが、 願わくば永青文庫には其の様な世俗的な位置からは超然とした立場を取り、 貴重な本邦の宝とも言うべき、文献史料の保全、公開に努めて欲しいものです。

追記2(2020年7月23日)

追記1に紹介したのは 永青文庫 所蔵の漢籍についてでしたが、大名細川家に伝来した同文庫の所蔵品は其れのみに留まらぬのは勿論、 能道具は九百点に上り、中にも おもて と呼ばれる能面は百三十面を数える他に類を見ない規模とされ、 資料としても極めて貴重であるとされます。 本記事主人公 細川幽斎 は若い頃より能に親しみ、隠居後にも太鼓の名手として演能に出演、 加えて嫡男忠興は自ら舞うと言う、代々能の庇護者であった家柄であればの伝来品と言えるでしょう。 本日2020年7月23日、能演目にも極めて儀式的で能楽の源流ともされる おきな を冠した企画展「翁―細川家の能の世界―」が設立七十周年を迎える永青文庫にて開幕[※3] されました。 同文庫の所蔵する細川家伝来に此れ等貴重な翁面や装束の観覧可能な本企画展は、来月末2020年8月30日迄開催されます。

使用写真
  1. P2176878(天橋立)( photo credit: merec0 via Flickr cc
参考URL(※)
  1. 日本の「凡庸な漢籍」ゲットで習近平が大喜びの理由〜文化財流出ではなく粋な対中外交だった細川コレクション寄贈(JBpress(日本ビジネスプレス):2018年7月9日)
  2. 魏徴の『群書治要五十巻』など4千冊 細川元首相、中国に漢籍を寄贈(AFPBB News:2018年6月29日)
  3. 大名家に伝わる能面・能装束の数々。永青文庫で「翁─細川家の能の世界─」展開幕(美術手帖:2020年7月23日)
かたむき通信参照記事(K)
  1. 新戦術は長篠合戦にありしか『信長の戦国軍事学』書評6(2012年12月24日)
細川幽斎書評記事一覧
  1. 前編~歴史学者、研究者のための書籍(2013年2月1日)
  2. 中編~出生から本能寺迄(2013年3月10日)
  3. 後編~秀吉の天下から幽斎の死迄(2013年4月12日)
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