前記事[H1]
にて「通し番号」を『変化抄』に振りました。
『変化抄』は静岡県浜松市は佐鳴湖の南岸地域、入野に於ける幕末の庄屋、
『変化抄』に於ける災害記述
「通し番号」活用の事例として、例えば以下に災害について記述された項目を列挙します。
「災害」についての研究者は
一覧の一番左は「通し番号」其の右の括弧入りは災害の年月日、次に災害内容を記し、 最後の括弧内には便宜の為、浜松市文化遺産デジタルアーカイブ[※1] の意の「DA」と其の掲載ページと、丁合が不明な為の、左右を示しています。 8年を隔てた1828年の「79(文政11年)大水」と1836年の「103(天保7年)大風雨、汐風」の両度に渡る 風水害で浜松地方に名高い小沢渡村の音羽の松、美園の松の両名松が被害を受けた事態を128番に別項目として記録していますが、 上の列挙には、災害が重複しますので含めていません。
『変化抄』著者の竹村廣蔭は、 1793年(寛政5年)に生を亨け、1866年(慶応2年)に鬼籍に入りましたから、享年74歳、201番に 「𛀕の𛄀𛂦やくより𛁈𛃺し𛀕けるを𛀸ゝ𛀘しこゑりいたし」た『変化抄』の脱稿が1852年(嘉永5年)にて、 早くより、とは1801年から1804年の年号「享和」も用いられるものの、8歳から11歳と記憶に曖昧な頃の出来事は明言が叶わず、3番に 「文化元年𛁄比𛂦圦五ヶ所𛂈切芝六𛁪𛀫ら位𛃚汐堰用意𛂈年〻積置来候処𛀕の𛁏𛀙ら止𛂈相成申候」と有る、 文化元年(1804年)が最も早い時期です。 24番の文化13年(1816年)には廣蔭も既に23歳、記憶に十分残りもし、 主要な村の働き手として心を痛める災害に記録にも留め始めていたものと思われます。
『変化抄』に於ける地震記録と安政地震
上の災害列挙一覧を見れば、 1816年(文化13年)から1855年(安政2年)迄と竹村廣蔭が記録を取っている凡そ40年間、 廣蔭23歳から還暦過ぎに至る間の災害は 大風、大水、旱魃、火災、地震、の五種類に分けられます。 風水害については、入野を中心とした西遠地方の情報に限られますが、 逆に火災などは近辺のものは挙げられず、江戸と京都に限られており、 地方からは遠方ながらも大都に注意が払われているのは注目すべきでしょう。 旱魃については頻度が少ない様で、記録されているのは203番の天保10年に於いてだけです。 地震に限れば以下の如くなります。
一覧には便宜の為最初の括弧内にスラッシュの右に西暦を加えました。 善光寺地震を除いては一年半の間に四つの地震が詰まっているのが見て取れます。 此の四つの地震は一連の安政地震に含まれる地震でもあります。 安政地震は全国的な規模で発生しましたから勿論、廣蔭の住む浜松にも甚大な被害を齎しました。 入野の南に程近い高塚には高塚熊野神社が鎮座し、此の鎮守の杜である「お宮の山」には、 神職が或る夜見た夢の高い丘を以て人を救うべしなる託宣に村人が神社の裏山に盛り土した処、 安政の大地震の津波で近隣に大きな被害が出たものの髙塚の人々はこの丘、「お宮の山」に避難して難を免れた[※2] とも伝えられ、此の高い塚を地名「高塚」の由来とするとされてもいます。
「解題・説明」に『浜松市史史料編四』掲載其の儘の文章に僅かに申し訳程度に加えられる 「備忘録・郷土誌、安政地震の記事あり。」 も、浜松市文化遺産デジタルアーカイブ[※1] でさえ取り上げざるを得ない災害であることを示しています。 斯様に『変化抄』に書かれずには置かれない大災害であった安政地震には世上一般に、以下に列挙される地震が連ねられています。 中にも『変化抄』に記される地震は太字にしておきましょう。 また末尾の括弧内には福和伸夫氏が 2016年11月11日に配信した安政地震を糧として首都の地震対策強化を訴える記事[※3] に記載されているマグニチュードを参考値として「M」の後に数字で記し置きます。
- 1854年7月9日(嘉永7年6月15日)伊賀上野地震(M7.4)
- 1854年12月23日(嘉永7年11月4日)安政東海地震(M8.4)
- 1854年12月24日(嘉永7年11月5日)安政南海地震(M8.4)
- 1854年12月26日(嘉永7年11月7日)豊予海峡地震(M7.4)
- 1855年3月18日(安政2年2月1日)飛騨地震(M6.8)
- 1855年9月13日(安政2年8月3日)陸前地震(M6.7)
- 1855年11月7日(安政2年9月28日)遠江沖地震(記載無し)
- 1855年11月11日(安政2年10月2日)安政江戸地震(M7)
安政地震と言えば通常「安政江戸地震」、東海地方に於いてせめては
「安政東海地震」
ばかりが取り上げられますが、一口に「安政地震」と言っても上の一連の地震が「安政地震」に関連する地震と位置付けられています。
加えて一般の認識は薄いのですが安政江戸地震の四日前に遠江沖にも地震が発生しているのです。
廣蔭の記す「安政南海地震」と此のもう一つの地震「遠江沖地震」の間だけ十箇月程と少し長めの期間が置かれるのですが、
此の間にも日本全国各地で安政地震は打ち続いているのでした。
此れ等の地震は『変化抄』には遠方故一々区別されず、210番に
「安政二年卯六月迠日〻両三度と𛃤り不止」として感知されているのかも知れません。
即ち震央の遠い此れ等と「遠江沖地震」では浜松に一線を画しているのです。
そして興味深いことに廣蔭は「遠江沖地震」の僅か四日後に発生し、
小石川の水戸藩邸に
東海地方に於ける歴史地震
本ブログ2019年1月26日の記事[K1] でも参考にした東海地方の地震を扱った書籍 歴史の中の東海地震・リアル (以下「リアル本」)にも「五、江戸時代後期の地震」に安政地震が一連の内、 「伊賀上野地震」「安政東海地震」「安政南海地震」の三つが取り上げられています。 一般に用いられる呼称の「安政東海地震」を「嘉永東海地震」、 「安政南海地震」を「嘉永東南海地震」と呼び替えていますが、 本記事では「安政東海地震」、「安政南海地震」で統一します。 取り上げる地震の選定に当たっては、「リアル本」13頁から16頁の9表に共通して見られるものを歴史的地震として抽出したとのことで、 以下に9表の題目を末尾に「リアル本」の頁数を添えて列挙します。
著者の藤田佳久氏は「実証研究をめざしながら物理的データ以外は捨象してしまう方法論上の特性が震災研究に共通してみられ」るのを避ける為に、 「思い切って時空間を越えて歴史的な震災のリアルを知ってもらうために、地震を体験し、経験して筆を執り、記録に留めた人達を現在に招いて、その時代の言葉ではなく現在の言葉で語ってもらうという試みを行うことにした。」として、 「奥三河山間部の各村」の「花祭」の「山見鬼」をイタコ的キャラクターに仕立て、 死者を蘇らせて現代の言葉で地震のリアルを聞く、と言う挑戦的で奇天烈な試みを「リアル本」に施しています。
では「リアル本」に取り上げられてはいないものの『変化抄』に於ける「リアル」を見てみましょう。 先ず伊賀上野地震について廣蔭の言を以下に記し置きます。 『変化抄』通し番号は208番です。 「嘉永七年寅六月十四日夜九つ時」の右の小書きの「春京都大火内裏御炎上」は省きます。
嘉永七年寅六月十四日夜九つ時大地震伊賀大
破奈良近邊同断四日市過半潰候上𛂋焼失
死人旅人共凡三百人計𛁄由當國𛂋て𛂞左程𛂋
𛂦無之さ𛄀と我帳(蚊ヵ帷ヵ)帳より出候節𛀸ろひ候
如何でしょう、廣蔭の「リアル」な描写は滑稽味を含んで猶状況を伝えるに秀逸な気がします。
最後の行の括弧内の「蚊ヵ帷ヵ」は此処に傍注として書き加えたもので、
「帳帳」と二文字連なって見えるのは恐らくは
「
そして「伊賀上野地震」は浜松に感知されたものの此の如き程度のものでした。 「安政南海地震」と「遠江沖地震」の間に発生していたら、 豊予海峡、飛騨、陸前地震と同じく、一連の余震の内の一つとして廣蔭が強いて取り上げる処にはなかったのかも知れません。
安政東海地震
『変化抄』に於ける安政東海地震の記述は「通し番号」175番になります。 以下に其の儘記載します。
嘉永七年寅十一月四日朝五つ半時大地震𛂈𛂎當
村三拾弍軒皆潰其余過半大破本家土蔵壱
長屋小屋皆潰余大破手前土蔵半潰長屋
隠宅味噌部屋皆潰仮小屋作り十四五日𛃚𛃝とりて
𛀕𛃚ひき𛃝𛀘りふく小屋𛂜苫を𛀄𛃯み
思𛂦ぬ冬𛂜月を見𛃓と𛂞
冬草を𛀘り𛂗𛂜床𛂜さむしろ𛂋𛀙𛁠
𛁈く月𛂜影そみ𛂋しむ
ふみ𛂋𛂞𛀄れといと𛀙𛀬迠𛂞𛀄ら𛀙𛂗𛂜
土𛀿けて𛀳る四方𛂜八十國
隠宅𛃚𛁭ふれ𛀳るとき
の𛀙れいてし𛀳ふさを鹿𛂜入野原𛂜
枯し草葉𛂋すみまよひけ𛃶
当村即死壱人平三郎内其余怪我人壱人𛃚無之
伊場西鴨江志都呂壱軒𛃚潰家無之前通村〻
是又左程𛂈𛂦無之候山﨑村𛂈𛂎𛂦家潰手足挟𛃅
𛄀𛀙𛂂しみ候𛂈付人〻寄切出シ可申寄候處へ津涛打
来候と呼立候得𛂦其侭打𛁏て逃け去候由被挟
居候當人𛂞其節𛁄心中思ひ𛃝られ候右様𛁄始末所〻
𛂋有之候
先ず嘉永7年11月4日の朝と其の日、其の時が記され、住む入野村の被害状況が書かれます。 自らの隠居宅も潰れてしまい仮小屋を拵え、不慮の状況へ唐突に身を置かれた驚きと、 2週間程仮住まいを余儀無く重ねさせられる侘しさを四種の短歌に詠んでいます。 近隣の被害状況は然程でも無い旨、記されるものの、 山崎村に於いての悲劇が語られ、諸処に似た様な事態が招かれたと記されています。 此処に注目したいのは遠州灘からは幾分内陸に入った浜名湖東岸「山崎村」に津波の存在が描かれていることで、 浜名湖から津波が押し寄せただろうのが分かります。
安政南海地震
安政南海地震は其の翌日の晩に起きました。 漸く形になった仮り葺く小屋の苫の荒い間から見える月に情け無さを感じる暇もなかったかも知れません。 『変化抄』に項目を連ねて「通し番号」は210番になります。 此方は項目内の当該箇所を抜粋し、以下に記載します。
同五日晩七つ過𛁄頃申酉𛂜仲方くらく𛂂り鳴聲天
地震動して山も崩る計の音𛂋て津波来ると
呼立一同𛂋𛀄𛂦て山へ逃去ル騒動𛁄其有様
飯櫃を持出し後より打来ると呼聲𛂋其櫃
捨て逃行𛃚𛀄り或𛂞麦米を𛀙𛁩き死な𛂞一所
と呼立位𛄋めき長持荷ひ老人𛂜手を引又𛂦
娘両親を両手𛂋て引𛁏る𛃚有病人を稲越舟
へ入𛁏る𛃚有鰡雑炊鍋を提山中𛀙け廻る𛃚
其道𛁄上を下へと騒動致シ其夜山或𛂞畑𛂋寝候
者余程有之候趣前通村〻より當村又𛂦伊場迠𛀙け
付候我家𛂞道より奥故𛂋一向𛂋不存候處後𛂋て
承り候趣此邊𛂞𛀿𛃚有そふ𛂂筈濱松又𛂦内野
邊𛂈𛂎𛃚山へ上り候咄前通五嶋其外村〻のさ𛄊
き故愚筆𛂋𛁲𛂞書𛀄𛃯𛂦し難及𛀄ら𛃆しを筆
記す
実に安政東海地震の翌日、俄かに西南西の沖方掻き曇り、と言いますから辺りは晩と言う程暗くはなっていなかったのでしょう、
天地震動は山も落ちんばかりの
此処に「仲」字は「沖」と、「位」は「泣」と読んでいます。 廣蔭の癖であるのか「氵」を「亻」に置き換えた様な字を用いた例が同二字に見られます。 因みに魚種の「鰡」は『変化抄』にも、 5番と61番に其れこそ今の新川に三月頃沢山入り込んでいたものが少なく変化した旨、書かれています。 戦後昭和の人にも懐かしく、今でも釣り人にはお馴染みでしょうが、 専用とまでではないとは思うものの、其の雑炊用の鍋迄此処に描かれていれば、 当時の人々には可成り馴染み深い魚であった様で、当時の食生活も垣間見えます。
夜半に入ると幾分落ち着いたのか、他の村々へと話柄は移ります。
入野でさえ此の様な騒ぎで、更に内陸の内野でさえ山へ逃げ登ろうとしたのだから、遠州灘に近い村々は猶大変だったろうと慮ります。
廣蔭自身は後になって知ったのですが、津波を恐れるべき海近くの村々から少し内陸に当たる入野や伊場へ逃れ来た人々が大分あった様です。
遠州灘沿いの五島地域の混乱は最早自らの筆には尽くし難いのであらましだけ記す、として
もう一つの安政地震と『浜松市史』
扨、『変化抄』210番には従来一向に注目されて来ませんでしたが、
上の「安政南海地震」と同項目内にもう一つ地震が描かれています。
若しかしたら同項目内に地震が二つも書かれるとは思われず一つにまとめ認識されて来てしまったのかも知れません。
東海地震に絞った「リアル本」にしてさえも触れられていないのは些か訝しく思われますので、
上の地震を選る際に参考にした9表を調べて見れば、其れ等の内、
驚くべきことに『変化抄』の言う安政二年の「九月廿八日」が取り上げられているのは表5の『雄踏町史』
「リアル本」が惜しくも見逃した地震を取り上げた『雄踏町史』を、では調べてみました。 「リアル本」巻末には<注>として参考文献が挙げられており、 12番目に「雄踏町史編集委員会(一九八九)「雄踏町史」、同町刊。」と記されているのですが、 しかし『雄踏町史』は実際に出向いて見た浜松市立雄踏図書館にさえ見当たりません。 此方が苛々するのを優しく受けながら雄踏図書館の若くて優秀な女性司書氏が 申し訳ないような時間を掛けて丁寧に探し出してくれたのが「雄踏町誌」にて、 何冊にも及ぶ各編の「雄踏町誌」中から平成元年3月23日発行『雄踏町誌年表篇』の14頁に漸う苦労して辿り着けたのでした。 其処に、西暦「1855」、年号「安政2」の第2項目として 「9.28 浜松地方に大地震がおきる。」と有り、「資料」欄に「浜松市史②」とされているのを見付けては、 思わず女性司書氏に「此れだ」と快哉を叫んでしまいました。 正しく廣蔭の言うもう一つの安政地震の発生日たる安政二年の「九月廿八日」です。 恐らく「リアル本」は此れを鼻から取るに足らぬものと一瞥して良し、とした様に思われますが、 其れでも表5に記し置いてくれていたのは有り難く思います。
『雄踏町誌年表篇』が引くのを『浜松市史二』として昭和46年3月31日発行の一冊を引き続き調べてみましょう。 すると265頁に「安政地震」の項目が有り 「安政地震は嘉永七年(安政元年、一八五四)十一月四日と翌二年九月二十八日と二回あった。」 嘉永七年十一月四日の「安政東海地震」と安政二年九月二十八日のもう一つの安政地震の二度に確り分けて認識されています。 此処に嘉永七年十一月五日の「安政南海地震」が認識されていないのは不問に付しますが、 矢張り一年弱の隔たりの有る地震は同一には語れないのが通常見解と見て宜しいでしょう。 では『浜松市史二』は如何なる典拠を以て此のもう一つの安政地震を認識したのかと言えば、 「安政地震」項目の文末に括弧付きで『変化抄』と記されています。 何のことは無い、此処で元に戻って『変化抄』に逢着してしまうのでした。
女性司書氏の薦めも有って更には昭和43年3月31日発行の『浜松市史一』も確認してみた処、 矢張り『変化抄』を典拠としていました。 「第四章 自然災害」61頁に「安政の被害」として、 「安政二年(一八五五)九月二十八日暮六ツ(午後六時)に起こった大地震の記録は変化抄に詳しく出ているので、」と有ります。 前頁の60頁には「安政地震」の項目が有り、 「嘉永七年(一八五四)十一月四日朝五ッ半時(午前九時)関東から東海道にかけて大地震が起こった。 その十一月二十七日改元して安政元年となり、 翌二年秋まで数回の地震が引きつづいて起こっているので、それらを一括して安政地震としておこう。」 と有るのを見た時には目を疑い、成る程、此れが一緒くたの元凶かと胸の内に唸ってしまいました。 大体が『浜松市史一』が二つの地震を「地震が引きつづいて起こっているので」と一緒くたにする根拠は 『変化抄』の210番「安政南海地震」の上に記した件に続く 「安政二年卯六月迠日〻両三度と𛃤り不止」 を間違いなく引いたものです。 『浜松市史一』に悪気が無く、基本的に二つの地震を分別しているのは分かりますが、 『変化抄』を引くならば、もう少し突っ込んで読むべきで、 斯く有れば決して二つの地震は誤解無き様、明確に二つに分けて記されるべきでした。 而して『浜松市史一』は『浜松市史二』より「もう一つの安政地震」を歴史から消し去るに関して罪が重いでしょう。 続く「その中でももっとも大きい地震は嘉永七年十一月四日と安政二年九月二十八日とに起こったものである。」と有るのは、 「安政南海地震」を取り零しておきながら、一体何を根拠にしているのか皆目検討が付きません。 上の表を見れば四日「安政東海地震」と五日の「安政南海地震」は共にM8.4と推計され、 震源地からの距離の隔たりはあるものの『変化抄』の廣蔭の書き振りを見れば決して浜松に小さな揺れではなかったのです。 県史、市史の類は時に有用では有りますが、其の儘の鵜呑みが好ましからざるのは此処に明らかでしょう。 此の類は屢々言われる「Wikipedia」程に価値は低くは有りませんが、 飽く迄二次史料で有って決して一次史料ではなく、編者の思い違いや誤謬も多く含まれています。
歴史地震の推計マグニチュード
「リアル本」に対しては批判がましく言いもした部分は有りますが、 「はじめに」からは「歴史地震」の研究について大変有用な知見が得られます。 「リアル本」に仍れば当該研究はデータベース作りから始まったとされ、その先駆けは関東大震災の後に 『増訂大日本地震資料、全三巻』、『日本地震史料』にまとめられ、 戦後には羽鳥徳太郎氏、飯田汲事氏の特に東海地方のフィールドワークでデータベース化を図られて来たとされ、 又、宇佐美龍夫氏に仍り全国の歴史地震による被害のデータベースが作成されたとしています。
歴史地震のマグニチュードの推計については 木下繁夫氏及び、大竹政和氏の監修になる 『強震動の基礎』[※4] に仍れば河角廣氏を嚆矢とする様で、 其の功績を受け継いだであろう「リアル本」に紹介される宇佐美龍夫氏の推計する歴史地震に於けるマグニチュードが、 昭和41年刊行の『地震研究所彙報第44号』の「76.日本付近のおもな被害地震の表」に記載され、 更には昭和62年発行の『新編日本被害地震総覧』を引いた地震予知連絡会地域部会報告第4、5、6巻に記載されていますので、 孫引きして上の福和伸夫氏文責の記事に記載される数値と併せ、 「安政地震推計マグニチュード時系列推移表」を作成して見ました。
安政地震推計マグニチュード時系列推移表地震名 | 旧暦 | 新暦 | 宇佐美 | 福和 | |
---|---|---|---|---|---|
昭和41年 | 昭和62年 | 平成28年 | |||
伊賀上野地震 | 嘉永7年6月15日 | 1854年7月9日 | M6.9 | M7.3 | M7.4 |
安政東海地震 | 嘉永7年11月4日 | 1854年12月23日 | M8.4 | M8.4 | M8.4 |
安政南海地震 | 嘉永7年11月5日 | 1854年12月24日 | M8.4 | M8.4 | M8.4 |
豊予海峡地震 | 嘉永7年11月7日 | 1854年12月26日 | M7.0 | M7.4 | M7.4 |
飛騨地震 | 安政2年2月1日 | 1855年3月18日 | 無記載 | M6.8 | M6.8 |
陸前地震 | 安政2年8月3日 | 1855年9月13日 | 無記載 | M7.3 | M6.7 |
遠江沖地震 | 安政2年9月28日 | 1855年11月7日 | 無記載 | M7.3 | 無記載 |
安政江戸地震 | 安政2年10月2日 | 1855年11月11日 | M6.9 | M6.9 | M7 |
歴史地震のマグニチュード推計に於いては当時を伝える古文書等の状況から震度を推定し、
其の震度の分布を以て震央を推定、更には適切な数式を以てマグニチュードが推計されます。
参照する古文書が増える程、推計数値は正確になる道理で、
時系列に仍るマグニチュード数値の変化は其の旨、表しています。
「安政東海地震」「安政南海地震」「安政江戸地震」に変化が見えないのは、
大きな地震、若しくは大都市に関連する地震で関与する人口も多く、
当初から遺され発掘された史料が豊富で有った為と考えられます。
宇佐美氏の昭和41年に推計値が与えられないのは斯く理由に因ると考えれば筋が通ります。
猶、地震予知連絡会の地域部会報告に於いては『新編日本被害地震総覧』の数値が修正されている可能性が有ります。
又一つ気になるのは福和氏の記事が専門的な論文ではない一般向けとは言え、安政地震に「遠江沖地震」が
遠江沖地震
当記事に「もう一つの安政地震」とも言い、「遠江沖地震」とも言った此の地震はしかし確実に有りました。
「遠江沖地震」との名称は此処に手前勝手、独自に設けたものではありません。
「リアル本」にはもう一人、地震研究者が彼の率いるグループと共に
「歴史地震史料の再確認作業を現地からスタートさせ、先覚の羽鳥徳太郎や飯田汲事らの研究成果の再チェックも行い、
各地の津波の波高や浸水域を地図上で確認する作業をすすめている。
それらの成果は地震関係誌上などに精力的にまとめられ報告されている。」
と紹介される
都司氏が安政2年9月28日の浜松地方を襲った地震を「遠江沖地震」と命名したのは 上の河角廣氏や宇佐美龍夫氏も会長を務めている「公益社団法人日本地震学会」が1982年(昭和57年)に発刊した 「地震第2輯35巻1号」の35頁から51頁の論文「安政2年9月28日(1855-XI-7)の遠江沖地震について」(以下「遠江沖地震論文」)に於いてです。 命名の記載が有る35頁の「§1.はじめに」を下に引用します。
安政東海地震(安政元年11月4日,1854年12月23日)が起きて323日後,安政2年10月2日(1855年11月12日)に安政江戸地震が起きている.この安政江戸地震の4日前,安政2年9月28日(1855年11月7日)の夕刻,遠江を中心として東海地方全般から近畿地方にかけて,かなり強い地震があったことは,これまではほとんど知られていなかつた.「日本地震史料」[武者(1949)]にも,この地震については,わずか 6種類の,合計7行分の史料しか載せられておらず,しかも地震の中心地が丹後であると総括されている.ところが近年,この地震の新史料が東海地方を中心として見出され,その全体像が明確になつてきた.この地震は,遠江浜岡の近隣村落,掛川付近および浜松周辺で倒壊家屋を出し,天竜市域で山崩れを引き起し,御前崎付近で沈降,浜名湖口で隆起という安政東海地震とは逆の傾向の地変を伴い,伊豆下田,伊勢市,および尾鷲市などに小津波をもたらし,震央をほぼ安政東海地震と同じ位置とする規模 M=7.1 と見積られる,安政東海地震の最大の広義の余震であることが判明した.この地震をいま仮に「遠江沖地震」と呼ぶことにして,その状況を見ていくことにしよう.
「リアル本」では一般的呼称の「安政東海地震」、「安政南海地震」を「嘉永東海地震」、「嘉永東南海地震」と呼び替えましたが、 余り感心される行為ではなく、又奇妙なのは通常「東南海地震」と言えば、昭和19年(1944年)12月7日に、 紀伊半島南東沖を震源として発生したもので、元来「東南海地震」はこの「昭和東南海地震」を指す名称で、 少しく地震名に錯綜があり問題です。 正名論を持ち出す迄もなく凡そ名前と言うものは重要で、 現代研究者の必須スキルであるプログラミングに於いてもRuby言語の作者 まつもとゆきひろ氏は「名前重要」の旨、繰り返し述べています。 名前と言うものは手前勝手に迂闊に変更すべきものにあらずして、 本記事に於いても安政2年9月28日地震の呼称は都司氏が論文に「仮に」としたとしても、 此れを嚆矢として、現在他に研究者間に浸透する名称無き上は、強く拠るべきものと主張する処です。
「遠江沖地震論文」では37頁の「§3.遠江沖地震に関する文献」の「Table1」表に59件の文献を揃える中に、
21番に原文献所収を『浜松市史史料編4』として『変化抄』を挙げています。
猶、当該表の30番には「安政東海地震」の記事が『田原町史』が編集の際に誤って「遠江沖地震」のものとして掲載されていた、
と有りますから、上に書いた通り矢張り県史、市史の類は扱いに慎重さが必要であるのを、
59件揃えられた文献にも『変化抄』が「遠江沖地震論文」に重要な役割を果たしているのが伺えるのが、 44頁の「5.5.被害地域の状況について」及び45頁の「5.6.地変について」に於いてです。 25行の「5.5.被害地域の状況について」、17行「5.6.地変について」の内にも『変化抄』が触れられる部分が多く占める、 当該部分を以下に引用しましょう。
〔21〕は浜松市西郊入野に住んでいた竹村広陰によつて書かれたのであるが,それによると彼の家は安政東海地震で被害を受け,その修理中にまたこの遠江沖地震で大破損した.同所の陽徳庵という寺院の本堂が破損同様となつたと述べたあと,入野の南1キロの東海道筋の被害が大きかつたこと,とくに米津は27軒皆潰れとなつたこと,白羽,中田島は安政東海地震の時と同様に泥水が吹き出したことを記てしいる.
〔21〕に御前崎の北,相良の駒形石について興味深い記事が載つている.安政東海地震によつて「駒形石,これまで(安政東海地震の前まで海面下に没していて)見えざる処,(安政東海地震によつて隆起したので)弐尺余あらわれ出候ところ,同(安政二年)九月廿八日暮六ツ時又そろ大地震にて(中略),相良駒形石も水底にあい成り,以前の通ニ候由,承り及び候」.御前崎付近は安政東海地震のとき相当広い範囲隆起したことはいくつかの文献に記されているが,この遠江沖地震で逆にこの付近は沈降したというのである.
…
浜名湖口地方は安政東海地震のさい沈降したが,やはり 〔21〕に「当村(浜松市入野,当時浜名湖はここまで入つていた)は此度之大地震にて元々へゆり直し候趣ニ而,汐ハ満来不申,夫より段々当村人気立直り候」とあつて,この遠江沖地震で隆起したため,浜名湖の塩水が入野の田畑,集落に浸入することがなくなりようやく以前のように人が安心して住み付くようになつた,というのである.
伊能忠敬が延享2年(1745年)から文政元年(1818年)を生きており、
『変化抄』に書かれた遠江沖地震
「遠江沖地震」が『変化抄』に書かれるのは「通し番号」210番の、
上に二つの地震が一緒くたとされた恐らく要因の一つの「安政二年卯六月迠日〻両三度と𛃤り不止」なる
同九月廿八日暮六つ時又候大地震𛂈𛂎手前共手
入致候分大破損𛂈相成陽徳廬本堂潰同様寅
年地震𛂞余程𛃤る𛃝𛀙𛂋候処前通村〻𛂞余程強
𛀫米津村廿七間皆潰𛁄由白羽中田嶋邊寅年
同様泥水吹出渡り候由當村𛂦此度𛁄大地震
𛂋て元〻へ𛃤り直し候趣𛂈𛂎汐𛂞満来不申夫より
段〻當村人氣少し立直り候氣合𛂈相成申候扨
相良駒形石𛃚水底𛂋相成以前𛁄通𛂈候由𛂈承り及候
「安政南海地震」は「同(嘉永7年11月)五日」と書かれるのに対し、安政2年9月28日では十箇月離れている勘定にて、 当然の如く都司氏は同一にすることなく上の引用には「安政東海地震の最大の広義の余震」として扱っている「地震」です。 「寅年地震」は勿論「嘉永七年寅十一月四日」の「安政東海地震」と「同五日晩」の「安政南海地震」であり、 廣蔭には「遠江沖地震」と「安政東海地震」若しくは「安政南海地震」のどちらかが同じ地震とは決して認識されておらず、 「遠江沖地震」を記す中に、去年の連日の「安政東海地震」と「安政南海地震」こそが同一の 寅年の地震 と認識されています。
此の
「寅年の地震」からずっと「安政二年卯六月迠日〻両三度と𛃤り」 止まなかった余震が少し落ち着いたと思った処の安政2年「七月廿六日大風雨」や「八月十九日より廿日大風雨」には、 「高汐満来堤打越」て「舞坂より西篠原迠前後高汐西鴨江片草志都呂宇布見」に至る迄被害を受けていたものが、 「遠江沖地震」の後には「汐𛂞満来不申」となりました。 「揺り直し」た結果、高汐被害が起こらなくなった、とされているのです。「寅年の地震」では「度〻堂地へ乗り候□〔事ヵ〕壱尺位當村目印𛁄石より平水壱尺五寸𛃚高𛀫相成関西𛂈𛂎𛂦弍尺ト云伊勢御師手代申候𛂈𛂦弍尺五寸高ク相成候由」と書かれる地変が有りました。 此れ等は変化を水位を以て表しており、度々の堂地への乗り入れが一尺、入野では一尺五寸、 関西と有るのは恐らく新居関所の西では二尺、 伊勢御師手代に聞き及ぶには二尺五寸も水位が上がったとの話が記されています。 伊勢御師手代の主張する処が何処かは分かり兼ねますが 「遠江沖地震論文」には42頁の「Table3」表の41番の「Ise City」に 岩瀬文庫の『地震海溢記』、神宮文庫の『下宮子良館日記』『朝喬郷公文当用録』を根拠に震度がⅢ〜Ⅴと推定されているおり、 併せて結構な地変を伴っている旨の文意を引かれますから、 少し浜松から離れはしますが、恐らくは伊勢神宮での水位の上昇を言っているとして宜しいでしょう。 堂地、入野、関西、伊勢御師手代の主張する処では「寅年の地震」で水位が上がったものが、 高汐の被害を被らなくなったと言うことは「遠江沖地震」の後の水位の下降を表しています。
処が「當國相良白羽」では 「駒形石是迠不見処弍尺余𛀄ら𛄋れ出候」とも有ります。 今迄見えなかった「駒形石」が姿を現したのだから、堂地、入野、関西、伊勢神宮とは逆に水位は下降している理屈です。 「當國相良」とは田沼意次の治世で有名な遠江国相良藩を指すのでしょうが、 「相良」は現在の牧之原市に当たり、現在御前崎市に属す御前崎先端の「白羽村」迄相良藩に含まれるかは否かは判然せず、 帰属の入れ替わりも有った様で天領若しくは旗本領だった可能性もありますが 「當國相良白羽」と書くには、廣蔭は御前崎先端を指しているのだと思われます。 御前崎沖には「御前岩」とも「駒形岩」とも呼ばれる岩礁が有り[※5] 此れが廣蔭の言う「駒形石」であるのでしょう。 詰まり「寅年の地震」で水位が下降し、今の御前埼灯台沖の暗礁「駒形石」が二尺程姿を現した、と読み取れるのです。 此れが「遠江沖地震」の後には 「相良駒形石𛃚水底𛂋相成以前𛁄通𛂈候由」と有る様に、 「駒形石」は御前埼灯台沖に再び姿を消して暗礁に舞い戻った旨、書かれています。 遠州灘をずっと東に下った駿河湾の入り口たる御前崎に於いては西側の地変とは逆に「寅年の地震」で水位が下がったものが、 「遠江沖地震」では水位が上がった、と書かれているのが分かります。
「駒形岩」とも「御前岩」とも呼ばれる、廣蔭が書く処の「駒形石」は、 今に至るも危険な暗礁として「御前岩灯標」が設置されていますから、 此の西から東に天秤が逆に傾く様に見える奇妙な現象を、 当時にも恐らく広く知られた「駒形石」を以て廣蔭は「安政南海地震」から「遠江沖地震」に至る項目を〆たのでしょう。
生活者としての高潮被害への意識は勿論、恐らくは舟運に敏感な庄屋階級の感受性も垣間見え、
更に興味深いのは「遠江沖地震」が「寅年の地震」でズレを生じたものを是正する方向に働いたことが強調される書き振りで、
実に廣蔭が210番に「安政南海地震」と「遠江沖地震」を十箇月の隔たりが有るにも拘わらず一緒に突っ込んだのは、
恐らく「揺り戻し」について前の地震の変化が後の地震の変化に因ってピタリと元の状態に戻る
不可思議な現象を描きたかったからではないかとさえ思われます。
実際、自身も『変化抄』を初めて読んだ際には此の
遠江沖地震は,安政東海地震によつて生じた地変の「いきすぎを戻す」ような安政東海地震と逆の地変を伴つている.
遠江沖地震の被害状況
『変化抄』が重要なのは「遠江沖地震論文」47頁の「Fig2」遠江地方の拡大図を見ても明らかでしょう。 1855年11月7日の各地の地震の揺れに応じた各マークが記される中に、 「過半の家の倒壊」を表す二重丸の中が黒く塗られたマークが『変化抄』を表す「21」と共に記されているのが分かります。 「遠江沖地震論文」の39頁には21番の浜松市入野で書かれた文献、即ち『変化抄』が「遠江沖地震」の被害を述べている中に、 約9行分だけこの地震の記事が現れる、としてあり、此れが根拠となって「Fig2」が描かれていますが、 行数が上手く合いませんので『浜松市史史料編四』から各所該当部分を適宜抜き出したのが9行分なのだと思われます。 此の適宜抜粋した被害を「原文説明及び各地推定震度一覧」とでも訳される 「Table 3. List of original descriptions and estimated intensity at each place.」 に適用したのだと思われます。 「遠江沖地震論文」の「Table3」に『変化抄』を以て推定される震度を原文と対応する為に、 以下に該当部分を抜粋して記し置きます。
No. | Location | 原文 | 推定震度 |
---|---|---|---|
14 | Sagara | 白羽駒形石二尺余あらわれ出候処(略) 水底ニ相成(安政東海地震の)以前之通ニ候 | ― |
20 | Irino, Hamamatsu | 筆者の家大破損, 寺本堂潰同様, 浜名湖岸隆起 | 5 |
21 | Yonezu, Hamamatsu | 廿七軒皆潰之由 | 6〜7 |
22 | Shirowa and Natatazima, Hamamatsu | 泥水吹出渡り候由 | 5 |
23 | Hamamatsu | 潰家 5, 所々破損 | 5 |
「Fig2」に「過半の家の倒壊」を表す二重丸の中が黒く塗られたマークが即ち「Table3」で 最大の震度となる「6〜7」と推定されてるのが注目されます。 上の表の「原文」項目は「遠江沖地震論文」が可成り略して抽出したものですので、 更に詳細に推定震度と『変化抄』の原文との対応を見る為の表を新たに下に作成します。 表中に「No.」としたのは「遠江沖地震論文」の「Table3」のもので、 以て上表の推定震度との対応を見る為の配慮にて、「ID」としたのは『変化抄』の対応部分の含まれる項目の「通し番号」を示します。
No. | ID | 『変化抄』原文 |
---|---|---|
14 | 210 | 當國相良白羽駒形石是迠不見処弍尺余𛀄ら𛄋れ出候と申候処 |
14 | 210 | 相良駒形石𛃚水底𛂋相成以前𛁄通𛂈候由𛂈承り及候 |
20 | 210 | 手前共手入致候分大破損𛂈相成陽徳廬本堂潰同様 |
20 | 210 | 今切湊𛂞凡弍百間計𛁄処津濤打来七百間𛂋相成杭𛀄ら𛂦れ出候是寳永年中大地震荒𛂋打候杭な𛃶と申候 |
20 | 210 | 度〻堂地へ乗り候中壱尺位當村目印𛁄石より平水壱尺五寸𛃚高𛀫相成関西𛂈𛂎𛂦弍尺ト云伊勢御師手代申候𛂈𛂦弍尺五寸高ク相成候由 |
20 | 210 | 元〻へ𛃤り直し候趣𛂈𛂎汐𛂞満来不申夫より段〻當村人氣少し立直り候氣合𛂈相成申候 |
21 | 210 | 前通村〻𛂞余程強𛀫米津村廿七間皆潰𛁄由白羽中田嶋邊寅年同様泥水吹出渡り候由 |
22 | 210 | 前通村〻𛂞余程強𛀫米津村廿七間皆潰𛁄由白羽中田嶋邊寅年同様泥水吹出渡り候由 |
23 | 176 | 濱松𛂞寺院本堂或𛂞床〔庫ヵ〕裏六ヶ寺潰門弍ケ寺潰町方七軒皆潰土塀長屋同断即死弍人土蔵大破𛀙𛁛へ𛀙𛁠し御城長屋皆潰所〻大破 |
此の対応を見ると「Table3」の「No.23」の扱いが些か
遠江沖地震の震央とマグニチュード
以上の『変化抄』から読み取られる被害状況から推定された震度を含め、 他データを併せた震度分布から「遠江沖地震論文」が求めた「遠江沖地震」の震央とマグニチュードが 48頁「§6.地震の規模および震央位置の推定」に記されています。 結果として推定される「震央」を見れば「λ=137.8°E,φ=34.5°N」とされており、 此れを地図で見ると以下に埋め置くGoogleマップの如くであり、 天竜川河口沖16.5kmの位置となります。
此の震央に「遠江沖地震論文」に推計されるマグニチュードを都司氏は「7.1」と結果付けています。 此れは恐らくは都司氏に仍る結果よりは正確性に欠けるであろう宇佐美氏に仍る推計マグニチュード「7.3」よりは小さいものの、 「安政江戸地震」より規模が大きいもので、決して小さな地震として無視されて良いものではありません。 此の貴重な「遠江沖地震」の情報を『変化抄』は一次史料として提供しているのです。
遠江沖地震の更なる被害状況
『変化抄』を見てみれば「遠江沖地震」の被害が書かれるのは、 原文では通し番号210、176、211が相当しますが、 「遠江沖地震論文」の「Table3」に見られるのは210、176で211番が見られません。 『変化抄』には「遠江沖地震論文」に利用される以外にも「遠江沖地震」に於ける被害状況が記される文章に通し番号211番が有るのです。 此れは176番に浜松城下町の被害状況を記し、続いて廣蔭の知り得た広域の「遠江沖地震」に於ける被害状況を記したものにて、 廣蔭息が安政3年3月と言いますから「遠江沖地震」の四箇月後に用向きで各地を歩いた際に見聞きした被害状況を、 廣蔭が聞き書いたものとしています。 以下に211番全文20行を記し置きます。
三嶋村より下潰家多𛀫其上泥水吹出し流れ𛄋𛁠り
候由田畑高底𛂋変地し町屋邊家過半潰
同泥水吹出し膝を過候位𛂋流𛄋𛁠り田畑変
地下掛塚家皆潰弍百軒潰同様三百軒近邊
所〻弍三尺位ゑみ同泥水吹出し𛄋𛁠り候由
池田𛂞潰少し夫より下前野保六嶋近邊不残
皆潰福出駒場近邊別𛂎皆潰中泉𛂞左程
𛂋𛃚無之由夫より村〻潰家多𛀫横須賀過半
潰近邊同断御城不残潰夫より川㞍近邊
潰家多𛀬相良川崎邊同断見附宿裏通り
潰家多𛀬土蔵大破即死七人𛁄由河合皆潰焼
失𛂂し袋井皆潰𛁄上焼失死人六十人余𛁄由
𛂈承り候旅人𛃚余程死人有候旅宿𛁄寺方御
朱印を焼候𛃚有之候由怪我旁〻員数不知荒
屋久津部村不残皆潰掛川皆潰𛁄上不残焼失
死人袋井より𛂞大宿𛂈𛂎𛃚死人𛂞至て少き由𛂈承り候
大手潰城門大破𛁄由森𛂞左程𛂋𛃚無之山莉潰
𛁄上不残焼失其余近邊大潰𛁄由𛂈承り候倅
安政三辰年三月要〻𛁄儀有之通行致候𛂈
付承り筆記仕候
被害状況の書かれている地名を順に挙げていけば、三嶋、掛塚、前野、保六嶋、福出(福田)、駒場、横須賀、川㞍、相良、川崎、見附宿、
河合、袋井、荒屋、久津部、掛川(城)、森、山莉(袋井市山梨ヵ)、となり、現在の浜松市のみならず、
磐田市、袋井市、森町、掛川市、と遠州にも天竜川を中心として可成り広域に渡っての被害が記されています。
しかも書かれる被害状況は
此の211番は「遠江沖地震論文」への利用は見えない様ですが、
推定震央が天竜川河口沖であるならば当然挙げられるべき地名群であり、
即ち「遠江沖地震論文」に震央として推定される天竜川河口沖16.5kmに合致する様に見え、
恰も推定震央の正しさの裏付けかの如くあります。
決して「遠江沖地震論文」の価値を落とす
更に一つ史料を加えれば「遠江沖地震論文」の「Fig2」に丸に十字マークが
以上は「遠江沖地震論文」への利用が見えず、加えて管見には以後の地震研究への利用も見えませんので、 若し未使用であれば是非利用の上、研究の精度を上げて欲しく思います。 延いては「安政地震」の一つとして、又「歴史地震」としての「遠江沖地震」の認知の、更なる世への広がりを望むのです。
苦言
以上、見て来た如く『変化抄』は歴史地震を知るのに一次史料としてとても大きな役割を果たしていました。
此れは某国(N)放送(H)某国営(K)でタレント学者に因り某大河ドラマとやらの為に適当にでっち上げられる
テレビばかり見ている情弱老人慰み用のポピュリズム史実とやらを裏付ける際の適当な利用のされ方とは
別次元の一次史料としての利用に違い有りません。
一次史料というものは所謂歴史学者に妥当に利用されるものは全く少なく、
其の利用のされ方は凡そ三文小説家や敗戦参謀本部の牽強付会的なものと一般にて、
他分野の専門家に利用される際の方が健全であるのは経験上強く思う処で、
其の悪因たる所謂歴史学者に全く不足する論理的思考を補う為に教育課程に於いては
せめて初等数学課程の必須を強く主張したくは常々思います。
此の直情径行的紋切り型短絡傾向は戦前の歴史学者には見えませんので、恐らくは戦後、テレビっ子たる団塊の世代以降の問題と捉えられます。
此れは現在の日本の国力減退の一因ともなっているでしょう。
大体が因数分解や初等幾何さえ理解出来ぬすやい輩に、村社会で授けられた学者の名の下に国費を無駄に使ってはなりません。
猶々現代に意味不明なのは文系理系の
本記事に於いては『変化抄』は「遠江沖地震」研究に於いて実に重要な一次史料として扱われている旨、記しました。 斯くも浜松に貴重な情報を書き遺しててくれた廣蔭ですが、 彼の住んだ浜松に於いて此れが確り受け止められているかと言えば言葉を濁すしか有りません。 地元浜松に於いて確実に有った「遠江沖地震」と言う「歴史地震」は無かったものとして無視されてしまっている、 と言っても過言ではない状況です。
此れも本記事に書いた通りですが、
『浜松市史』は浜松市全体に全時代を網羅する必要の為に詮方無い面は有るとは言え、
既に『浜松市史史料編四』が用意されてある以上、もう少し史料を読み込んだ上で記述に注意を払うべきでした。
截然たる地震の区別を曖昧に濁されているのは、読む者に誤解を与え兼ねず、甚だ遺憾に思われます。
本記事に見て来た如く県史、市史、町史の類は誤謬も多いものから、
今や取り返しの付かない勘違い老人が本棚に並べて喜ぶ用の分厚く立派な装丁に整えおく権威主義は好い加減捨てて、
webに公開されるべきものではあります。
大体がそんな御大層な冊子、図書館から借り出すにも、禁帯出の場合でさえ取り扱いが面倒で百害あって一利も有りません。
糅てて加えて問題なのは浜松市博物館です。 廣蔭の『変化抄』は浜松市博物館所蔵です。 勿論所蔵の全ての古文書の内容を把握すべきとは言いませんが、 上にも書いた様に、webサイトに公開された『変化抄』[※1] に記載される「解題・説明」に「備忘録・郷土誌、安政地震の記事あり。」とも書き、 「主題」欄には「安政地震資料」と大書してあるのですから、 『変化抄』が「安政地震」の内容を含む処か、『変化抄』は「安政地震」の典籍である、と迄言い切っているのであって、 「安政地震」に関する内容は最低限『変化抄』に読み取られていなければなりません。 因みに老婆心ながら「主題読み」欄の「あんせいじしんえず」は直した方が宜しいでしょうことを書き加えておきますが、 其れだけ言い切るならば『変化抄』が「安政地震」とだけ書くだけでは済まされない 「遠江沖地震」の貴重な一次史料であるのも所蔵館として知っていて然るべきです。
浜松市博物館では平成28年(2016年)の3月5日から5月8日にはテーマ展として「浜松と地震」が開催されていました。 「リアル本」の刊行が2018年3月22日であり、 10頁に「浜松博物館が数年前の遠江における地震史の展示会の際に作成された地震災害年表を利用した。」とあるのを考えれば、 東海地方の安政地震を抽出するに、恐らくは表3の『浜松博物館』とは、 此のテーマ展に於ける年表を参照しているものと考えられます。 以下に「リアル本」14頁の表3から他史料との対応を示す空白を省き表にしました。
明応7年(1498) | 8月25日 明応地震 |
天正6年(1578) | 遠江国地震 |
慶長9年(1604) | 東海・南海・西海道地震 |
元禄16年(1703) | 元禄地震 |
宝永元年(1704) | 引佐郡地震 |
宝永4年(1707) | 10月4日 宝永地震 |
享保3年(1718) | 7月・12月末まで余震、遗江へ山城 |
天明3年(1783) | 大地震 |
寬政4年(1792) | 龍山地震 |
寬政7年(1795) | |
寬政9年(1797) | |
文政7年(1824) | 佐久間地震 |
安政元年(1854) (嘉永7年) | 11月4日 安政東海地震 |
11月5日 安政東南海地震 | |
安政2年(1855) | 10月2日 安政江戸地震 |
案の定、「安政東海地震」、「安政東南海地震」から『変化抄』に記される処に無い「安政江戸地震」へ飛んでしまって、 年表に「遠江沖地震」は無いものとされてしまっています。 猶「安政東南海地震」と記される不都合は繰り返しは書きませんが、「リアル本」の主張の出元は如何やら此処であった様です。 此の年表に「遠江沖地震」が無ければ「リアル本」が当該地震を無いものと扱うのも致し方無いでしょう。 浜松市博物館が自らの収蔵品をテーマ展に然るべく適合処理していれば、 主テーマに東海地震を掲げるに仍り安政地震に於いて中心に扱われても宜しい位の「遠江沖地震」が、 丸で無いものの様に取り扱われた「リアル本」の体裁も真逆無かったでしょう。 元来、公立博物館は収蔵品の保全と公開に主眼を置かれ予算を組まれているのであって、 研究者としては当該保全と公開の最低限の担保程度の期待しかされていませんから、 「リアル本」の様に余りに情報源として頼り切るのも問題が有るのかも知れません。 ともあれ廣蔭が取り上げていない「安政江戸地震」ばかりが記載され、 「遠江沖地震」が一顧だにされないのは浜松、遠江地方に於いては全く的外れであるのを思い知るべきです。
此のテーマ展は自らも偶々観覧する処でしたが、残念ながら全面的に撮影禁止でしたから、 入口の立て看板を一枚写真に収めただけでした。 浜松市博物館が写真撮影に寛容であるのには常々感謝しており、 撮影禁止に当たっては貸与者の意向、遺物の保全など其れなりの必然性が有るのは重々承知してはいますが、 此れでは調査不足の言質を取られない為の禁止ではないかとの疑念も正直軽く湧いてしまいます。 序でに言えば、強い光が年代物の展示品にダメージを与えるのは大凡周知されているでしょうから、 博物館が展示物への照度を落とすのも一般に理解され得ますし、然う対処されるべきです。 例え其れを鑑みて照度を落とした博物館程度の光量でも、最近のiPhoneなどでは撮影に全くフラッシュの必要は有りません。 数年前に一度、学芸員氏に撮影可の念押しをした際に、但しフラッシュは炊かない様求められて、 笑いながら今時フラッシュなど必要ない旨申し出て驚かれましたが、 従って撮影時のフラッシュは全面禁止として差し支え無き旨、蛇足ながら此処に書き加えておきましょう。
「リアル本」では、『雄踏町誌』に九月二十八日の浜松の地震を見、 また田原博物館所蔵『永代歳月珍事書留帳』に牧野庄右衛門の言質を見ながらも、 結局「遠江沖地震」は取るに足らぬものと一顧だにされませんでした。 又、一般向け記事とは言え地震対策に警鐘を鳴らすに「安政地震」を取り上げる福和伸夫氏の記事[※3] にさえ、「遠江沖地震」は無きものにされてしまっています。 両者共肩書きは大学教授である様ですので、 此れが今現在の世上の「遠江沖地震」に対する一般理解と解して宜しいでしょう。 確実に有った地震が無かったものと全く無視されてしまうのは、文化、災害、郷土史等様々な面に憂慮すべき事態にて、 戦犯たる『浜松市史』及び浜松市博物館は罪深くあるのを深く反省し、竹村廣蔭に謝し、 「安政地震」に限定するだけでは済まされない「遠江沖地震」の貴重な一次史料である『変化抄』の其の価値を、 廣蔭の地元浜松に於いてであれば猶、向後確り汲み取り置かれたく思うものです。
追記(2022年10月7日)
本記事を配信して直ぐに折り宜しく浜松市舞阪郷士資料館にて企画展「安政地震を伝える」が 催されているのを知りました。 浜松市舞阪郷士資料館は浜松市博物館の分館でもあります。 浜松市博物館の平成28年(2016年)のテーマ展「浜松と地震」開催時の情報も関係から何某か得られるかとも思い、 前々から思い描いていたところの本記事を漸く書き上げた安堵感と重荷を下ろして軽くなった気持ちから、 序でにお尻も軽くなって、当地舞阪町舞阪に赴いたのは2022年10月5日でした。
舞阪は
企画展「安政地震を伝える」の展示は中程のL字型の一コーナーに設けられており、 当時を伝える古文書で構成されていました。 有り難くも、とば口の台には今回の展示資料の目録が一枚の紙に印刷されて用意されています。 以下に一覧を当該資料の記述に従い「No. 資料名/制作・発行年」の順に記し置きます。
- 東海道大地震津波《一枚物》/[嘉永7年(1854)11月7日]
- 国々地震聞書《一枚物》/嘉永7年(1854)11月頃
- 東海道南海道国々大地震大つなミ《一枚物》/嘉永7年(1854)11月
- 東海道筋並上方筋大津浪大地震之事《一枚物》/嘉永7年(1854)11月頃
- 摂州大坂泉州河内大和紀州都合五ヶ国大地震大津波《一枚物》/嘉永7年(1854)11月頃
- 摂州大坂并ニ諸国大地震の図《一枚物》/嘉永7年(1854)11月頃
- 大地震大津波末代噺二編・今昔地震津浪説《一枚物》/嘉永7年(1854)11月
- 関東大地震図《一枚物》/嘉永7年(1854)11月頃
- 大地震大津浪末代噺廼種《冊子》「諸国大津波角力見立末代噺種(番付)」/嘉永7年(1854)頃
- 大地震大津浪末代嘶の種・下《冊子》「大地震末代噺種(野宿)」/嘉永7年(1854)頃
- 地震津浪末代噺乃種《冊子》「大津浪末代噺種(高坊主)」/嘉永7年(1854)頃
- 大地震世直仕艸紙(雙英堂)《冊子》「十一月五日の夜大津浪来ル前大坂前垂嶋に出る怪異の図」/嘉永7年(1854)頃
- 東海道筋諸国之噂大地震噺海山(雙英堂)《冊子》「嘉永七年寅十一月四日五日東海道中大地震津浪出火の記」/嘉永7年(1854)頃
- 江戸大じしんの由来《一枚物》/安政2年(1855)10月頃
- 安政二卯年十月二日夜地震大火場所一覧図《一枚物》/安政2年(1855)10月28日
- 関東大地震并処々出火細見《一枚物》/安政2年(1855)10月頃
- ゆるがぬ御代要之石寿栄《一枚物》/安政2年(1855)10月頃
- 江戸大地震末代鑑《冊子》/安政2年(1855)頃
訪問の主目的は勿論、「遠江沖地震」が如何様に扱われているかです。
此の目で上の一覧表を眺めれば1番から13番迄は嘉永7年11月ですので「安政東海地震」若しくは「安政南海地震」であって
「遠江沖地震」ではありません。
14番から最後の18番迄は「安政2年」の発行年ですので「遠江沖地震」の可能性が有りますが、
資料名に14、18番は「江戸」が、16番は「関東」が含まれており、
又15番は「十月二日夜地震」が含まれており、孰れも「遠江沖地震」の条件を満たしません。
残る17番『ゆるがぬ御代
古文書と共に陳列されるパネルには本展示の概要として以下の如く記されていました。
安政地震を伝える
江戸時代末期の安政年間(1854~60)、安政東海地震、安政南海地震、安政江戸地震という大きな地震が発生しました。
これらの地震・津波による災害の情報は飛脚によって集められ、かわら版などで人々に知らされました。
初めは少ない情報でしたが、時を経ることに詳しく多くの情報が載せられました。最後に将来への備えのために保存版としての冊子が出版されました。
図書館に回り企画者を尋ねれば、直接お会い出来たので、お話を聞いてみると、 今回の企画展に於いては浜松市博物館との関係は無く、 資料も舞阪郷土資料館自前の資料だけで組み立てたそうです。 勿論、自館で保全している資料の公開は大事ではあるものの、 浜松の郷土史に於いては「安政江戸地震」は付け合わせ程度で宜しいものですので、 幾ら資料が豊富で扱い易いとは言え郷土資料館と銘打って、 お江戸の地震を大きく扱うのは都会に憧れる田舎の若者みた様な印象も受け、如何なものかとも思いますが、 「遠江沖地震」さえ知られていない中では致し方のないことなのかも知れません。
此れもこと舞阪に限っては無理からぬ面もあります。 「遠江沖地震論文」を見れば「5.5. 被害地域の状況について」の中に関連文献を参照した上で、 「舞坂から浜松にかけて東海道付近の村々は小破損のみであると記し、 篠原では立場茶屋二軒が大破、「七里詰所」は「小破のみ」と述べている」 としていますので、佐鳴湖から浜名湖に注ぐ現在の新川の南側の東海道筋では被害が少なかった様子が知れるからです。 従って発掘される資料も少ないでしょう。 但し「舞坂宿の東方、八町縄手という所で3、4ケ所の地割れを生じ、泥を吹き出した」とも書かれ、 更には震央から西に離れる新居でも大きくはないもの被害の有った旨、書かれますから、 天竜川河口沖に震央の有って舞阪に被害が皆無の筈も有りません。
「遠江沖地震」が浜松に於いてさえ無かったものとされてしまうのは由々しき事態です。
テレビや新聞に発信される所謂「歴史学者」の言を鵜呑みにしてはいけません。
テレビや新聞と言う昭和のメディアが実は主体たりながら巫女に身を
郷土史に於いては、中央、大都会へ傾く姿勢から浜松の地震を語りながら「安政江戸地震」にばかりに話が及ぶのは、
中央に本拠を構えて情報も偏重する旧来メディアの影響の最たる悪弊の一つと言えます。
しかし、然う言って嘆いてばかりも
- 『青窓紀聞』(蓬左文庫)
- 『温徳日記』(新居町史史料編6)
- 『高須伝右衛門記録』(新居町関所資料館、柴田澄雄氏所蔵)
- 『入出村誌』(静岡県立図書館所蔵)
- 『教恩寺過去帳』(新居町)
- 『変化抄』に通し番号を振る(2022年8月27日)
- 安政地震に見られる一次史料としての『変化抄』(2022年9月27日)
- 『変化抄』は「へんげ」抄か「へんか」抄か(2023年3月5日)
- 浜松城天守閣を破却したのは誰か(2019年1月26日)
- 「変化抄」(浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ)
- 熊野神社の伝承(高塚熊野神社公式ホームページ)
- 161年前に起きた首都直下地震「安政江戸地震」を思い起こし、首都の地震対策強化を(Yahoo!個人記事:2016年11月11日)
- 『強震動の基礎』(防災科学技術研究所)
- 御前崎の歴史と文化(いいね!御前崎「御前崎観光ガイド」)
- 『浜松市史』一~五(浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ)