安政地震に見られる一次史料としての『変化抄』

前記事[K1] にて「通し番号」を『変化抄』に振りました。 『変化抄』は静岡県浜松市は佐鳴湖の南岸地域、入野に於ける幕末の庄屋、 竹村廣蔭たけむらひろかげ が実際に文化文政期から嘉永期に自ら見聞きした出来事を記し残した著作で、 特に入野を中心とした遠江西部、即ち西遠地方の文化風俗を知るのに得難い典籍です。 「通し番号」とは此の書の各項目が「uniqueユニーク」な 「ID」を得ることで、他者間の連絡の齟齬をなくし、延いては関連研究に寄与しようとの目論見でした。 従って、任意の事項に関連する内容を含む『変化抄』の項目を列挙するに有用です。

佐鳴湖東南岸龍雲寺佐鳴観音前から南に入野の街並みを見渡す(2016年7月16日撮影)
佐鳴湖東南岸龍雲寺佐鳴観音前から南に入野の街並みを見渡す(2016年7月16日撮影)

『変化抄』に於ける災害記述

「通し番号」活用の事例として、例えば以下に災害について記述された項目を列挙します。 「災害」についての研究者は くだんの災害は『変化抄』の何番に記述有り、 と指定すれば宜しく相成ると言う塩梅です。

  • 24(文化13年8月)古今希なる大風、殊に汐風にて田畑大違作(DA14右)
  • 79(文政11年)大水、入野、才川、瀬尻、二俣の水害(DA31左)
  • 103(天保7年8月13日七つ過ぎより)大風雨、汐風(DA37右)
  • 122(天保9年2月9日早天)江戸城西御丸不残炎焼(DA50左)
  • 203(天保10年6月)希なる旱魃(DA52右)
  • 144(弘化元年5月10日明七つ時より)江戸城出火御本丸御炎焼(DA57右)
  • 154(弘化4年3月24日)善光寺地震(P60左)
  • 159(嘉永3年秋)二俣大水(P61左)
  • 171(寛政元酉年)瀬林大水、大石の出現(嘉永5年)大水、同大石消失(P67左)
  • 171(嘉永5年5月21日)江戸城西御丸炎焼(DA67左)
  • 171(嘉永5年11月27日)江戸城紅葉山御宝蔵炎焼(P67左)
  • 208(嘉永7年春)京都大火内裏御炎上(DA74左)
  • 208(嘉永7年6月15日)伊賀上野地震(DA74左)
  • 175(嘉永7年11月4日)安政東海地震(DA76右)
  • 210(嘉永7年11月5日)安政南海地震(DA77右)
  • 210(安政2年7月26日、8月19日より20日)大風雨、高汐被害(DA78右)
  • 210(安政2年9月28日暮六つ)遠江沖地震(DA78左)

一覧の一番左は「通し番号」其の右の括弧入りは災害の年月日、次に災害内容を記し、 最後の括弧内には便宜の為、浜松市文化遺産デジタルアーカイブ[※1] の意の「DA」と其の掲載ページと、丁合が不明な為の、左右を示しています。 8年を隔てた1828年の「79(文政11年)大水」と1836年の「103(天保7年)大風雨、汐風」の両度に渡る 風水害で浜松地方に名高い小沢渡村の音羽の松、美園の松の両名松が被害を受けた事態を128番に別項目として記録していますが、 上の列挙には、災害が重複しますので含めていません。

『変化抄』著者の竹村廣蔭は、 1793年(寛政5年)に生を亨け、1866年(慶応2年)に鬼籍に入りましたから、享年74歳、201番に 「𛀕𛄀𛂦やくより𛁈𛃺𛀕けるを𛀸𛀘しこゑりいたし」た『変化抄』の脱稿が1852年(嘉永5年)にて、 早くより、とは1801年から1804年の年号「享和」も用いられるものの、8歳から11歳と記憶に曖昧な頃の出来事は明言が叶わず、3番に 「文化元年𛁄𛂦圦五ヶ所𛂈切芝六𛁪𛀫ら位𛃚汐堰用意𛂈年〻積置来候処𛀕𛁏𛀙ら止𛂈相成申候」と有る、 文化元年(1804年)が最も早い時期です。 24番の文化13年(1816年)には廣蔭も既に23歳、記憶に十分残りもし、 主要な村の働き手として心を痛める災害に記録にも留め始めていたものと思われます。

『変化抄』に於ける地震記録と安政地震

上の災害列挙一覧を見れば、 1816年(文化13年)から1855年(安政2年)迄と竹村廣蔭が記録を取っている凡そ40年間、 廣蔭23歳から還暦過ぎに至る間の災害は 大風、大水、旱魃、火災、地震、の五種類に分けられます。 風水害については、入野を中心とした西遠地方の情報に限られますが、 逆に火災などは近辺のものは挙げられず、江戸と京都に限られており、 地方からは遠方ながらも大都に注意が払われているのは注目すべきでしょう。 旱魃については頻度が少ない様で、記録されているのは203番の天保10年に於いてだけです。 地震に限れば以下の如くなります。

  • 154(弘化4年3月24日/西暦1847年)善光寺地震(DA60左)
  • 208(嘉永7年6月15日/西暦1854年)伊賀上野地震(DA74左)
  • 175(嘉永7年11月4日/西暦1854年)安政東海地震(DA76右)
  • 210(嘉永7年11月5日/西暦1854年)安政南海地震(DA77右)
  • 210(安政2年9月28日/西暦1855年)遠江沖地震(DA78左)

一覧には便宜の為最初の括弧内にスラッシュの右に西暦を加えました。 善光寺地震を除いては一年半の間に四つの地震が詰まっているのが見て取れます。 此の四つの地震は一連の安政地震に含まれる地震でもあります。 安政地震は全国的な規模で発生しましたから勿論、廣蔭の住む浜松にも甚大な被害を齎しました。 入野の南に程近い高塚には高塚熊野神社が鎮座し、此の鎮守の杜である「お宮の山」には、 神職が或る夜見た夢の高い丘を以て人を救うべしなる託宣に村人が神社の裏山に盛り土した処、 安政の大地震の津波で近隣に大きな被害が出たものの髙塚の人々はこの丘、「お宮の山」に避難して難を免れた[※2] とも伝えられ、此の高い塚を地名「高塚」の由来とするとされてもいます。

お宮の山から高塚熊野神社社殿を見る(2016年7月24日撮影)
お宮の山から高塚熊野神社社殿を見る(2016年7月24日撮影)

「解題・説明」に『浜松市史史料編四』掲載其の儘の文章に僅かに申し訳程度に加えられる 「備忘録・郷土誌、安政地震の記事あり。」 も、浜松市文化遺産デジタルアーカイブ[※1] でさえ取り上げざるを得ない災害であることを示しています。 斯様に『変化抄』に書かれずには置かれない大災害であった安政地震には世上一般に、以下に列挙される地震が連ねられています。 中にも『変化抄』に記される地震は太字にしておきましょう。 また末尾の括弧内には福和伸夫氏が 2016年11月11日に配信した安政地震を糧として首都の地震対策強化を訴える記事[※3] に記載されているマグニチュードを参考値として「M」の後に数字で記し置きます。

  1. 1854年7月9日(嘉永7年6月15日)伊賀上野地震(M7.4)
  2. 1854年12月23日(嘉永7年11月4日)安政東海地震(M8.4)
  3. 1854年12月24日(嘉永7年11月5日)安政南海地震(M8.4)
  4. 1854年12月26日(嘉永7年11月7日)豊予海峡地震(M7.4)
  5. 1855年3月18日(安政2年2月1日)飛騨地震(M6.8)
  6. 1855年9月13日(安政2年8月3日)陸前地震(M6.7)
  7. 1855年11月7日(安政2年9月28日)遠江沖地震(記載無し)
  8. 1855年11月11日(安政2年10月2日)安政江戸地震(M7)

安政地震と言えば通常「安政江戸地震」、東海地方に於いてせめては 「安政東海地震」 ばかりが取り上げられますが、一口に「安政地震」と言っても上の一連の地震が「安政地震」に関連する地震と位置付けられています。 加えて一般の認識は薄いのですが安政江戸地震の四日前に遠江沖にも地震が発生しているのです。 廣蔭の記す「安政南海地震」と此のもう一つの地震「遠江沖地震」の間だけ十箇月程と少し長めの期間が置かれるのですが、 此の間にも日本全国各地で安政地震は打ち続いているのでした。 此れ等の地震は『変化抄』には遠方故一々区別されず、210番に 「安政二年卯六月迠日〻両三度と𛃤り不止」として感知されているのかも知れません。 即ち震央の遠い此れ等と「遠江沖地震」では浜松に一線を画しているのです。 そして興味深いことに廣蔭は「遠江沖地震」の僅か四日後に発生し、 小石川の水戸藩邸に 藤田東湖ふじたとうこ戸田蓬軒とだほうけん などが圧死し、死者は一万人を超える、として広く知られる「安政江戸地震」については記していません。

東海地方に於ける歴史地震

本ブログ2019年1月26日の記事[K2] でも参考にした東海地方の地震を扱った書籍 歴史の中の東海地震・リアル (以下「リアル本」)にも「五、江戸時代後期の地震」に安政地震が一連の内、 「伊賀上野地震」「安政東海地震」「安政南海地震」の三つが取り上げられています。 一般に用いられる呼称の「安政東海地震」を「嘉永東海地震」、 「安政南海地震」を「嘉永東南海地震」と呼び替えていますが、 本記事では「安政東海地震」、「安政南海地震」で統一します。 取り上げる地震の選定に当たっては、「リアル本」13頁から16頁の9表に共通して見られるものを歴史的地震として抽出したとのことで、 以下に9表の題目を末尾に「リアル本」の頁数を添えて列挙します。

  • 【表1】『田原町史』主な地震(渥美半島東部)/P13
  • 【表2】『常光寺年代記』(渥美半島西部)/P13
  • 【表3】『浜松博物館』/P14
  • 【表4】『細江町』(浜名湖北岸)/P14
  • 【表5】『雄踏町史』/P14
  • 【表6】『安倍郡史』(静岡県駿河)/P15
  • 【表7】『伊豆長岡町史』(伊豆)/P15
  • 【表8】『志摩町史』(志摩半島)/P16
  • 【表9】『熊野年代記』(新宮市)/P16

著者の藤田佳久氏は「実証研究をめざしながら物理的データ以外は捨象してしまう方法論上の特性が震災研究に共通してみられ」るのを避ける為に、 「思い切って時空間を越えて歴史的な震災のリアルを知ってもらうために、地震を体験し、経験して筆を執り、記録に留めた人達を現在に招いて、その時代の言葉ではなく現在の言葉で語ってもらうという試みを行うことにした。」として、 「奥三河山間部の各村」の「花祭」の「山見鬼」をイタコ的キャラクターに仕立て、 死者を蘇らせて現代の言葉で地震のリアルを聞く、と言う挑戦的で奇天烈な試みを「リアル本」に施しています。

では「リアル本」に取り上げられてはいないものの『変化抄』に於ける「リアル」を見てみましょう。 先ず伊賀上野地震について廣蔭の言を以下に記し置きます。 『変化抄』通し番号は208番です。 「嘉永七年寅六月十四日夜九つ時」の右の小書きの「春京都大火内裏御炎上」は省きます。

嘉永七年寅六月十四日夜九つ時大地震伊賀大
破奈良近邊同断四日市過半潰候上𛂋焼失
死人旅人共凡三百人計𛁄由當國𛂋𛂞左程𛂋
𛂦無之さ𛄀と我帳(蚊ヵ帷ヵ)帳より出候節𛀸ろひ候

如何でしょう、廣蔭の「リアル」な描写は滑稽味を含んで猶状況を伝えるに秀逸な気がします。 最後の行の括弧内の「蚊ヵ帷ヵ」は此処に傍注として書き加えたもので、 「帳帳」と二文字連なって見えるのは恐らくは 「帷帳いちょう」若しくは「蚊帳かや」と書きたかったのでは無いかと思われる意です。 「嘉永七年寅六月十四日夜九つ時」即ち、一連の安政地震の露払いに位置付けられる「伊賀上野地震」の其の日、其の時です。 伊賀は大破し奈良近辺も同じく、四日市では過半が潰れた上に焼失し、「死人」と 行旅人こうりょにん を意味するのではないかと思われる「旅人」は併せて凡そ三百人と聞いたとし、 廣蔭の寝起きする入野村、遠江国では其れ程揺れは酷くはなかったものの、 驚いて蚊帳から飛び出た為に廣蔭は転んでしまいました。 「リアル本」で試みた珍妙な手法は正直余り成功しているとは言い難く感じられます。 此の如き手法を首尾宜しく運ばせるには達者な小説家、脚本家としての腕前が必要ですが、 残念ながら「リアル本」の著者には其の如き手際は欠けている様です。 だからこそ折角ならば是非とも竹村廣蔭をも蘇らせて欲しかったのですが、 著者には『変化抄』はご存知なかった様に思われます。 廣蔭の言を用いればさぞかし 「リアル」感が増しただろうのは請け合いです。

そして「伊賀上野地震」は浜松に感知されたものの此の如き程度のものでした。 「安政南海地震」と「遠江沖地震」の間に発生していたら、 豊予海峡、飛騨、陸前地震と同じく、一連の余震の内の一つとして廣蔭が強いて取り上げる処にはなかったのかも知れません。

安政東海地震

『変化抄』に於ける安政東海地震の記述は「通し番号」175番になります。 以下に其の儘記載します。

嘉永七年寅十一月四日朝五つ半時大地震𛂈𛂎
村三拾弍軒皆潰其余過半大破本家土蔵壱
長屋小屋皆潰余大破手前土蔵半潰長屋
隠宅味噌部屋皆潰仮小屋作り十四五日𛃚𛃝とりて
  𛀕𛃚ひき𛃝𛀘りふく小屋𛂜苫を𛀄𛃯
  思𛂦ぬ冬𛂜月を見𛃓𛂞
  冬草を𛀘𛂗𛂜𛂜さむしろ𛂋𛀙𛁠
  𛁈く月𛂜影そみ𛂋しむ
  ふみ𛂋𛂞𛀄れといと𛀙𛀬𛂞𛀄𛀙𛂗𛂜
  土𛀿けて𛀳る四方𛂜八十國
   隠宅𛃚𛁭ふれ𛀳るとき
  の𛀙れいてし𛀳ふさを鹿𛂜入野原𛂜
  枯し草葉𛂋すみまよひけ𛃶
当村即死壱人平三郎内其余怪我人壱人𛃚無之
伊場西鴨江志都呂壱軒𛃚潰家無之前通村〻
是又左程𛂈𛂦無之候山﨑村𛂈𛂎𛂦家潰手足挟𛃅
𛄀𛀙𛂂しみ候𛂈付人〻寄切出シ可申寄候處へ津涛打
来候と呼立候得𛂦其侭打𛁏て逃け去候由被挟
居候當人𛂞其節𛁄心中思ひ𛃝られ候右様𛁄始末所〻
𛂋有之候

先ず嘉永7年11月4日の朝と其の日、其の時が記され、住む入野村の被害状況が書かれます。 自らの隠居宅も潰れてしまい仮小屋を拵え、不慮の状況へ唐突に身を置かれた驚きと、 2週間程仮住まいを余儀無く重ねさせられる侘しさを四種の短歌に詠んでいます。 近隣の被害状況は然程でも無い旨、記されるものの、 山崎村に於いての悲劇が語られ、諸処に似た様な事態が招かれたと記されています。 此処に注目したいのは遠州灘からは幾分内陸に入った浜名湖東岸「山崎村」に津波の存在が描かれていることで、 浜名湖から津波が押し寄せただろうのが分かります。

安政南海地震

安政南海地震は其の翌日の晩に起きました。 漸く形になった仮り葺く小屋の苫の荒い間から見える月に情け無さを感じる暇もなかったかも知れません。 『変化抄』に項目を連ねて「通し番号」は210番になります。 此方は項目内の当該箇所を抜粋し、以下に記載します。

同五日晩七つ過𛁄頃申酉𛂜仲方くらく𛂂り鳴聲天
地震動して山も崩る計の音𛂋て津波来ると
呼立一同𛂋𛀄𛂦て山へ逃去ル騒動𛁄其有様
飯櫃を持出し後より打来ると呼聲𛂋其櫃
捨て逃行𛃚𛀄り或𛂞麦米を𛀙𛁩き死な𛂞一所
と呼立位𛄋めき長持荷ひ老人𛂜手を引又𛂦
娘両親を両手𛂋て引𛁏𛃚有病人を稲越舟
へ入𛁏𛃚有鰡雑炊鍋を提山中𛀙け廻る𛃚
其道𛁄上を下へと騒動致シ其夜山或𛂞𛂋寝候
者余程有之候趣前通村〻より當村又𛂦伊場迠𛀙
付候我家𛂞道より奥故𛂋一向𛂋不存候處後𛂋
承り候趣此邊𛂞𛀿𛃚有そふ𛂂筈濱松又𛂦内野
𛂈𛂎𛃚山へ上り候咄前通五嶋其外村〻のさ𛄊
き故愚筆𛂋𛁲𛂞𛀄𛃯𛂦し難及𛀄ら𛃆しを筆
記す

実に安政東海地震の翌日、俄かに西南西の沖方掻き曇り、と言いますから辺りは晩と言う程暗くはなっていなかったのでしょう、 天地震動は山も落ちんばかりの大音声だいおんじょうと、 最早、揺れと音が一体です。 昨日の今日ですから津波を恐れた人々は慌てて山へ逃げようとします。 入野も幾分遠州灘から内陸に入り込んでいますが、 伊能忠敬が幕末に作り上げた「大日本沿海輿地全図」を見れば、 佐鳴湖と浜名湖を繋ぐ現在新川と呼ばれる河川は、舞坂、馬郡村、坪井村の北側では河川と言うより湾とも言うべき太さで、 篠原村の西迄抉り込んで存在しますので、 廣蔭の言う「申酉の沖方」とは入野から西南西に当たる当時此の湾状の新川を指すと考えられ、 津波が正しく「申酉」の其方から押し寄せ来ると思われていたのではないでしょうか。 其の人々の描き出す上を下への大騒動の模様の筆写が又、出色です。 何故か飯櫃を持ち出し逃げたものの後ろから追い立てる様に津波の押し寄せを言い立てられては、 其の大事な飯櫃を投げ捨てて身を軽くして逃げようとした者がいます。 矢張り飯が最重要なのでしょうか、麦米を担いで「死ぬなら一緒だ」と泣き喚く者もいます。 飯より大事な物が入っているのでしょう、長持ちと同時に親でしょうか、老人の手を引いて逃げる者もいます。 飯や物より人が大事と、娘と両親を両手で引き摺る者もいれば、波を乗り切らせる為でしょうか、病人を稲越舟に乗せる者もいます。 果ては鰡雑炊鍋を掲げて山中を駆け廻る者に至っては意味が分かりません。 現場の混乱振りを十二分に伝えながらも、笑ってはいけませんが、何処か滑稽味が含まれるのも廣蔭の筆致の特色だと思います。

「志都呂橋」から新川下流に「とびうお大橋」を遠望する(2016年11月5日撮影)
「志都呂橋」から新川下流「申酉」方向に「とびうお大橋」を遠望する(2016年11月5日撮影)

此処に「仲」字は「沖」と、「位」は「泣」と読んでいます。 廣蔭の癖であるのか「氵」を「亻」に置き換えた様な字を用いた例が同二字に見られます。 因みに魚種の「鰡」は『変化抄』にも、 5番と61番に其れこそ今の新川に三月頃沢山入り込んでいたものが少なく変化した旨、書かれています。 戦後昭和の人にも懐かしく、今でも釣り人にはお馴染みでしょうが、 専用とまでではないとは思うものの、其の雑炊用の鍋迄此処に描かれていれば、 当時の人々には可成り馴染み深い魚であった様で、当時の食生活も垣間見えます。

夜半に入ると幾分落ち着いたのか、他の村々へと話柄は移ります。 入野でさえ此の様な騒ぎで、更に内陸の内野でさえ山へ逃げ登ろうとしたのだから、遠州灘に近い村々は猶大変だったろうと慮ります。 廣蔭自身は後になって知ったのですが、津波を恐れるべき海近くの村々から少し内陸に当たる入野や伊場へ逃れ来た人々が大分あった様です。 遠州灘沿いの五島地域の混乱は最早自らの筆には尽くし難いのであらましだけ記す、として 今切いまぎれなどの被害を書いています。

もう一つの安政地震と『浜松市史』

扨、『変化抄』210番には従来一向に注目されて来ませんでしたが、 上の「安政南海地震」と同項目内にもう一つ地震が描かれています。 若しかしたら同項目内に地震が二つも書かれるとは思われず一つにまとめ認識されて来てしまったのかも知れません。 東海地震に絞った「リアル本」にしてさえも触れられていないのは些か訝しく思われますので、 上の地震を選る際に参考にした9表を調べて見れば、其れ等の内、 驚くべきことに『変化抄』の言う安政二年の「九月廿八日」が取り上げられているのは表5の『雄踏町史』而已のみなのです。 現代に蓄積された知見を元にした当地である表3の『浜松博物館』さえ扱っていないとなれば、 地震や古文書に於いては専門外で門外漢の「リアル本」には仕方の無いことかも知れませんが、 流石に『変化抄』の所蔵館である処の「浜松市博物館」が取り扱っていないのは少々度し難くあります。 現地の公式見解とも見做され兼ねない浜松市博物館さえ扱っていないとなれば、 当然ながら確実に有った地震は無かったものとして無視されてしまうのでした。

「リアル本」が惜しくも見逃した地震を取り上げた『雄踏町史』を、では調べてみました。 「リアル本」巻末には<注>として参考文献が挙げられており、 12番目に「雄踏町史編集委員会(一九八九)「雄踏町史」、同町刊。」と記されているのですが、 しかし『雄踏町史』は実際に出向いて見た浜松市立雄踏図書館にさえ見当たりません。 此方が苛々するのを優しく受けながら雄踏図書館の若くて優秀な女性司書氏が 申し訳ないような時間を掛けて丁寧に探し出してくれたのが「雄踏町誌」にて、 何冊にも及ぶ各編の「雄踏町誌」中から平成元年3月23日発行『雄踏町誌年表篇』の14頁に漸う苦労して辿り着けたのでした。 其処に、西暦「1855」、年号「安政2」の第2項目として 「9.28 浜松地方に大地震がおきる。」と有り、「資料」欄に「浜松市史②」とされているのを見付けては、 思わず女性司書氏に「此れだ」と快哉を叫んでしまいました。 正しく廣蔭の言うもう一つの安政地震の発生日たる安政二年の「九月廿八日」です。 恐らく「リアル本」は此れを鼻から取るに足らぬものと一瞥して良し、とした様に思われますが、 其れでも表5に記し置いてくれていたのは有り難く思います。

浜松市立雄踏図書館(2022年9月10日)
浜松市立雄踏図書館(2022年9月10日)
浜松市立雄踏図書館銘板(2021年9月19日撮影)
浜松市立雄踏図書館銘板(2021年9月19日撮影)

『雄踏町誌年表篇』が引くのを『浜松市史二』として昭和46年3月31日発行の一冊を引き続き調べてみましょう。 すると265頁に「安政地震」の項目が有り 「安政地震は嘉永七年(安政元年、一八五四)十一月四日と翌二年九月二十八日と二回あった。」 嘉永七年十一月四日の「安政東海地震」と安政二年九月二十八日のもう一つの安政地震の二度に確り分けて認識されています。 此処に嘉永七年十一月五日の「安政南海地震」が認識されていないのは不問に付しますが、 矢張り一年弱の隔たりの有る地震は同一には語れないのが通常見解と見て宜しいでしょう。 では『浜松市史二』は如何なる典拠を以て此のもう一つの安政地震を認識したのかと言えば、 「安政地震」項目の文末に括弧付きで『変化抄』と記されています。 何のことは無い、此処で元に戻って『変化抄』に逢着してしまうのでした。

女性司書氏の薦めも有って更には昭和43年3月31日発行の『浜松市史一』も確認してみた処、 矢張り『変化抄』を典拠としていました。 「第四章 自然災害」61頁に「安政の被害」として、 「安政二年(一八五五)九月二十八日暮六ツ(午後六時)に起こった大地震の記録は変化抄に詳しく出ているので、」と有ります。 前頁の60頁には「安政地震」の項目が有り、 「嘉永七年(一八五四)十一月四日朝五ッ半時(午前九時)関東から東海道にかけて大地震が起こった。 その十一月二十七日改元して安政元年となり、 翌二年秋まで数回の地震が引きつづいて起こっているので、それらを一括して安政地震としておこう。」 と有るのを見た時には目を疑い、成る程、此れが一緒くたの元凶かと胸の内に唸ってしまいました。 大体が『浜松市史一』が二つの地震を「地震が引きつづいて起こっているので」と一緒くたにする根拠は 『変化抄』の210番「安政南海地震」の上に記した件に続く 「安政二年卯六月迠日〻両三度と𛃤り不止」 を間違いなく引いたものです。 『浜松市史一』に悪気が無く、基本的に二つの地震を分別しているのは分かりますが、 『変化抄』を引くならば、もう少し突っ込んで読むべきで、 斯く有れば決して二つの地震は誤解無き様、明確に二つに分けて記されるべきでした。 而して『浜松市史一』は『浜松市史二』より「もう一つの安政地震」を歴史から消し去るに関して罪が重いでしょう。 続く「その中でももっとも大きい地震は嘉永七年十一月四日と安政二年九月二十八日とに起こったものである。」と有るのは、 「安政南海地震」を取り零しておきながら、一体何を根拠にしているのか皆目検討が付きません。 上の表を見れば四日「安政東海地震」と五日の「安政南海地震」は共にM8.4と推計され、 震源地からの距離の隔たりはあるものの『変化抄』の廣蔭の書き振りを見れば決して浜松に小さな揺れではなかったのです。 県史、市史の類は時に有用では有りますが、其の儘の鵜呑みが好ましからざるのは此処に明らかでしょう。 此の類は屢々言われる「Wikipedia」程に価値は低くは有りませんが、 飽く迄二次史料で有って決して一次史料ではなく、編者の思い違いや誤謬も多く含まれています。

歴史地震の推計マグニチュード

「リアル本」に対しては批判がましく言いもした部分は有りますが、 「はじめに」からは「歴史地震」の研究について大変有用な知見が得られます。 「リアル本」に仍れば当該研究はデータベース作りから始まったとされ、その先駆けは関東大震災の後に 『増訂大日本地震資料、全三巻』、『日本地震史料』にまとめられ、 戦後には羽鳥徳太郎氏、飯田汲事氏の特に東海地方のフィールドワークでデータベース化を図られて来たとされ、 又、宇佐美龍夫氏に仍り全国の歴史地震による被害のデータベースが作成されたとしています。

歴史地震のマグニチュードの推計については 木下繁夫氏及び、大竹政和氏の監修になる 『強震動の基礎』[※4] に仍れば河角廣氏を嚆矢とする様で、 其の功績を受け継いだであろう「リアル本」に紹介される宇佐美龍夫氏の推計する歴史地震に於けるマグニチュードが、 昭和41年刊行の『地震研究所彙報第44号』の「76.日本付近のおもな被害地震の表」に記載され、 更には昭和62年発行の『新編日本被害地震総覧』を引いた地震予知連絡会地域部会報告第4、5、6巻に記載されていますので、 孫引きして上の福和伸夫氏文責の記事に記載される数値と併せ、 「安政地震推計マグニチュード時系列推移表」を作成して見ました。

安政地震推計マグニチュード時系列推移表
地震名旧暦新暦宇佐美福和
昭和41年昭和62年平成28年
伊賀上野地震嘉永7年6月15日1854年7月9日M6.9M7.3M7.4
安政東海地震嘉永7年11月4日1854年12月23日M8.4M8.4M8.4
安政南海地震嘉永7年11月5日1854年12月24日M8.4M8.4M8.4
豊予海峡地震嘉永7年11月7日1854年12月26日M7.0M7.4M7.4
飛騨地震安政2年2月1日1855年3月18日無記載M6.8M6.8
陸前地震安政2年8月3日1855年9月13日無記載M7.3M6.7
遠江沖地震安政2年9月28日1855年11月7日無記載M7.3無記載
安政江戸地震安政2年10月2日1855年11月11日M6.9M6.9M7

歴史地震のマグニチュード推計に於いては当時を伝える古文書等の状況から震度を推定し、 其の震度の分布を以て震央を推定、更には適切な数式を以てマグニチュードが推計されます。 参照する古文書が増える程、推計数値は正確になる道理で、 時系列に仍るマグニチュード数値の変化は其の旨、表しています。 「安政東海地震」「安政南海地震」「安政江戸地震」に変化が見えないのは、 大きな地震、若しくは大都市に関連する地震で関与する人口も多く、 当初から遺され発掘された史料が豊富で有った為と考えられます。 宇佐美氏の昭和41年に推計値が与えられないのは斯く理由に因ると考えれば筋が通ります。 猶、地震予知連絡会の地域部会報告に於いては『新編日本被害地震総覧』の数値が修正されている可能性が有ります。 又一つ気になるのは福和氏の記事が専門的な論文ではない一般向けとは言え、安政地震に「遠江沖地震」が 等閑なおざりにされていることで、 今現在でさえ当該地震は影の薄い状況であるのが知れます。

遠江沖地震

当記事に「もう一つの安政地震」とも言い、「遠江沖地震」とも言った此の地震はしかし確実に有りました。 「遠江沖地震」との名称は此処に手前勝手、独自に設けたものではありません。 「リアル本」にはもう一人、地震研究者が彼の率いるグループと共に 「歴史地震史料の再確認作業を現地からスタートさせ、先覚の羽鳥徳太郎や飯田汲事らの研究成果の再チェックも行い、 各地の津波の波高や浸水域を地図上で確認する作業をすすめている。 それらの成果は地震関係誌上などに精力的にまとめられ報告されている。」 と紹介される 都司嘉宣つじよしのぶ氏があります。 「遠江沖地震」とはしかある極々専門家の都司氏の命名になります。

都司氏が安政2年9月28日の浜松地方を襲った地震を「遠江沖地震」と命名したのは 上の河角廣氏や宇佐美龍夫氏も会長を務めている「公益社団法人日本地震学会」が1982年(昭和57年)に発刊した 「地震第2輯35巻1号」の35頁から51頁の論文「安政2年9月28日(1855-XI-7)の遠江沖地震について」(以下「遠江沖地震論文」)に於いてです。 命名の記載が有る35頁の「§1.はじめに」を下に引用します。

安政東海地震(安政元年11月4日,1854年12月23日)が起きて323日後,安政2年10月2日(1855年11月12日)に安政江戸地震が起きている.この安政江戸地震の4日前,安政2年9月28日(1855年11月7日)の夕刻,遠江を中心として東海地方全般から近畿地方にかけて,かなり強い地震があったことは,これまではほとんど知られていなかつた.「日本地震史料」[武者(1949)]にも,この地震については,わずか 6種類の,合計7行分の史料しか載せられておらず,しかも地震の中心地が丹後であると総括されている.ところが近年,この地震の新史料が東海地方を中心として見出され,その全体像が明確になつてきた.この地震は,遠江浜岡の近隣村落,掛川付近および浜松周辺で倒壊家屋を出し,天竜市域で山崩れを引き起し,御前崎付近で沈降,浜名湖口で隆起という安政東海地震とは逆の傾向の地変を伴い,伊豆下田,伊勢市,および尾鷲市などに小津波をもたらし,震央をほぼ安政東海地震と同じ位置とする規模 M=7.1 と見積られる,安政東海地震の最大の広義の余震であることが判明した.この地震をいま仮に「遠江沖地震」と呼ぶことにして,その状況を見ていくことにしよう.

「リアル本」では一般的呼称の「安政東海地震」、「安政南海地震」を「嘉永東海地震」、「嘉永東南海地震」と呼び替えましたが、 余り感心される行為ではなく、又奇妙なのは通常「東南海地震」と言えば、昭和19年(1944年)12月7日に、 紀伊半島南東沖を震源として発生したもので、元来「東南海地震」はこの「昭和東南海地震」を指す名称で、 少しく地震名に錯綜があり問題です。 正名論を持ち出す迄もなく凡そ名前と言うものは重要で、 現代研究者の必須スキルであるプログラミングに於いてもRuby言語の作者 まつもとゆきひろ氏は「名前重要」の旨、繰り返し述べています。 名前と言うものは手前勝手に迂闊に変更すべきものにあらずして、 本記事に於いても安政2年9月28日地震の呼称は都司氏が論文に「仮に」としたとしても、 此れを嚆矢として、現在他に研究者間に浸透する名称無き上は、強く拠るべきものと主張する処です。

昭和東南海地震で鳥居の笠木が落ちてひび割れた木原許禰神社の参道(2016年10月29日撮影)
昭和東南海地震で鳥居の笠木が落ちてひび割れた木原許禰神社の参道(2016年10月29日撮影)

「遠江沖地震論文」では37頁の「§3.遠江沖地震に関する文献」の「Table1」表に59件の文献を揃える中に、 21番に原文献所収を『浜松市史史料編4』として『変化抄』を挙げています。 猶、当該表の30番には「安政東海地震」の記事が『田原町史』が編集の際に誤って「遠江沖地震」のものとして掲載されていた、 と有りますから、上に書いた通り矢張り県史、市史の類は扱いに慎重さが必要であるのを、 もとより都司氏が心得ているのが分明です。

59件揃えられた文献にも『変化抄』が「遠江沖地震論文」に重要な役割を果たしているのが伺えるのが、 44頁の「5.5.被害地域の状況について」及び45頁の「5.6.地変について」に於いてです。 25行の「5.5.被害地域の状況について」、17行「5.6.地変について」の内にも『変化抄』が触れられる部分が多く占める、 当該部分を以下に引用しましょう。

〔21〕は浜松市西郊入野に住んでいた竹村広陰によつて書かれたのであるが,それによると彼の家は安政東海地震で被害を受け,その修理中にまたこの遠江沖地震で大破損した.同所の陽徳庵という寺院の本堂が破損同様となつたと述べたあと,入野の南1キロの東海道筋の被害が大きかつたこと,とくに米津は27軒皆潰れとなつたこと,白羽,中田島は安政東海地震の時と同様に泥水が吹き出したことを記てしいる.
〔21〕に御前崎の北,相良の駒形石について興味深い記事が載つている.安政東海地震によつて「駒形石,これまで(安政東海地震の前まで海面下に没していて)見えざる処,(安政東海地震によつて隆起したので)弐尺余あらわれ出候ところ,同(安政二年)九月廿八日暮六ツ時又そろ大地震にて(中略),相良駒形石も水底にあい成り,以前の通ニ候由,承り及び候」.御前崎付近は安政東海地震のとき相当広い範囲隆起したことはいくつかの文献に記されているが,この遠江沖地震で逆にこの付近は沈降したというのである.

浜名湖口地方は安政東海地震のさい沈降したが,やはり 〔21〕に「当村(浜松市入野,当時浜名湖はここまで入つていた)は此度之大地震にて元々へゆり直し候趣ニ而,汐ハ満来不申,夫より段々当村人気立直り候」とあつて,この遠江沖地震で隆起したため,浜名湖の塩水が入野の田畑,集落に浸入することがなくなりようやく以前のように人が安心して住み付くようになつた,というのである.

伊能忠敬が延享2年(1745年)から文政元年(1818年)を生きており、 大日本沿海輿地全図だいにほんえんかいよちぜんず の完成でも文政4年(1821年)ですから、安政二年(1855年)よりは三十年程前で、 上に書いた通り今の篠原町の西迄は浜名湖と見做せるものの、 流石に「浜松市入野,当時浜名湖はここまで入つていた」は言い過ぎではありますが、 概ね読み取る処は首肯されるものです。

『変化抄』に書かれた遠江沖地震

「遠江沖地震」が『変化抄』に書かれるのは「通し番号」210番の、 上に二つの地震が一緒くたとされた恐らく要因の一つの「安政二年卯六月迠日〻両三度と𛃤り不止」なる くだりに描かれた打ち続く余震の揺れ、 そして大水のくだりを挟んで 「同(安政2年)九月廿八日」からの8行です。 『変化抄』の当該部分を「通し番号」210番から抜粋して下に記し置きます。

同九月廿八日暮六つ時又候大地震𛂈𛂎手前共手
入致候分大破損𛂈相成陽徳廬本堂潰同様寅
年地震𛂞余程𛃤𛃝𛀙𛂋候処前通村〻𛂞余程強
𛀫米津村廿七間皆潰𛁄由白羽中田嶋邊寅年
同様泥水吹出渡り候由當村𛂦此度𛁄大地震
𛂋て元〻へ𛃤り直し候趣𛂈𛂎𛂞満来不申夫より
段〻當村人氣少し立直り候氣合𛂈相成申候扨
相良駒形石𛃚水底𛂋相成以前𛁄𛂈候由𛂈承り及候

「安政南海地震」は「同(嘉永7年11月)五日」と書かれるのに対し、安政2年9月28日では十箇月離れている勘定にて、 当然の如く都司氏は同一にすることなく上の引用には「安政東海地震の最大の広義の余震」として扱っている「地震」です。 「寅年地震」は勿論「嘉永七年寅十一月四日」の「安政東海地震」と「同五日晩」の「安政南海地震」であり、 廣蔭には「遠江沖地震」と「安政東海地震」若しくは「安政南海地震」のどちらかが同じ地震とは決して認識されておらず、 「遠江沖地震」を記す中に、去年の連日の「安政東海地震」と「安政南海地震」こそが同一の 寅年の地震 と認識されています。

此のくだりには 「元〻へ𛃤り直し候趣」と実に興味を惹かれる文が有ります。 其処で「揺り直し」の結果を見る為に『変化抄』の210番内の此の「遠江沖地震」の くだりの前に書かれる 「寅年の地震」での地変の描写を添えて「遠江沖地震」の前後の比較を見てみます。

「寅年の地震」からずっと「安政二年卯六月迠日〻両三度と𛃤り」 止まなかった余震が少し落ち着いたと思った処の安政2年「七月廿六日大風雨」や「八月十九日より廿日大風雨」には、 「高汐満来堤打越」て「舞坂より西篠原迠前後高汐西鴨江片草志都呂宇布見」に至る迄被害を受けていたものが、 「遠江沖地震」の後には「汐𛂞満来不申」となりました。 「揺り直し」た結果、高汐被害が起こらなくなった、とされているのです。「寅年の地震」では「度〻堂地へ乗り候〔事ヵ〕壱尺位當村目印𛁄石より平水壱尺五寸𛃚𛀫相成関西𛂈𛂎𛂦弍尺ト云伊勢御師手代申候𛂈𛂦弍尺五寸高ク相成候由」と書かれる地変が有りました。 此れ等は変化を水位を以て表しており、度々の堂地への乗り入れが一尺、入野では一尺五寸、 関西と有るのは恐らく新居関所の西では二尺、 伊勢御師手代に聞き及ぶには二尺五寸も水位が上がったとの話が記されています。 伊勢御師手代の主張する処が何処かは分かり兼ねますが 「遠江沖地震論文」には42頁の「Table3」表の41番の「Ise City」に 岩瀬文庫の『地震海溢記』、神宮文庫の『下宮子良館日記』『朝喬郷公文当用録』を根拠に震度がⅢ〜Ⅴと推定されているおり、 併せて結構な地変を伴っている旨の文意を引かれますから、 少し浜松から離れはしますが、恐らくは伊勢神宮での水位の上昇を言っているとして宜しいでしょう。 堂地、入野、関西、伊勢御師手代の主張する処では「寅年の地震」で水位が上がったものが、 高汐の被害を被らなくなったと言うことは「遠江沖地震」の後の水位の下降を表しています。

処が「當國相良白羽」では 「駒形石是迠不見処弍尺余𛀄ら𛄋れ出候」とも有ります。 今迄見えなかった「駒形石」が姿を現したのだから、堂地、入野、関西、伊勢神宮とは逆に水位は下降している理屈です。 「當國相良」とは田沼意次の治世で有名な遠江国相良藩を指すのでしょうが、 「相良」は現在の牧之原市に当たり、現在御前崎市に属す御前崎先端の「白羽村」迄相良藩に含まれるかは否かは判然せず、 帰属の入れ替わりも有った様で天領若しくは旗本領だった可能性もありますが 「當國相良白羽」と書くには、廣蔭は御前崎先端を指しているのだと思われます。 御前崎沖には「御前岩」とも「駒形岩」とも呼ばれる岩礁が有り[※5] 此れが廣蔭の言う「駒形石」であるのでしょう。 詰まり「寅年の地震」で水位が下降し、今の御前埼灯台沖の暗礁「駒形石」が二尺程姿を現した、と読み取れるのです。 此れが「遠江沖地震」の後には 「相良駒形石𛃚水底𛂋相成以前𛁄𛂈候由」と有る様に、 「駒形石」は御前埼灯台沖に再び姿を消して暗礁に舞い戻った旨、書かれています。 遠州灘をずっと東に下った駿河湾の入り口たる御前崎に於いては西側の地変とは逆に「寅年の地震」で水位が下がったものが、 「遠江沖地震」では水位が上がった、と書かれているのが分かります。

「駒形岩」とも「御前岩」とも呼ばれる、廣蔭が書く処の「駒形石」は、 今に至るも危険な暗礁として「御前岩灯標」が設置されていますから、 此の西から東に天秤が逆に傾く様に見える奇妙な現象を、 当時にも恐らく広く知られた「駒形石」を以て廣蔭は「安政南海地震」から「遠江沖地震」に至る項目を〆たのでしょう。

生活者としての高潮被害への意識は勿論、恐らくは舟運に敏感な庄屋階級の感受性も垣間見え、 更に興味深いのは「遠江沖地震」が「寅年の地震」でズレを生じたものを是正する方向に働いたことが強調される書き振りで、 実に廣蔭が210番に「安政南海地震」と「遠江沖地震」を十箇月の隔たりが有るにも拘わらず一緒に突っ込んだのは、 恐らく「揺り戻し」について前の地震の変化が後の地震の変化に因ってピタリと元の状態に戻る 不可思議な現象を描きたかったからではないかとさえ思われます。 実際、自身も『変化抄』を初めて読んだ際には此のくだりには、 不思議なことの有るものだと奇妙な感覚を覚えました。 一般人には此の如き不可思議に思える状況も、地震学者としては若しかしたら珍しいことではないにしろ、 事例の一つとして特筆すべき事態であるのかも知れず、 都司氏が廣蔭の主張したい210番の主題を「遠江沖地震論文」45頁の以下引用の記述から、確り汲み取っているのは明らかで、 廣蔭も我が意を得たりと草葉の陰にほくそ笑んでいる様に思えてなりません。

遠江沖地震は,安政東海地震によつて生じた地変の「いきすぎを戻す」ような安政東海地震と逆の地変を伴つている.

遠江沖地震の被害状況

『変化抄』が重要なのは「遠江沖地震論文」47頁の「Fig2」遠江地方の拡大図を見ても明らかでしょう。 1855年11月7日の各地の地震の揺れに応じた各マークが記される中に、 「過半の家の倒壊」を表す二重丸の中が黒く塗られたマークが『変化抄』を表す「21」と共に記されているのが分かります。 「遠江沖地震論文」の39頁には21番の浜松市入野で書かれた文献、即ち『変化抄』が「遠江沖地震」の被害を述べている中に、 約9行分だけこの地震の記事が現れる、としてあり、此れが根拠となって「Fig2」が描かれていますが、 行数が上手く合いませんので『浜松市史史料編四』から各所該当部分を適宜抜き出したのが9行分なのだと思われます。 此の適宜抜粋した被害を「原文説明及び各地推定震度一覧」とでも訳される 「Table 3. List of original descriptions and estimated intensity at each place.」 に適用したのだと思われます。 「遠江沖地震論文」の「Table3」に『変化抄』を以て推定される震度を原文と対応する為に、 以下に該当部分を抜粋して記し置きます。

No.Location原文推定震度
14Sagara白羽駒形石二尺余あらわれ出候処(略)
水底ニ相成(安政東海地震の)以前之通ニ候
20Irino, Hamamatsu筆者の家大破損, 寺本堂潰同様, 浜名湖岸隆起5
21Yonezu, Hamamatsu廿七軒皆潰之由6〜7
22Shirowa and Natatazima, Hamamatsu泥水吹出渡り候由5
23Hamamatsu潰家 5, 所々破損5

「Fig2」に「過半の家の倒壊」を表す二重丸の中が黒く塗られたマークが即ち「Table3」で 最大の震度となる「6〜7」と推定されてるのが注目されます。 上の表の「原文」項目は「遠江沖地震論文」が可成り略して抽出したものですので、 更に詳細に推定震度と『変化抄』の原文との対応を見る為の表を新たに下に作成します。 表中に「No.」としたのは「遠江沖地震論文」の「Table3」のもので、 以て上表の推定震度との対応を見る為の配慮にて、「ID」としたのは『変化抄』の対応部分の含まれる項目の「通し番号」を示します。

No.ID『変化抄』原文
14210當國相良白羽駒形石是迠不見処弍尺余𛀄ら𛄋れ出候と申候処
14210相良駒形石𛃚水底𛂋相成以前𛁄𛂈候由𛂈承り及候
20210手前共手入致候分大破損𛂈相成陽徳廬本堂潰同様
20210今切湊𛂞凡弍百間計𛁄処津濤打来七百間𛂋相成杭𛀄ら𛂦れ出候是寳永年中大地震荒𛂋打候杭な𛃶と申候
20210度〻堂地へ乗り候中壱尺位當村目印𛁄石より平水壱尺五寸𛃚𛀫相成関西𛂈𛂎𛂦弍尺ト云伊勢御師手代申候𛂈𛂦弍尺五寸高ク相成候由
20210元〻へ𛃤り直し候趣𛂈𛂎𛂞満来不申夫より段〻當村人氣少し立直り候氣合𛂈相成申候
21210前通村〻𛂞余程強𛀫米津村廿七間皆潰𛁄白羽中田嶋邊寅年同様泥水吹出渡り候由
22210前通村〻𛂞余程強𛀫米津村廿七間皆潰𛁄白羽中田嶋邊寅年同様泥水吹出渡り候由
23176濱松𛂞寺院本堂或𛂞〔庫ヵ〕裏六ヶ寺潰門弍ケ寺潰町方七軒皆潰土塀長屋同断即死弍人土蔵大破𛀙𛁛𛀙𛁠し御城長屋皆潰所〻大破

此の対応を見ると「Table3」の「No.23」の扱いが些か 存在ぞんざいな感を受けます。 「Table3」の「No.23」は『変化抄』だけではなく、利用された文献が「静岡県立図書館」の『大石善言日記』も併記されていますので、 大雑把に括られた感が有ります。 しかし上の表の如く『変化抄』には寺院に於いては本堂或いは庫裡が潰れたものが六つ、門が潰れたものが二つ、 町方は七軒潰れ、土塀長屋も潰れ、即死は二人、土蔵の大破に至っては数え難く、お城の長屋も皆んな潰れ所々大破、 とされていますからなかなか尋常な被害では有りません。 「Location」として「Hamamatsu」とされていますが、此れは現在の浜松市の如き広域の浜松を指すのではなく、 廣蔭の書き振りを見るに浜松城[K2] 周辺、城下町を指すものと思われます。

遠江沖地震の震央とマグニチュード

以上の『変化抄』から読み取られる被害状況から推定された震度を含め、 他データを併せた震度分布から「遠江沖地震論文」が求めた「遠江沖地震」の震央とマグニチュードが 48頁「§6.地震の規模および震央位置の推定」に記されています。 結果として推定される「震央」を見れば「λ=137.8°E,φ=34.5°N」とされており、 此れを地図で見ると以下に埋め置くGoogleマップの如くであり、 天竜川河口沖16.5kmの位置となります。

遠江沖地震の震央「34°30'00.0"N 137°48'00.0"E」(「遠江沖地震論文」より)

此の震央に「遠江沖地震論文」に推計されるマグニチュードを都司氏は「7.1」と結果付けています。 此れは恐らくは都司氏に仍る結果よりは正確性に欠けるであろう宇佐美氏に仍る推計マグニチュード「7.3」よりは小さいものの、 「安政江戸地震」より規模が大きいもので、決して小さな地震として無視されて良いものではありません。 此の貴重な「遠江沖地震」の情報を『変化抄』は一次史料として提供しているのです。

遠江沖地震の更なる被害状況

『変化抄』を見てみれば「遠江沖地震」の被害が書かれるのは、 原文では通し番号210、176、211が相当しますが、 「遠江沖地震論文」の「Table3」に見られるのは210、176で211番が見られません。 『変化抄』には「遠江沖地震論文」に利用される以外にも「遠江沖地震」に於ける被害状況が記される文章に通し番号211番が有るのです。 此れは176番に浜松城下町の被害状況を記し、続いて廣蔭の知り得た広域の「遠江沖地震」に於ける被害状況を記したものにて、 廣蔭息が安政3年3月と言いますから「遠江沖地震」の四箇月後に用向きで各地を歩いた際に見聞きした被害状況を、 廣蔭が聞き書いたものとしています。 以下に211番全文20行を記し置きます。

三嶋村より下潰家多𛀫其上泥水吹出し流れ𛄋𛁠
候由田畑高底𛂋変地し町屋邊家過半潰
同泥水吹出し膝を過候位𛂋𛄋𛁠り田畑変
地下掛塚家皆潰弍百軒潰同様三百軒近邊
所〻弍三尺位ゑみ同泥水吹出し𛄋𛁠り候由
池田𛂞潰少し夫より下前野保六嶋近邊不残
皆潰福出駒場近邊別𛂎皆潰中泉𛂞左程
𛂋𛃚無之由夫より村〻潰家多𛀫横須賀過半
潰近邊同断御城不残潰夫より川㞍近邊
潰家多𛀬相良川崎邊同断見附宿裏通り
潰家多𛀬土蔵大破即死七人𛁄由河合皆潰焼
𛂂し袋井皆潰𛁄上焼失死人六十人余𛁄
𛂈承り候旅人𛃚余程死人有候旅宿𛁄寺方御
朱印を焼候𛃚有之候由怪我旁〻員数不知荒
屋久津部村不残皆潰掛川皆潰𛁄上不残焼失
死人袋井より𛂞大宿𛂈𛂎𛃚死人𛂞至て少き由𛂈承り候
大手潰城門大破𛁄由森𛂞左程𛂋𛃚無之山莉潰
𛁄上不残焼失其余近邊大潰𛁄𛂈承り候倅
安政三辰年三月要〻𛁄儀有之通行致候𛂈
付承り筆記仕候

被害状況の書かれている地名を順に挙げていけば、三嶋、掛塚、前野、保六嶋、福出(福田)、駒場、横須賀、川㞍、相良、川崎、見附宿、 河合、袋井、荒屋、久津部、掛川(城)、森、山莉(袋井市山梨ヵ)、となり、現在の浜松市のみならず、 磐田市、袋井市、森町、掛川市、と遠州にも天竜川を中心として可成り広域に渡っての被害が記されています。 しかも書かれる被害状況は生半なまなかに小さなものではありません。 「遠江沖地震」の四箇月後の話であれば、「安政江戸地震」の影響にも思えますが、地名の列挙を見れば矢張り此れとは截然たり得ます。

此の211番は「遠江沖地震論文」への利用は見えない様ですが、 推定震央が天竜川河口沖であるならば当然挙げられるべき地名群であり、 即ち「遠江沖地震論文」に震央として推定される天竜川河口沖16.5kmに合致する様に見え、 恰も推定震央の正しさの裏付けかの如くあります。 決して「遠江沖地震論文」の価値を落とす くだりではありません。

更に一つ史料を加えれば「遠江沖地震論文」の「Fig2」に丸に十字マークが あしらわれる有感地震として記される愛知県田原市の三史料、 「Table1」に於いては「28.御玄関置帳/田原町役場」「29.万心付書留/田原町史」「30.(波瀬村庄屋覚書)/田原町史」が利用されていますが、 此れ等とは別と思われる史料 として「リアル本」では田原博物館所蔵の『永代歳月珍事書留帳』に所収されている、 牧野庄右衛門なる人物の言質が紹介されています。 65頁にある「九月二十八日に地震(余震だろう)があり、また皆、小屋掛けするなど大騒ぎをしたよ。」なる一文です。 「リアル本」では「遠江沖地震」は認識されていませんので取るに足りない余震の一つとして扱われていますが、 明らかに天竜川河口沖を震央とする地震が渥美半島の田原市に影響を与えたものです。 余りにも既利用三史料とも整合性が取れる為、三史料の内の何れかに該当するのでは無いかとも思われますが、 孰れも原文等が引用されず、申し訳なくも自らに調べる余裕も無く詳細は不明です。 若し異なる史料であるならば「遠江沖地震論文」を補完する震度分布プロットデータの一つであるのは間違い有りません。

以上は「遠江沖地震論文」への利用が見えず、加えて管見には以後の地震研究への利用も見えませんので、 若し未使用であれば是非利用の上、研究の精度を上げて欲しく思います。 延いては「安政地震」の一つとして、又「歴史地震」としての「遠江沖地震」の認知の、更なる世への広がりを望むのです。

苦言

以上、見て来た如く『変化抄』は歴史地震を知るのに一次史料としてとても大きな役割を果たしていました。 此れは某国(N)放送(H)某国営(K)でタレント学者に因り某大河ドラマとやらの為に適当にでっち上げられる テレビばかり見ている情弱老人慰み用のポピュリズム史実とやらを裏付ける際の適当な利用のされ方とは 別次元の一次史料としての利用に違い有りません。 一次史料というものは所謂歴史学者に妥当に利用されるものは全く少なく、 其の利用のされ方は凡そ三文小説家や敗戦参謀本部の牽強付会的なものと一般にて、 他分野の専門家に利用される際の方が健全であるのは経験上強く思う処で、 其の悪因たる所謂歴史学者に全く不足する論理的思考を補う為に教育課程に於いては せめて初等数学課程の必須を強く主張したくは常々思います。 此の直情径行的紋切り型短絡傾向は戦前の歴史学者には見えませんので、恐らくは戦後、テレビっ子たる団塊の世代以降の問題と捉えられます。 此れは現在の日本の国力減退の一因ともなっているでしょう。 大体が因数分解や初等幾何さえ理解出来ぬすやい輩に、村社会で授けられた学者の名の下に国費を無駄に使ってはなりません。 猶々現代に意味不明なのは文系理系のいいで、 思い返しても見て欲しいのですが、古来「文理」などという怪訝な区別など無く、有ったのは「文武」の別だけです。 文人でなければ武人で稀に文武両道の者が居て珍重されるだけです。 理の解せぬ文人などの有ろう筈も無いのです。 勿論廣蔭とて読み書き算盤の算盤が疎かにされている筈もなく、然もなければ庄屋など務まりませんでした。

今の時代に有り得べくも無く無駄な下池川町牛山に建つ二本の電波塔(2022年9月15日撮影)
今の時代に有り得べくも無く無駄な下池川町牛山に建つ二本の電波塔(2022年9月15日撮影)

本記事に於いては『変化抄』は「遠江沖地震」研究に於いて実に重要な一次史料として扱われている旨、記しました。 斯くも浜松に貴重な情報を書き遺しててくれた廣蔭ですが、 彼の住んだ浜松に於いて此れが確り受け止められているかと言えば言葉を濁すしか有りません。 地元浜松に於いて確実に有った「遠江沖地震」と言う「歴史地震」は無かったものとして無視されてしまっている、 と言っても過言ではない状況です。

此れも本記事に書いた通りですが、 『浜松市史』は浜松市全体に全時代を網羅する必要の為に詮方無い面は有るとは言え、 既に『浜松市史史料編四』が用意されてある以上、もう少し史料を読み込んだ上で記述に注意を払うべきでした。 截然たる地震の区別を曖昧に濁されているのは、読む者に誤解を与え兼ねず、甚だ遺憾に思われます。 本記事に見て来た如く県史、市史、町史の類は誤謬も多いものから、 今や取り返しの付かない勘違い老人が本棚に並べて喜ぶ用の分厚く立派な装丁に整えおく権威主義は好い加減捨てて、 webに公開されるべきものではあります。 大体がそんな御大層な冊子、図書館から借り出すにも、禁帯出の場合でさえ取り扱いが面倒で百害あって一利も有りません。 もとよりwebであれば正誤の訂正も簡便です。 其の際、行政の処理に往々にして見られるのが更新年月日を疎かにする姿勢で、 必ず訂正内容は時系列で追える様になっていなければなりません。 研究の進展は勿論、誤謬でさえ当時の世相が反映されることが多く、 其れも又貴重な歴史上の資料であるからです。 『浜松市史』に於いては賞されるべきことに『変化抄』原文と同じくデジタルアーカイブ化[※6] されています。 但し取り回しは惨憺たるもので改善が望まれます。 改善を施すに当たっては然るべきバージョン管理を取り入れ改訂処理の時系列を追えるべくシステムを整え、 追々今回の事案の様な過去の問題の内容も訂正されるべきでしょう。

糅てて加えて問題なのは浜松市博物館です。 廣蔭の『変化抄』は浜松市博物館所蔵です。 勿論所蔵の全ての古文書の内容を把握すべきとは言いませんが、 上にも書いた様に、webサイトに公開された『変化抄』[※1] に記載される「解題・説明」に「備忘録・郷土誌、安政地震の記事あり。」とも書き、 「主題」欄には「安政地震資料」と大書してあるのですから、 『変化抄』が「安政地震」の内容を含む処か、『変化抄』は「安政地震」の典籍である、と迄言い切っているのであって、 「安政地震」に関する内容は最低限『変化抄』に読み取られていなければなりません。 因みに老婆心ながら「主題読み」欄の「あんせいじしんえず」は直した方が宜しいでしょうことを書き加えておきますが、 其れだけ言い切るならば『変化抄』が「安政地震」とだけ書くだけでは済まされない 「遠江沖地震」の貴重な一次史料であるのも所蔵館として知っていて然るべきです。

浜松市博物館では平成28年(2016年)の3月5日から5月8日にはテーマ展として「浜松と地震」が開催されていました。 「リアル本」の刊行が2018年3月22日であり、 10頁に「浜松博物館が数年前の遠江における地震史の展示会の際に作成された地震災害年表を利用した。」とあるのを考えれば、 東海地方の安政地震を抽出するに、恐らくは表3の『浜松博物館』とは、 此のテーマ展に於ける年表を参照しているものと考えられます。 以下に「リアル本」14頁の表3から他史料との対応を示す空白を省き表にしました。

【表3】『浜松博物館』(C)
明応7年(1498)8月25日 明応地震
天正6年(1578)遠江国地震
慶長9年(1604)東海・南海・西海道地震
元禄16年(1703)元禄地震
宝永元年(1704)引佐郡地震
宝永4年(1707)10月4日 宝永地震
享保3年(1718)7月・12月末まで余震、遗江へ山城
天明3年(1783)大地震
寬政4年(1792)龍山地震
寬政7年(1795)
寬政9年(1797)
文政7年(1824)佐久間地震
安政元年(1854)
(嘉永7年)
11月4日 安政東海地震
11月5日 安政東南海地震
安政2年(1855)10月2日 安政江戸地震
浜松市博物館テーマ展「浜松と地震(平成28年3月5日〜5月8日)」入口立て看板(2016年5月8日撮影)
浜松市博物館テーマ展「浜松と地震(平成28年3月5日〜5月8日)」入口立て看板(2016年5月8日撮影)

案の定、「安政東海地震」、「安政東南海地震」から『変化抄』に記される処に無い「安政江戸地震」へ飛んでしまって、 年表に「遠江沖地震」は無いものとされてしまっています。 猶「安政東南海地震」と記される不都合は繰り返しは書きませんが、「リアル本」の主張の出元は如何やら此処であった様です。 此の年表に「遠江沖地震」が無ければ「リアル本」が当該地震を無いものと扱うのも致し方無いでしょう。 浜松市博物館が自らの収蔵品をテーマ展に然るべく適合処理していれば、 主テーマに東海地震を掲げるに仍り安政地震に於いて中心に扱われても宜しい位の「遠江沖地震」が、 丸で無いものの様に取り扱われた「リアル本」の体裁も真逆無かったでしょう。 元来、公立博物館は収蔵品の保全と公開に主眼を置かれ予算を組まれているのであって、 研究者としては当該保全と公開の最低限の担保程度の期待しかされていませんから、 「リアル本」の様に余りに情報源として頼り切るのも問題が有るのかも知れません。 ともあれ廣蔭が取り上げていない「安政江戸地震」ばかりが記載され、 「遠江沖地震」が一顧だにされないのは浜松、遠江地方に於いては全く的外れであるのを思い知るべきです。

此のテーマ展は自らも偶々観覧する処でしたが、残念ながら全面的に撮影禁止でしたから、 入口の立て看板を一枚写真に収めただけでした。 浜松市博物館が写真撮影に寛容であるのには常々感謝しており、 撮影禁止に当たっては貸与者の意向、遺物の保全など其れなりの必然性が有るのは重々承知してはいますが、 此れでは調査不足の言質を取られない為の禁止ではないかとの疑念も正直軽く湧いてしまいます。 序でに言えば、強い光が年代物の展示品にダメージを与えるのは大凡周知されているでしょうから、 博物館が展示物への照度を落とすのも一般に理解され得ますし、然う対処されるべきです。 例え其れを鑑みて照度を落とした博物館程度の光量でも、最近のiPhoneなどでは撮影に全くフラッシュの必要は有りません。 数年前に一度、学芸員氏に撮影可の念押しをした際に、但しフラッシュは炊かない様求められて、 笑いながら今時フラッシュなど必要ない旨申し出て驚かれましたが、 従って撮影時のフラッシュは全面禁止として差し支え無き旨、蛇足ながら此処に書き加えておきましょう。

「リアル本」では、『雄踏町誌』に九月二十八日の浜松の地震を見、 また田原博物館所蔵『永代歳月珍事書留帳』に牧野庄右衛門の言質を見ながらも、 結局「遠江沖地震」は取るに足らぬものと一顧だにされませんでした。 又、一般向け記事とは言え地震対策に警鐘を鳴らすに「安政地震」を取り上げる福和伸夫氏の記事[※3] にさえ、「遠江沖地震」は無きものにされてしまっています。 両者共肩書きは大学教授である様ですので、 此れが今現在の世上の「遠江沖地震」に対する一般理解と解して宜しいでしょう。 確実に有った地震が無かったものと全く無視されてしまうのは、文化、災害、郷土史等様々な面に憂慮すべき事態にて、 戦犯たる『浜松市史』及び浜松市博物館は罪深くあるのを深く反省し、竹村廣蔭に謝し、 「安政地震」に限定するだけでは済まされない「遠江沖地震」の貴重な一次史料である『変化抄』の其の価値を、 廣蔭の地元浜松に於いてであれば猶、向後確り汲み取り置かれたく思うものです。

追記(2022年10月7日)

本記事を配信して直ぐに折り宜しく浜松市舞阪郷士資料館にて企画展「安政地震を伝える」が 催されているのを知りました。 浜松市舞阪郷士資料館は浜松市博物館の分館でもあります。 浜松市博物館の平成28年(2016年)のテーマ展「浜松と地震」開催時の情報も関係から何某か得られるかとも思い、 前々から思い描いていたところの本記事を漸く書き上げた安堵感と重荷を下ろして軽くなった気持ちから、 序でにお尻も軽くなって、当地舞阪町舞阪に赴いたのは2022年10月5日でした。

舞阪図書館は舞阪灯台の程近くに立地する(2022年10月5日撮影)
舞阪図書館は舞阪灯台の程近くに立地する(2022年10月5日撮影)
舞阪図書館エントランス傍の和船が使用した錨(2022年10月5日撮影)
舞阪図書館エントランス傍の和船が使用した錨(2022年10月5日撮影)

舞阪は東下あずまくだりの方向に新居の関所を抜けて浜名湖は今切口を渡った対岸に位置する海沿いの宿場町です。 舞阪郷土資料館は、海沿いならでは舞阪灯台のほど近くに立地する舞阪図書館内に併設されています。 舞阪図書館のエントランスを潜って直ぐ、右手に「郷土資料館」と金属製切り文字銘板が掲示された展示室が設えられています。 無料にて入口の手押し式も面白いアナログカウンターに自らを勘定に入れさせて入場すると、 規模は其れ程大きく無いながらも照度の落された博物館ながらの展示が目に楽しく舞阪の町の歴史を教えてくれます。

企画展「安政地震を伝える」の展示は中程のL字型の一コーナーに設けられており、 当時を伝える古文書で構成されていました。 有り難くも、とば口の台には今回の展示資料の目録が一枚の紙に印刷されて用意されています。 以下に一覧を当該資料の記述に従い「No. 資料名/制作・発行年」の順に記し置きます。

  1. 東海道大地震津波《一枚物》/[嘉永7年(1854)11月7日]
  2. 国々地震聞書《一枚物》/嘉永7年(1854)11月頃
  3. 東海道南海道国々大地震大つなミ《一枚物》/嘉永7年(1854)11月
  4. 東海道筋並上方筋大津浪大地震之事《一枚物》/嘉永7年(1854)11月頃
  5. 摂州大坂泉州河内大和紀州都合五ヶ国大地震大津波《一枚物》/嘉永7年(1854)11月頃
  6. 摂州大坂并ニ諸国大地震の図《一枚物》/嘉永7年(1854)11月頃
  7. 大地震大津波末代噺二編・今昔地震津浪説《一枚物》/嘉永7年(1854)11月
  8. 関東大地震図《一枚物》/嘉永7年(1854)11月頃
  9. 大地震大津浪末代噺廼種《冊子》「諸国大津波角力見立末代噺種(番付)」/嘉永7年(1854)頃
  10. 大地震大津浪末代嘶の種・下《冊子》「大地震末代噺種(野宿)」/嘉永7年(1854)頃
  11. 地震津浪末代噺乃種《冊子》「大津浪末代噺種(高坊主)」/嘉永7年(1854)頃
  12. 大地震世直仕艸紙(雙英堂)《冊子》「十一月五日の夜大津浪来ル前大坂前垂嶋に出る怪異の図」/嘉永7年(1854)頃
  13. 東海道筋諸国之噂大地震噺海山(雙英堂)《冊子》「嘉永七年寅十一月四日五日東海道中大地震津浪出火の記」/嘉永7年(1854)頃
  14. 江戸大じしんの由来《一枚物》/安政2年(1855)10月頃
  15. 安政二卯年十月二日夜地震大火場所一覧図《一枚物》/安政2年(1855)10月28日
  16. 関東大地震并処々出火細見《一枚物》/安政2年(1855)10月頃
  17. ゆるがぬ御代要之石寿栄《一枚物》/安政2年(1855)10月頃
  18. 江戸大地震末代鑑《冊子》/安政2年(1855)頃

訪問の主目的は勿論、「遠江沖地震」が如何様に扱われているかです。 此の目で上の一覧表を眺めれば1番から13番迄は嘉永7年11月ですので「安政東海地震」若しくは「安政南海地震」であって 「遠江沖地震」ではありません。 14番から最後の18番迄は「安政2年」の発行年ですので「遠江沖地震」の可能性が有りますが、 資料名に14、18番は「江戸」が、16番は「関東」が含まれており、 又15番は「十月二日夜地震」が含まれており、孰れも「遠江沖地震」の条件を満たしません。 残る17番『ゆるがぬ御代要之石寿榮かなめのいしずえ』を、では展示物に閲して見れば、 本文4行目に「十月二日𛂜夜四ツ時過俄𛂌大地震ゆ𛃶出し」とありますから、 此れも「安政江戸地震」を扱った古文書です。 詰まり一覧表の後半14番から18番は「安政江戸地震」を扱った資料でした。 詮方無しとは言え、残念ながら予想通り「遠江沖地震」は扱われる処にありませんでした。

浜松市舞阪郷士資料館・企画展「安政地震を伝える」の説明パネル(2022年10月5日撮影)
浜松市舞阪郷士資料館・企画展「安政地震を伝える」の説明パネル(2022年10月5日撮影)

古文書と共に陳列されるパネルには本展示の概要として以下の如く記されていました。

安政地震を伝える
 江戸時代末期の安政年間(1854~60)、安政東海地震、安政南海地震、安政江戸地震という大きな地震が発生しました。
 これらの地震・津波による災害の情報は飛脚によって集められ、かわら版などで人々に知らされました。
 初めは少ない情報でしたが、時を経ることに詳しく多くの情報が載せられました。最後に将来への備えのために保存版としての冊子が出版されました。

図書館に回り企画者を尋ねれば、直接お会い出来たので、お話を聞いてみると、 今回の企画展に於いては浜松市博物館との関係は無く、 資料も舞阪郷土資料館自前の資料だけで組み立てたそうです。 勿論、自館で保全している資料の公開は大事ではあるものの、 浜松の郷土史に於いては「安政江戸地震」は付け合わせ程度で宜しいものですので、 幾ら資料が豊富で扱い易いとは言え郷土資料館と銘打って、 お江戸の地震を大きく扱うのは都会に憧れる田舎の若者みた様な印象も受け、如何なものかとも思いますが、 「遠江沖地震」さえ知られていない中では致し方のないことなのかも知れません。

此れもこと舞阪に限っては無理からぬ面もあります。 「遠江沖地震論文」を見れば「5.5. 被害地域の状況について」の中に関連文献を参照した上で、 「舞坂から浜松にかけて東海道付近の村々は小破損のみであると記し、 篠原では立場茶屋二軒が大破、「七里詰所」は「小破のみ」と述べている」 としていますので、佐鳴湖から浜名湖に注ぐ現在の新川の南側の東海道筋では被害が少なかった様子が知れるからです。 従って発掘される資料も少ないでしょう。 但し「舞坂宿の東方、八町縄手という所で3、4ケ所の地割れを生じ、泥を吹き出した」とも書かれ、 更には震央から西に離れる新居でも大きくはないもの被害の有った旨、書かれますから、 天竜川河口沖に震央の有って舞阪に被害が皆無の筈も有りません。

「遠江沖地震」が浜松に於いてさえ無かったものとされてしまうのは由々しき事態です。 テレビや新聞に発信される所謂「歴史学者」の言を鵜呑みにしてはいけません。 テレビや新聞と言う昭和のメディアが実は主体たりながら巫女に身をやつして所謂「歴史学者」を教祖に祀り上げ信者を稼ぐ手法に、 まんまと騙された戦後テレビっ子で算数嫌いの団塊の世代が教祖の所謂「歴史学者」を崇め奉ると言う筆舌に尽くし難く非道い状況が、 遂に昭和末期に出来してしまいました。 旧来メディアのたくらみたる、 研究の内容が理解出来ぬ相手には「学者」の肩書きが効験あらたかであると言う勘定に基づき算盤は弾かれたのです。 真摯に研究を続ける向きもあるとは言え、 特に旧来メディアに出捲る類の所謂「歴史学者」は然う呼んでさえ良いか分からない最も低いレベルの「学者」です。 なんとなれば、グローバル競争に晒されず、顧客は先の無い老人ばかりであれば、 本来、自らの研究には細心の注意を払わなければ質の保てない環境にも関わらず、 教祖として持ち上げられては裸の王様宜しく、研究者に必要欠くべからざる自省の機会さえも失われてしまうからです。 旧来メディア用に配合された咀嚼の要らない惹句を鵜呑みにし続けた老人の「テレビで言ってた」と言う小さな声も蔓延し積もり積もった 挙げ句の果てには有った事実さえ無かったことになってしまうポピュリズム史実には戦慄を覚えます。

郷土史に於いては、中央、大都会へ傾く姿勢から浜松の地震を語りながら「安政江戸地震」にばかりに話が及ぶのは、 中央に本拠を構えて情報も偏重する旧来メディアの影響の最たる悪弊の一つと言えます。 しかし、然う言って嘆いてばかりもれません。 新しい世代は宜しからぬ前時代を是正して進む義務が有るでしょう。 浜名湖河口の「遠江沖地震」の状況を知るには「遠江沖地震論文」が用立ちます。 上記した様に浜名湖口周辺の被害状況も当然ながら取り上げられています。 最後に「遠江沖地震」が然るべく取り扱われる近い将来を願って 「遠江沖地震論文」が参照したとする文献の一覧「Table3」表から、 『変化抄』を除く今切口周辺に関連の深いと思われる22番から26番を抜粋して記し置きます。

  1. 『青窓紀聞』(蓬左文庫)
  2. 『温徳日記』(新居町史史料編6)
  3. 『高須伝右衛門記録』(新居町関所資料館、柴田澄雄氏所蔵)
  4. 『入出村誌』(静岡県立図書館所蔵)
  5. 『教恩寺過去帳』(新居町)
かたむき通信参照記事(K)
  1. 『変化抄』に通し番号を振る(2022年8月27日)
  2. 浜松城天守閣を破却したのは誰か(2019年1月26日)
参考URL(※)
  1. 「変化抄」(浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ)
  2. 熊野神社の伝承(高塚熊野神社公式ホームページ)
  3. 161年前に起きた首都直下地震「安政江戸地震」を思い起こし、首都の地震対策強化を(Yahoo!個人記事:2016年11月11日)
  4. 『強震動の基礎』(防災科学技術研究所)
  5. 御前崎の歴史と文化(いいね!御前崎「御前崎観光ガイド」)
  6. 『浜松市史』一~五(浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ)
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