浜松城が三方原台地の南端に、
徳川家康は此の浜松城に、
浜松城の城域
曳馬なる地名については浜松市教育委員会の
『浜松城跡』[※1]
に確実な初出として1250年代の
「引間」が挙げられ、記載例としては「ひくま・引ま・ひきま・匹馬・ひき馬・引駒・曳馬・曳駒」などが挙げられ、安定しない旨書かれています。
曳馬古城を呼ぶ時は引間城と書かれることも多く、
発音は「ひくま」、「ひきま」など安定しませんが現在では一般に
浜松城の東には国道152号線が南北に走り、北では飛龍街道、秋葉街道とも呼ばれる此の主街道は、
元城町周辺では
大手通り
と呼ばれていますが、江戸時代には此の両脇が城内三の丸として機能しました。
大凡浜松市役所、現在は廃校更地となった元城小学校が二の丸跡地に当たり、其の東南の辺りになります。
浜松城三の丸は其の成立期が江戸期に下ると言われるのが一般です。
江戸中期
杉浦国頭の著した書を『曳駒拾遺』と此処で称すのは浜松市博物館所蔵本に従っています。 ところで此の読みに関して浜松市博物館が編集発行した 『浜松城主堀尾吉晴』[※2] には「ひこましゅうい」と振られますが、 同じく浜松市博物館が編集発行した別本 『徳川家康天下取りへの道〜家康と遠江の国衆』 では「ひくましゅうい」と振られており些か困惑させられます。 しかし此れは「ひくましゅうい」で間違いないでしょう。 原本自体が残らず浜松市博物館の所蔵本も写本ですが、 例え『曳駒拾遺』と書かれていても書いた杉浦国頭は「ひくましゅうい」と発音していたでしょう。 不審に思って昭和堂書店が故従五位下藤原国頭著として昭和30(1955)年9月に発行した書籍を見れば題目は 『浜松の史跡と伝説 曳馬拾遺』 となっており、また其の更に以前、明治34(1901)年7月に 著述者故人藤原國頭相續人杉浦幹名義で 谷嶋屋から発刊された書籍は題目を『曳馬拾遺』としています。 原本では如何なる文字が用いられたかは判然しませんが発音は「ひくましゅうい」で宜しいものと考えます。
問題は三の丸の成立期がいつなのかということですが、家康時代から当該機能は有していたのではないかと考えます。 江戸期の徳川譜代大名の石高は大凡5万石から2、3万石上下する程度で広大な城域を維持するのはなかなかに困難な身代です。 実際天主曲輪は利用されず政治向きは二の丸御殿で行われましたし、 幕末に向かうに従い三の丸は防御施設と言うよりはビジネス街としての様相を呈していったのは、 城郭施設として見れば明らかに家康期からは後退で実質城域は狭くなったものだと考えます。 家康期には江戸大名期より三の丸は必要な城域だったのであろうと推測すれば、 城域は家康期に最大となって、 堀尾期に12万石の身代で辛うじて維持できるもので、其れも秀吉の後方支援あってのことと考えます。
先ずは其の様に考えれば大手門迄を勘定に入れて冒頭を測定したのですが、 其れを入れなくても、西には作左曲輪が当然城機能を果たしたでしょうし、 南には現在の 浜松市立中央図書館 が出丸、 鳥居曲輪 として城機能を有していたでしょう。 すると東南部分に城域への喰い込みが発生しはしますが、 南北には400メートル余りの広がりが見られます。 現在の中央図書館の辺りを歩けば周辺に比して小高く、 若し此処に何も用意が無いまま攻城方に占拠されれば容易ならざる事態に陥ることは誰でも容易に想像され得るでしょう。 中央図書館の敷地の西の階段を降りれば其処は元 袋町 と称し袋の鼠を想起させる様な出丸虎口の役目を負っていた様子も窺われます。
高柳
現在の専門家連の一般的な見解では三の丸は江戸期に入ってから浜松藩主に仍って増築したものと考えられています。 此の意見に従って本記事冒頭に挙げた最大限の城域とは反対の浜松城域の最小限の場合を考えてみた時、 三の丸、鳥居曲輪を城域に入れず、更に縮小する意味で現在の作左山も城域に入れなくても、 其れでも浜松城域は東西400メートル、南北300メートル以上の相当の広大さを有しているのには変わりません。
此の如く浜松城に広大な領域が見られ、 其れが家康期に最大となったと考えたいのは、 浜松入府時こそ三河一国程度、10万石程であった身代も、 関東転封時には駿遠三甲信と凡そ百万石を優に超える広大な領土を擁していたからです。 歴代の浜松藩の石高は凡そ5万石程度であることなどから、 浜松城は規模を小さく取られ勝ちの傾向にあります。 また後に天下人となった家康の城としては天下城たる江戸城が想起され、 其の前身となる浜松での徳川は、織田に翻弄され、武田に敗れ[K2] 弱小大名の印象が強くては持ち城たる浜松城は此れも小規模に受け取られる要因たるでしょう。 しかしながら浜松城は例えば、戦国時代の後北条氏の小田原城、 江戸時代の加賀百万石金沢城に比肩して遜色ない道理で、広大な城域に何の不思議もありません。 しかも西にはいつ再戦を交えるか分からない脅威、豊臣秀吉が健在であったのでした。
近代的城郭技術を浜松城に導入した堀尾吉晴
徳川家康関東転封の後、
豊臣秀吉の命を受け浜松城に入ったのは
現在、専門家連の意見としては、 堀尾吉晴が浜松城に上方の望楼瓦葺き天守閣等の建造物、高石垣、等々を持ち込んだ、と言うのが大凡の一致する処となっています。 即ち、其れ迄の徳川家康居城時代の浜松城は土塁、空堀、自然湿地帯の利用を中心として、当時の上方の城と比較すれば些か古態を呈す状況でした。 高石垣、礎石建物、天守閣等の高層建築、瓦葺建物と言った諸要素を統合した近代的城郭は織田信長の安土城に始まるとされます。 此の近代的な城郭建築を携え、堀尾吉晴は遠州浜松に乗り込んで来たのでした。 現在見られる天守曲輪、本丸周囲の石垣は堀尾吉晴が築いたものが其の儘の形を保って残されているものと考えられています。
堀尾吉晴は磐田市見付を除けば、平成17(2005)年7月に合併して北遠迄含む、 ほぼ現在の浜松市と一致する12万石の領土を遠江国に与えられて浜松に入府しました。 12万石の身代では関東転封時の家康に及ぶべくもありませんが、豊臣秀吉の強力な後援がありました。 天下人としての圧倒的な財力を以て東海道一帯の豊臣方諸城に秀吉は支援を送り、 其の支援あったればこその近代的城郭の築城を成し得たのでした。 出土する瓦などに東海道一帯にお揃いの意匠の施された出土物が見られるのが其れを裏付けています。 石垣や瓦などの近畿の進んだ技術を持つ職人連を引き連れ浜松に来たった吉晴は、 而して浜松に高石垣を巡らし瓦葺きの望楼を戴く天守を中心とした近代的城郭を築くに至りました。
しかし時代の趨勢は徳川に傾き、 浜松城には堀尾吉晴以降、徳川譜代の大名の配置される処となり、 松平、水野、青山、高力、太田等、歴代の浜松藩主に移り変わるなどしながら明治維新に至っています。 明治維新時の藩主は井上河内守正直でした。
廃城令
明治の御一新醒めやらぬ明治5(1872)年8月23日の浜松県令の布達で浜松城の建造物は払い下げが命じられました。 明治6(1873)年には全国的に廃城令が発布され、 明治8(1875)年には土地、立木の払い下げが施行されました。 昭和28(1953)年に発行された『濵松風土記』[※4] には 「明治二年德川慶喜が藩籍を奉還してから浜松城は兵部省の所有に移り、 明治七年まで荒れるに任せて放置、 その間町民が頻々と徒党を組んで潜入し御殿、大門、中門、御番所、天主、御共所、小天主その他の建造物を叩き壊して台無しにした。 入札により公賣に附されたのは明治八年三月で、天主閣はじめ土地およそ五萬坪と建造物一さいを廿兩で元井上藩士數名に拂下げられ、 後ち転々と所有者が替つたが、実際の落札金は十一兩であつた。」 と、浜松城は明治維新を機に抑制の外れ無法地帯となっては民間に大いに侵食されて後、 土地及び破壊を免れた建屋は一切合切が行政に仍って一旦は浜松藩士に払い下げられた後に所有者が次々と移っていった様に当時の様子が記されています。 兎も角も士分の手を離れた浜松城は孰れ民間人の所有する処となり、 詳細は判然しませんが所有権は孰れかを度々移された様です。
『浜松城天守門整備工事報告書』[※5]
には、
例えば浜松城でこそないものの当時払い下げられて現存する建屋としては
また浜松の古刹
此の様に、 浜松城は天守曲輪、本丸の石垣を残して大半が取り壊され、 建屋は払い下げられ移築され、 土地は民間の思う処に造成されて、 江戸期の姿は数年の内、瞬く間に失われて行きました。
明治大正の浜松城
新時代を迎え活力漲る庶民は天守曲輪を観光資源として活用しました。 『浜松城天守門整備工事報告書』[※5] では、明治32(1899)年に出版された『浜松鉄城閣及び市街地略図』に触れ、 「鉄城閣」と称する高さ13丈(約43m)にも及ぶ展望台が民間に有料で経営されていた様子が伝えられます。 2007年に筑摩書房から刊行された木下直之氏の著書 『わたしの城下町―天守閣からみえる戦後の日本』[※6] の孫引きになりますが、 1940年に古今書院から刊行された鷹野つぎ氏の著書『四季と子供』に、 天守台に設えられた展望台には古びた狭い間口の入り口があり、 入ると脇には煙草、果物、ラムネ、菓子などが並べられていた、との明治30年頃と思しき様子が引用されています。 展望台を昇るに、 直立の梯子のような階段を上がった2階は二十畳程の広々とした座敷、 次に座敷の反対側の階段を上った3階は十五、六畳と思われる座敷が広がり、 其の反対の次の階段を上がった4階は八畳ほど、 また反対と謂わば螺旋の如き其の次、最後の階段を上がった最上階は四畳半ほどの広さであった、 と描写されるのが裾野に広く建てば宜しいという安全が些か度外視された昭和初期の望楼鉄骨建造物が彷彿されて面白くもあります。
また同じく『わたしの城下町』[※6] には1978年読売新聞浜松市局編の『浜松城物語』からも 「大正時代まで、ここに展望小屋と物見櫓があり、 ラムネなどを売りながら観光施設になったこともある」 と引用されており、当時、天守閣前広場南隅に賃貸されていた御仁の話なども引かれ、 「高須虎男さんという人が管理していた。東の石段に天守門があり、番人がいて、 たしか二、三銭の入場料を取っていた」 なる其の話の引用もされています。 天守曲輪からは出土物としてラムネの瓶、陶器や、 また現在も浜松市肴町に酒店を経営される間渕商店の銘入りの酒徳利も発掘出土しており、此れを現物で裏付け、 商魂逞しい浜松商人の様子や、市民が天守曲輪に酒盛りをしていた様子が彷彿されるなどの、 如何にもな庶民の生活感の生身が感じられ、微笑ましくもあります。
此処にある「鉄城閣」は『四季と子供』の「展望台」であり『浜松城物語』の「展望小屋」にて、 滋賀大学卒業時の高橋直紀氏の論文 『浜松城天守再建と昭和の再建ブーム』[※7] は明治以降の浜松城についてとても良く調べられており参考になりますが、 此の「鉄城閣」は戦後の台風で倒壊したのだと記されています。 では『浜松城物語』の「物見櫓」はと言えば、 展望台とは別物で「鉄城閣」に近接して設営されており、 古文書解読会でご一緒する昭和一桁生まれの渡辺昌雄さんにお聞きすれば、 記憶に残る此れを「鉄塔」と称し見張り台としての認識を持たれていましたが、 展望台の存在は否定されましたので「鉄城閣」が台風で倒壊した後も「物見櫓」は暫くは建っていた様です。 ただ、渡辺さんにお話を聞いても、 浜松城天守曲輪に宴会、酒盛りが催されていた記憶などは少年だったからか流石に記憶にあられないようです。
即ち、明治、大正期を通じ、 天守曲輪には廃城令迄は天守門こそ現存したものと思われますが、 天守台には天守閣は存在しなかったのでした。 平成の現在、浜松城天守曲輪を訪れれば天守台には、 安土桃山形式の天守閣が建っているのが見られます。 では、此れはいつ建てられたのでしょうか。
昭和の浜松城
昭和が第二次世界大戦の戦前、戦後で大きく変化したのは周知される処です。
昭和20(1945)年6月18日の
浜松大空襲
では浜松城周辺も灰燼に帰し、
此の大空襲では
戦争で大きな痛手を負った浜松ですが、戦後工業都市として目覚ましい発展を遂げたのは周知でしょう。
浜松復興を全国にアピールすべく催されたイベントがありました。
昭和25(1950)年に市制40周年記念事業として催された「浜松こども博覧会」にて、
浜松城跡地で9月10日から10月20日の40日間開催されたのでした。
此の時、天守台にはベニヤ造りとは言えなかなか立派な天守閣が設えられ、
木下氏などは『わたしの城下町』[※6]
で此れを忍者よろしくよじ登った想い出を懐かしく記しています。
此のベニヤ天守閣は博覧会後も七ヶ月間残されていたと言い、
市民に本格的な天守閣建築の空気が醸成される切っ掛けともなったようです。
因みに博覧会跡地は浜松動物園として利用され、
以降、現在の
戦後、雄々しく復興を果たすに連れ、活力に溢れる浜松では、
浜松城跡地にも様々な企図がなされました。
昭和28(1953)年には、中日本観光株式会社代表の小石氏が、
当時の天守曲輪の所有者であり、現在でも
復興天守閣
経営の覚束ない中日本観光株式会社の城跡地土地所有権や其の買取金額、営業権など市議会も巻き込んで、 浜松の政財界にきな臭い話の跋扈した様子は『浜松城天守再建と昭和の再建ブーム』[※7] に詳しくあります。 其の様な中、愈々、浜松城に天守閣を建設すべく企図が目論まれ始めました。 昭和30年代は全国で城再建ブームが勃発した時期でした。 其の機運に乗じて浜松でも天守閣再建が目指されたのでしたが、 大金の動く企画にてなかなか難しい面もあったようで、 税金で賄うには各方面からの苦情も多く、市民には広く浜松城再建の為の募金が募られました。 『わたしの城下町』[※6] の表紙は正しく其の募金の為の天守閣型の貯金箱で、 伊藤さんは此れに募金をしたことを覚えておられます。
市民の此のような協力もあったものの、 残念ながら充分な費用は集まりませんでした。 其処で予算に応じた建築規模に縮小され設計が成されました。 現在、天守閣最上階に登って見下ろせば、 西側には石垣の上に余分に広がった敷地が見られます。 最上階から展望せずとも天守曲輪から復興天守閣の西側を見れば天守台石垣の余りは露骨なものではっきり分かります。 此の余りは天守閣の築れた当時にはなかっただろう余裕地で、 其の広さを予算的に確保出来ない為に空白地となってしまったものでした。 現在の浜松城天守閣が 復元 天守閣ならぬ 復興 天守閣、と呼ばれ、口さの無い向きには インチキ 天守閣と迄蔑まれる由縁にて、 しかし此れも予算の都合で平気で分かり易い縮小を許す当時の市民の大らかさと捉えれば微笑ましくもあるでしょう。
復興天守閣の設計を担当したのは当時の斯界の権威 城戸久 氏[※8] でした。 城戸氏が安土桃山期の天守閣を見る者に彷彿せんと考え、 堀尾吉晴転封後の居城で現在国宝の松江城をモデルにしたと言われます。 現在の残る国宝五天守は桃山時代から江戸初期の産物で 入母屋を十文字に重ねて上に望楼を載せるというように、凡そ似通った姿形をしているようですが、 特に松江城は黒板張りの外観などもモデルにしたと思しき様子が強く伺えます。 浜松城天守閣には再建しようにも設計図も残っておらず、 石垣は残るものの、天守閣自体が実際に建造されたのか如何かもはっきりしない時期でした。 斯うして現在、浜松城天守台に鎮座している復興天守閣は、 鉄筋コンクリート造りで昭和33(1958)年に桃山時代の天守閣は斯くあるべしと、 予算と土地を見繕った空想の産物として漸く建てられたのでした。
さて、肝心要の再建されるべき天守閣は建っていたのでしょうか。
復元しようにも其の
天守曲輪の建造物
平成26(2014)年には市制100周年記念事業として2年間を掛けて天守門が復元されました。 『浜松城天守門整備工事報告書』[※5] に依れば復元の時期として廃城令当時の姿に照準を合わせることを基本にしたものとされています。 従って廃城時、天守門は現存した訳です。 復元された天守門の大棟鬼瓦には最後の浜松城主井上家の「井」紋があしらわれています。
更に天守門の復元に当たっては発掘調査が行われ、 当該区域に5階層の層位が見られ、 礎石が石垣と同じ石材の自然石を用いていること、 部分的な掘削にとどまったが下から其の層位より下の造成土には遺物が全く出土しないことなどの理由から、 下から2番目の層位の造成土に設置された礎石が石垣構築時、 即ち堀尾氏領有時代の天守門に伴うものである可能性が高いものとされ、 天守門は堀尾吉晴時代から江戸時代を通じて存在した建造物であるのが分かります。
では浜松城に天守閣は建てられていたのでしょうか。 実は昭和33(1958)年の復興天守閣を築く際には明治、大正、昭和期に造成された天守台の発掘調査がなされ、地下に井戸が発見されています。 其の井戸からは堀尾時代に造られたと思しき鯱瓦が発掘され、 天守閣は天守台に建っていた蓋然性が高くなりました。 現在も復興天守閣に赴けば地下にある其の井戸が見られます。
そして去年平成30(2018)年の夏から初冬に掛けて浜松城天守曲輪に発掘調査が行われました。
此の調査で確認されたのが浜松城天守曲輪の東南隅に建てられていた
斯くして天守曲輪に主要な建造物として、
天守閣、天守門、隅櫓、加えて西側に
浜松城天守閣はいつ失われたか
堀尾時代に浜松城天守台上に天守閣が築かれていた、とすると其れはいつ失われたのでしょうか。 江戸期の絵図[※9] には天守門こそ見られるものの天守閣の見られるものはありません。 軍事的要塞であれば絵図に記すのは憚られるでしょうし、 「浜松城絵図遠州浜松松尾山引駒城下絵図」[※10] など其の典型でしょうが、 幕府への報告となれば記さざるを得ず、全ての絵図に天守閣の存在してなお描かれないのは不自然ですし、 天守閣は兎も角、天守門や石塁、櫓は詳細に描かれた絵図もあります。
江戸時代に最も古い浜松城の絵図は 延宝6(1678)年から元禄15(1702)年の間浜松藩主を務めた青山家の現在浜松博物館に所蔵される 青山家御家中配列図[※11] と考えられますが、此れには天守門、埋門の描かれ、また天守台こそ描かれるものの天守閣に相当する建屋はなく、 隅櫓は影も形も見られません。 すると天守閣は堀尾吉晴城主期に建てられてから江戸幕府開闢を経て、百年ほどの延宝、元禄期には失われていたことになります。
因みに青山家は浜松城主となった
因幡守宗俊
の父親、
伯耆守忠俊
が浜松の生まれで家康、秀忠に仕え、次代将軍家光に諫言を繰り返して勘気を被り老中を免職せられ、
隠棲を余儀なくされた地の一つが現浜北区小林の椿島でした。
屋敷前には少林山
心宝寺
が建ち屡々此処を参詣した忠俊は別所に
閑話休題、徳川幕府成立から青山家浜松城入府迄の其の間の地震で、 天守閣が倒壊した可能性も考えられはします。 天守閣の非存在が延宝年間迄に遡り得れば、 江戸幕府開闢より確実に天守閣の見えない此の時期に至る間の歴史地震を見てみれば良いでしょう。
浜松市博物館では「浜松と地震」と称すテーマ展を 平成28(2016)年の3月5日から5月8日迄開催するなど資料も豊富ですが、 此の情報も併せた他、田原町史、常光寺年代記、細江町、雄踏町史、安倍郡史、伊豆長岡町史、志摩町史、熊野年代記、などを併記、検討した、 『歴史の中の東海地震・リアル』[※12] の四章「江戸時代前半期の地震」が此の際便利です。 すると候補に上がりそうなのが、慶長、貞享、元禄の地震になりますが、 貞享、元禄となると青山城主期に入りますから考え難い面が多く、 残る慶長の大地震を見てみます。 慶長には全国的には地震が頻発していますが、 浜松城天守閣倒壊を招くような東海地方に影響を与える地震となると 慶長9(1604)年と慶長19(1614)年の地震が挙げられるものの、 後者は伊豆地方に影響のあったもので遠州地方には記録も残され難いものですから、 残るのは慶長9(1604)年の地震となります。 処が此の地震は遠隔地を震源地とする津波地震であったようで 『歴史の中の東海地震・リアル』は『常光寺年代記』から12月16日夜、波が片浜に打ちつけ、船をみんな打ち壊したほか、 網も知らぬうちに流され、人々が驚いた、と引用しており、 津波が夜間に揺れもないまま海岸を襲った惨状を翌朝人々が気付いた地震であったとしていますから、 『雄踏町史』に今切の関所の壊滅が伝えられるなど被害は大きいものの、 建築物を倒壊させる種類の地震ではなかったものと考えられます。 従って此の時期、天守閣を倒壊させるのに該当するような大地震は見られないことになります。
大地震に加えて城郭建築の失われる原因として大きいものに火災があります。 しかし該当する文献史料は残りませんし、 此れを裏付ける火災の証拠たる、瓦や陶器などの出土物への煤の付着や炭化した木材などの焼け跡の発掘成果も齎されてはいません。 従って江戸初期に浜松城天守閣が火災で失われたとも考え難いものです。
結論としては堀尾吉晴、家督を譲った嫡子忠氏、の堀尾家城主期に建築された上方風の瓦葺き天守閣は、 延宝に至る百年の間に自然災害ではなく、 何者かの人為的行為の結果、破却された事実が浮かび上がります。
東向きに建てられていた浜松城
遠江の国人
其の後曳馬古城には飯尾氏が今川被官として配属されました。 徳川家康が遠州進出を目論見、曳馬城を陥れた時の城主が飯尾氏でした。 従って創建以来、 浜松城は西向きに建てられる根本的性質を有していました。
此の浜松城の向きが変質したのは徳川家康の浜松入府です。 家康入城以来曳馬古城は拡張せられ、東向きの浜松城に変貌を遂げたのです。 浜松城が東向きに建てられる性質を有するのは、 家康時代には東の強敵、今川、そして其の後の武田信玄を睨んだからに違いありません。
そして家康の関東移封に伴う堀尾吉晴城主期にも東向きに建てられる根本的性質は引き継がれました。 なんとなれば豊臣尖兵たる堀尾の脅威は他ならぬ東の徳川だったからです。 元々東向きに建てられた浜松城は豊臣方の城として縄張りするにも御誂え向きだったでしょう。
武田に三方原で一敗地に
東向きの性格を必須とされ、上方風の高石垣上に築かれた浜松城は、 東の本丸曲輪を石垣造りとし、其の曲輪の東に富士見櫓、多聞櫓を配置し、 最上部の天守曲輪には東に瓦葺きの天守門、隅櫓を配置し、其の後ろに天守閣を配置し、 東海道を西に上り来たる見る者を威圧するべく東向きに威容を誇っています。 今や豊臣配下となり関八州を拠点とする徳川家康は西方上方に向かうに東海道を上る度、 さぞかし苦々しい思いをしたのではないかと思います。
天守曲輪東南隅櫓発掘調査
前述の通り、平成30(2018)年の浜松城天守曲輪発掘調査で 天守曲輪東南の隅櫓の存在が明らかになりました。 興味深いのは其の建設及び失われた時期が天守閣と共有されていると考えられる点です。 建設は堀尾吉晴の手になり、失われたのは江戸時代の早い時期と考えられるのは矢張り絵図に見られないからです。 加えて現在の天守曲輪では石塁さえ内部は造成の為、判り難い状況ですから、 天守台の露わな天守閣と異なり、其の存在さえ知られていませんでした。
更に奇妙なのは発掘された石塁の内側に瓦が打ち捨てられる様に雑然と埋まっている状態にあることでした。 瓦と言えば江戸初期当時には貴重な建築資材で、流用されこそすれ気軽に廃棄されて良いものではありません。 『浜松城主堀尾吉晴』[※2] には 加藤理文 氏の文責で、 工人集団の不足する瓦の希少性が述べられるに、 秀吉の聚楽第でさえ周辺寺院の瓦を流用する中、 東海道諸城郭の瓦葺き化には瓦及び版木の絶対数の不足が一番の課題であったとします。 発掘に見られるひしゃげた瓦の使用やひび割れた瓦の補修使用は、此の瓦の貴重さを物語るものです。
其の如き貴重な瓦が発掘現場である浜松城東南の石塁内には
隅櫓は未だ発掘の取り敢えず完了した状態で詳細は判然しませんが、 二階建てであったのではないかと考えらえています。 建築当時、天守曲輪内部からは2メートル以上に及ぶ石塁が周囲を囲んでいますから、 此の石塁の高さ迄を一層、其の上に二層目の櫓建築が載っていたものではないかと考えられ、 即ち、外から見て一層、天守曲輪内側からは二層の建造物ではなかったか、と考えられているものです。 発掘された瓦は立派な作りを見れば、隅櫓は相応に立派であった様子が想定されます。 天守閣に天守門、更に此の立派な造りの隅櫓が加わった浜松城の東への威圧感は甚だしいものであったでしょう。
浜松城天守閣を破却したのは誰か
現在の専門家の凡そ意見の一致する処は 浜松城天守閣を破却したのは徳川家康、 若しくは其の意向を受けたか、忖度した堀尾家の次代城主 松平忠頼 で大凡一致しているようですが、 どうも松平忠頼の所謂キャラクターが薄く、また刃傷沙汰に関与した所為か、 言及者の歯切れが悪くならざるを得なくなるのも致し方ないような印象を受けます。 其の次代で、後に紀州に頼宣の附家老として配属される 水野重仲 となれば有り得よう印象もありますが、 重仲の浜松城入府は慶長14(1609)年にて些か時間が経ち過ぎているようですし、 徳川の御世の確実となった関ヶ原以降に独断で天守閣を破却するのは、 此れも些か彼の立場として違和感を覚えざるを得ません。
しかし天守閣破却が家康の命であれば問題ありません。
東向きに徳川を威圧せんとした城が面白かろう筈がありません。
ただ家康が其のような怒りに任せた行動を取るでしょうか。
家康は隠忍自重の人です。
本記事冒頭にも関東移封を忍び、
剰え信長からの意向を受けての、正妻
築山殿、
嫡男
信康
の処断実行にも此れに耐えています。
家康は関ヶ原に勝利して、今や其の一挙手一投足が全国の大名連に注目されています。
其の大事な時期の最中、豊臣方として自らを威圧すべく建てられた城と言え、
其れを知った大名に動揺を招き兼ねない、
今は
では此の時点での家康の正嫡 徳川秀忠 であれば、此れも浜松城天守閣破却を命じたとしても形式的な違和感こそ生じませんが、 最も家康の心中を察していると思われ、 関ヶ原でも遅参が問題となった天下人後継の秀忠が其のような軽率な行動を取るとも思えません。 また、上で述べた様に当時瓦は先進的で貴重な建築資材でした。 如何に破却が必要になったとは言え、 若し徳川方の意向で実行されれば、 其の瓦の別建築へ流用されこそすれ無造作に其の場に廃棄される状況は考え難くあります。 更には徳川方の意向で事が進められれば急ぐ必要もないのです。
但し、浜松城天守閣の破却が家康の意向であったのは確かでしょう。 実行者は家康の心底を難なく察する人情の機微に聡い人物でもあったでしょう。 また破却時点で其れを実行しても問題ない人物でもなければいけません。 従って該当する人物は唯一人しか考えられません。 堀尾吉晴 です。 彼が浜松城天守閣を破却したのは、 未だ彼が形式的には徳川方の意向を受けずとも良い豊臣方としての城主たる関ヶ原前夜であったと考えます。
関ヶ原前夜、小山評定を済ませた家康が上方に上る途上で目にする必要があれば、 天守閣と隅櫓の破却は急ぐ必要があったでしょう。 無造作に東南隅の石塁内に打ち捨てられた瓦の堆積は其れを物語ります。
現在、天守閣の遺物と認められるのは天守台地下井戸出土の鯱瓦部分のみですが、 堀尾吉晴が隅櫓と同時に天守閣を破却したとすれば、 隅櫓と同様に大量の瓦が近辺に放擲されている筈です。 昭和59(1984)年の天守曲輪外周下工事の立会では、 天守曲輪の北側石垣前面に大量の瓦が廃棄されていたのが見付かっています。 瓦には太田氏の代を示す桔梗紋の軒丸瓦も見られたものの同時に巴紋の古式のものが発掘されたと言います。 此れを報告書の『浜松城跡』[※1] では此の大量の瓦の埋没は青山氏の先代城主、太田氏以後の城主の代、即ち十七世紀末以降のことと結論付けています。 しかし量が大量であり、しかも位置的な考慮を鑑みた時、此の瓦の廃棄に関して、些か理屈に合わない様に思います。 実際の出土物、出土状況を検証していませんので確言は出来ませんが、 実は此れこそ堀尾氏の実行した天守閣の破却の証拠と考えます。 隅櫓で2メートルを超える堆積が発生したのであれば、 天守閣では同等、若しくは其れ以上の瓦の廃棄があったものでしょう、 従って天守曲輪北側への放擲だけでは足らず、 孰れの日にか何某かの機会で、天守台の発掘の際には隅櫓と同じく急いで破却された天守閣の残骸が天守台に敷き詰められ、 造成された状況が発掘されるものと予想します。
山内一豊との対比
秀吉は家康を関東に移封させると其の抑えとして東海道に子飼いの諸将を配置しました。 其の一人が堀尾吉晴であり、浜松に配属せられたのでしたが、 其の東、掛川城に配属せられたのが 山内一豊 でした。 此の一豊と吉晴を対比した時、面白い事象が浮かび上がります。
両者は共に尾張の土豪の出であり、岩倉織田氏に重臣として仕える家系で、 若年時、敵対する織田信長に滅ぼされて流浪しています。 其の後、織田信長配下の豊臣秀吉に仕え立身し、 関白豊臣秀次の付家老になっています。 そして東海道に赴任し、関ヶ原で徳川方に付き、 関ヶ原後に大幅な加増を受け転封しているのです。 ざっと挙げただけでも以上の如く其の生涯は、見た目はさりながら、 まるで一枚の設計図を焼き写して二者に適用したものの様にさえ思えるもので、 両者の対比で一編をものすれば面白かろうとも考えている程です。 此のような生い立ち、生涯は大きく両者の人格形成に影響を与え、 実に世知長けた人格面の一卵性双生児が出来上がったものと考えられます。 勿論秀吉の思惑もあったでしょうが、 秀次事件で発生した凄惨な状況からも生き延び、 返って加増を受ける其の世知辛さは、 両者の関ヶ原後の栄進を約束したでしょう。
山内一豊が巷間名を知られているのは
天正9(1581)年の馬揃えの際の
浅間神社
浜松駅の南に少し行くと、
馬込川が大きく湾曲し、馬込川水系の新川と合流する辺りに、
浅田町、上浅田、西浅田、南浅田、とかなり広く広がる浅田地区があり、
上浅田二丁目には創建文武5(700)年と伝えられる
浅間神社の其の名の通り、富士から勧請された神社であれば、
御祭神は由緒書きにも
浜松市博物館所蔵の元和4(1618)年遠州長上郡敷智郡の村々の取れ高を記した古文書[※13]
には、
浅田村の高は517石1斗5升3合とされ、
内5石6斗7升を
川成堤為[追1]
と記して水害対策の用となすべく計上されています。
水害で耕地として役に立たなくなり税免除分の土地を意味する
川成
は同書の別地域にも多く見られますが、堤に用立てるべき記載は珍しく、
当地が水害に関して特別に防止負担費用を負っていたのが明らかで、
浅田は水害を前提とされる立地であったのが判然します。
また
高10石大宮領
とあるのが若しかしたら浅間神社を言うのかも知れませんが妥当であるか如何かは分かりません。
『曳駒拾遺』に些か妙なのは、此の山に、と沙山の上に浅間神社が
高石垣の石は浜名湖北岸産と考えられ水運で浜松城迄運ばれたと考えられています。
此の時考えられる運用路は浜名湖から同名ながら馬込川水系新川とは別河川の都田川水系新川を辿り、
佐鳴湖に至って浜松城に運び込まれたものとされますが、
どうも、未だ
堀尾吉晴は上方の先進的な城郭技術を導入するに、
夥しい巨石を調達する必要に駆られました。
石垣石材として相応しい
結言
浜松城は天下人の城でありながら未だ未だ謎に満ちた興味深い城です。 今回、天守閣、隅櫓について文献、発掘成果などから考察し、 両建造物の破却者は建造者でもある堀尾吉晴であると結論付けてみましたが、 今後の文献調査や発掘結果から更なる新たな知見が齎され、考察の機会も弥増すものと期待しています。
浜松城は明治維新以降、昭和初期迄に相次ぐ造成で姿を変え、失われました。 此れを悪と捉えるべきでしょうか。 例えば農地開墾に邪魔となれば歴史的な建造物の礎石だろうと粉砕し、墳丘だろうと掘削してお構いなし、 と言った態度は歴史調査をしていれば随所に伺えます。 実は此の如き態度を目にする度に個人的には微笑ましく思うのです。
庶民の心性は移り変わります。 其れは歴史観に於いても例外ではありません。 そして人界は進歩するばかりになければ新しければ宜しいと言う訳では決してないでしょう。 庶民の心性は戦後の昭和、 其処に天守台があれば天守閣がシンボルとして建つべきであり、 戦後間も無くであれば戦災に強くある為のコンクリ造りであるのが当然であり、 其の際天守台が余ろうが頓着しない、と言う大らかなものであったでしょう。 然るに現在では掛川城や名古屋城再建の経緯から見るに、 世間は完全なる木製の復元に拘る様相を呈している様です。 此の状況下に転じては復興天守閣はなかなか居心地が悪いでしょう。 だからと言って又いつ状況が逆転するかも分かりません。 此の移り変わるもバイタリティーに溢れた庶民の心性こそが歴史を作ると思うのです。 封建制から解放された明治期の浜松城跡地も宅地及び観光資源として自由奔放に活用すべし、と言う庶民の心性も微笑ましい歴史の一部です。 戦後の復興の象徴として解放された筈の支配の象徴たる天守閣を欲する、と言う庶民の心性も微笑ましい歴史の一部です。 もはや戦後ではないとし、年号も代わり、復興天守閣をインチキ天守閣と称し、 例えば木造回帰が指向されるとしても、其の庶民の心性は微笑ましい歴史の一部でしょう。
本記事に主張する如く、 浜松城天守閣は堀尾家支配期にのみ建っていたと考えれば、 天正18(1590)年から慶長5(1600)年迄の僅か10年間の短期間の存在となります。 では昭和の復興天守閣はと言えば、其の存続時期は 昭和33(1958)年の建造から当年2019年迄、彼此61年を閲しており、 既に堀尾期の其れを遥かに上回っています。
最近では人気も下火となった 時代劇 では、忍者が空飛び、弾丸より速いスーパーマンの如き大活躍をしたり、 天下の副将軍水戸光圀が諸国を漫遊して各地で印籠を翳したり、 江戸町奉行遠山の金さんが袴を舞わせ踏み出すお白州には階段が用意されていたり、 と物語を面白くする演出の為に実に分かり易い嘘万八が散りばめられて、 而して見る者を楽しませる良質なエンターテイメントとなっています。 謂わば祭りの夜店の屋台の香具師のようなもので、 其処ではインチキだのなんだの野暮ったいことは言わず、気持ち良く騙されるものです。 行政はアニメばかりをクールジャパンとして持ち上げている様ですが、 此の時代劇も併せて海外に輸出されるべき良質なコンテンツだと思います。 RC造りで天守台に余りを残しさえする分かり易い嘘万八の復興天守閣も、 其の類のものだと考えれば宜しいでしょう。 当時の政治的になかなかキナ臭い裏の状況さえ、 其れを歴史として記し置けばちょっとしたスパイスの様なものです。
其れでも復元天守閣と呼ぶを憚り復興天守閣と称すのも無理からぬ処とは思います。
今後、発掘調査の進み新発見のなされ、堀尾期天守閣の構造が露わになれば、
新たに浜松城改築の話が出るかも知れません。
復興天守閣が姿を変える決定を下されれば其れも歴史です。
しかし、庶民の活力の現れたるRC造りの現天守閣は、
昭和、平成、そして次代と浜松市民の象徴として存在し、優に半世紀以上経ました。
此れは、其れもまた良し、浜松城と言えば現在の姿を思い起こす天守閣として其の儘残されても構わない存在として認知された様にも思え、
然う思えば善くぞ破却者には形の皆目分からない様に打ち
追記1(2019年4月29日)
「川成堤為」の最後の文字は「
また本文にある様に「
川成
」其の物は珍しくない処か、天竜川と言う国内有数の大河を擁し、
馬込川という現在の行政的には二級河川ながら比較的大きな川さえ流れる遠州西部の平野の高帖であれば、
頗る頻繁に見られる語句ではあるものの、
矢張り「川成堤敷」は相当珍しいものですが、
高帖には入野村に同じく記述がありました。
687石の内
追記2(2019年5月25日)
ケーブルカー と聞くと平成、令和以降しか知らない向きには、 軌道敷の敷設され其の上を行く、自らは動力を擁しない列車を想起されるかも知れませんが、 此処で言うケーブルカーは恐らくは今で言う ロープウェイ で間違いありません。 ロープウェイは空中の二点間を繋いで張られたロープを伝って人の乗る釣り籠を牽引する乗り物ですから軌道敷は必要ありません。 堀尾吉晴の築いた穴太積みの石垣は軌道敷敷設には傾斜が急に過ぎたでしょうし、 山岳に敷設するケーブルカーの軌道敷のようにその為に造成するのも石垣を活かそうと思えば難しかったでしょう、 しかし空中を行くロープウェイであれば無理がありません。 ネットを繰れば1950年代の浜松市動物園の写真を掲載するページ[※15] も見つかり、其の写真は少々紹介が躊躇われる程に合成写真ではないかと見紛うばかりの見事な構図で 観客の注目を集める象の曲芸の上を走るロープウェイが確りと写り込んでいます。
此処に誤解を恐れずケーブルカーとして記述するのはお話をお聞きした平山さんの用語を尊重するからです。
浜松城のお話をお聞きした際に咄嗟に思い出された小学生時代の記憶に其の儘ケーブルカーと言う語彙は生きていたのですから、
恐らくは当時眼前のロープウェイを以て大盤振る舞いをしてくれた担任の先生もケーブルカーと仰っていたのを、
平山さんは心に焼き付けておいでなのでしょう。
念の為に同世代以上の
斯くあれば昭和の終戦直後は今言うロープウェイと言う言葉は日本若しくは遠州地域にはなく、 しかし目の前に実際に在る此の乗り物を人々は(空中)ケーブルカーと呼んでいたのであり、 其の後、昭和の何時しかロープウェイと言う言葉が輸入、若しくは造語されて人口に膾炙して、 今にケーブルカーとは異なる一般名詞として定着したのであると考えられます。 けれども渦中に生きている人々はそんな流れに頓着しないのは、また微笑ましくもあります。 此の事案は以前配信の記事[K4] に考察した みなしご と同じき言葉の変遷が伺われ実に興味深く、例によって歴史研究に伴う快い衝撃が感じられました。 何気無い一言にも歴史は隠されているのだと思います。
処で浜松市動物園と浜松城を結ぶケーブルカーがロープウェイであれば、 見張り台と思しき鉄塔との関係もよもやと思われましたが、 渡辺昌雄さんに尋ねても確言は得られませんでした。 前記の浜松市動物園の写真にはロープウェイの行き先は写っておらず、 また平山さんにお聞きしてもロープウェイの辿り着く先は本丸曲輪か天守曲輪か天守台かは判然とはしなかったのは残念な処です。
参考文献(※)- 『浜松市指定文化財 浜松城跡 ー考古学的調査の記録ー』(浜松市教育委員会/一九九六年三月)
- 浜松市博物館特別展冊子『浜松城主堀尾吉晴』(浜松市博物館編集平成24年発行)
- 『戰國戰記三方原之戦』(高柳光壽/春秋社昭和33年5月発行)
- 『浜松風土記』(會田文彬著/浜松出版社昭和28年発行)
- 『浜松城天守門整備工事報告書』(浜松市都市整備部公園課/平成26年)
- 『わたしの城下町―天守閣からみえる戦後の日本』(木下直之著/2007年筑摩書房)
- 『浜松城天守再建と昭和の再建ブーム』(高橋直紀著/滋賀大学経済学部平成24年3月卒業筒井正夫専門演習Ⅳ)
- 『浜松城設計図』(浜松市教育委員会)
- 浜松城と城下の絵図(浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ)
- ADEACデジタルアーカイブシステム「浜松城絵図遠州浜松松尾山引駒城下絵図」(浜松博物館所蔵)
- ADEACデジタルアーカイブシステム「青山家御家中配列図」(浜松博物館所蔵)
- 『歴史の中の東海地震・リアル』(藤田佳久著/愛知大学綜合郷土研究所編2018年発行)
- 『遠州長上郡敷智郡村々高帖』(浜松市博物館所蔵/元和4年)
- 『遠江州敷知郡浜松御城下略繪図』(嘉永3年作成/昭和23年模写)
- 浜松城における整備のあゆみと観光事業(文化遺産の世界:2017年11月24日)
- 信玄街道(2018年10月26日)
- 浜松の合祀された五社神社と諏訪神社(2017年8月27日)
- 杉浦国頭の書き残した浜松の二つのうとう坂(2017年4月29日)
- 腰越状を読む(2018年7月4日)