浜松城天守閣を破却したのは誰か

浜松城が三方原台地の南端に、 曳馬ひくま古城 下垂しもだれ口から 作左さくざ曲輪迄入れれば東西に500メートル余り、 曳馬古城玄黙げんもく口から大手門、 今の連尺れんじゃく交差点迄の南北に600メートル余りと、 広大な城域を有しているのは、徳川家康が東北に位置することとなる曳馬古城を起点に取り込んで、 其処から西南に拡張を重ねたからです。

浜松城天守台石垣上に建てられた復興天守閣(2016年6月29日撮影)
浜松城天守台石垣上に建てられた復興天守閣(2016年6月29日撮影)

徳川家康は此の浜松城に、 元亀げんき元(1570)年から、 豊臣秀吉と和解した天正14(1586)年迄、17年間居城した後、 浜松城に城代の菅沼定政を入れ、自身は駿府に移り、天正18(1590)年には関東転封を秀吉に命じられています。 関八州を擁して大幅に領土は広がれど、 父祖伝来の三河を含む此の地を捨てての転封受け入れは些か度外れた忍耐強さが感じられます。 天下人たるには此の如き並外れた我慢強さが必要なのかも知れません。

浜松城の城域

曳馬なる地名については浜松市教育委員会の 『浜松城跡』[※1] に確実な初出として1250年代の 「引間」が挙げられ、記載例としては「ひくま・引ま・ひきま・匹馬・ひき馬・引駒・曳馬・曳駒」などが挙げられ、安定しない旨書かれています。 曳馬古城を呼ぶ時は引間城と書かれることも多く、 発音は「ひくま」、「ひきま」など安定しませんが現在では一般に 曳馬ひくま で通用しますので、此処でも使用します。 下垂は霜垂しもだれとも書かれますが、此処では「下垂」を使用します。 玄黙げんもく は現在では元目げんもくと書き元目町が残ります。

浜松城の東には国道152号線が南北に走り、北では飛龍街道、秋葉街道とも呼ばれる此の主街道は、 元城町周辺では 大手通り と呼ばれていますが、江戸時代には此の両脇が城内三の丸として機能しました。 大凡浜松市役所、現在は廃校更地となった元城小学校が二の丸跡地に当たり、其の東南の辺りになります。 浜松城三の丸は其の成立期が江戸期に下ると言われるのが一般です。 江戸中期 杉浦国頭すぎうらくにあきら[K1] の著した『曳駒拾遺』には、江戸以前には東から現在の元目町、八幡町、野口町辺りを 元浜松 と称しており、当時の主街道が走るに沿って 曳馬宿 が展開されていたものと考えられ、 宿から西に進んで曳馬古城の南側で南に折れた道が現在の大手通りで、 江戸時代には浜松藩主配下の武家屋敷が連なって三の丸を構成していたと思われます。 従って後の大手門前で南に折れる東海道はもう少し北、浜松古城辺りで折れるべく、 元浜松の中を通って走っていたものと考えられています。

杉浦国頭の著した書を『曳駒拾遺』と此処で称すのは浜松市博物館所蔵本に従っています。 ところで此の読みに関して浜松市博物館が編集発行した 『浜松城主堀尾吉晴』[※2] には「ひこましゅうい」と振られますが、 同じく浜松市博物館が編集発行した別本 『徳川家康天下取りへの道〜家康と遠江の国衆』 では「ひくましゅうい」と振られており些か困惑させられます。 しかし此れは「ひくましゅうい」で間違いないでしょう。 原本自体が残らず浜松市博物館の所蔵本も写本ですが、 例え『曳駒拾遺』と書かれていても書いた杉浦国頭は「ひくましゅうい」と発音していたでしょう。 不審に思って昭和堂書店が故従五位下藤原国頭著として昭和30(1955)年9月に発行した書籍を見れば題目は 『浜松の史跡と伝説 曳馬拾遺』 となっており、また其の更に以前、明治34(1901)年7月に 著述者故人藤原國頭相續人杉浦幹名義で 谷嶋屋から発刊された書籍は題目を『曳馬拾遺』としています。 原本では如何なる文字が用いられたかは判然しませんが発音は「ひくましゅうい」で宜しいものと考えます。

問題は三の丸の成立期がいつなのかということですが、家康時代から当該機能は有していたのではないかと考えます。 江戸期の徳川譜代大名の石高は大凡5万石から2、3万石上下する程度で広大な城域を維持するのはなかなかに困難な身代です。 実際天主曲輪は利用されず政治向きは二の丸御殿で行われましたし、 幕末に向かうに従い三の丸は防御施設と言うよりはビジネス街としての様相を呈していったのは、 城郭施設として見れば明らかに家康期からは後退で実質城域は狭くなったものだと考えます。 家康期には江戸大名期より三の丸は必要な城域だったのであろうと推測すれば、 城域は家康期に最大となって、 堀尾期に12万石の身代で辛うじて維持できるもので、其れも秀吉の後方支援あってのことと考えます。

鎧掛松から南の元出丸、鳥居曲輪の浜松市立中央図書館を見ると小高い丘上にあるのが分かる、後ろは天守曲輪、右は馬冷(2018年11月21日撮影)
鎧掛松から南の元出丸、鳥居曲輪の浜松市立中央図書館を見ると小高い丘上にあるのが分かる、後ろは天守曲輪、右は馬冷(2018年11月21日撮影)
浜松市立中央図書館の東側入口は階段を降りた低地にあり袋町の標識が建つ(2018年11月21日撮影)
浜松市立中央図書館の東側入口は階段を降りた低地にあり袋町の標識が建つ(2018年11月21日撮影)

先ずは其の様に考えれば大手門迄を勘定に入れて冒頭を測定したのですが、 其れを入れなくても、西には作左曲輪が当然城機能を果たしたでしょうし、 南には現在の 浜松市立中央図書館 が出丸、 鳥居曲輪 として城機能を有していたでしょう。 すると東南部分に城域への喰い込みが発生しはしますが、 南北には400メートル余りの広がりが見られます。 現在の中央図書館の辺りを歩けば周辺に比して小高く、 若し此処に何も用意が無いまま攻城方に占拠されれば容易ならざる事態に陥ることは誰でも容易に想像され得るでしょう。 中央図書館の敷地の西の階段を降りれば其処は元 袋町 と称し袋の鼠を想起させる様な出丸虎口の役目を負っていた様子も窺われます。

高柳光壽みつとし は著書『戰國戰記三方原之戦[※3] の中で良質でないと断りながらも古図三図を基礎として 『武徳編年集成』を参照して作成した三方原合戦当時を想定した「浜松城略図」を掲載しています。 ただ現在一般的に鳥居曲輪で一致している出丸を作左曲輪とし、 鳥居曲輪は曳馬古城と三の丸の間に置いているのは考古学的知見も無い頃であれば致し方ないでしょう。 此処で重視したいのは高柳が三の丸の大半と中央図書館の出丸の構築時期に言及している部分で、 両者を三方原以降とはするものの増加した其れは家康の手になるだろうとしており、 理由として家康以降の城主が此の広大な領域を城内にする必要がないからであるとしています。 現在の大方の見方と一致しない意見ではありますが、 個人的に実に首肯出来る卓見と言える主張で、大いに意を強くします。 因みに明治25(1892)年生まれの高柳は少年時代の記憶として、 天守台の南下に位置する清水谷曲輪の更に南下に 包丁池 と言う堀の名残が残っていたと同書に記しています。

現在の専門家連の一般的な見解では三の丸は江戸期に入ってから浜松藩主に仍って増築したものと考えられています。 此の意見に従って本記事冒頭に挙げた最大限の城域とは反対の浜松城域の最小限の場合を考えてみた時、 三の丸、鳥居曲輪を城域に入れず、更に縮小する意味で現在の作左山も城域に入れなくても、 其れでも浜松城域は東西400メートル、南北300メートル以上の相当の広大さを有しているのには変わりません。

此の如く浜松城に広大な領域が見られ、 其れが家康期に最大となったと考えたいのは、 浜松入府時こそ三河一国程度、10万石程であった身代も、 関東転封時には駿遠三甲信と凡そ百万石を優に超える広大な領土を擁していたからです。 歴代の浜松藩の石高は凡そ5万石程度であることなどから、 浜松城は規模を小さく取られ勝ちの傾向にあります。 また後に天下人となった家康の城としては天下城たる江戸城が想起され、 其の前身となる浜松での徳川は、織田に翻弄され、武田に敗れ[K2] 弱小大名の印象が強くては持ち城たる浜松城は此れも小規模に受け取られる要因たるでしょう。 しかしながら浜松城は例えば、戦国時代の後北条氏の小田原城、 江戸時代の加賀百万石金沢城に比肩して遜色ない道理で、広大な城域に何の不思議もありません。 しかも西にはいつ再戦を交えるか分からない脅威、豊臣秀吉が健在であったのでした。

近代的城郭技術を浜松城に導入した堀尾吉晴

徳川家康関東転封の後、 豊臣秀吉の命を受け浜松城に入ったのは 堀尾吉晴ほりおよしはる です。 豊臣秀吉は天下に最大の脅威となる東の徳川の抑えとして子飼いの武将を東海道一帯に配置しました。 其の一人が堀尾吉晴でした。

堀尾吉晴時代の巴紋の施された軒丸瓦と唐草紋の施された軒平瓦(2018年11月21日撮影)
堀尾吉晴時代の巴紋の施された軒丸瓦と唐草紋の施された軒平瓦(2018年11月21日撮影)

現在、専門家連の意見としては、 堀尾吉晴が浜松城に上方の望楼瓦葺き天守閣等の建造物、高石垣、等々を持ち込んだ、と言うのが大凡の一致する処となっています。 即ち、其れ迄の徳川家康居城時代の浜松城は土塁、空堀、自然湿地帯の利用を中心として、当時の上方の城と比較すれば些か古態を呈す状況でした。 高石垣、礎石建物、天守閣等の高層建築、瓦葺建物と言った諸要素を統合した近代的城郭は織田信長の安土城に始まるとされます。 此の近代的な城郭建築を携え、堀尾吉晴は遠州浜松に乗り込んで来たのでした。 現在見られる天守曲輪、本丸周囲の石垣は堀尾吉晴が築いたものが其の儘の形を保って残されているものと考えられています。

堀尾吉晴は磐田市見付を除けば、平成17(2005)年7月に合併して北遠迄含む、 ほぼ現在の浜松市と一致する12万石の領土を遠江国に与えられて浜松に入府しました。 12万石の身代では関東転封時の家康に及ぶべくもありませんが、豊臣秀吉の強力な後援がありました。 天下人としての圧倒的な財力を以て東海道一帯の豊臣方諸城に秀吉は支援を送り、 其の支援あったればこその近代的城郭の築城を成し得たのでした。 出土する瓦などに東海道一帯にお揃いの意匠の施された出土物が見られるのが其れを裏付けています。 石垣や瓦などの近畿の進んだ技術を持つ職人連を引き連れ浜松に来たった吉晴は、 而して浜松に高石垣を巡らし瓦葺きの望楼を戴く天守を中心とした近代的城郭を築くに至りました。

しかし時代の趨勢は徳川に傾き、 浜松城には堀尾吉晴以降、徳川譜代の大名の配置される処となり、 松平、水野、青山、高力、太田等、歴代の浜松藩主に移り変わるなどしながら明治維新に至っています。 明治維新時の藩主は井上河内守正直でした。

廃城令

明治の御一新醒めやらぬ明治5(1872)年8月23日の浜松県令の布達で浜松城の建造物は払い下げが命じられました。 明治6(1873)年には全国的に廃城令が発布され、 明治8(1875)年には土地、立木の払い下げが施行されました。 昭和28(1953)年に発行された『濵松風土記』[※4] には 「明治二年德川慶喜が藩籍を奉還してから浜松城は兵部省の所有に移り、 明治七年まで荒れるに任せて放置、 その間町民が頻々と徒党を組んで潜入し御殿、大門、中門、御番所、天主、御共所、小天主その他の建造物を叩き壊して台無しにした。 入札により公賣に附されたのは明治八年三月で、天主閣はじめ土地およそ五萬坪と建造物一さいを廿兩で元井上藩士數名に拂下げられ、 後ち転々と所有者が替つたが、実際の落札金は十一兩であつた。」 と、浜松城は明治維新を機に抑制の外れ無法地帯となっては民間に大いに侵食されて後、 土地及び破壊を免れた建屋は一切合切が行政に仍って一旦は浜松藩士に払い下げられた後に所有者が次々と移っていった様に当時の様子が記されています。 兎も角も士分の手を離れた浜松城は孰れ民間人の所有する処となり、 詳細は判然しませんが所有権は孰れかを度々移された様です。

『浜松城天守門整備工事報告書』[※5] には、安政あんせい地震による城の被害状況を幕府に報告するために作成された 安政元(1854)年の浜松城絵図に 天守門は「壁が所々潰れた」と表記されており、ほぼ江戸時代を通じて、天守門が存在していたと考えられる、としています。 同書に依れば、此の幕末まで維持された天守門は明治6(1873)年に解体、払い下げられ、 当時の払下げ物件一覧表にある「天拝門」を天守門であるとしています。

例えば浜松城でこそないものの当時払い下げられて現存する建屋としては 貴布祢きぶね長泉寺ちょうせんじ山門があります。 今の千歳町モール街東に位置した井上藩下屋敷門は平野又十郎家と気賀敬太郎家の共有となり、 平野又十郎家分を受け継いだ平野社団から昭和3年に白雲山長泉寺に寄贈されたと伝えられるもので、 現在も屋根瓦に井上家の「井」紋があしらわれるのが確認出来ます。

浜北区貴布祢の白雲山長泉寺山門と「井」紋屋根瓦(2016年6月26日)

また浜松の古刹 鴨江寺かもえじ 東門は、 下垂口にあった武家屋敷の長屋門、 貴布祢の織屋の長屋門、 と諸説有り、判然しない部分も多いのですが、 浜松城下垂門であったとの説もあり、其の説では 浜北市貴布祢の民家に移築されていたものを肴町の間渕商店が鴨江寺に寄進、再移築したものとしています。

鴨江寺の東門、屋根に穴が開くなど全体に損耗甚だしく孰れの説に従っても文化財的に価値はあるので改善が望まれる、門前には幕末文久の文字の刻まれた秋葉灯篭が建つ(2016年6月25日)
鴨江寺の東門、屋根に穴が開くなど全体に損耗甚だしく孰れの説に従っても文化財的に価値はあるので改善が望まれる、門前には幕末文久の文字の刻まれた秋葉灯篭が建つ(2016年6月25日)

此の様に、 浜松城は天守曲輪、本丸の石垣を残して大半が取り壊され、 建屋は払い下げられ移築され、 土地は民間の思う処に造成されて、 江戸期の姿は数年の内、瞬く間に失われて行きました。

明治大正の浜松城

新時代を迎え活力漲る庶民は天守曲輪を観光資源として活用しました。 『浜松城天守門整備工事報告書』[※5] では、明治32(1899)年に出版された『浜松鉄城閣及び市街地略図』に触れ、 「鉄城閣」と称する高さ13丈(約43m)にも及ぶ展望台が民間に有料で経営されていた様子が伝えられます。 2007年に筑摩書房から刊行された木下直之氏の著書 『わたしの城下町―天守閣からみえる戦後の日本[※6] の孫引きになりますが、 1940年に古今書院から刊行された鷹野つぎ氏の著書『四季と子供』に、 天守台に設えられた展望台には古びた狭い間口の入り口があり、 入ると脇には煙草、果物、ラムネ、菓子などが並べられていた、との明治30年頃と思しき様子が引用されています。 展望台を昇るに、 直立の梯子のような階段を上がった2階は二十畳程の広々とした座敷、 次に座敷の反対側の階段を上った3階は十五、六畳と思われる座敷が広がり、 其の反対の次の階段を上がった4階は八畳ほど、 また反対と謂わば螺旋の如き其の次、最後の階段を上がった最上階は四畳半ほどの広さであった、 と描写されるのが裾野に広く建てば宜しいという安全が些か度外視された昭和初期の望楼鉄骨建造物が彷彿されて面白くもあります。

また同じく『わたしの城下町』[※6] には1978年読売新聞浜松市局編の『浜松城物語』からも 「大正時代まで、ここに展望小屋と物見櫓があり、 ラムネなどを売りながら観光施設になったこともある」 と引用されており、当時、天守閣前広場南隅に賃貸されていた御仁の話なども引かれ、 「高須虎男さんという人が管理していた。東の石段に天守門があり、番人がいて、 たしか二、三銭の入場料を取っていた」 なる其の話の引用もされています。 天守曲輪からは出土物としてラムネの瓶、陶器や、 また現在も浜松市肴町に酒店を経営される間渕商店の銘入りの酒徳利も発掘出土しており、此れを現物で裏付け、 商魂逞しい浜松商人の様子や、市民が天守曲輪に酒盛りをしていた様子が彷彿されるなどの、 如何にもな庶民の生活感の生身が感じられ、微笑ましくもあります。

浜松城跡地から発掘された近現代遺物にはラムネやサイダーの瓶も見られる(2018年11月3日撮影)
浜松城跡地から発掘された近現代遺物には急須、酒徳利などの陶器やラムネの瓶も見られる(2018年11月3日撮影)
間渕商店の銘入り酒徳利(2018年11月3日撮影)
間渕商店の銘入り酒徳利(2018年11月3日撮影)

此処にある「鉄城閣」は『四季と子供』の「展望台」であり『浜松城物語』の「展望小屋」にて、 滋賀大学卒業時の高橋直紀氏の論文 『浜松城天守再建と昭和の再建ブーム』[※7] は明治以降の浜松城についてとても良く調べられており参考になりますが、 此の「鉄城閣」は戦後の台風で倒壊したのだと記されています。 では『浜松城物語』の「物見櫓」はと言えば、 展望台とは別物で「鉄城閣」に近接して設営されており、 古文書解読会でご一緒する昭和一桁生まれの渡辺昌雄さんにお聞きすれば、 記憶に残る此れを「鉄塔」と称し見張り台としての認識を持たれていましたが、 展望台の存在は否定されましたので「鉄城閣」が台風で倒壊した後も「物見櫓」は暫くは建っていた様です。 ただ、渡辺さんにお話を聞いても、 浜松城天守曲輪に宴会、酒盛りが催されていた記憶などは少年だったからか流石に記憶にあられないようです。

即ち、明治、大正期を通じ、 天守曲輪には廃城令迄は天守門こそ現存したものと思われますが、 天守台には天守閣は存在しなかったのでした。 平成の現在、浜松城天守曲輪を訪れれば天守台には、 安土桃山形式の天守閣が建っているのが見られます。 では、此れはいつ建てられたのでしょうか。

昭和の浜松城

昭和が第二次世界大戦の戦前、戦後で大きく変化したのは周知される処です。 昭和20(1945)年6月18日の 浜松大空襲 では浜松城周辺も灰燼に帰し、 五社ごしゃ神社、 諏訪すわ神社の二つの国宝が永遠に失われ[K3] てもいます。

現在の合祀五社神社諏訪神社拝殿と狛犬(2015年12月24日撮影)
現在の合祀五社神社諏訪神社拝殿と狛犬(2015年12月24日撮影)
諏訪神社を支え現在は旧市民会館はまホールを支える西側石垣は浜松城と同じく浜名湖北岸産の石を野面積みで積み上げている(2017年6月26日撮影)
諏訪神社を支え現在は旧市民会館はまホールを支える西側石垣は浜松城と同じく浜名湖北岸産の石を野面積みで積み上げている(2017年6月26日撮影)

此の大空襲では元城もとしろ小学校も焼かれました。 元城小学校は中部学園一貫校へ統合の為閉校される平成29(2017)年迄浜松城二の丸跡地に位置していましたが、 戦災にあった際には三の丸、現在のリッチモンドホテルの辺りに位置していました。 元城小学校は明治6(1873)年、即ち廃城令の年、 浜松市で最初の小学校として創立され、当時の校名を第一番小学校と言いましたが、 大正には元城尋常高等小学校と改称されました。 古文書解読会でご一緒する昭和10年生まれの伊藤濵子さんは実際に三の丸跡地の元城小学校に通われており、 お聞きした処「尋常高等」が校名に入っていたか如何かは記憶されてはおられませんでしたので、 昭和二桁年代以前には元城小学校と改称されたのだと思います。 では、元城小学校が三の丸にあった戦前の頃、 一昨年の廃校迄位置していた処の二の丸の跡地はと言えば、 伊藤さんにお聞きすれば、宅地が並んでいたのだそうです。 其の一軒はアリオカさんと言い弁護士だったと記憶されていました。 戦災で辺り一帯が焼け出され、元城小学校は現在の位置に移転して現在に至っているのでしたが、 其の以前は二の丸跡地は民間の住宅地として機能しており、 『浜松城物語』の天守曲輪にも民間住宅の建てられていたのを併せ、大正から昭和に掛けての様子が彷彿されます。

校舎が解体され更地になる以前の二の丸跡の元城小学校(2016年9月21日撮影)
元城小学校が戦災に会う以前に位置した三の丸跡リッチモンドホテル前には改名前の第一番小学校跡の標示杭が建てられている(2018年12月25日撮影)
更地になった二の丸跡の元城小学校(2019年1月21日撮影)
元城小学校裏門に掲げられた解体工事中の看板(2019年1月21日撮影)

戦争で大きな痛手を負った浜松ですが、戦後工業都市として目覚ましい発展を遂げたのは周知でしょう。 浜松復興を全国にアピールすべく催されたイベントがありました。 昭和25(1950)年に市制40周年記念事業として催された「浜松こども博覧会」にて、 浜松城跡地で9月10日から10月20日の40日間開催されたのでした。 此の時、天守台にはベニヤ造りとは言えなかなか立派な天守閣が設えられ、 木下氏などは『わたしの城下町』[※6] で此れを忍者よろしくよじ登った想い出を懐かしく記しています。 此のベニヤ天守閣は博覧会後も七ヶ月間残されていたと言い、 市民に本格的な天守閣建築の空気が醸成される切っ掛けともなったようです。 因みに博覧会跡地は浜松動物園として利用され、 以降、現在の舘山寺かんざんじ地域に移転する昭和57(1982)年迄、市民を楽しませてくれたのでした。

戦後、雄々しく復興を果たすに連れ、活力に溢れる浜松では、 浜松城跡地にも様々な企図がなされました。 昭和28(1953)年には、中日本観光株式会社代表の小石氏が、 当時の天守曲輪の所有者であり、現在でも肴町さかなまちから元城町に本店を移して連綿と経営の続く、 ぬい屋 に日参して漸く口説き落として譲り受け、 天守曲輪の北側、即ち浜松動物園から天守曲輪に登るケーブルカー[追2] を敷設しました。 古文書解読会でご一緒する昭和16年生まれの平山まつ子さんは此のケーブルカーに当時の小学校の担任がアルバイトをしていたご縁で、 無料で乗せて貰ったのを覚えておられます。 此の先生は其の後、正式に教師の免状を取得するために学校に行かれたそうで、 特に免状なしでも小学校の先生が務まる大らかな時代でもありました。 ただ此のケーブルカーは設営当初こそ物珍しさで賑わったそうですが、 現在でも歩いて登れる距離ですので、次第に利用されなくなり、 僅か2年ほどで経営は傾いてしまったそうです。

現在は本社機能を元城町に移したぬい屋の肴町に運営するビルディング(2018年12月25日撮影)
現在は本社機能を元城町に移したぬい屋の肴町に運営するビルディング(2018年12月25日撮影)
現在メルカート間渕を運営する間渕商店も一時期天守曲輪の所有者だったとされ、下垂門所有者であった可能性もある(2018年12月25日撮影)
銘入りの酒徳利が浜松城跡から発掘され、現在メルカート間渕を運営する間渕商店は一時期天守曲輪の所有者だったとされ、下垂門所有者であった可能性もある(2018年12月25日撮影)

復興天守閣

経営の覚束ない中日本観光株式会社の城跡地土地所有権や其の買取金額、営業権など市議会も巻き込んで、 浜松の政財界にきな臭い話の跋扈した様子は『浜松城天守再建と昭和の再建ブーム』[※7] に詳しくあります。 其の様な中、愈々、浜松城に天守閣を建設すべく企図が目論まれ始めました。 昭和30年代は全国で城再建ブームが勃発した時期でした。 其の機運に乗じて浜松でも天守閣再建が目指されたのでしたが、 大金の動く企画にてなかなか難しい面もあったようで、 税金で賄うには各方面からの苦情も多く、市民には広く浜松城再建の為の募金が募られました。 『わたしの城下町』[※6] の表紙は正しく其の募金の為の天守閣型の貯金箱で、 伊藤さんは此れに募金をしたことを覚えておられます。

市民の此のような協力もあったものの、 残念ながら充分な費用は集まりませんでした。 其処で予算に応じた建築規模に縮小され設計が成されました。 現在、天守閣最上階に登って見下ろせば、 西側には石垣の上に余分に広がった敷地が見られます。 最上階から展望せずとも天守曲輪から復興天守閣の西側を見れば天守台石垣の余りは露骨なものではっきり分かります。 此の余りは天守閣の築れた当時にはなかっただろう余裕地で、 其の広さを予算的に確保出来ない為に空白地となってしまったものでした。 現在の浜松城天守閣が 復元 天守閣ならぬ 復興 天守閣、と呼ばれ、口さの無い向きには インチキ 天守閣と迄蔑まれる由縁にて、 しかし此れも予算の都合で平気で分かり易い縮小を許す当時の市民の大らかさと捉えれば微笑ましくもあるでしょう。

天守閣入り口に設えられた東側の石垣の上半部は後世に積み直しされているのが調査結果として齎されており、 当初は天守台より一段低かったと考えられているが、突出櫓台と呼ばれる其の上の当初の建築と、 天守閣建築との連関は判然しない、右奥に見えるのは天守門と虎口(2018年11月21日撮影)
天守閣最上階高欄付廻縁から見下ろす八幡台と呼ばれる西側付櫓台、現在は国土交通省の三角点が設置されているのが見える、中央手前の切掛けが一段低くなった天守台の空白地(2018年11月21日撮影)
天守台には天守閣の西側(画面左)に余裕スペースがはっきりと見られる(2018年11月3日撮影)
天守台には天守閣の西側(画面左)に余裕スペースがはっきりと見られる(2018年11月3日撮影)

復興天守閣の設計を担当したのは当時の斯界の権威 城戸久[※8] でした。 城戸氏が安土桃山期の天守閣を見る者に彷彿せんと考え、 堀尾吉晴転封後の居城で現在国宝の松江城をモデルにしたと言われます。 現在の残る国宝五天守は桃山時代から江戸初期の産物で 入母屋を十文字に重ねて上に望楼を載せるというように、凡そ似通った姿形をしているようですが、 特に松江城は黒板張りの外観などもモデルにしたと思しき様子が強く伺えます。 浜松城天守閣には再建しようにも設計図も残っておらず、 石垣は残るものの、天守閣自体が実際に建造されたのか如何かもはっきりしない時期でした。 斯うして現在、浜松城天守台に鎮座している復興天守閣は、 鉄筋コンクリート造りで昭和33(1958)年に桃山時代の天守閣は斯くあるべしと、 予算と土地を見繕った空想の産物として漸く建てられたのでした。

さて、肝心要の再建されるべき天守閣は建っていたのでしょうか。 復元しようにも其のよすがは皆目見当たりませんでした。 浜松城に展望台はあれど天守閣は影も形もなかったからです。 其れは廃城時に遡り、更に江戸期に遡り得る事実です。

天守曲輪の建造物

平成26(2014)年には市制100周年記念事業として2年間を掛けて天守門が復元されました。 『浜松城天守門整備工事報告書』[※5] に依れば復元の時期として廃城令当時の姿に照準を合わせることを基本にしたものとされています。 従って廃城時、天守門は現存した訳です。 復元された天守門の大棟鬼瓦には最後の浜松城主井上家の「井」紋があしらわれています。

本丸から見上げた天守曲輪の復元天守門、軍事要塞である必要から門前の道は狭い腰曲輪で此れに至るには迂回して登らなければならない(2018年11月3日撮影)
本丸から見上げた天守曲輪の復元天守門、軍事要塞である必要から門前の道は狭い腰曲輪で此れに至るには迂回して登らなければならない(2018年11月3日撮影)

更に天守門の復元に当たっては発掘調査が行われ、 当該区域に5階層の層位が見られ、 礎石が石垣と同じ石材の自然石を用いていること、 部分的な掘削にとどまったが下から其の層位より下の造成土には遺物が全く出土しないことなどの理由から、 下から2番目の層位の造成土に設置された礎石が石垣構築時、 即ち堀尾氏領有時代の天守門に伴うものである可能性が高いものとされ、 天守門は堀尾吉晴時代から江戸時代を通じて存在した建造物であるのが分かります。

では浜松城に天守閣は建てられていたのでしょうか。 実は昭和33(1958)年の復興天守閣を築く際には明治、大正、昭和期に造成された天守台の発掘調査がなされ、地下に井戸が発見されています。 其の井戸からは堀尾時代に造られたと思しき鯱瓦が発掘され、 天守閣は天守台に建っていた蓋然性が高くなりました。 現在も復興天守閣に赴けば地下にある其の井戸が見られます。

復興天守閣再建に伴う調査で発掘された地下井戸からは古銭が八枚出土していて、今は底が浅く埋められてても賽銭で満たされる人為は興味深い(2018年11月21日撮影)
復興天守閣再建に伴う調査で発掘された地下井戸からは古銭が八枚出土していて、今は底が浅く埋められても誰に言われるでもなく賽銭で満たされる人為は興味深い(2018年11月21日撮影)
発掘調査で天守台地下井戸から出土した鯱瓦は堀尾時代の瓦葺天守閣に設置されていたと思われる(2018年11月3日撮影)
発掘調査で天守台地下井戸から出土した鯱瓦は堀尾時代の瓦葺天守閣に設置されていたと思われる(2018年11月3日撮影)

そして去年平成30(2018)年の夏から初冬に掛けて浜松城天守曲輪に発掘調査が行われました。 此の調査で確認されたのが浜松城天守曲輪の東南隅に建てられていた 隅櫓すみやぐら です。 天守曲輪に石塁が取り巻いていることは当初予想されていましたが、 どうやら天守門の調査時に発掘担当者には隅櫓も存在の予想が付いていたものと思われ、 其の確認が成されたようです。 なんとなれば天守門内虎口には あいざか と称し古図にも確認される両側に上がる坂が発掘されており、 片方は櫓としても機能した天守門へ上がり、 もう片方も何某かの防御施設への昇降口と目されていたからで、 其れに該当したのが今回発掘された隅櫓であったからです。

斯くして天守曲輪に主要な建造物として、 天守閣、天守門、隅櫓、加えて西側に 埋門うずみもん の存在が今認めらているものです。

浜松城天守閣はいつ失われたか

堀尾時代に浜松城天守台上に天守閣が築かれていた、とすると其れはいつ失われたのでしょうか。 江戸期の絵図[※9] には天守門こそ見られるものの天守閣の見られるものはありません。 軍事的要塞であれば絵図に記すのは憚られるでしょうし、 「浜松城絵図遠州浜松松尾山引駒城下絵図」[※10] など其の典型でしょうが、 幕府への報告となれば記さざるを得ず、全ての絵図に天守閣の存在してなお描かれないのは不自然ですし、 天守閣は兎も角、天守門や石塁、櫓は詳細に描かれた絵図もあります。

青山家紋入りとされているので無地銭紋があしらわれていると思われる軒丸瓦破片(2018年11月21日)
青山家紋入りとされているので無地銭紋があしらわれていると思われる軒丸瓦破片(2018年11月21日)

江戸時代に最も古い浜松城の絵図は 延宝6(1678)年から元禄15(1702)年の間浜松藩主を務めた青山家の現在浜松博物館に所蔵される 青山家御家中配列図[※11] と考えられますが、此れには天守門、埋門の描かれ、また天守台こそ描かれるものの天守閣に相当する建屋はなく、 隅櫓は影も形も見られません。 すると天守閣は堀尾吉晴城主期に建てられてから江戸幕府開闢を経て、百年ほどの延宝、元禄期には失われていたことになります。

因みに青山家は浜松城主となった 因幡守宗俊 の父親、 伯耆守忠俊 が浜松の生まれで家康、秀忠に仕え、次代将軍家光に諫言を繰り返して勘気を被り老中を免職せられ、 隠棲を余儀なくされた地の一つが現浜北区小林の椿島でした。 屋敷前には少林山 心宝寺 が建ち屡々此処を参詣した忠俊は別所に蟄居ちっきょの命を受け此の地を去る際に、 世話になった礼にと屋敷の長屋門を当寺に寄進、 其れが現在の山門になり残っているもので、 山門の大棟には青山家家紋 無地銭 があしらわれてもいます。 将軍から直々に免職、隠棲、蟄居と処断を受けながら、 其の子が大名として浜松城主に復帰しているのは徳川幕府の懐の深さを窺わせる様な逸話にも思います。

心宝寺山門屋根は近年に銅板に葺替えられたものと思われる、大棟の左から読ませる山号両側に青山家紋「無地銭」があしらわれる(2016年6月26日)
心宝寺山門屋根は近年に銅板に葺替えられたものと思われる、大棟の左から読ませる山号両側に青山家紋「無地銭」があしらわれる(2016年6月26日)

閑話休題、徳川幕府成立から青山家浜松城入府迄の其の間の地震で、 天守閣が倒壊した可能性も考えられはします。 天守閣の非存在が延宝年間迄に遡り得れば、 江戸幕府開闢より確実に天守閣の見えない此の時期に至る間の歴史地震を見てみれば良いでしょう。

浜松市博物館では「浜松と地震」と称すテーマ展を 平成28(2016)年の3月5日から5月8日迄開催するなど資料も豊富ですが、 此の情報も併せた他、田原町史、常光寺年代記、細江町、雄踏町史、安倍郡史、伊豆長岡町史、志摩町史、熊野年代記、などを併記、検討した、 『歴史の中の東海地震・リアル[※12] の四章「江戸時代前半期の地震」が此の際便利です。 すると候補に上がりそうなのが、慶長、貞享、元禄の地震になりますが、 貞享、元禄となると青山城主期に入りますから考え難い面が多く、 残る慶長の大地震を見てみます。 慶長には全国的には地震が頻発していますが、 浜松城天守閣倒壊を招くような東海地方に影響を与える地震となると 慶長9(1604)年と慶長19(1614)年の地震が挙げられるものの、 後者は伊豆地方に影響のあったもので遠州地方には記録も残され難いものですから、 残るのは慶長9(1604)年の地震となります。 処が此の地震は遠隔地を震源地とする津波地震であったようで 『歴史の中の東海地震・リアル』は『常光寺年代記』から12月16日夜、波が片浜に打ちつけ、船をみんな打ち壊したほか、 網も知らぬうちに流され、人々が驚いた、と引用しており、 津波が夜間に揺れもないまま海岸を襲った惨状を翌朝人々が気付いた地震であったとしていますから、 『雄踏町史』に今切の関所の壊滅が伝えられるなど被害は大きいものの、 建築物を倒壊させる種類の地震ではなかったものと考えられます。 従って此の時期、天守閣を倒壊させるのに該当するような大地震は見られないことになります。

大地震に加えて城郭建築の失われる原因として大きいものに火災があります。 しかし該当する文献史料は残りませんし、 此れを裏付ける火災の証拠たる、瓦や陶器などの出土物への煤の付着や炭化した木材などの焼け跡の発掘成果も齎されてはいません。 従って江戸初期に浜松城天守閣が火災で失われたとも考え難いものです。

結論としては堀尾吉晴、家督を譲った嫡子忠氏、の堀尾家城主期に建築された上方風の瓦葺き天守閣は、 延宝に至る百年の間に自然災害ではなく、 何者かの人為的行為の結果、破却された事実が浮かび上がります。

東向きに建てられていた浜松城

遠江の国人久野くのう氏は 明応期に今川氏の尖兵として袋井市に 久能城くのうじょうを築城しました。 浜松城の前身の曳馬古城は創建年代は判然しませんが、 明応から文亀を経て永正年間に至り、駿河を本拠に西に拡張を続ける今川の力を背景に 袋井から浜松まで進出した久能氏が曳馬古城を創建、若しくは勢力下に治めたものと考えられます。 此の時久能氏は曳馬古城内若しくは後に浜松城内となる近隣に今の 五社神社諏訪神社 となる五社大明神を勧請した[K3] ものとも考えられています。 現在元城小学校跡地では重機が行き交う状況ですが、 二の丸跡地でもあり、恐らくは二の丸御殿なども今後の調査があれば其の遺構が発掘されるでしょう。 併せて 常寒山とこさむやま 遷座前の五社神社の遺構も発掘されるものと考えています。

曳馬古城跡には明治維新で浜松城代に入った井上延陵により徳川家康を祭神とする東照宮が建てられた(2015年12月12日撮影)
曳馬古城跡には明治維新で浜松城代に入った井上延陵により徳川家康を祭神とする東照宮が建てられた(2015年12月12日撮影)
曳馬古城跡東照宮からは復興天守閣が遠望出来浜松城域の広大さが実感出来る(2015年12月12日撮影)
曳馬古城跡東照宮からは復興天守閣が遠望出来浜松城域の広大さが実感出来る(2015年12月12日撮影)

其の後曳馬古城には飯尾氏が今川被官として配属されました。 徳川家康が遠州進出を目論見、曳馬城を陥れた時の城主が飯尾氏でした。 従って創建以来、 浜松城は西向きに建てられる根本的性質を有していました。

此の浜松城の向きが変質したのは徳川家康の浜松入府です。 家康入城以来曳馬古城は拡張せられ、東向きの浜松城に変貌を遂げたのです。 浜松城が東向きに建てられる性質を有するのは、 家康時代には東の強敵、今川、そして其の後の武田信玄を睨んだからに違いありません。

そして家康の関東移封に伴う堀尾吉晴城主期にも東向きに建てられる根本的性質は引き継がれました。 なんとなれば豊臣尖兵たる堀尾の脅威は他ならぬ東の徳川だったからです。 元々東向きに建てられた浜松城は豊臣方の城として縄張りするにも御誂え向きだったでしょう。

武田に三方原で一敗地にまみれた[K2] 徳川が首の皮一枚繋げる頼みとなった浜松城には其の時使われはしませんでしたが、 退去用とも考えられる埋門が、現在と同じく西側に設えられてもいたでしょう。 堀尾吉晴は浜松城を縄張りするに此れも流用したのかも知れません。

富士見櫓方面から腰曲輪越しに見た天守曲輪の復興天守閣と復元天守門、左が東(2018年11月3日撮影)
富士見櫓方面から腰曲輪越しに見た天守曲輪の復興天守閣と復元天守門、左が東(2018年11月3日撮影)

東向きの性格を必須とされ、上方風の高石垣上に築かれた浜松城は、 東の本丸曲輪を石垣造りとし、其の曲輪の東に富士見櫓、多聞櫓を配置し、 最上部の天守曲輪には東に瓦葺きの天守門、隅櫓を配置し、其の後ろに天守閣を配置し、 東海道を西に上り来たる見る者を威圧するべく東向きに威容を誇っています。 今や豊臣配下となり関八州を拠点とする徳川家康は西方上方に向かうに東海道を上る度、 さぞかし苦々しい思いをしたのではないかと思います。

天守曲輪東南隅櫓発掘調査

前述の通り、平成30(2018)年の浜松城天守曲輪発掘調査で 天守曲輪東南の隅櫓の存在が明らかになりました。 興味深いのは其の建設及び失われた時期が天守閣と共有されていると考えられる点です。 建設は堀尾吉晴の手になり、失われたのは江戸時代の早い時期と考えられるのは矢張り絵図に見られないからです。 加えて現在の天守曲輪では石塁さえ内部は造成の為、判り難い状況ですから、 天守台の露わな天守閣と異なり、其の存在さえ知られていませんでした。

天守曲輪東南の隅櫓発掘現場、左奥に見えるのは浜松市役所(2018年11月3日撮影)
天守曲輪東南の隅櫓発掘現場、左奥に見えるのは浜松市役所(2018年11月3日撮影)

更に奇妙なのは発掘された石塁の内側に瓦が打ち捨てられる様に雑然と埋まっている状態にあることでした。 瓦と言えば江戸初期当時には貴重な建築資材で、流用されこそすれ気軽に廃棄されて良いものではありません。 『浜松城主堀尾吉晴』[※2] には 加藤理文 氏の文責で、 工人集団の不足する瓦の希少性が述べられるに、 秀吉の聚楽第でさえ周辺寺院の瓦を流用する中、 東海道諸城郭の瓦葺き化には瓦及び版木の絶対数の不足が一番の課題であったとします。 発掘に見られるひしゃげた瓦の使用やひび割れた瓦の補修使用は、此の瓦の貴重さを物語るものです。

其の如き貴重な瓦が発掘現場である浜松城東南の石塁内には 放擲ほうてきされ2メートルも うずたかく積み上げられていました。 此れは発掘担当者も驚くべき状況であった様で急遽検証発掘を追加して掘削の深度を下げたものと言います。 此れ程の瓦の堆積が終ぞ発見されなかったのは、 明治から昭和に掛けての造成で更に此の上に1メートル程も盛土されていたからでした。 昭和59(1984)年の電線埋設の為の天守曲輪外周下工事の際にも埋没瓦が発見されなかった理由は、 発掘現場の埋没瓦の上、数十センチメートルに電線が通っているのを見れば分かるでしょう。 堀尾期の天守曲輪石塁内は地盤が全体的に今より2メートル程低かったものと考えられます。 此れが東南隅では先ず地盤が崩された瓦で嵩上げされ、更に明治維新以降の造成で盛り土されて遂に瓦は長く埋没することになったのでした。 埋没した瓦が漸く陽の目を見た発掘では、其の廃棄状況も貴重な建築資材らしからぬ無造作振りで、 廃棄を急いだ様子が容易に想像出来るものです。

天守曲輪東南隅の発掘現場では石塁内側の石垣が見られ直角に折れた石塁の内側は廃棄された瓦で満たされており、其の上数十センチメートルの空間に昭和59年に埋設したと思しき電線が見える、写真奥が東南(2018年11月3日撮影)
天守曲輪東南隅発掘現場の石塁内側に堆積せられた瓦は見るからに無造作に雑然と放り込まれている(2018年11月3日撮影)

隅櫓は未だ発掘の取り敢えず完了した状態で詳細は判然しませんが、 二階建てであったのではないかと考えらえています。 建築当時、天守曲輪内部からは2メートル以上に及ぶ石塁が周囲を囲んでいますから、 此の石塁の高さ迄を一層、其の上に二層目の櫓建築が載っていたものではないかと考えられ、 即ち、外から見て一層、天守曲輪内側からは二層の建造物ではなかったか、と考えられているものです。 発掘された瓦は立派な作りを見れば、隅櫓は相応に立派であった様子が想定されます。 天守閣に天守門、更に此の立派な造りの隅櫓が加わった浜松城の東への威圧感は甚だしいものであったでしょう。

浜松城天守閣を破却したのは誰か

現在の専門家の凡そ意見の一致する処は 浜松城天守閣を破却したのは徳川家康、 若しくは其の意向を受けたか、忖度した堀尾家の次代城主 松平忠頼 で大凡一致しているようですが、 どうも松平忠頼の所謂キャラクターが薄く、また刃傷沙汰に関与した所為か、 言及者の歯切れが悪くならざるを得なくなるのも致し方ないような印象を受けます。 其の次代で、後に紀州に頼宣の附家老として配属される 水野重仲 となれば有り得よう印象もありますが、 重仲の浜松城入府は慶長14(1609)年にて些か時間が経ち過ぎているようですし、 徳川の御世の確実となった関ヶ原以降に独断で天守閣を破却するのは、 此れも些か彼の立場として違和感を覚えざるを得ません。

しかし天守閣破却が家康の命であれば問題ありません。 東向きに徳川を威圧せんとした城が面白かろう筈がありません。 ただ家康が其のような怒りに任せた行動を取るでしょうか。 家康は隠忍自重の人です。 本記事冒頭にも関東移封を忍び、 剰え信長からの意向を受けての、正妻 築山殿、 嫡男 信康 の処断実行にも此れに耐えています。 家康は関ヶ原に勝利して、今や其の一挙手一投足が全国の大名連に注目されています。 其の大事な時期の最中、豊臣方として自らを威圧すべく建てられた城と言え、 其れを知った大名に動揺を招き兼ねない、 今はほしいままになる自陣の城建屋の破却と言う行動は控えたに違いありません。 恐らくは面白からぬ状況も噯にも出さなかったでしょう。

浜松医療センター駐車場には築山殿を弑した刀の血を洗った地として史跡「太刀洗の池」が残される(2016年5月29日撮影)
浜松医療センター駐車場には築山殿を弑した刀の血を洗った地として史跡「太刀洗の池」が残される(2016年5月29日撮影)
浜松医療センターと浜松市立看護専門学校の間を佐鳴湖へ流れる川の向こうに見える湾曲した部分に「太刀洗の池」があったとされるが池は今は見られない(2016年5月29日撮影)
浜松医療センターと浜松市立看護専門学校の間を佐鳴湖へ流れる川の向こうに見える湾曲した部分に「太刀洗の池」があったとされるが池は今は見られない(2016年5月29日撮影)
家康の正妻築山殿の討たれた佐鳴湖東岸小藪の辺り一帯は「御前谷」と呼ばれる(2016年5月29日撮影)
家康の正妻築山殿の討たれた佐鳴湖東岸小藪の辺り一帯は「御前谷」と呼ばれる(2016年5月29日撮影)

では此の時点での家康の正嫡 徳川秀忠 であれば、此れも浜松城天守閣破却を命じたとしても形式的な違和感こそ生じませんが、 最も家康の心中を察していると思われ、 関ヶ原でも遅参が問題となった天下人後継の秀忠が其のような軽率な行動を取るとも思えません。 また、上で述べた様に当時瓦は先進的で貴重な建築資材でした。 如何に破却が必要になったとは言え、 若し徳川方の意向で実行されれば、 其の瓦の別建築へ流用されこそすれ無造作に其の場に廃棄される状況は考え難くあります。 更には徳川方の意向で事が進められれば急ぐ必要もないのです。

但し、浜松城天守閣の破却が家康の意向であったのは確かでしょう。 実行者は家康の心底を難なく察する人情の機微に聡い人物でもあったでしょう。 また破却時点で其れを実行しても問題ない人物でもなければいけません。 従って該当する人物は唯一人しか考えられません。 堀尾吉晴 です。 彼が浜松城天守閣を破却したのは、 未だ彼が形式的には徳川方の意向を受けずとも良い豊臣方としての城主たる関ヶ原前夜であったと考えます。

関ヶ原前夜、小山評定を済ませた家康が上方に上る途上で目にする必要があれば、 天守閣と隅櫓の破却は急ぐ必要があったでしょう。 無造作に東南隅の石塁内に打ち捨てられた瓦の堆積は其れを物語ります。

現在、天守閣の遺物と認められるのは天守台地下井戸出土の鯱瓦部分のみですが、 堀尾吉晴が隅櫓と同時に天守閣を破却したとすれば、 隅櫓と同様に大量の瓦が近辺に放擲されている筈です。 昭和59(1984)年の天守曲輪外周下工事の立会では、 天守曲輪の北側石垣前面に大量の瓦が廃棄されていたのが見付かっています。 瓦には太田氏の代を示す桔梗紋の軒丸瓦も見られたものの同時に巴紋の古式のものが発掘されたと言います。 此れを報告書の『浜松城跡』[※1] では此の大量の瓦の埋没は青山氏の先代城主、太田氏以後の城主の代、即ち十七世紀末以降のことと結論付けています。 しかし量が大量であり、しかも位置的な考慮を鑑みた時、此の瓦の廃棄に関して、些か理屈に合わない様に思います。 実際の出土物、出土状況を検証していませんので確言は出来ませんが、 実は此れこそ堀尾氏の実行した天守閣の破却の証拠と考えます。 隅櫓で2メートルを超える堆積が発生したのであれば、 天守閣では同等、若しくは其れ以上の瓦の廃棄があったものでしょう、 従って天守曲輪北側への放擲だけでは足らず、 孰れの日にか何某かの機会で、天守台の発掘の際には隅櫓と同じく急いで破却された天守閣の残骸が天守台に敷き詰められ、 造成された状況が発掘されるものと予想します。

山内一豊との対比

秀吉は家康を関東に移封させると其の抑えとして東海道に子飼いの諸将を配置しました。 其の一人が堀尾吉晴であり、浜松に配属せられたのでしたが、 其の東、掛川城に配属せられたのが 山内一豊 でした。 此の一豊と吉晴を対比した時、面白い事象が浮かび上がります。

両者は共に尾張の土豪の出であり、岩倉織田氏に重臣として仕える家系で、 若年時、敵対する織田信長に滅ぼされて流浪しています。 其の後、織田信長配下の豊臣秀吉に仕え立身し、 関白豊臣秀次の付家老になっています。 そして東海道に赴任し、関ヶ原で徳川方に付き、 関ヶ原後に大幅な加増を受け転封しているのです。 ざっと挙げただけでも以上の如く其の生涯は、見た目はさりながら、 まるで一枚の設計図を焼き写して二者に適用したものの様にさえ思えるもので、 両者の対比で一編をものすれば面白かろうとも考えている程です。 此のような生い立ち、生涯は大きく両者の人格形成に影響を与え、 実に世知長けた人格面の一卵性双生児が出来上がったものと考えられます。 勿論秀吉の思惑もあったでしょうが、 秀次事件で発生した凄惨な状況からも生き延び、 返って加増を受ける其の世知辛さは、 両者の関ヶ原後の栄進を約束したでしょう。

遠州三山の一つ油山寺の山門は掛川城大手二の門が明治6(1873)年の廃藩時に太田備中守の寄進で移築されたもの(2016年7月3日撮影)

山内一豊が巷間名を知られているのは 天正9(1581)年の馬揃えの際の 見性院けんしょういん 内助の功と、 小山評定での豊臣方諸将の徳川方鞍替えへの口火を切る 掛川城提供申し出 でしょう。 因みに此の発案は堀尾吉晴の発想を盗んだものとも言われますから、 人生を賭けて切磋琢磨する宿敵でもある仲間の抜け駆けに、 堀尾吉晴は此の上を行く趣向を凝らす必要に迫られた状況下に置かれ焦燥したものと思われます。

浅間神社

浜松駅の南に少し行くと、 馬込川が大きく湾曲し、馬込川水系の新川と合流する辺りに、 浅田町、上浅田、西浅田、南浅田、とかなり広く広がる浅田地区があり、 上浅田二丁目には創建文武5(700)年と伝えられる 浅間せんげん神社 が建っています。 『曳駒拾遺』には「沙山すなやま」の項に 「さゆへ此山このやま浅間能神せんげんのかみを いひまつ此神このかみなる るしをや めしたまひけん 帯刀先生吉晴たてわきせんじょうよしはるの ふく あ可免給がめたまふとなん」 とあり、時の浜松城主堀尾吉晴が深く崇敬した様子が書かれており、 現在社前の由緒書きにも其の旨記されていますが、 同時に航海稼業の守護神とも記されます。

浅間神社社殿前には平成10年に氏子奉賛会により「浅間神社御鎮座1300年」の奉祝記念碑が建てられている(2019年1月12日撮影)
浅間神社社殿前には平成10年に氏子奉賛会により「浅間神社御鎮座1300年」の奉祝記念碑が建てられている(2019年1月12日撮影)
浅間神社鳥居前の由緒書き裏には鳥居に向かって右に「遠江國敷知郡淺田村」、裏に「延享二年乙丑九月十五日」(延享二年は西暦1745年)と刻まれており江戸中期以降の遷座等を考える材料になる(2019年1月12日撮影)
浅間神社鳥居前の由緒書き裏には鳥居に向かって右に「遠江國敷知郡淺田村」、裏に「延享二年乙丑九月十五日」(延享二年は西暦1745年)と刻まれており江戸中期以降の遷座等を考える材料になる(2019年1月12日撮影)

浅間神社の其の名の通り、富士から勧請された神社であれば、 御祭神は由緒書きにも 木花之佐久夜毘売命このはなのさくやひめ とあり本来子宝安産の神様であるのですが、 いつも間にか航海稼業の守護神となったのは謂れなきものにあらず、 浅田は前述の通り、馬込川と馬込川水系で湾曲する馬込川を浜松の中心部に向かい真っ直ぐ流れる 新川 との合流点に当たり、 浜松城に水運を用いて荷を入れるに際し大いに利用され、 斯くして浅間神社は水運をも守護する神に変じたのだと考えます。

現在の馬込川と新川の合流点を新川上流の浅田橋上から見る(2019年1月12日撮影)
現在の馬込川と新川の合流点を新川上流の浅田橋上から見る(2019年1月12日撮影)

浜松市博物館所蔵の元和4(1618)年遠州長上郡敷智郡の村々の取れ高を記した古文書[※13] には、 浅田村の高は517石1斗5升3合とされ、 内5石6斗7升を 川成堤為[追1] と記して水害対策の用となすべく計上されています。 水害で耕地として役に立たなくなり税免除分の土地を意味する 川成 は同書の別地域にも多く見られますが、堤に用立てるべき記載は珍しく、 当地が水害に関して特別に防止負担費用を負っていたのが明らかで、 浅田は水害を前提とされる立地であったのが判然します。 また 高10石大宮領 とあるのが若しかしたら浅間神社を言うのかも知れませんが妥当であるか如何かは分かりません。 『曳駒拾遺』に些か妙なのは、此の山に、と沙山の上に浅間神社がましましている様に記述していますが、 現在の砂山と浅田は近隣とは言え多少の距離があることです。 仮に江戸中期の砂山の浅間神社と浅田の大宮が別社とすると、 何しろ水害の多い地域ですから砂山に位置していた浅間神社が水害で遷座を余儀なくされ、 水神の所縁ゆかりで浅田大宮と合祀したものかと想像を逞しゅうしたりもしますが、 浅間神社の遷座の文献上の記録など見付けられませんでしたので想像の域を出ません。 浅間神社と浅田の「浅」の関わりから往古より鎮座した社の所領として浅田の名が付けられたのであれば、 浅間神社の不動は確定しますが、『濵松風土記』[※4] の浅(淺)田町の項目には 「遠州浜松庄朝田郷といつた時代がある、古書には浅田、朝田の文字が何れも書いてある。往古は大天龍が滔々と流れ寶暦年間まで大きな水神の社があった。」 と記され、浅田は朝田とも書かれたとすれば浅間神社領由来の可能性は消えますし、 当時馬込川が天竜川の本流的な流れであれば水害の多さが示唆され、砂山浅間神社遷座の可能性を否定も出来ない様です。 文献上の記録を渉猟して事実確認したくありますが、 取り敢えず浅田と水神社が互いに切っても切れない関係であったのは確かな様です。

高石垣の石は浜名湖北岸産と考えられ水運で浜松城迄運ばれたと考えられています。 此の時考えられる運用路は浜名湖から同名ながら馬込川水系新川とは別河川の都田川水系新川を辿り、 佐鳴湖に至って浜松城に運び込まれたものとされますが、 どうも、未だ堀留ほりどめ運河の穿たれていない江戸期には、 此の浅間神社の様子から浜名湖から一旦遠州灘に出て、馬込川から馬込川水系新川を遡って、 浜松城近く迄水運を用いて運び入れられたものと個人的には考えています。 新川から更に浜松城との連絡を確認するに、 嘉永3(1850)年と幕末の作成にはなるのですが 『遠江州敷知郡浜松御城下略繪図』[※14] を見れば、新川の名前こそ書かれませんが馬込川と浅田で分流した其の流れは、 浜松城下の直ぐ東に沿って北の三方原台地に遡るに途上では元目町の湿地帯湖沼地と接続しており、 また其の下流では 馬冷うまびやし を水源とする城南側の水堀とも接続しており、 此処を利用しなければ浜松城に重量物を運び入れるに何処を利用するのか、と言った塩梅です。 天守曲輪南に残る主要な小字として馬冷から東に実堀、そして上述した処の高柳光壽が少年時代見た包丁池と連なっており、 此れが青山家御家中配列図[※10] では馬冷の池の南に端を発する用水が、実堀とは名ばかりの空堀、名前の由来となっただろう菜切包丁の形をした池、等の南に沿って流れ、 三の丸を貫通して新川に連絡しているのがはっきり見えますし、 『遠江州敷知郡浜松御城下略繪図』[※14] でも大手門前の水濠と繋がる様子が確認出来ます。

現在駐車場になっている包丁池の辺りから清水谷曲輪、其の上の天守曲輪、復興天守閣を見上げる(2018年11月21日撮影)
現在駐車場になっている包丁池の辺りから清水谷曲輪、其の上の天守曲輪、復興天守閣を見上げる(2018年11月21日撮影)
馬冷は現在歩くと比較的高所に位置し浜松城水濠の水源たる印象が抱き難い、画面向こうが東で真っ直ぐ下る坂を行くと左が天守曲輪、右が鳥居曲輪(2019年1月21日撮影)
馬冷は現在歩くと比較的高所に位置し浜松城水濠の水源たる印象が抱き難い、画面向こうが東で真っ直ぐ下る坂を行くと左が天守曲輪、右が鳥居曲輪(2019年1月21日撮影)

堀尾吉晴は上方の先進的な城郭技術を導入するに、 夥しい巨石を調達する必要に駆られました。 石垣石材として相応しい珪岩けいがんは、 上手い具合に運搬用の舟活用に利便な浜名湖北岸に多く産出されました。 馬込川、新川合流点に位置する浅間神社は、 家康期以上に水運を活用する必要がある堀尾吉晴の祈願所として従ってこそ機能し、 斯くして航海稼業の守護神として江戸時代に重きをなし、 更に数代経た浜松城主松平伯耆守資俊の祈願所としても機能したのではないかと考えているものです。

結言

浜松城は天下人の城でありながら未だ未だ謎に満ちた興味深い城です。 今回、天守閣、隅櫓について文献、発掘成果などから考察し、 両建造物の破却者は建造者でもある堀尾吉晴であると結論付けてみましたが、 今後の文献調査や発掘結果から更なる新たな知見が齎され、考察の機会も弥増すものと期待しています。

浜松城は明治維新以降、昭和初期迄に相次ぐ造成で姿を変え、失われました。 此れを悪と捉えるべきでしょうか。 例えば農地開墾に邪魔となれば歴史的な建造物の礎石だろうと粉砕し、墳丘だろうと掘削してお構いなし、 と言った態度は歴史調査をしていれば随所に伺えます。 実は此の如き態度を目にする度に個人的には微笑ましく思うのです。

庶民の心性は移り変わります。 其れは歴史観に於いても例外ではありません。 そして人界は進歩するばかりになければ新しければ宜しいと言う訳では決してないでしょう。 庶民の心性は戦後の昭和、 其処に天守台があれば天守閣がシンボルとして建つべきであり、 戦後間も無くであれば戦災に強くある為のコンクリ造りであるのが当然であり、 其の際天守台が余ろうが頓着しない、と言う大らかなものであったでしょう。 然るに現在では掛川城や名古屋城再建の経緯から見るに、 世間は完全なる木製の復元に拘る様相を呈している様です。 此の状況下に転じては復興天守閣はなかなか居心地が悪いでしょう。 だからと言って又いつ状況が逆転するかも分かりません。 此の移り変わるもバイタリティーに溢れた庶民の心性こそが歴史を作ると思うのです。 封建制から解放された明治期の浜松城跡地も宅地及び観光資源として自由奔放に活用すべし、と言う庶民の心性も微笑ましい歴史の一部です。 戦後の復興の象徴として解放された筈の支配の象徴たる天守閣を欲する、と言う庶民の心性も微笑ましい歴史の一部です。 もはや戦後ではないとし、年号も代わり、復興天守閣をインチキ天守閣と称し、 例えば木造回帰が指向されるとしても、其の庶民の心性は微笑ましい歴史の一部でしょう。

本記事に主張する如く、 浜松城天守閣は堀尾家支配期にのみ建っていたと考えれば、 天正18(1590)年から慶長5(1600)年迄の僅か10年間の短期間の存在となります。 では昭和の復興天守閣はと言えば、其の存続時期は 昭和33(1958)年の建造から当年2019年迄、彼此61年を閲しており、 既に堀尾期の其れを遥かに上回っています。

最近では人気も下火となった 時代劇 では、忍者が空飛び、弾丸より速いスーパーマンの如き大活躍をしたり、 天下の副将軍水戸光圀が諸国を漫遊して各地で印籠を翳したり、 江戸町奉行遠山の金さんが袴を舞わせ踏み出すお白州には階段が用意されていたり、 と物語を面白くする演出の為に実に分かり易い嘘万八が散りばめられて、 而して見る者を楽しませる良質なエンターテイメントとなっています。 謂わば祭りの夜店の屋台の香具師のようなもので、 其処ではインチキだのなんだの野暮ったいことは言わず、気持ち良く騙されるものです。 行政はアニメばかりをクールジャパンとして持ち上げている様ですが、 此の時代劇も併せて海外に輸出されるべき良質なコンテンツだと思います。 RC造りで天守台に余りを残しさえする分かり易い嘘万八の復興天守閣も、 其の類のものだと考えれば宜しいでしょう。 当時の政治的になかなかキナ臭い裏の状況さえ、 其れを歴史として記し置けばちょっとしたスパイスの様なものです。

増築以後も浜松城北東の城門として維持された下垂口の東に今なお残る道路の食い違いは唯一現存する貴重な防御遺構であり付近に豊臣秀吉が少年時代に奉公した松下家の屋敷跡がある(2018年12月25日撮影)
増築以後も浜松城北東の城門として維持された下垂口の東に今なお残る道路の食い違いは唯一現存する貴重な防御遺構であり付近に豊臣秀吉が少年時代に奉公した松下家の屋敷跡がある(2018年12月25日撮影)

其れでも復元天守閣と呼ぶを憚り復興天守閣と称すのも無理からぬ処とは思います。 今後、発掘調査の進み新発見のなされ、堀尾期天守閣の構造が露わになれば、 新たに浜松城改築の話が出るかも知れません。 復興天守閣が姿を変える決定を下されれば其れも歴史です。 しかし、庶民の活力の現れたるRC造りの現天守閣は、 昭和、平成、そして次代と浜松市民の象徴として存在し、優に半世紀以上経ました。 此れは、其れもまた良し、浜松城と言えば現在の姿を思い起こす天守閣として其の儘残されても構わない存在として認知された様にも思え、 然う思えば善くぞ破却者には形の皆目分からない様に打ちこぼしてくれたものと考えても良いのかも知れません。 復興天守閣が此の儘存続する決定を下されれば其れも又歴史です。 決定の時期に居れば歴史の目撃者としてありましょう。 歴史家の役目は調査、検討、考察し、歴史を歴史として整え、 此の移り変わる庶民の心性に用立つべき材料を用意することにこそあると思います。 歴史家が真摯に整理整頓した歴史は孰れ歴史に興味を持った向きが向き合った時に快い衝撃を与え続けるでしょう。

追記1(2019年4月29日)

「川成堤為」の最後の文字は「 しき 」と読まれ、「川成堤敷」とされるべきものでした。 とは古文書解読会の渡邊弘さんに聞けば、 現在独自に解読中の他古文書にも見え、 堤、即ち土手、堤防の敷地を示すのだそうです。 其の古文書には他にも関連する言葉の見え、 土手の断面図たる台形の下辺を と呼べば、台形の高さは たかさ と書かれ、また台形の斜辺の長さを 法高のりだか と書かれており、更には上辺は興味深くも とされているのだそうです。 此の部分は他にも様々な呼び名の見え、一つには 馬踏 とするものもあるので、 堤防上の馬の通り道として活用されたのではないかとのお話でした。 従って浅田村の総生産高の内5石6斗7升は水害対策の為の土地に転用されたのものであり、 と書けば取れ高は堤防構築の費用に形状されるものですが、 であるので直接其の取れ高分の土地の上に堤が築かれたものと言うことになります。 費用、土地の孰れにしても堤構築に宛てがわれるのは間違いなく、 意味が通らなくなるものではありませんが、 文字の読みに誤りのあったものを此処に訂正して追記とします。

新川放水路通水記念碑から佐鳴湖を望む、記念碑には2005年に浜松市に合併した雄踏町と舞阪町も其の町名が刻まれている為、入野町に留まらず浜名湖に至る迄水害に悩まされていたのが分かる(2016年6月4日撮影)
新川放水路通水記念碑から佐鳴湖を望む、 記念碑には2005年に浜松市に合併した雄踏町と舞阪町も其の町名が刻まれている為、 入野町に留まらず浜名湖に至る迄水害に悩まされていたのが分かる(2016年6月4日撮影)

また本文にある様に「 川成 」其の物は珍しくない処か、天竜川と言う国内有数の大河を擁し、 馬込川という現在の行政的には二級河川ながら比較的大きな川さえ流れる遠州西部の平野の高帖であれば、 頗る頻繁に見られる語句ではあるものの、 矢張り「川成堤敷」は相当珍しいものですが、 高帖には入野村に同じく記述がありました。 687石の内 弐拾石にじっこく 分が宛てがわれていますから、過去には入野川と呼ばれた今の新川が佐鳴湖から流れ出る辺りは相当水害に悩まされた筈で、 聞けば昭和にさえ台風の度に辺りは水浸しになったそうで、 然ればこそ平成12(2000)年にはバイパスとして新川放水路が引かれたのでした。 兎も角も入野と同じく、 浅田は水害に悩まされる立地であったのは確かです。

追記2(2019年5月25日)

ケーブルカー と聞くと平成、令和以降しか知らない向きには、 軌道敷の敷設され其の上を行く、自らは動力を擁しない列車を想起されるかも知れませんが、 此処で言うケーブルカーは恐らくは今で言う ロープウェイ で間違いありません。 ロープウェイは空中の二点間を繋いで張られたロープを伝って人の乗る釣り籠を牽引する乗り物ですから軌道敷は必要ありません。 堀尾吉晴の築いた穴太積みの石垣は軌道敷敷設には傾斜が急に過ぎたでしょうし、 山岳に敷設するケーブルカーの軌道敷のようにその為に造成するのも石垣を活かそうと思えば難しかったでしょう、 しかし空中を行くロープウェイであれば無理がありません。 ネットを繰れば1950年代の浜松市動物園の写真を掲載するページ[※15] も見つかり、其の写真は少々紹介が躊躇われる程に合成写真ではないかと見紛うばかりの見事な構図で 観客の注目を集める象の曲芸の上を走るロープウェイが確りと写り込んでいます。

此処に誤解を恐れずケーブルカーとして記述するのはお話をお聞きした平山さんの用語を尊重するからです。 浜松城のお話をお聞きした際に咄嗟に思い出された小学生時代の記憶に其の儘ケーブルカーと言う語彙は生きていたのですから、 恐らくは当時眼前のロープウェイを以て大盤振る舞いをしてくれた担任の先生もケーブルカーと仰っていたのを、 平山さんは心に焼き付けておいでなのでしょう。 念の為に同世代以上の幾人いくたりかに尋ねてみれば、 不確かながらもロープウェイとは呼ばず、ケーブルカーと呼んでいたかも知れないとのお話しで、 此れを 空中ケーブルカー では如何か、と尋ねると靄が突然晴れたように其の様に呼んだ様に幾人かは同時に同意されました。 この時ご一緒していた元城小学校卒業生の伊藤濵子さんは 「そう言えばロープウェイなんて洒落た言葉はなかったわねえ」 と仰り、また平山さんより少し年長で当時中学生でもあって、 受験勉強か何某かで浜松城とは疎遠になっていて、 僅かの期間しか経営されなかったケーブルカーを見る機会がなかったのを少し惜しがっている様に見えたのも印象的でした。

大草山と堀江城跡の遊園地パルパルを結び浜名湖内浦上を渡る舘山寺ロープウェイ(2016年6月18日撮影)
大草山と堀江城跡の遊園地パルパルを結び浜名湖内浦上を渡る舘山寺ロープウェイ(2016年6月18日撮影)

斯くあれば昭和の終戦直後は今言うロープウェイと言う言葉は日本若しくは遠州地域にはなく、 しかし目の前に実際に在る此の乗り物を人々は(空中)ケーブルカーと呼んでいたのであり、 其の後、昭和の何時しかロープウェイと言う言葉が輸入、若しくは造語されて人口に膾炙して、 今にケーブルカーとは異なる一般名詞として定着したのであると考えられます。 けれども渦中に生きている人々はそんな流れに頓着しないのは、また微笑ましくもあります。 此の事案は以前配信の記事[K4] に考察した みなしご と同じき言葉の変遷が伺われ実に興味深く、例によって歴史研究に伴う快い衝撃が感じられました。 何気無い一言にも歴史は隠されているのだと思います。

処で浜松市動物園と浜松城を結ぶケーブルカーがロープウェイであれば、 見張り台と思しき鉄塔との関係もよもやと思われましたが、 渡辺昌雄さんに尋ねても確言は得られませんでした。 前記の浜松市動物園の写真にはロープウェイの行き先は写っておらず、 また平山さんにお聞きしてもロープウェイの辿り着く先は本丸曲輪か天守曲輪か天守台かは判然とはしなかったのは残念な処です。

参考文献(※)
  1. 『浜松市指定文化財 浜松城跡 ー考古学的調査の記録ー』(浜松市教育委員会/一九九六年三月)
  2. 浜松市博物館特別展冊子『浜松城主堀尾吉晴』(浜松市博物館編集平成24年発行)
  3. 戰國戰記三方原之戦』(高柳光壽/春秋社昭和33年5月発行)
  4. 『浜松風土記』(會田文彬著/浜松出版社昭和28年発行)
  5. 『浜松城天守門整備工事報告書』(浜松市都市整備部公園課/平成26年)
  6. わたしの城下町―天守閣からみえる戦後の日本』(木下直之著/2007年筑摩書房)
  7. 『浜松城天守再建と昭和の再建ブーム』(高橋直紀著/滋賀大学経済学部平成24年3月卒業筒井正夫専門演習Ⅳ)
  8. 『浜松城設計図』(浜松市教育委員会)
  9. 浜松城と城下の絵図(浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ)
  10. ADEACデジタルアーカイブシステム「浜松城絵図遠州浜松松尾山引駒城下絵図」(浜松博物館所蔵)
  11. ADEACデジタルアーカイブシステム「青山家御家中配列図」(浜松博物館所蔵)
  12. 歴史の中の東海地震・リアル』(藤田佳久著/愛知大学綜合郷土研究所編2018年発行)
  13. 『遠州長上郡敷智郡村々高帖』(浜松市博物館所蔵/元和4年)
  14. 『遠江州敷知郡浜松御城下略繪図』(嘉永3年作成/昭和23年模写)
  15. 浜松城における整備のあゆみと観光事業(文化遺産の世界:2017年11月24日)
かたむき通信参照記事(K)
  1. 信玄街道(2018年10月26日)
  2. 浜松の合祀された五社神社と諏訪神社(2017年8月27日)
  3. 杉浦国頭の書き残した浜松の二つのうとう坂(2017年4月29日)
  4. 腰越状を読む(2018年7月4日)
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