時は元亀3(1572)年、今から446年の昔、 年も暮れなんとする12月22日、 甲信駿に北条の援軍を併せた大軍団が遠江西部、 今の浜松市の中心部から北方に広がる三方原台地を横切りました。 甲斐古府中を本拠とする武田軍の遠江侵攻です。 攻め手武田軍に対する守り手は三遠領有の徳川軍にて、三方原台地南端の浜松城を本拠としていました。 徳川軍から見れば台地の南端から北方を望むに武田軍が右から左に進軍する格好となります。 大永元(1521)年生まれの信玄は数えで52歳、 天文11(1542)年生まれの家康は数えで31歳、の時、 此の武田軍の三方原台地横断の直後、世に言う、 三方原の戦い は始まりました。
本稿は、特に三方原の合戦にも武田軍が此の台地上に登った状況と其処からの進軍路を考えてみるものです。
何となれば武田軍が台地に上った辺りは本稿執筆者の生活圏に当たり、
武田軍が進軍したと言う姫街道などは
高柳の覆した定説
高柳以前は、明治に日本国軍隊の作戦統括の機関として創設された参謀本部の著す『日本戦史』が成り立ち上も、公的見解としてあり、
一般にも常識として受け取られていたのは致し方ないでしょう。
桶狭間の戦い[K2]
なども誤謬の多く含まれる当該書が事大主義のタレント学者などに取り上げられ、
オカルト説ながら現在も幅を効かすのは困ったものです。
しかし、高柳は様々な文献を整合性を求めて多面的に検討し、此れを一蹴しました。
よくぞ此れで国の命運を左右する実際の軍隊の作戦を立案したものだと思う『日本戦史』では、
史料の軽重も検討されず恣意的な結論が主張され、
三方原台地の上り口に程近い小豆餅、千人塚辺りで戦闘が行われた、とし、巷間信じられましたが、
高柳以降は高柳の主張する様に、
武田軍は二俣城攻略から天竜川を渡河、浜松城に迫るべく南下し、
一転西方を向いて三方原台地を横断し、
金指街道を北上した三方原台地の
本稿に取り扱いたい問題は三方原の戦にも、武田軍は何処で三方原台地に上がったのか、という点です。
武田軍が三方原台地を横断した道
遠州を北東方面から圧倒し、三州に進路を取る武田軍は三方原を横切る必要があります。
三方原は台地を成しますから、武田軍は台地を登らなければなりません。
現代の自動車用に整備された道路では登坂路もなだらかな勾配に造成されていますから、
想像に難い面もあるでしょうが、
一旦、一般道を外れて台地沿いに歩いて見れば10
高柳は『三戦』に、本隊、支隊が二手に分かれ二道を取って 本隊は馬込川の上流に添って、大体今の秋葉街道を南下し、 支隊は笠井から姫街道を三方原の台地を上って追分付近で本隊に合流したと考えられる、 としています。 以下本稿にも武田軍の本隊、支隊とした場合、此の記述に則っています。
小楠は『検証』に武田軍の三方原台地横断に取り得る可能性のある進軍路について、
現在、様々に挙げられている説から5つにまとめています。
宮口から測って姫街道迄の南北10
- 都田から三方原台地へ上がったとする説
- 「二俣〜宮口〜三方原台地〜都田(丸山)〜刑部」説
- 大菩薩(欠下平)から三方原台地へ上がったとする説
- 北大菩薩から三方原台地へ上がったとする説
- 欠下坂(信玄街道)から三方原台地に上がったとする説
最後に挙げられた三方原台地を
小楠は其々の可能性を、 1番については「地形から見て成立することはない」と、 2番については「徳川誘い出し策から考えるとないと言えるのではないか」と疑問符を付け、 3番を最も有力とし、 4番には「徳川軍を浜松城から誘い出すにはやや遠すぎるのではないだろうか」と此方も些か疑義を抱き、 5番については「この説の説得力は薄い」としていますが、 飽く迄此れ等可能性は、武田軍の分散の無い場合であり、 部隊を分けた場合、 徳川の全兵力に拮抗する第一軍は3番経路を、第二軍は5番経路を、第三軍は4番経路を取り、 速やかに坂を上がって徳川軍に対したものとの考えが記述されています。
1番については高柳は『三戦』に比較的良質ながらも京都での風説を記した『当代記』は、
地理的知識から斯くあるべきとしたものだが誤りであるのは言う迄もない、と述べています。
確かに三方原台地が北方で切れていれば
さて、此処で小楠の列挙した経路可能性を、 北大菩薩は飽く迄小楠の主張にて一般には船岡山で通用するなど、些か首肯し兼ねる面もあるなどしますので、 本稿には経路、順番は其の儘に以下列挙の如く項目名を書き換えます。
- 都田
- 丸山
- 姫街道
- 船岡山
- 信玄街道
丸山
処で小楠が、戦いの行われたのは丸山の南方に広がる荒野であるとする 都田丸山南説 を開陳する記事[※1] が『検証』から9年経った時期に朝日新聞社から配信されており、 其処に武田軍は丸山に本陣を構えたとしていますから、 2番の丸山説については可能性の重きを転換した様です。 一部、以下に引用します。
小楠さんが主張するのが「都田丸山南説」だ。1713年に地元の神主が書いた「曳馬拾遺」には「信玄の本陣は都田の丸山にすへられ」という記述がある。 丸山は三方原台地北端部に位置するなだらかな山で、現在は都田丸山緑地となっており、三方原が一望できる。 小楠さんは「計3万以上の軍勢が戦うには最適な場所」と話す。
引用文中に地元の神主とあるのは
確かに丸山に登り南を向けば三方原台地の一望が現在でも可能です。
西には武田方の武将
三路邁進
三路邁進とは語呂も宜しく、小説映えもしますから、 此れを題材に、三方原北方を勢力下に置いた信玄は宮口から先ず遊撃隊を進め、 北の遊撃隊と南の主力部隊の支隊の援護を受けながら本隊を船岡山、若しくは信玄街道から登らせてのち、 主力部隊を姫街道から上らせた、などは個人的にも 三方原武田軍進軍路として一編書いてみたくもなる処です。
実際、信玄は遠江侵攻に三路邁進策を取ってもいます。
『三戦』にある通り、
第一路の武田信玄は信濃国伊那郡から遠江国境の青崩を越え、周智郡の犬居から森、二俣と出て浜松に迫り、
第二路の山県昌景は信玄に先発して信濃伊那郡から愛知県設楽郡の三河別所に出で、
山家三方衆を先鋒として南方に進出、豊川の上流である三輪川を下り、八名郡の吉田を奪ったのち遠江に入り、
浜名湖北岸の
但し、高柳が『三戦』で有力な敵を前にしての兵力分散は当時の戦術として甚だ不合理、と指摘する通り、 遠征に於ける主な攻撃目標であり、最強でもある浜松の部隊を目前にしての進軍路の分散は、矢張り考えられないでしょう。 『三戦』を上梓した昭和30年代にしても、武田軍の三分隊の経路として、 宮口から都田を経て刑部へ向うものと、秋葉街道の小松から三方原に上って刑部に向うものと、大菩薩から三方原に上って姫街道を刑部に向うもの、 が説かれていたようで、高柳の閉口している様子が伺えます。 なお、有力な敵を目前にしなければ分隊編成も当然で、 『三戦』には、三方原に勝利して刑部に越年の後、三河入りの際には、集結して行軍する必要がなく、 其れ処か諸所に威圧を加える必然もあって隊を分けて進軍したものと考えられる、と記されています。
此処に秋葉街道の小松から三方原に上って、とあるのが本稿進軍路列挙の4番の船岡山に当たります。 船岡山には現在、江戸時代の法源禅師の遺徳を偲ぶ法源堂が立ち、 静岡県道65号浜松環状線が三方原台地を登り半田緑地を二分する切り通しを遠望出来ますが、 此のなだらかに造成された車道新道は21世紀になってからの風景です。
国土地理院から取り寄せた、明治23(1890)年測図の三方原2万正式図(以下、明治測図)を見れば、 当時の街道は法源堂の建つ小高い船岡山を南に避け迂回西進し、 なお急峻な半田緑地を避け北上して比較的緩やかな坂を西向きに登っています。 端然と整えられた法源堂脇には地元の企業桜井製作所により案内板が設えられ、 其れによれば、此の道を法源禅師は黄檗宗布教に度々往来し船岡山に魅せられ正徳3(1713)年に大智寺を開いた、と言い、 又、人々が半僧坊に参詣する信仰の道であった、とも言います。 此の旧道を三方原に登る坂の途中では今でも三方原台地の地下水が湧出し流れ落ちているのを窺えますが、 往時には清水が滝の様に流れ出る洞があって道行く人の喉を潤したといい、滝洞坂と名付けられています。 滝洞坂を上って暫く進むと東三方神社の境内に赤松の鳥居が建っており、 明治期には奥山半僧坊の遥拝所として人々を此処に導く役目を此の道は負っていたのでした。
先ずは武田軍が複数部隊に分散するのはなかなか考え難くもあり、 本隊一部隊がまとまって此の経路を取るのは些か中途半端でもあれば、 武田軍進軍路としての船岡山経路は捨てざるを得ません。
姫街道
都田、丸山、船岡山、を捨てるとなれば残る進軍路可能性は二つ、 姫街道と信玄街道になります。 高柳が分進したと主張する本隊と支隊は果たして此の二経路を言うのか否か。 『三戦』本文から明確に読み取れるのは 姫街道 です。 姫街道とは三方原台地を古くから貫く往還にて、現在も主要な道路として機能しています。 南に東西を繋ぐ東海道に対して、北に東西を繋ぐ道であり、 東海道が水害で往来が困難となった際には官道としても機能しました。 姫街道が三方原台地を上るうとう坂については本ブログに記事[K3] にもしました。
天竜川上流進発時に編成された支隊は、笠井から姫街道を三方原の台地へ上がって、と『三戦』にあります。 先ずは高柳は支隊については経路3番の姫街道を取ったと見ているとして間違いありません。 では『三戦』に本隊はと言えば、南下には秋葉街道を採用し、 有玉附近で西に転じて大菩薩(欠下)から三方原台地に上った、としています。
大菩薩と言う地名は近年迄
しかし支隊については本文の内容が違和感なく想定図二に反映され、 笠井街道を南下して市野で西に転じ、姫街道を西進し、 うとう坂に三方原台地に上った、と見ているのが受け取れます。 三河に向かうにしては台地から些か東に離れた笠井街道を南下する自体が、進軍先は浜松城である、と表明する意思が見て取れますし、 威風堂々たる敵領内の西進を浜松方にこれ見よがしに見せ付け、徳川軍を野戦を誘引するにはお誂え向きの進軍路としていいでしょう。
二つの欠下
大菩薩の崖下には今も明治の昔も馬込川が流れ、
中世の昔も同じであったとすれば馬込川が天然の堀となり城としての要件に叶っていたでしょう、
欠下城跡の愛称標識も建てられています。
前記した様に此処は近年迄
本隊も大菩薩に三方原台地を上ると聞くと、 以上から支隊と同様、進軍路を経路3の姫街道に取ると一般で、 すると高柳は武田軍の進軍路を姫街道に一本化した様にも取れます。
此処で、明治測図を丹念に見ると大菩薩、
即ち欠下平の北方1
大菩薩を上ると聞いて武田軍進軍路を経路3の姫街道に一本化するのは短絡です。 高柳は武田軍進軍路に於いて、 支隊を経路3の姫街道、本隊を経路5の信玄街道と見ており、大いに首肯すべきと考えます。
信玄街道の現在
欠下から追分に至る信玄街道は現在の建築基準法指定道路図ではほぼ、 有玉北初生線 に相当します。 明治測図には馬込川に合流する辺りに短くしか見られませんが、 今は台地の下に沿って船岡山北方から染地川が流れ来たります。 有玉から西に転じて染地川に架かる欠下橋を渡ると、なだらかな坂が見え、 暫く進むと道に沿った有玉団地公会堂敷地に愛称標識「信玄街道」が建てられています。
もう暫く西に進むと有玉北初生線は南に大きく湾曲して山際に沿う様に登っています。 静岡県企業局西遠事務所を取材した処、 此の道には工業用水管が埋設されており、 戦後、埋設を鑑み市の土木課と協議しながら道路を造成したもので然う遠くない昭和の話しですから新道にて信玄街道にはなく、 勿論明治測図にも見られません。
実は欠下坂の坂下には分岐があり、南に大きく彎曲する有玉北初生線とは別に 北に分かれた道が浜松大学有玉グラウンドの脇に現在も急峻な勾配をなして西に真っ直ぐ繋がっています。 此の坂は建築基準法指定道路図では 有玉台1号線 として記載されますが、此の坂こそ即ち 欠下坂 であり、旧道としての信玄街道に当たります。
旧道の急峻な坂を登り切ると再び新道の有玉北初生線と合流します。 合流のほんの少し先には愛称標識「欠下坂」が建てられていました。 此の愛称標識は朽ち方が非道く、数年前に立地の前の所有者が土地を売った際には既に見えなくなっていました。 此の時、立地上お話しがあって此の土地を購入された現在の所有者の御宅に不躾にも突然伺うと、 快く対応下さり、大切に保管されている貴重な写真迄取り出して、撮影の許しも得た複製が左のものです。
当該地の売却される以前は借り受けていた企業の重機駐車場として利用されていたそうです。 写真は愛称標識が建てられて程ない頃で、対応くださった現所有者のお嬢さんも写っています。 信玄街道について尋ねると勿論、ご存知で、此の質問で思い出した様に奥から取り出してくれたのが此の写真です。 地元には斯くも信玄と欠下は連想で繋がります。 聞けば浜松市の広報冊子「広報はままつ」の為の撮影の、此れは表紙を飾った一枚で、 撮影のお礼に焼き増しが送られお宅に大切に保管されていたのでした。
坂上に上り、僅かながら有玉北初生線を進むと、 此の道から不自然に分岐して畑の中に斜めに真っ直ぐ進む道が見えます。 不自然と言うは、進む道が区画整理されて先の交差点では南北の小路と直行しているのに対し斜めに在るからで、 斜めの道に立って見通せば、不思議なくらい真っ直ぐ続く道でもあります。 実は此の道こそ信玄街道にて、現在は市道 初生88号線 とされ、途中、満州街道に遮られながらも、真っ直ぐ追分に向かっている道であるのです。
静岡県企業局西遠事務所に聞けば、
初生88号線には昭和42(1967)年に工業用水菅が地中2.6
折良く、農作業中の初生88号線の両側の畑の所有者に話しを聞け、 其れによれば、今は幅一間程の此の道は、七十絡みの所有者の子供の頃には幅半間程しかなく、リヤカーが通るに一杯であったそうです。 此の畑は此の方の曽祖父が此の地に入植し、森林だらけの土地を切り開いたものだそうで、 当初から馬鈴薯や大根を作付けしていたとのお話しでした。 三方原台地は明治維新以降、漸く人が住み開拓された土地でもあります。
入植者ご子孫の認識では初生88号線は畑に用をなす農道でした。
所有の経緯について尋ねると、初めから公共のものであったのか、其れとも祖先が一旦私有して公共に売却したものかは定かではありませんでした。
信玄街道について尋ねるとご存知ではなく、話し振りでは歴史に余りご興味がないのもあるかもしれませんが、
地元の人々に語り継がれ標識迄特別に設えられる真ん中に、明治以降とは言え数代に渡るご家系の方のことにて、少々驚きではありました。
『三戦』にも浜松を知悉する高柳が「信玄街道」には言及していませんから、
若しかしたら其の名称は昭和になってからの、比較的新しいものかも知れません。
但し、高柳は往古の往来で当時の主要幹線でもある「姫街道」も、支隊の進軍路としては名を挙げていない文脈ではあります。
また、明治測図を見ると初生88号線中程を二、三百
初生88号線を更に西に進めば、満州街道に当ります。 今は立派な幹線に造り変えられた満州街道にて中央分離帯が有って道を渡るのは許可されませんが、 しかし確かに切断されてなお、初生88号線、即ち旧道信玄街道は西に真っ直ぐ続いています。
満州街道を越えて、初生88号線を更に西に進むと暫くして右手に石碑が見えて来ます。 浜松市の設置した「信玄街道」と刻まれた碑にて、 此処から先は道は市街区に紛れてしまいますから、此処を信玄街道の終点として宜しいでしょう。 碑の脇には三方原文化保存会に仍る説明板が建てられ、地元の古老の一人の話しとして、 「欠下の旧道坂を上ると、八丁歩という部落です。八丁歩の人達は今でも、欠下から八丁歩を経て追分へ出る道を信玄街道と呼んでいます」 との文が添えられています。
人家も疎らな三方原台地上にうとう坂から西進する往古の姫街道と浜松城から北上する新姫街道との合流点が追分に当ります。 従って交通も多く古くから住居が比較的に密集する街区でもあったのは、明治測図からも見て取れます。 新姫街道は家康の浜松入府以来の発展が著しいでしょうから、 武田軍が追分に本隊と支隊を合流させた際にも此の様な状況だったのだと思われます。 信玄は追分に大休止をして姫街道、現在の金指街道を北上して敵を後ろにするべく部隊を再編成したとしますが、 此処は食料の調達にも叶う場所であったでしょう。 当時、敵対する兵同士にも水や食料の売り買いはあったようで、 『三戦』にはそれこそ、信玄が最期に囲んだ野田城中では銭で武田軍から水を買っていた話しの伝わり、 荒木村重の兵は囲んだ本願寺城中の兵に粮を売った、と伝えられているとし、 更には周知の事実として日華事変に於ける日本兵の食料以下軍需物資の敵への売却をも記しており、 戦闘している同士ですら其れですから、 侵略軍と其の敵軍隊にはあらぬ地元住民との兵糧売り買いなどは、極めて自然に行われていたものと思われます。
武田軍は大休止を終えると此処に至る迄に比してかなり緩々とした速度で時の姫街道を祝田に向け進み始めました。
徳川軍の動き
高柳は『三戦』に徳川方軍事会議の様子を推測しています。
家康は矢張り家康にて単なる勇み立った猪武者にあらず、と前提し、
浜松城を放擲して三河に向かうとの信玄の宣伝もあったでしょう、
進軍路を本記事に挙げる処の丸山と想定して、
大部隊の間隙を突き、地勢を利し、縦隊の一部隊を捉え側面から急襲すれば、勝利も見える、としたのではないか、
そして大方針を、全兵力をもって城を出で、
敵の移動に
高柳は徳川方の武田方の動きに呼応する動きをも推測しています。
大方針に則って、都田、金指で敵と遭遇すべく全兵力を以て出陣した家康は、
恐らくは小豆餅近辺に出張った辺りで、意に反して武田軍南下の諜報に接し、
直ぐに南方に退いて再び浜松城附近に集結して来攻に備えましたが、
又もや意に反する武田軍の三方原西上の諜報に接しました。
最早、信玄の戦術に翻弄されている感さえ窺えます。
追分での戦闘を避けた家康は注意深く武田軍を監視すると、
やがて信玄は姫街道を祝田方面に動き始めました。
家康は武田軍に接触を保ちつつ、北方に此れを
地の利
高柳が徳川方の軍事会議に於いて持ち出した「地勢を利し」とは、 実際、徳川、武田の両軍にも当然ながら事前に詳細に検討されたでしょう。 小楠が『検証』に挙げる徳川方の四つの地の利の得られる状況は尤もな処で、以下に列挙を順番付きにして引用します。
- 武田軍が天竜川を渡っているところを攻撃する。
- 武田軍が宮口・欠下などで台地に上がる際に坂の上から攻撃する。
- 武田軍が二俣街道を南下しているところを台地の上または東側から攻撃する。
- 武田軍が祝田などの坂を下っているところを坂の上から攻撃する。
高柳が主張する祝田の坂上に徳川軍を誘い出し、 此れを完膚無き迄に叩きのめす目的は見事に達成されました。 徳川方の惨状は、武田軍が引佐刑部で緩々と年越しするのを黙って傍観していただけだったのにも見て取れます。 徳川方は地の利4番を実践しようとし、信玄は此れを逆手に取った、という調子です。
信玄は遠江遠征に当たり、甲斐古府中
実際の戦闘の要因となったと思われる地の利は4番の祝田の坂下りに当たり、信玄の狙い通りでした、 となれば、同様に信玄は徳川軍を誘い出すべく三方原に上る際にも何某かを仕掛けていた、と考えるのが自然です。 本稿執筆者は、2番の三方原台地を上る際に徳川軍の格好の標的となる恐れがある状況に、 信玄は誘因を仕組んでいたのではないかと考えるのです。
戦国時代の情報戦に踊らされる現代
戦争に情報戦は必須です。 『三戦』にも高柳は諸所に、家康や信長、謙信、他の戦国大名の宣伝を取り上げていますが、 特に謀略家の信玄ともなれば後世の歴史家は気を付けて当たらなければなりません。 土台、此の遠江侵入を目的とする三方原の戦に於いてからが、 高柳が釘を刺すには、此れを信玄上洛途上の一事件と解するのさえ、 信玄が其の様に宣伝し、朝倉や浅井、本願寺等も其の進出を待っていたからに外ならないからである、とします。 即ち、合戦当時の味方を有利に導こうとする情報戦が各地に様々な風聞を生み、 書物に記され、世代を経て編纂の重ねられ、四百数十年前を経て、現代人が踊らされる状況が出来するのでした。 鯔の詰まり、信玄の宣伝に乗せられたテレビ番組やタレント学者等の妄言に腕組みしながら大きく頷いてみせる得心頻りの滑稽譚が彼方此方に散見される訳です。
頃日にも何処ぞのタレント学者が三方原合戦の織田軍の徳川方への援兵数について、 高柳がだいたいそんなものだろうと是認した『総見記』の三千を誤りと断じて、二万としているのを耳にしました。 『総見記』は『明智光秀』[K1] に取り上げられるに太田牛一[K4] の『信長公記』を種本にお負けを付けた、と余り評価は芳しくありませんが、 高柳は他史料との整合性や合理性を検討し、陣立てについても考察した上で、暫定的ながら採用しているのが三千と言う数字です。 『信長公記』には「味方か原合戦の事」の章に、遠隔地のこととて信玄が「堀江の城へ打ち廻」るなど些かおかしな点もありますが、 援軍の将として、佐久間右衛門、平手甚左衛門、水野下野守の三名を挙げており、此れに相違はないでしょう。
高柳は此の時の徳川軍の陣立ては分明ではないとしながらも、史料を駆使して、 鶴翼に構えた右翼に酒井忠次、中央に石川数正、左翼に家康旗本の先鋒及び、 合戦に間に合わなかった可能性のある水野を除く、佐久間、平手の織田援軍、 予備隊として中央に家康旗本を想定しています。 織田の援軍が徳川に二倍すれば恐らくは姉川に類似した陣立てが考えられはすれ、 此の様な陣立てはあり得ず、高柳が指摘する様に同輩格とも言える徳川への援軍に士気は上がらずと言えど、 左翼から崩れて平手に至っては敗死するなどの織田援軍の為体は少々考え難くあるでしょう、 又、高柳は鶴翼の陣立てが明らかな失敗策であるとするには、一重で薄きに過ぎる点をも指摘しています。 従って、どうにも織田の援軍の兵数が多く、強力であったとは考え難いものです。 だからこそ高柳は基本的には両軍兵力は分からないとはしながらも、良質とは見ていない『総見記』にある織田援兵の兵力を妥当と捉えているのでした。
『甲陽軍鑑』なる史料について
高柳が総合的に判断した暫定的数字は勿論、修正される可能性はあります。 しかし其れは良質の史料に拠った場合に限られるのは言う迄もありません。 仄聞するに織田援軍二万の拠った史料は『甲陽軍鑑』と言いますから、此処に蛇足ながら当該史料の高柳の評価を記しておきましょう。
高柳の『明智光秀』を書評した記事[K1] では利用した史料について登場回数と前後の脈絡から史料の信頼度を測りました。 其の際には『甲陽軍鑑』は一度登場し、赤色に塗られるべく最低の評価を受けています。 『明智光秀』では引用の必要性も薄かったものの、 武田に関しては史料も少なく仕方なく引用せざるを得ない『甲陽軍鑑』に対しての高柳の辛辣で酷薄とも言える評価は『三戦』の中には十指に余ります。
数々の誤り、問題及び不可思議、出鱈目な点を指摘する中にも、
聞くも無残な高柳の「甲陽軍鑑」への酷評を幾つか抜粋して約めれば、
先ずは
斯くて遠江侵攻を上洛戦と宣伝して信長の牽制に朝倉、浅井を利用しようとする信玄は、 自らは本願寺光佐及び朝倉義景の要求によって遠州に出馬した、とぬけぬけと言い放っているのですが、 尤もこんな真似をするのは信玄のみにあらず戦国大名には当然で、 宿敵、上杉謙信とても三方原の戦後に信玄の死を看取してか否か、大いに宣伝し、 家康が駿河を侵したと言う、当時の情勢から判断すると有り得ない捏造の宣伝迄実践しています。 従って、対する家康だって負けていられません、 三方原の戦に当たっては味方の士気を高め、敵の士気を挫こうと、 岡崎、白須賀の間に信長の援軍が続々と続いているという宣伝を実践し、 其れは風説となって信玄にもまんまと伝わった様子が「甲陽軍鑑」には書かれますが、 実際、信じ込んだ面々も有り、妄想上の織田の大援軍の一丁上がって、斯くて現代人もタレント学者の音頭で踊る、と言った有様です。
先ずは巨人高柳の構築してくれた土台を有り難く基地、拠点として進発すれば宜しいのに、 通説を覆した評価ばかりを真似したがる、新説、珍説、陰謀説の主張が絶えません。 タレント学者が徒らに新説、珍説を繰り出すのは以て高柳の負の影響であるというべきであり、高柳の功罪相半ばすると言ったら言い過ぎですが、 唯、何某かで名前を売り出して国営放送他と手を組み高齢者を誑かし、歴史を捻じ曲げて利益を得る、 と言ったスキームが確立され、ビジネスモデルとして跋扈する状況には警鐘を鳴らしたく思うものです。
信玄街道を武田信玄は通ったか
閑話休題、 各陣営が虚言を放って味方を有利に導こうとする宣伝戦の喧しい戦時下ですから、 地の利を逆手に取ろうとする信玄が誘き出し策を仕掛けない道理は有りません。 信玄の大目的は遠江威圧と徳川軍への大打撃ですから、何としても三方原の野戦に誘い出したい事情が有ります。 祝田の坂上で首尾よく運んだ誘い出しと一般、他、徳川の地の利のある場面で何某かの仕掛けが仕組まれたものと考えるのです。 大菩薩では三方原台地へ上る武田軍を上から向かい撃てば勝利間違いなし、と家康に思わせる仕掛けです。
高柳は、本隊を秋葉街道を南下し、有玉で西を向いて、信玄街道を三方原台地に上がり、 別編成した支隊は笠井街道を南下し、市野から姫街道を西進し、うとう坂に三方原台地に上った、としたのは前述した通りです。 小豆餅辺りで武田軍の南下に意表を突かれ、一旦浜松城近辺へ退いた徳川軍から見れば、 手前の支隊と奥の大菩薩の影に隠れた本隊に分かれて敵が台地へ上るのは攻撃の機会です。 此処で、台地際に隠れる様に上るのが信玄の属する本隊であると知れば、 そして手前の支隊は本隊の上るのを擁護する姿勢で待っていれば、 一旦戦端が開かれれば、元から台地上にある徳川軍に有利に働くのは必定です。
信玄は本隊と見せた囮部隊に信玄街道に進ませ、 自らは実は主力部隊の支隊に身を置いて、 徳川軍が囮部隊の本隊に攻めかかるところを主力部隊の支隊で以て邀撃すれば勝ちは間違いなく得られ、 しかも戦闘が進めば、徳川軍の退路を断って殲滅させるのも不可能ではない布陣となるでしょう。 高柳は『三戦』に 「家康は諜報機関を活動させたであろう。けれども、信玄もまたわざわざその移動を家康の諜報機関に知らせるような方法を取ったかも知れない。」 としています。 斯くて、信玄自らが本隊に在って信玄街道を行くのである、と偽情報を宣伝する運びとなります。 実しやかな情報が飛び交う戦場で偽情報を宣伝して家康を誘き出す、と言う寸法です。 信玄の宣伝は徳川諜報機関を操る為に、実しやかに地元住民に囁かれ、広げられたでしょう。 戦況を息を呑んで見守る人々が信玄の行く道を信玄街道と呼ばずして何と呼ぶでしょう。
結語
本稿には信玄が仕掛けた情報戦の残滓こそが信玄街道であると考えるものです。 高柳の言う本隊と支隊は入れ替わり、実は支隊たる囮部隊には信玄が居ると思い込まれ、 事情を知らない向きには実しやかに武田信玄の通った道として伝えられたでしょう。 大将の在処など秘中の秘です。 徒や疎かに知られるものではありません。 当時は敵領内である三方原台地に漏れ広がり、 今に伝えられると言うのは何某かの意図が働いているとしても宜しかろうと考えるものです。
- 高柳光壽に依る明智光秀研究基本書〜書評〜明智光秀(2017年10月3日)
- 桶狭間現地を訪れ信長公記桶狭間の戦いを再読す(信長の戦国軍事学書評記事一覧有り:2017年6月24日)
- 杉浦国頭の書き残した浜松の二つのうとう坂(2017年4月29日)
- 信長の戦国軍事学~書評1~当代随一のドキュメンタリー作家太田牛一(信長の戦国軍事学書評記事一覧有り:2012年11月12日)
- 元禄天保郷帳敷智郡集計と大澤家領(2017年2月11日)
- 三方ケ原 家康、最大の敗戦を教訓に - 東海の古戦場をゆく(朝日新聞社:2009年6月30日)