江戸幕府は統治の時代を通じて四度
元禄郷帳
江戸幕府の命で、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの地図と郷帳が作成されました。元禄郷帳は、元禄13年から15年の(1700-02)かけて作成され、各簿冊の最後に作成にかかわった幕府の勘定方の氏名の記載があります。現在写本(17国19冊)を当館で所蔵しています。昭和58年国絵図とともに、国の重要文化財に指定されました。
天保郷帳
江戸幕府の命で、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの地図と郷帳が作成されました。天保郷帳は原則として1国1冊、郡別の村々の生産高が記載され、各簿冊の最後に天保5年(1834)12月の年月と、当時の幕府の勘定奉行明楽飛騨守他の記載があります。天保郷帳は、松前島から琉球までの原本85冊すべてを当館で所蔵しています。昭和58年国絵図とともに、国の重要文化財に指定されました。
此の公開データを利用して
元禄郷帳
にも
遠江国郷帳
と
天保郷帳
にも
遠江国郷帳
から特に
元禄天保郷帳敷智郡集計
元禄郷帳 | 天保郷帳 | ||||
村名 | 石高 | 村名 | 石高 | ||
1 | 舞阪町 | 160.52100 | 1 | 舞阪宿 | 168.61500 |
61 | 長十受新田 | 54.49200 | |||
2 | 馬郡村 | 322.85500 | 2 | 馬郡村 | 324.86400 |
3 | 坪井村 | 152.35700 | 3 | 坪井村 | 177.80800 |
4 | 篠原村 | 1400.03900 | 4 | 篠原村 | 1494.79600 |
5 | 高塚村 | 326.45900 | 5 | 高塚村 | 326.39650 |
6 | 増楽村 | 223.51300 | 6 | 増楽村 | 296.16000 |
7 | 若林村 | 595.57700 | 7 | 若林村 | 706.64300 |
8 | 東若林村 | 280.37400 | 8 | 東若林村 | 343.69800 |
9 | 小沢渡村 | 154.40600 | 9 | 小沢渡村 | 302.50500 |
10 | 蔵末村 | 49.21500 | 10 | 蔵末村 | 186.24620 |
11 | 堤村 | 24.70400 | 11 | 堤村 | 75.48900 |
13 | 新橋村 | 139.57000 | 12 | 新橋村 | 367.67300 |
14 | 法枝村 | 58.37300 | 13 | 法枝村 | 228.12200 |
15 | 田尻村 | 97.87300 | 14 | 田尻村 | 199.80400 |
16 | 白羽村 | 378.90000 | 15 | 白羽村 | 653.04800 |
17 | 中田嶋村 | 73.82500 | 16 | 中田嶋村 | 466.13400 |
18 | 福塚村 | 128.79500 | 17 | 福塚村 | 131.62600 |
19 | 寺脇村 | 606.69200 | 18 | 寺脇村 | 641.41000 |
20 | 瓜内村 | 227.44500 | 19 | 瓜内村 | 343.54700 |
21 | 三嶋村 | 299.71000 | 20 | 三嶋村 | 451.55000 |
22 | 馬領家村 | 180.71800 | 21 | 馬領家村 | 204.49940 |
23 | 楊子村 | 62.64000 | 22 | 楊子村 | 170.21200 |
24 | 上中嶋村 | 193.91000 | 23 | 上中嶋村 | 245.83430 |
25 | 福地村 | 14.00000 | 24 | 福地村 | 19.51700 |
26 | 向宿村 | 263.94000 | 25 | 向宿村 | 298.08620 |
27 | 龍禪寺村 | 100.00000 | 26 | 龍禪寺村 | 100.00000 |
28 | 寺嶋村 | 682.75000 | 27 | 寺嶋村 | 697.50000 |
29 | 海老塚村 | 78.00000 | 28 | 海老塚村 | 78.00000 |
30 | 浅田村 | 550.00000 | 29 | 浅田村 | 604.58900 |
31 | 明神野村 | 566.81400 | 30 | 明神野村 | 659.90200 |
12 | 米津村 | 212.46600 | 31 | 塩町 ※古者、米津村、塩町、 名残追分新田村、三ヶ村 | 906.42300 |
32 | 塩町 | 420.00000 | |||
53 | 名残追分新田村 | 25.17600 | |||
33 | 田町 | 32.25900 | 32 | 田町 | 32.66200 |
34 | 板屋町 | 30.54000 | 33 | 板屋町 | 30.99300 |
35 | 新町 | 16.64300 | 34 | 新町 | 16.64300 |
36 | 馬込村 | 127.36200 | 35 | 馬込村 | 210.28500 |
37 | 佐藤一色村 | 206.58600 | 36 | 佐藤一色村 | 236.60500 |
38 | 舟越一色村 | 118.00000 | 37 | 舟越一色村 | 195.25700 |
39 | 茄子一色村 | 51.84900 | 38 | 茄子一色村 | 62.35200 |
40 | 早出村 | 488.02100 | 39 | 早出村 | 636.58500 |
41 | 嶋之郷村 | 432.03200 | 40 | 嶋之郷村 ※古者、嶋之郷村、 十軒新田村、弐ヶ村 | 647.68700 |
42 | 十軒新田村 | 145.05900 | |||
43 | 上嶋村 | 334.93400 | 41 | 上嶋村 | 650.63400 |
44 | 一本杉村 | 49.90000 | 42 | 一本杉村 | 111.68500 |
45 | 助信村 | 204.31000 | 43 | 助信村 | 248.64100 |
46 | 高林村 | 343.59000 | 44 | 高林村 | 405.15400 |
47 | 新津村 | 120.63000 | 45 | 新津村 | 182.51100 |
48 | 野口村 | 365.70000 | 46 | 野口村 | 393.63600 |
49 | 八幡村 | 180.50000 | 47 | 八幡村 | 180.50000 |
50 | 中沢村 | 64.58400 | 48 | 中沢村 | 89.22300 |
51 | 下池川村 | 99.53500 | 49 | 下池川村 | 99.53500 |
52 | 上池川村 | 69.15000 | 50 | 上池川村 | 127.08900 |
54 | 段子川村 | 33.82200 | 51 | 富塚村 ※古者、富塚村、 段子川村、 寸田ヶ谷村、 富新屋村、小藪村、 五ヶ村 | 981.66500 |
55 | 寸田ヶ谷村 | 39.50600 | |||
56 | 富新屋村 | 32.03100 | |||
57 | 富塚村 | 562.38400 | |||
58 | 小藪村 | 25.89400 | |||
59 | 東鴨江村 | 497.42000 | 52 | 東鴨江村 | 588.70820 |
60 | 伊場村 | 907.51000 | 53 | 伊場村 | 1071.99800 |
61 | 入野村 | 1803.84900 | 54 | 入野村 | 2089.50700 |
62 | 西鴨江村 | 308.08000 | 55 | 西鴨江村 | 319.62800 |
64 | 片草村 | 64.54000 | 57 | 片草村 | 66.14400 |
63 | 志都呂村 | 941.86400 | 56 | 志都呂村 | 1016.11660 |
65 | 神ヶ谷村 | 935.81600 | 58 | 神ヶ谷村 | 1017.89800 |
66 | 大久保村 | 801.98600 | 59 | 大久保村 | 949.79600 |
67 | 宇布見村 | 1518.50400 | 60 | 宇布見村 | 1533.70300 |
68 | 山崎村 | 1215.90300 | 62 | 山崎村 | 1326.01770 |
69 | 小人見村 | 204.90900 | 63 | 小人見村 | 259.43700 |
70 | 大人見村 | 205.70000 | 64 | 大人見村 | 244.85000 |
71 | 佐濵村 | 402.82000 | 65 | 佐濵村 ※古者、佐濵村、 谷上村、弐ヶ村 | 508.55285 |
73 | 谷上村 | 33.02100 | |||
72 | 伊佐地村 | 342.81900 | 66 | 伊佐地村 | 539.86200 |
74 | 須禾沢村 | 33.69000 | 67 | 須木澤村 | 87.62800 |
75 | 東大山村 | 116.00000 | 68 | 東大山村 | 200.40900 |
76 | 西大山村 | 109.80000 | 69 | 西大山村 | 167.77000 |
77 | 和地村 | 557.50000 | 70 | 和地村 | 911.14500 |
78 | 平松村 | 80.70000 | 71 | 平松村 | 238.26480 |
79 | 呉松村 | 461.35738 | 72 | 呉松村 | 637.66437 |
80 | 堀江村 | 671.85851 | 73 | 堀江村 | 929.14327 |
81 | 白須村 | 344.00000 | 74 | 白須村 | 550.04561 |
82 | 神田村 | 128.45300 | 75 | 神田村 | 128.45300 |
83 | 細田村 | 42.48900 | 76 | 細田村 | 104.31477 |
84 | 西村 | 29.92135 | 77 | 西村 | 65.33042 |
85 | 和田村 | 325.19200 | 78 | 和田村 | 421.44377 |
86 | 村櫛村 | 571.89800 | 79 | 村櫛村 | 701.89250 |
87 | 大崎村 | 473.49100 | 80 | 大崎村 | 470.67600 |
88 | 佐久米村 | 203.84700 | 81 | 佐久米村 | 203.84700 |
89 | 都築村 | 649.28100 | 82 | 都築村 | 652.78100 |
90 | 野地村 | 185.63300 | 83 | 野地村 | 187.61800 |
91 | 駒場村 | 32.25600 | 84 | 駒場村 | 32.13100 |
92 | 津々崎村 | 343.36200 | 85 | 津々崎村 | 343.36200 |
93 | 宇志村 | 373.03300 | 86 | 宇志村 | 373.10800 |
94 | 三ケ日村 | 527.06300 | 87 | 三ケ日村 | 520.50700 |
95 | 釣村 | 121.46700 | 88 | 釣村 | 121.34200 |
96 | 岡本村 | 623.28000 | 89 | 岡本村 | 741.84560 |
97 | 摩訶耶村 | 188.20800 | 90 | 摩訶耶村 | 219.64740 |
98 | 只木村 | 252.01600 | 91 | 只木村 | 338.40770 |
99 | 大福寺村 | 184.54100 | 92 | 大福寺村 | 319.78118 |
100 | 平山村 | 111.53400 | 93 | 平山村 | 267.92130 |
101 | 日比沢村 | 245.12400 | 94 | 日比沢村 | 250.69300 |
102 | 本坂村 | 137.68700 | 95 | 本坂村 | 138.96700 |
103 | 鵺代村 | 255.99400 | 96 | 鵺代村 | 253.41900 |
104 | 南脇村 | 47.56300 | 97 | 南脇村 | 47.56300 |
105 | 下尾奈村 | 390.58100 | 98 | 下尾奈村 | 390.58100 |
106 | 上尾奈村 | 135.28400 | 99 | 上尾奈村 | 135.28400 |
107 | 大知波村 | 540.03700 | 100 | 大知波村 | 539.53700 |
108 | 利木村 | 117.78000 | 101 | 利木村 | 117.78500 |
109 | 横山村 | 33.09400 | 102 | 横山村 | 33.70200 |
110 | 入出村 | 357.07300 | 103 | 入出村 | 354.19800 |
111 | 太田村 | 395.68100 | 104 | 太田村 | 396.63400 |
112 | 神座村 | 154.54800 | 105 | 神座村 | 154.42300 |
113 | 梅田新田村 | 54.83500 | 106 | 梅田(新田)村 | 54.83800 |
114 | 新所西方村 | 408.13500 | 107 | 新所西方村 | 421.38600 |
115 | 新所東方村 | 768.89000 | 108 | 新所東方村 | 772.10000 |
116 | 岡崎村 | 629.78800 | 109 | 岡崎村 | 628.99900 |
117 | 吉美川尻村 | 710.30600 | 110 | 吉美川尻村 | 709.41000 |
118 | 吉美市場村 | 763.36600 | 111 | 吉美市場村 | 791.46400 |
119 | 坊瀬村 | 169.51900 | 112 | 坊瀬村 | 169.51900 |
120 | 山口村 | 191.05800 | 113 | 山口村 | 190.93300 |
121 | 古見村 | 465.34200 | 114 | 古見村 | 465.34200 |
122 | 鷲津村 | 685.34800 | 115 | 鷲津村 | 696.81100 |
123 | 中之郷村 | 1130.53100 | 116 | 中之郷村 | 1151.41600 |
124 | 内山村 | 436.21600 | 117 | 内山村 | 455.02100 |
125 | 新居町 | 375.44200 | 118 | 新居宿 | 322.93600 |
126 | 橋本村 | 385.82000 | 119 | 橋本村 | 409.49200 |
127 | 松山新田村 | 26.94700 | 120 | 松山新田村 | 26.64700 |
128 | 大倉戸新田村 | 50.04700 | 121 | 大倉戸新田村 | 50.74700 |
上記合計 | 41215.08624 | 上記合計 | 49063.07664 | ||
敷知郡128箇村 | 41215.08624 | 敷知郡121箇村 | 49063.07664 |
召し上げ方も召し上げられ方も生命線を握る税金の元となるデータであれば当たり前といえば当たり前と言えるでしょう、 元禄では敷知郡128箇村、天保では敷知郡121箇村と言う村数は勿論、 集計してみて驚くことに100000分の1石の狂いもありません。 兎角一様に昔から現代へと進歩し精度は高まるものと捉えられ勝ちですが、 昭和、平成の現代にまとめられた資料などには小説染みたものなど歴史研究の観点からはまことに頼りない面がありますから 一次史料は愚か二次史料としてさえ採用は躊躇われるに如何程科時代の所謂進歩のあてにならぬか分かりましょうが、 此の如き郷帳こそ一次史料として信頼に値するものでしょう。
抽出データ項目の検討選択
では実際に上の表から試験的に何某かのデータを抽出してみようと思います。 村名は分かるものの其の領域や面積、境界などは判然しませんので 半島として独立した庄内が比較的捉え易いでしょうから其の歴史と重ねながら見てみようと思います。 庄内の歴史を知るには 庄内郷土史研究会(以下、研究会) が発刊している以下一連の書籍が信頼に値するものとして実に有用でした。 庄内地域の歴史を閲する際には是非とも参考に供すべき書籍群です。
以上書籍を参照するにつけ庄内地域に於いては今となっては捉え難い程の入り組んだ歴史があり実に興味を唆られます。 中にも庄内地域に特筆して挙げらるべき領主の家系は多く在る中から敢えて 代表的な三家を挙げるとすれば 大澤家、 堀江家、 中安家 になるかと考えます。 庄内は此の三家を中心にした幾多の家系が絡み合うように関係を持ちつつ連綿足る歴史を紡ぎ出したのでした。
庄内 佐田城 に遠江堀江家の開祖として居を構えたのは 堀江和泉守光真 にて応永年間(1394〜1427)の頃だと言います。 越前国河口荘で勢力を扶植していた堀江氏一族は朝倉に押され 越前、遠江両国の守護職の斯波氏との関係から遠江に移り住んだものとされます。 此の時斯波氏に恩を受けたものが後年遠江に侵攻する今川氏とことを構え次第に押され 正太寺に伝わる文書によれば大永2(1522)年3月、今川氏に破れ佐田城は落城したとされますが、 中安氏の別れである間瀬家に伝わる文書によれば堀江氏佐田城を落城させたのは時の将軍 足利義晴 にて其の時堀江氏は今川支配下にあったものとされます。 此れについては 庄内の歴史 の135頁に永正元年に今川に下っている佐田城を今川が攻める筈もないので間違いであろうとはっきりと書かれています。 孰れにせよ其の時から堀江氏の正統は表舞台から消えているようです。
佐田城落城時には庄内の歴史136頁に最後の城主清泰の子が敵兵に命を救われ入野木寺宮の元で成人し信忠と言った、とあります。
木寺宮は後二条天皇の皇孫康仁親王を始祖とする宮家で
入野龍雲寺のご住職の家系は南北朝期に遠江に下向した此の末裔と言われています。
佐鳴湖南岸の入野は後出に中安氏にも大澤氏にも関連し庄内地方とは所縁が深くあるようです。
なお堀江氏の正統は
堀江城物語の157頁に佐田城落城の頃迄堀江氏を名乗っていた国家老の安間氏が挙げられており
安間家に伝わる古文書は研究会の研究に与って力があったようです。
堀江氏の分流としては庄内の歴史の136頁に
安間、中安、紅林、野中、遠藤、
の各家が系図や概略が添えて挙げられています。
佐田城が庄内の何処に築かれたのかは判然しませんが
堀江城物語の48頁に佐田なる地名は
堀江、内山を佐田と号す
と三ケ日金剛寺の過去帳にある、と記されています。
堀江城を佐田城を混同しやすいですが当時堀江城には大澤氏が在城し
さて大澤家の菩提寺足る
当時の三家の複雑に絡み合う様子は堀江城物語の49頁にまとめられ 其の内容に本記事執筆者が当時の浜名湖周辺の関連の深い出来事を幾つか加えて表にしたものが以下です。
貞治年間 | 1362-1367 | 大沢氏が堀江に下向 |
元中9年 明徳3年 | 1392 | 南北朝合一 |
応永年間 | 1394-1427 | 堀江氏が佐田城に居住 |
文正元年 | 1466 | 宿蘆寺堀江氏により創建さる |
応仁元年 〜文明9年 | 1467-1477 | 応仁の乱 |
明応7年8月 | 1498年9月 | 明応地震 |
明応8年 | 1499 | 佐田城主五代為清の次男豊種が 内山で生まれ中安氏を名乗る |
永正元年 | 1504 | 堀江城、佐田城が今川氏に降り 大沢氏は村櫛に移る |
大永2年 | 1522 | 佐田城落城後、中安兵部豊種が 堀江(佐田?)城主となる |
天文4年 | 1535 | 大沢氏堀江城へ戻る |
弘治元年 | 1555 | 中安氏堀江城主となる |
永禄3年 5月19日 | 1560年 6月12日 | 桶狭間の戦い |
永禄3年 | 1560 | 中安氏堀江城主として竜泉寺を建つ |
永禄5年前後 | 1562年前後 | 大沢氏堀江城改築 |
永禄10年 | 1567 | 堀川城築城、城主新田友作 |
永禄11年 | 1568 | 徳川家康遠江進攻 |
永禄12年 | 1569 | 徳川家康堀川城撫で斬り |
永禄12年3月 | 1569 | 大沢氏徳川の軍門に降る |
元亀元年 | 1570 | 姉川の合戦 徳川軍の中安兵部討ち死に |
以上表から分かるように堀江城と佐田城と堀川城は城主と共に混乱を招く様相を呈しています。 堀江城は堀江氏の遠江に下向する以前に大沢氏が領有しており 堀江氏は表舞台から姿を消してのち領民に慕われ嘗ての領地は堀江と称したとあり 堀江氏の正統を継ぐかの如く中安氏が堀江城主となっており 迷走を極める内容となっています。 錯綜する資料をまとめた研究会の見解は中安氏が佐田城を継いだものとします。 更には新葉社から平成4(1992)年に刊行された 清和源氏の源流をたずねて~三河遠江名倉氏の系譜 (以下、名倉氏の系譜)には88頁に 堀江城の実力者、中安氏 の立てられ当該書籍に重大な意味を持つ中安氏が堀江城主であったか否かについて 中安氏と大澤氏は親類縁者であり、領民は大澤家を領家殿、中安氏を堀江殿と呼ぶなど 複雑な関係を有していた点に言及し堀江城物語の49頁の内容を引用した上で以下引用の如く89頁に記されています。
以上の記録をどう解釈してよいか、中安氏は此頃堀江城主として十数年間全盛を極めたとあるが、城主はどちらかはっきりしたことはわからない。しかしながら、名倉村から移住して堀江城主となったとは考えにくい。この点は本書に取っては重要であるので、私は知人友人で郷土史研究者六人の意見を伺ったところ、一同何のためらいもなく、それは堀川城の間違いだろうという。そこで念のため『堀江城物語』の編者の一人、浜松市榑松の宮本長左衛門先生に聞いたところ、あの本を発行するまでには、研究会発足以来、十八人のメンバーが、大澤家の家老職を勤めた安間家文書はじめ、膨大な史料を長年にわたり調査したもので、史料として、精度は極めて高い。お説の通り堀江城主となったという記述は堀川城主と、置換えればはっきりするとのこと。また大澤家の元菩提寺の宿蘆寺の住職も同意見であったので、自信を得て、新田伊茂は、気賀へ移り新田友作と改め登場したものと位置づけた。
以上の引用部分は中安氏が弘治年間から永禄年間を通じ堀川城主であったことのみならず、研究会の郷土史への真摯な姿勢が伝わる記述だと思います。 中安家は堀江家の分家として存在感を示し荘内半島に確たる勢力を誇っていました。 中安氏からは上の間瀬氏、また野中氏が出ており其の家系 野中三五郎重政 は築山御前の悲劇で知られるその人です。 中安氏の後裔については雑誌 東海展望 の連載に 遠江土豪伝 があり1971年1月号には第20回が掲載され中安氏が取り上げられていますが其の34頁に言及があり 神戸市に在住する中安氏が先祖伝来の記録に基づいて此の数年前浜松市舘山寺町、庄内町を訪れ地元郷土史研究会の面々と共同で調査した結果、 或る程度迄土豪中安氏と神戸市中安家の結びつきが明らかにされたとしています。 中安氏が大草山山頂に建立した竜泉寺は今は宿蘆寺の北に移築されていますが 神戸の後裔中安さんは当寺に石灯籠を寄進しています。
なお郷土史誌の 入野地区の史跡 の51頁には当地の名家 竹村家(本竹) の系図に、 堀江城主中安兵部少輔定安の家臣であったが、弘治年間故あって致仕し入野村に住すと、又伊勢浪人であったともいう、 と添え書きされてあります。 入野は佐鳴湖の南岸に面し、橋の町と称されるほどの地形で浜名湖とは水利の便が良好だったもので 庄内地区とは深い結び付きがあったものと考えられます。 今川氏が此れも蒲冠者源範頼の血統とされる名家 中村 家に庄内と入野の水運の中継地足る宇布見郷に代官として据えてからは中村氏との交流もあったでしょう、 中安兵部が弘治年間に知行増分を不申告裏に処理した咎を 永禄年間今川氏が処分した朱印状は中村源左衛門が受け取ったと庄内史の217頁には記されており、 浜名湖東岸の歴史を考えた際には考慮すべき戦国末期の状況が浮かび上がって来るようです。
さて三家にも此処に
高家旗本として庄内に然るべき地位を築いていた大澤家も幕末を迎え 明治元(1868)年には時の政府に領地実石高を一万石と申告したものの其れは今後の開墾見込みも併せての数字にて 明治4(1871)年の廃藩置県時には虚偽申告とされ短命の堀江県と共に堀江家も没落の憂き目を見たものです。 堀江城物語の157、158頁には万石事件以降の大澤家後裔について些少ながらも記述のあり、 堀江県知事であった大澤基寿は明治44年11月に波乱多き生涯を閉じ江戸小石川の吉祥寺に葬られ 孫に当たる方は川崎市に住んでいると聞くが其の状況は殆ど知られていないと書かれます。
以上庄内半島の中近世の歴史を三家を中心に見てきましたが 関連する内容からも分かるように家領石高には表高あり実石高あり、 加封もあれば減封もあり、時代の変遷に依って開墾地もあり自然災害もあり 増減は避け得ぬ処なれば正確な知行石高を知るのは困難を極めるのですが 上の郷帳其の他の資料を元に大澤氏所領の変遷を郷帳抽出データの一事例として追ってみたく思います。
大澤家所領変遷
先ずは浜松市史に載せられるデータを以下に見てみます。 参照データは 浜松市立中央図書館浜松市文化遺産デジタルアーカイブ で刊本閲覧できるもので 浜松市史ニ の第四章、 浜松藩の確立 第三節 浜松藩領の成立と他領 浜松地方の天領・旗本領・寺社領 に於ける 堀江の大沢氏 の項目の 大澤氏所領変遷表 です。
年代 | 永禄12 | 慶長5 | 寛永2 | 寛永17 | 寛文5 | 元禄13 | 宝永2 | ||||
1569 | 1600 | 1625 | 1640 | 1665 | 1700 | 1705 | |||||
領主 | 基胤 | 基宿 | 基宿 | 基重 | 基重 | 基将 | 基隆 | 基隆 | |||
領地 名・ 石高 | 崎村櫛 | 敷智郡 六か村 上田 合計 1550 石余 | 村櫛村 | 35 | 村櫛村 | 526 | 父基 宿の 遺領 つぐ | 村櫛 | 村櫛村 | 571 | 豊田 山名 敷智 三郡の 内で 計 1000 石加増 |
和田 | 和田村 | 325 | 白須村 | 344 | 和田 | 和田村 | 325 | ||||
無木 | 堀江村 | 671 | 平松村 | 80 | 堀江 | 堀江村 | 671 | ||||
石丸 | 西村 | 29 | 蔵松村 | 49 | 西 | 西村 | 29 | ||||
呉松 の内 | 呉松村 | 451 | 乙君 | (神田村?) | |||||||
和地 の内 | 細田村 | 42 | 呉松 | 呉松村 | 461 | ||||||
伊左地 | 細田 | 細田村 | 42 | ||||||||
佐浜 | 白須 | (白須村?) | |||||||||
内山 | 平松 | 平松村 | 80 | ||||||||
尾奈郷 | 内山 | 蔵松村 | 49 | ||||||||
合計 | 6村 | 4村 | 9村 | 10村 | |||||||
1556 | 1000 | 2556 | 大沢領 | 2556 | 3556 | ||||||
備考 | 石未満切捨 | 庄内 地区 | 石未満切捨 | ||||||||
典拠 | 家康 判物 | 寛修 家譜 | 台徳院殿朱印状 | 寛修 家譜 | 幕府裁 許絵図 | 元禄高帳 | 寛修 家譜 |
浜松市史のデータは堀江城物語の137頁、堀江藩支配地の総石高と財政規模の章に記される内容と合致しますから
内容に間違いはないでしょう。
元禄の2556石は寛政重修諸家譜基隆の項の記述に従い
宝永年間の石高から千石を減じ逆算したもののように思われます。
堀江城物語では137頁に
宝永2(1705)年に堀江藩支配地は千石加増あって3,556石となったがその後の増減はないが
幕末から明治初期の記録には殆ど5千石或いは5千5百石とあるのは
いつの間にか実収高が一般に認められ公的にも使用されたものとしています。
従って宝永2年の数字は大澤藩領実石高ともなるのでしょう。
因みに寛政重修諸家譜には
では元禄、天保各郷帳の数字を各時代の大沢氏所領とされる村々に嵌め込んで見ます。 元禄では些か頼りないですが寛文年間以来と思われる浜松市史の10箇村に表される村名を使用します。 堀江城物語の138頁には明治初期に財政規模から歳入石高だけ抜き出せば遠江国18ヶ村で5,562石7斗9升6合7才即ち 5,562.79607石 と記されているので合計石高は其れを利用しますが 敷智郡16箇村の各村名は見られませんので敷智郡16箇村の村数を同じくする Wikipedia(敷知郡) に記される村名を使用します。
大沢氏所領変遷表の郷帳に基づいた集計元禄郷帳 | 天保郷帳 | 堀江城物語 | ||||||
元禄13〜元禄15 | 天保5 | 明治初期 | ||||||
1700〜1702 | 1834 | 1868頃 | ||||||
村名 | 石高 | Wiki 村名 | 郷長村名 (便宜的分割) | 石高 | 村名 | 石高 | ||
10 | 蔵末村 | 49.215 | 10 | 倉松村 | 蔵末村 | 186.2462 | 敷智郡 16ヶ村 | 5229.03757 |
78 | 平松村 | 80.7 | 71 | 平松村 | 238.2648 | |||
79 | 呉松村 | 461.35738 | 72 | 呉松村 | 637.66437 | |||
80 | 堀江村 | 671.85851 | 73 | 堀江村 | 929.14327 | |||
81 | 白須村 | 344 | 74 | 白州村 | 白須村 | 550.04561 | ||
82 | 神田村 | 128.453 | 75 | 上田村 | 神田村 | 128.453 | ||
83 | 細田村 | 42.489 | 76 | 細田村 | 104.31477 | |||
84 | 西村 | 29.92135 | 77 | 西村 | 65.33042 | |||
85 | 和田村 | 325.192 | 78 | 和田村 | 421.44377 | |||
86 | 村櫛村 | 571.898 | 79 | 村櫛村 | 701.8925 | |||
5 | 高塚村 | 326.39650 | ||||||
57 | 片草村 | 66.144 | 33.072 | |||||
82 | 都築村 | 652.781 | 326.3905 | |||||
- | 深萩村 | 不明 | - | |||||
- | 乙君村 | 不明 | - | |||||
- | 内山村 | 不明 | - | |||||
合計 | 4648.65771 | 合計 | 5229.03757 | |||||
山名郡 東貝塚村 | 334.333 | 167.1665 | 山名郡 東貝塚村 | 289.5635 | ||||
豊田郡 常光村 | 101.712 | 50.856 | 豊田郡 常光村 | 44.195 | ||||
合計 | 3031.54324 | 合計 | 4866.68021 | 合計 | 5562.79607 |
上記表の不整合を少しく補足すれば 上田村の村名はWikipedia(敷知郡)に依りますが かみだ と発音し神田村であろうと思われます。 庄内郷土史研究会の編纂した庄内史一・二には156頁から157頁に掛けて大澤氏が天文13(1544)年、上田村を今川氏から与えられたとの記録もあります。 乙君村は下の庄内の沿革表より明治8(1875)年協和村に新設合併されていますが郷帳には慶長にも天保にもそれらしき村名が見付かりませんでした。 同じく深萩村は下の庄内の沿革表より明治22(1889)年北庄内村に新設合併されていますが郷帳には慶長にも天保にもそれらしき村名が見付かりません。 現在の浜松市西区深萩町だと思われます。 内山村は下の庄内の沿革表より明治22(1889)年南庄内村に新設合併されています。 天保郷帳に内山村の名はありますが位置順番から見て現湖西市新居町内山に相当すると思われますのでそれらしき村名が見付からないことになります。 中安氏建立の竜泉寺が内山村に移されたとありますから現在の浜松市西区庄内町だと思われます。 天保の山名郡東貝塚村及び豊田郡常光村の大澤家領は一部とされますが割合が判然しませんので便宜的に天保郷帳から採った石高を折半としました。
庄内の沿革(庄内史談P17表より)明治維新 | 明治8 | 明治22 | 昭和30 | 昭和40 |
1868 | 1875 | 1889 | 1855 | 1965 |
村櫛村 | 村櫛村 | 村櫛村 | 庄内村 | 浜松市合併 |
和田村 | 和田村 | 南庄内村 | ||
内山村 | 内山村 | |||
神田村 | 協和村 | |||
細田村 | ||||
乙君村 | ||||
西村 | ||||
堀江村 | 堀江村 | 北庄内村 | ||
白州村 | 白州村 | |||
呉松村 | 呉松村 | |||
平松村 | 平松村 | |||
深萩 | 深萩村 |
元禄では表高であろう郷帳の集計が寛政重修諸家譜などを元にしたであろうデータより450石程上回っています。 表高より実高が低いのは考え難いものから若しかしたら大澤家領が一部であった村もあったのかも知れません。 天保では乙君村、深萩村、内山村が見付からず30年後の堀江城物語の宝永2年の石高との差異に繋がっているのかも知れません。 何故天保郷帳に此れ等三箇村が見えないかは判然しません。 各村の生産高が敷智郡全体が元禄から天保へと大きな伸びを示す延長線上に合わせて順調に伸びていれば、 また実際大澤氏は自領の生産高向上に腐心したでしょうし敷智郡以外の便宜的な数値である100石以上の誤差と合わせて 堀江藩の実質石高は5500石を悠に超えていてもおかしくないものかも知れないと考えることは出来るかも知れませんが 万石事件を招いた自己申告に比しても決して大きな石高を有していたとは言えないでしょう。 孰れにせよ元禄、天保郷帳の集計では10万分の1の誤りもないにも関わらず 時代がそれぞれ異なり表高、実高の入り組む石高にせよ数千石のボリュームで百石オーダー、一割にも及ぶ誤差は小さいものではないように思えます。 此のような石高の状況が公然と認められるような様相を呈していたとすれば 若しかしたら其のような環境が万石事件の誘惑へと大澤家を導いたのかも知れず、とも考えたりするものです。
加えて郷帳に基づいた集計表からも分かるように大澤家領には庄内半島から離れた都築村、片草村も与えられており 都築村は今の三ヶ日町都筑でしょうから浜名湖北岸を領していたことになり また片草は中安氏の段でも述べた浜松市入野町と西鴨江の中程に位置していた村で、 此の飛び地と合わせ万石事件の際、御陣山の堀江藩邸が解体競売され、 藩邸自体は湖を挟んだ湖西市新所新所小学校に、藩邸長屋門は同じく新所の 法泉寺 山門として払い下げ移築された関係を鑑みれば江戸期の浜名湖の水運を伺わせ実に興味深くあるようで 今後の研究に寄与させたく考えています。 大澤基宿の母は上記の木寺宮家に出自を持つとされるのも入野との関係を物語るものであるでしょう。
浜名湖東岸の石高伸び率
大澤氏所領で見たように石高は時代の変遷に依っても変化します。 其処で浜名湖東岸の石高の元禄、天保の変化を取って増加率を取ってみます。 サンプルとしてはWikipedia(敷知郡)の明治初期の村を取り上げます。 右の表が当該頁の分割地図にサンプルとして取り上げた村々に郷帳の村々の名前を付した図です。 此の図は上の大澤氏所領の把握にも用立つかも知れません。 此れ等村々の郷帳の石高を抜き出して明治初期の村名に従いまとめ表にまとめたのが下の浜名湖東岸元禄天保郷帳に依る石高推移表になります。 其の下の図は此の表を可視化する為にグラフにしてみたものです。
浜名湖東岸元禄天保郷帳に依る石高推移表明治村名 | 元禄郷帳 | 天保郷帳 | 増加率 | |
18 | 舞阪村 | 225.092 | 288.0798 | 128.0% |
19 | 篠原村 | 1810.68 | 1932.4952 | 106.7% |
27 | 村櫛村 | 571.898 | 701.8925 | 122.7% |
28 | 南庄内村 | 526.05535 | 719.54196 | 136.8% |
29 | 北庄内村 | 1557.91589 | 2355.11805 | 151.2% |
30 | 和地村 | 783.3 | 1279.324 | 163.3% |
32 | 伊佐見村 | 1189.269 | 1552.70185 | 130.6% |
33 | 神久呂村 | 2679.666 | 2983.8106 | 111.4% |
34 | 雄踏村 | 2734.407 | 2859.7207 | 104.6% |
合計 | 12078.28324 | 14672.68466 | 121.5% | |
堀江藩領 | 3031.54324 | 4866.68021 | 160.5% |
推移表作成にあたり項目の一つを増減率とはせず伸び率、増加率としたのはデータが軒並み増加しているからであり 時代を経るに連れ一様に増える傾向にあるのが分かります。 村々によって差異はありますがサンプル全体の平均を取ると大凡2割り増しとなります。 大澤氏所領が6割り増しとなっているのは新知行値を得ている影響が大きいのですが 誤差補正にはサンプル全体の平均値が役立つでしょう。 130年で2割り増しですから30年では4.6%、即ち浜名湖東岸の傾向として210石余り増える勘定です。 此の数値を以て大沢氏所領変遷表の郷帳に基づいた集計を見直せば更に精度は高まるものと考えます。 グラフを見れば元禄期の加増以前の大澤氏所領が明治期に配された神久呂村や雄踏村各一村程度に過ぎないのも一目瞭然でしょう。 新恩を幕府から賜った大澤家の念いは如何許りであったでしょうか。
なお本記事中に大澤は大沢、敷智は敷知と異同のあるのは基本的には史料に沿い時には文脈に沿ったもので同じ儀です。 村名が安定しないのは歴史研究につきもので今回も振り回されるのは致し方ありませんが 此のインターネットが重きをなす情報化時代、例えば過去の地名、村名が時代とともにデータベースに記録され各自の研究に活かされるように切に願うものです。 地方自治体などに何某かふるさと創生のような予算が下りた際には使途として地名保存を是非検討して欲しく思います。 今回利用した遠江郷帳には敷智郡ばかりではありませんので 他の郡も孰れ機会があれば集計してデータを公開しようと思っています。