浜松市博物館の特別展として企画され
2016年10月29日から12月4日まで実施されたのが
遠江の
展示期間中折良く観覧の機会も得られましたが
其処にての自身の発想が博物館の学芸員に尋ねても要領を得ず、
身近な先学、有識者と話しても聞かれず、
展示及び購入した図録などにも見られないものでしたので
木喰に関する基本書とも言える
柳宗悦
氏や
中村精
氏の著作に併せ現時点で購入し手元に有す1997年に淡交社から刊行されたものを今年2016年に角川ソフィア文庫化した
五来氏の著作名にもある如く木喰仏の円空仏の影響下にもあると言われるのは成る程と首肯させられる部分がありますが 作を重ねるに連れ独自の作風に達するのは飄々たる宗教人と言え例外ではありません。 今回の特別展で陳列されたのは主に遠州に現存せるもので さて木喰が遠州に滞留し鑿を揮ったのは寛政11年(1799)11月19日から翌寛政12年(1800)6月12日の潤4月を含む約8箇月間でした。 木喰は寛政7年(1754)突然年齢を十加算していますが此れを考慮せず少ない方で見積もっても此の時七十二歳、 当時としては八十三歳という長命を得た木喰にしても 従って晩年、老熟した時期に当たり独自の作風が強く表れているとして宜しいものと考えます。 此処に一般に独自と目される宗教的なものにも、微笑みなどの形態的表現にもなく 今回は木喰円熟期に特徴的な 丸 について考察するものです。
丸とは特別展展示にも図録にも指摘されていた木喰の特徴を表す一字で 唯に造形から看取される感覚的なものに留まらずもっと直截に軸にも句にも表現されている事例が紹介されていました。 例えば軸に於いては図録の12番の墨跡 南無阿弥陀仏 は丸みを帯び更に14番の墨跡 心 では心の一字を大きな太い淋漓たる筆致の丸で囲っています。 此の14番などは木喰丸を語るに特徴的なもので添え句には 人は唯 内外ともに まん丸に にうはにんにく 諸人あいきょう とあり、日付は見られないものの浜松市の旧家に伝えられもし其の内容からも木喰円熟期の姿勢が表現されているものと考えて宜しいものでしょう。 他にも奥付に寛政8年(1796)とある表紙の色から便宜的に 青表紙歌集 と呼ばれる歌集に記載される315首中には まるまると まるめまるめよ 我が心 まん丸まるく まるくまん丸 があり木喰の文学表現に丸が特徴的なものとして現れます。
さて此処に一歩踏み込む主張が本記事の趣意にて其の丸が
木目
に表れていると考えるものです。
図録には此の言及が見られず特別展にて博物館関係者に尋ねるも分明ならずとの返答を得られるのみにて
師事する考古学、古文書の先学
如何なる要件を以て此の着想を得たかと自問すれば
ギター製作
の経験を挙げたく思います。
経験上エレキギターの
木目は斯くも厄介者であるのは翻って木工者の楽しみにも通じます。
なればこそ柾目を美しいと尊重する文化もあれば米国発祥のエレキギターの如く板目を美しく尊ぶ文化も見られるのでしょう。
節だらけの木地を成長が包み込んだ木目の複雑に入り組んだ材は
虎目
や
木目が同心円的に丸状を呈するのは造像された表情の鼻と頰に顕著です。 特に此の特徴の今回の展示物中に著しく見られるのは兵庫猪名川町天乳寺の木喰の少なく見積もった方で言えば八十歳の自刻像と言われる、図録中作品10番 明満仙人椅像 です。 鼻にも両頬にも寺で字を習う子供の悪戯書きと言われる墨が黒々と残っていますが 射的の的の様な木目が表出していては其処に何某か打ち込みたくなるのは無理からぬ処で 子供ともなれば此の衝動に抗い得なかったのでしょう。 斯くも見事な同心円状に浮き出る木目を果たして木喰は意図せず削り出したのでしょうか。 削るに連れ浮き出る同心円を更に際立たせたく思う欲求に彫る者は丸で童の如く抗い得ないものと容易に想像されます。
図録の遠目の写真からでも其れと判ぜられる展示に於ける具体的作品を挙げれば作品49番 子安地蔵菩薩坐像 があります。 更に此の木目について思いを致させる像は共に浜松市方広寺に所蔵せらる図録中の作品35番 子安地蔵菩薩立像 (図録表紙及びチラシ表の像)及び作品36番 吉祥天立像 です。 此の両像は鼻と頬の先が綺麗に削ぎ落とされています。 見れば明らかに同心円に削り出された内の或る木目から剥がれ落ちています。 千体もの造像を祈願し達成した彫刻者が其の晩年に木の性質を知らぬ筈がありません。 細かい細工に木目が直行していれば其処から折れない筈がないのです。 即ち木喰は然う願わずにいたにしろ其の恐れを構わず顔面の中心と言う細かい細工に直行する木目を削り出しているのです。 柾目に削り出せば落ちる心配の無い鼻を板目に削り出しているのは意図的と言わざるを得ません。 此れこそ本記事に於ける趣意となる主張です。 木喰は造像にあたり自身の楽しみに表情に丸の浮き出る様意図的に木取りしていたものと考えます。
例えば柳宗悦絶賛の藤枝市光泰寺に所蔵さる図録作品51番の
聖徳太子立像
が畝る如き法隆寺の
百済観音像
を彷彿させる見事な其の構成は一木生成りに基づいているとされ
確かに此の造像が木其のものの成り立ちを活かしていると目されるのに代表される様に
木喰仏の特徴として
兵庫県猪名川町天乳寺に残される作品8番 得大勢至大菩薩立像 及び作品9番 聖観世音大菩薩立像 は図録に依れば調査で二菩薩の像底の年輪の一致が判明しており阿弥陀如来像の一対の脇侍を意識したものであり また展示に於いては材の節約を意識した結果でもあると説明されていました。 確かに丸太を半分に割って二体の像を削り出せば材は節約されます。 但し木喰の足跡を追うに材の豊富な内陸の村を移動したとされ 時には生の立木にさえ像を削り出すくらいの木喰であれば 一対の脇侍としての機能は幾分説得力があるものの節約のみが理由とは考え難いものです。 此れ等の理由に併せ此の木取りが削り出した像の表情に板目が現れ得る積極的な理由があったと考えます。 同時に此の木取りでは光背が柾目に現れ若しや其れも木喰の意図が強く働いていたように思えます。 更には清貧を語るに傾く余り見逃し勝ち、若しくは高潔を持ち上げたい向きには好ましくない傾向とも取れる 時間の節約も前二者の理由に併せ強く意識していたのであろうとはしかし遊行僧たる木喰の身を鑑みれば容易に推測される処です。 此の様に見れば上の明満仙人椅像には正しく光背に強く柾目が浮き上がっているのでした。
得大勢至大菩薩立像と聖観世音大菩薩立像にはしかし鼻と頰に丸を見ることは出来ません。 像が梵字の書き込まれた頭光の同心円の中間の円部分以外は墨で黒く塗られているからです。 しかし確かに梵字の背景には当然の如く柾目が通っており 顔の墨を洗い落とせば其処に木喰の丸が顕現するのは明らかでしょう。 木喰仏は多くが全体に木目が見えぬくらい黒ずんでおり従来囲炉裏の煙に燻されて色着いたものだとされましたが 最近では墨で塗られたのが明らかになっているとされます。 今回の特別展でも特に個人宅などに所蔵せらる小振りな像は黒々としています。 墨を多く必要としない小像では墨の塗り込みも用意及び時間的に遣り易かったのかも知れず、 其れは必然的に個人宅所蔵のものと重なり燻される環境下にあり易くもして上の見解が出たものでしょう。 此の様な見解が出るくらいですから造像を黒く塗り込む積極的な理由はありません。 では何の意図もなく木喰は形の成った像を黒々と染め上げだのでしょうか。 否、黒く塗ったのは木目に現れる己の拘りの見える気恥ずかしさを隠す意図があったと想像を逞しゅうします。 若し意図的に黒く塗られたとしたら其の意図として己れの快楽を知られる気恥ずかしさから隠したのかも知れずとも考えるのです。 さても墨や囲炉裏の燻を洗い落とせば表情には木喰の丸が現れる様な気がしてなりません。