今は袋井市に編入されている遠州
元亀3年(1572)遠州侵攻に当たり信玄を大将とする武田軍本隊は遠州三倉から南下、 中遠の徳川方城塞群を威圧して進軍しました。 武田、徳川の両雄に挟まれた中小勢力は生き残りを図るべく其々に模索した道を実践し 或る者は大将のみ遁走せしめ降り、或る者は戦い落とされ、或る者は敵勢が行き過ぎる迄屈強に抵抗しました。 信玄としては威武を示せば次の機会には皆此方に靡くであろうという勘定もあったかも知れません、 無理強いして城を落とす必要もなく緩々と遠州のど真ん中を行軍したのでした。 勿論其の報は徳川方にも届いています。 家康は我が領土を好き勝ってに往来されてはならじと自らも軍を率いて出陣するも武田の雲霞の如き大軍に時を得ずと様子見に徹しますが 久能城 を通過してのち方向を西に転じた武田軍と此処木原畷で小競り合いが勃発したのでした。 徳川方内藤隊が仕掛けた小規模な戦いではありましたが衆寡敵せず武田軍に一蹴されて撤退した徳川方には苦々しい地ともなったでしょう。 数ヶ月後の三方ヶ原の合戦に突撃を決行した家康には此の時の無念が心底に残っていたのかも知れません。
従って歴史勉強会の一行は三方ヶ原合戦に於ける武田軍の遠江侵攻路を辿るべく企図して 2016年10月15日に此の木原畷に到来したのでした。 古戦場の碑も備えられた此処許禰神社を拝観するにたまたま翌々週に 袋井宿開設四百年祭準備で参詣された当地自治会長さんに短い間でしたが話を伺う機会を得たのです。
許禰神社も様々な歴史を乗り越えて来ており参道の上にて鳥居下のヒビを指差して 自治会長さんの話されるには昭和19年(1944)12月7日の 東南海地震 で上の鳥居の笠木[追2] が落ちたに因って入ったものだそうで今も昭和の大地震の証言者となっています。 また地震については後日氏子の方のお話しを聞けた処では 安政大地震 でも大きな被害を受けたそうで当時神社には立派な楼門と其れに連なる館が建っていたものが全て倒壊してしまい 今は直前に偶々描かれたスケッチが往時の姿を伝え、また其の楼門の礎石が参道拝殿に向かい右側に残されて 立っているものはないと言われた程の大地震を今に伝えています。
武田の進軍路を追い掛けて来た当方の興味に従い話柄が其方へ流れれば 自治会長さんの口から漏れ出たのが 笹田源吾 なる武田方兵士の名でした。 なんでも許禰神社に隣合わす 長命寺 に件の人物の供養塔が有ると言うのです。 どうやら武田方の 高天神城 から当地へ斥候として遣わされ現地の人々に然うと見破られ争いの犠牲になったのを弔うためとのお話で 犠牲者のためには遠州念仏も催され今に伝わるとのことでした。 処が此方、歴史勉強会は三方ヶ原合戦の頭がありますので当時高天神城は徳川方の城にて 其処から武田の斥候が来るのは妙な話だとなったのです。
高天神城は城址が今も掛川市上土方嶺向に残る戦国時代東遠の要ともなる堅固な山城で 今川、武田、徳川の奪い合うところとなりました。 掛川宿 は江戸から26番目の宿場町ですから木原からは27番目の宿場町の 袋井宿 の更にその東に当たります。 因みに西に向かい28番目が現磐田市の 見附宿 、29番目が当時家康が本拠とした 浜松宿 となります。
遠州念仏とは一遍上人に依り広められた念仏踊りの一つで遠州地方の郷土芸能にて浜松は
自治会長さんもお忙しい中に時間を取ってお話いただきましたし此方も日の落ちる前に各地を巡りたい思惑があって 話半ばにして許禰神社を後にした歴史勉強会一行でしたが 乗り合わせた自動車の中では此の話で持ち切りです。 唯帰って調べてみれば話は簡単でした。 当時は中遠の勢力分布が目まぐるしく入れ替わっており其れが行き違いを生んだのでした。 以下に永禄、元亀、天正年間に於ける関連する主要な出来事の年表を記し置きましょう。
年号 | 西暦 | 出来事 |
---|---|---|
天文5年 | 1536 | この頃今川氏の被官小笠原氏が入城 |
永禄3年 | 1560 | 桶狭間の戦い |
永禄11年 | 1568 | 高天神城徳川氏に従属 |
元亀3年 | 1572 | 木原畷に於ける三方ヶ原合戦の前哨戦 |
天正2年 | 1574 | 高天神城武田氏に従属 |
天正3年 | 1575 | 長篠の合戦 |
天正6年 | 1578 | 斥候笹田源吾囚われる |
天正9年 | 1581 | 高天神城徳川氏に従属 |
天正10年 | 1582 | 天目山に武田氏滅亡 |
年表を見れば目まぐるしく勢力が入れ替わるも一目瞭然、 斥候笹田源吾が木原に囚われたのは勝つより他になかりけりと謳われた如く武田勝頼が父信玄も落とせなかったとされた 高天神城を落として僅か4年後のことでした。 其の3年後には高天神城は再び徳川の手中に帰します。 武田の崩壊は高天神城を落とした翌年の長篠の合戦に始まりますが 其の波紋は此の時既に中遠にも及び遠方から甲州武田の土台を揺るがしていたのが分かるでしょう。
ことの経緯ですが大まかな処が 長命寺の笹田源吾供養塔の傍に説明書きとして板書されていますので以下引用します。
天正六(一五七八)年夏、遠江のほとんどの城が徳川家康の味方となってしまい、武田勝頼の城は高天神城だけとなってしまいました。
勝頼は家康の情勢をうかがうため、八月一〇日に笹田源吾(篠田源五)を偵察に出しました。ところが夜の闇に紛れて木原村まで来たところ、徳川方に味方する木原村の熊野権現社(許禰神社)神主親子に討ち取られてしまいました。
この手柄を家康は喜び、彼らに褒美を与えました。しかし、戦乱の時代が終わり平和な時代が訪れても、村は疫病や災害などの悪いことが続いていました。誰が言うともなく、源吾の霊が祟っているのではないかと言い出し、彼の霊を鎮めるために長命寺の境内に供養塔を立てて、その前で念仏供養(袋井市指定文化財 木原大念仏)を始めたと伝えられています。平成一〇年三月二五日 袋井市教育委員会
東海展望1972年9月号に44頁、45頁に見開きで 風化した姿も哀れ『源吾地蔵』 なる題目で笹田源吾に言及した記事があり 武徳編年集成 及び 木原村古記録 が引用されていますので先ず以下に前者を孫引きします。
天正六年八月十日、深更、高天神より笹田源吾山名郡木原村へ落来由、郷民太郎兵衛是を地頭木原七郎兵衛吉次に告る。 吉次怱木原権現鈴木織部久秀とともに馳至り、吉次は源吾を討取り久秀は両刀を分捕にす。 神君より両刀を吉次に賜り、祠官に金拾両授らる
次に後者の木原村古記録を以下に孫引きします。
天正六年八月十日、高天神方の斥候笹田源吾と云落武者浜松方を物見せん為、木原郷へ窺い来るを、神主木原七郎兵衛吉次、忰織部久秀も出向う。 源吾もよるかたなくして進みかかるを、吉次、久秀をりあいうちとむる。 庄屋太郎兵衛も続いてよく働き庇を蒙る。
件の源吾は高天神方にて剛勢の勇士なり。
(略)
而して刀と脇差とは旗本の士木原某の家に伝へ、槍は祠官木原の家に今なおこれを蔵せり。
此れを見れば前者の 怱 は 悴[追1] かも知れません。 庇 は 疵 でしょう。
記事は併せて笹田源吾を 天正六年七月に徳川が攻撃を仕掛けた際の相当の大きな被害を被った高天神城からの落武者の可能性と 劣勢の高天神城から遣わされた勇者としての物見の可能性を伝えますが、 木原が当時徳川方に与するものと考えられれば後者を優勢と見ており、 矢張り高天神城から浜松方面に敢えて進路を取ったとなれば肯ぜられる見解です。 木原方としても当時情勢が徳川に優勢に傾くのが判明し 味方する姿勢を明確にし生き残るためにも渡りに船と言う事態にて 如何なる勇者と雖も必死の郷民複数の前には為す術なかったものでしょう。 記事には終始木原の名で登場する木原方ですが 土地の人の話では許禰神社の宮司さんの家系は元は鈴木と称した苗字から家康から賜った木原に変え今もお暮らしとの話で 関連資料も多く保有せられるとのことで折あらば拝見したいものです。
笹田源吾の供養塔こそ長命寺に祀られますが笹田源吾の墓も残され今も丸野家の方々に大切に祀られています。 其の位置は許禰神社の北方数百メートルにて 木原畷古戦場に当たり、ほんの数年前歴史勉強会が辿った如き道を彼は一蹴する側の者として往来した時は 其の同じ畷に数年後落命することになるとは考えもしなかったかも知れません。 高天神城は江戸時代で木原から宿場を二つしか跨がず 笹田の家系は東遠州土着の者なれば木原に縁者知り合いもよもやあるやも知れずとも思えども 否返って剛の者となれば其の武田への忠義は抜きん出るに依って 武田が攻略して間も無い掛川に土着の者とも考えられず然れば 甲州に今も子孫末裔の方がお暮らしやも知れずとも考えます。 若しかしたら山梨方面に笹田、若しくは篠田の家を捜して其の系図を辿れば 関連資料が残されているかも知れず、とも思う処です。
さて笹田源吾を弔うために発祥したと言う木原大念仏について遠州大念仏との関係が ひくま郷土の会、 平井行男 氏の著作書である平成元年に刊行された 天龍川河畔ものがたり には詳細が記されています。 先ず遠州大念仏については以下引用の様に93頁に言及されます。
武田軍の「犀が崖」で戦死した霊を慰める供養に始まった遠州大念佛の形式はどのようにして成りたったのか、行彦に言わせるとそれは、 多分田楽能の「ひよんどり」から滝沢地区の「放歌踊り」が元になって、その上に遠州地方に伝承された「田遊 ( 」などが混合して、遠州大念佛の太鼓切り、笛・太鼓・掛声の形式が生れ、 それに佛教の浄土宗の称える「阿彌陀如来」様の「ナムアミダブツ」から遠州大念佛の形が生れたと考えるのである。)
前後して88頁には木原大念仏と浜松の大念仏の関係性について以下の如く言及されます。
長命寺の裏に笹田源吾の粗末な碑(墓)がある。 木原の人々の心には、往時の木原畷の愢いがあって、戦後の昭和五十年頃から、 笹田源吾を供養するため遠州大念佛を始めようと心ある有志により申し合わされ、 それから大念佛を習うため、大念佛の時期に木原地区から四〜五名宛交代で遠州大念佛の保存会、 浜松市葵町に派遣し、昭和五十二年に笹田源吾の墓がある長命寺で大念佛を開いた。 従って木原地区の遠州大念佛は、最近の十年前に始まったものであって、 浜松の葵町有志の大念仏の指導によって始められたものである。 戦前の木原地区には、トビ念佛(双盤のない念佛)が行われていて、戦後はしばらくとだえていたのである。 木原畷と木原大念佛にはこうしたかかわりのあることをうかがうことができた。 木原大念佛は遠州大念佛には登録はしていない。
歴史勉強会が自治会長さんに伺えた話の中には 遠州念仏は浜松では三方ヶ原合戦の武田の犠牲者を弔ったものとされるが当地では笹田源吾を弔ったものであると共に 犀ヶ崖の展示の最も古い遠州念仏写真は実は木原のものともありました。 そこで其の写真を確認すべく犀ヶ崖の資料が展示されている宗円堂から去年(平成27年、2015年)4月に衣替えした犀ヶ崖資料館へ出向きましたが、 居合わせたられたボランティアのお二方のご協力も得て陳列棚の下を覗いてみたりしたところ残念ながら該当するようなパネルは見つかりませんでした。 衣替えの折には嘗て宗円堂の鴨居に架けられていたパネル群も今は棚の奥に積みかさなり整理もままならず 中には失われたものもあるとやらで其れ以上の迷惑も掛けられず捜索は辞退申し上げた次第です。
当初の目的の最古の写真こそ未確認ながらお二方からは様々な情報が得られました。 お一方は浜松上島組の属された方のお孫さんで受け継いだ貴重な写真を資料館に提供されておられ 其の撮影とネットへの掲載を快く許可して下さいました。
其の写真が右の2008年1月6日に複製されたことを示す日付の写り込んだもので 浴衣の一行は恐らくは浜松にNHK支局が出来たばかりの頃に出向き撮影されたものではないか、とのお話です。 浜松支局は昭和8年(1933)にはスタジオを含む放送機能を有して開局されたようですので その頃の撮影だとは思われますが戦前か戦後かははっきりしないそうです。
もうお一方は保存会会長のご紹介の労を取って下さいました。
電話番号を受け取り犀ヶ崖資料館で即席電話インタビューです。
遠州大念仏保存会会長さんは滝沢組に属され葵組と木原組との関係性を主にお尋ねすると
葵組は実は昭和40年代滝沢組の衆が創始したとのことで葵組の創設メンバーをよくご存知だとのお話でした。
お話を聞けば大念仏の後に演じられる
葵組組頭には日を改めて翌日電話インタビューを敢行しました。 先ず葵組の創設時期を尋ねれば突然の電話にて文書が手元にないので正確な処は分からないとされたものの 組頭さんが葵町に住居を構えたのが昭和39年にて数年を経ずして創設とのご記憶でしたので会長さんの仰った昭和40年代と符合します。 ご出身は久留米木にて滝沢から都田川を上流に上った地域にて現在東久留米木新田組はあるものの 近辺に他に幾つかの大念仏が戦前にはあったが今は絶えているものも多いとのことです。 葵組開設は従って昭和40年過ぎ42、43年頃だったろうと思われます。 其の創設の経緯としては本来大念仏は仏様の供養であるのが大前提にあるのは措くとして 設立の中心となったのは葵町の自営業の集まりである 発展会 だそうで犀ヶ崖から遠い地域に大念仏保存会の組織されているのに地元に近い地区にないのは如何なものであろうかと 地域興しと親睦を兼ねて立ち上げられたそうです。 会長さんから聞いたのと些か異なるのは発足当初は数十人を擁した随分賑わった会だったそうで 大念仏と言うは30人はいないと形にならないので時代の推移に因る少子化や趣味の多様化で返って今の方が会員が少ない状況を憂いておられました。
さて本題の木原組との馴れ初めに話柄を振れば意外なことに其れは何某かが何某かの目的を以て作為を講じたものではなく全くの偶然でした。 木原組から最初に葵組に参加したのは実はホンダへ勤めていた従業員さんでした。 浜松は 本田技研工業株式会社 の地元で今でこそ本社は東京へ移りましたが葵町も含む三方原台地の中ほどには大きな工場施設があり多くの従業員が勤めています。 当時木原から此処に通う従業員に大念仏の覚えのある幾人かが在って葵組の稽古場もほど近く音の漏れることもあるでしょう、 また互いに煙草も買えば飴も買うという感じで店の軒先などで言葉を交わし 然う斯うする内仲良くなる者同士も出て来て其の内稽古に参加するようになったそうなのです。 其の時期は組頭さんのご記憶では葵組設立から1年経つか経たないかほどらしく感覚的には直ぐとも言っていいような印象を語られます。 実に木原組と葵組の仲人はホンダが務めたのでありました。
遠州大念仏は各地に散らばり伝わり基本的には一緒ではあるものの各組毎に異なる芸能であるのは供養のために誠実に取り組まれているからです。
仏様の
但し仲良くなる仲で伝えられた踊りもありました。
会長さんも仰った処の放歌踊りです。
葵組創設当初は元滝沢組の会員も在籍したものの多くは葵町の方々で皆が皆遠州大念仏を心得ている訳ではありませんでした。
其れでこそ木原組の手伝いも与って力となったようです。
此の自然の流れで葵組は滝沢組の指導を受けました。
此の際にお礼念仏の放歌踊りも伝承されたとの葵組組頭さんのお話にて
従って葵組と共に木原組にも放歌踊りが伝わったものだと考えられます。
滝沢放歌踊は何某かの歓待や幾許かの報酬や観覧へのお礼としての
お礼念仏
で遠州大念仏とは素性の異なるのものです。
遠州大念仏は市指定無形民俗文化財であって保存会に登録されれば遠州大念仏の看板を掲げるのに問題はありません。
しかしながら滝沢放歌踊は確り演じなければならないのは勿論
静岡県無形文化財であることから看板の使用にも制限があるようで
葵組ではこれを直接習ったにしても独自のアレンジを加え
以上まとめると少しく上に引用した書籍天龍川河畔ものがたりに記述される情報とは齟齬があるように思います。 木原組は教えを請うて人伝に葵組に行き着いたのではなく 生活の自然な流れの関わりの中で偶然、自然発生的な繋がりで関係性を持ったのがはっきりしました。 稽古場では手伝いでもあったかも知れませんが仲良く稽古に興じた様子が伺われます。 大念仏を習う部分もあったのでしょうが大念仏とは截然と別れるお礼念仏の放歌踊りがあって 其の放歌踊りが手伝いのお礼なのか手伝いで自然に覚えたのかして伝わったものだと考えられます。 昭和40年過ぎ、発起の葵組の稽古場がホンダに近く木原在の従業員、 当時は遠州念仏保存会に登録はされていなかった幾人かが 稽古最中の葵組の面々と自然発生的に仲良くなり手伝う中で滝沢発祥の放歌踊が木原に伝えられたと言う関係であったのでしょう。 現会長が滝沢組であることから滝沢組はかなり中心的な役割を果たしているのかも知れません。 また葵組組頭は引佐出身であることもあり葵組は設立当初滝沢組に教えを請うていたのも事実です。 しかし会長さんも葵組組頭さんも様々お尋ねしている最中に何度か当方が思い込みから口にした おくない や ひょんどり との関係性は取り立てて意識されていないというより分かたれた別ものと認識されている感触を得たことも此処に記しておきましょう。
通常は盂蘭盆会でなければ見られない木原大念仏も数ヶ月遅れの2016年10月30日には 袋井宿開設四百年記念祭 のステージで特別に披露されました。 上の写真が其の様子を撮影したものです。
許禰神社には鳥居手前左側玉垣の脇に古戦場木原畷の石碑と並んで 腰掛石 があります。 関ヶ原の戦いに赴く徳川家康は東海道を上る途中此処で戦勝祈願をした際此の石に腰掛けたのだと伝わります。 天下分け目、徳川家の命運が決まる合戦を前にして嘗て苦々しい思いを余儀なくされた戦場にて戦勝祈願とは 縁起の良いも悪いもなくなかなか肝の座った話のように思えますが 其の如き細かいことに拘泥していては天下人などになれはしないのでしょう。 今川、徳川、武田間に紛争の境ともなり大きな出来事の頻発した上では時系列に錯綜し 当方歴史勉強会との行き違いの惹起も無理からぬ処と思し召しあれ。 斯くて片方の天下に傾き世の情勢も決まり幾度かの大きな地震にも見舞われつつ権力者がどう変わろうとも 様々な形で様々なものを大事に受け継ぐ遠州木原に逞しい庶民の生活だけは変わりなく 今も此の許禰神社は木原の方々に大切に祀られ 木原大念仏の一行は其の社務所に集い其の社務所から披露のステージへと向かったのです。
追記1(2016年12月23日)
本記事を先学に閲さるるを請うに 怱 は 急 の異体字で間違いではなかろうというご指摘を受けましたので此処に記しおきます。
追記2(2016年12月25日)
笠木は島木ではないかとのご指摘を受けましたが古式の神明形式では上部の横木は島木がなく笠木と称しているのを鑑み 形式は孰れにせよ此処では島木を含めた上部の横木一体を指し示すべく笠木と称しています。