歴史勉強会で連れ立って2017年6月10日に
桶狭間の戦い
の関連地を現地に訪れました。
会に於いては基本的に自動車での移動を余儀なくされる制限がありますので例えば
なかなか東の外れとは言え名古屋と言う大都市圏での10人ほどと比較的まとまった人数での自家用車複数台での移動は自由が効かず織田方の
丹下砦、善照寺砦、中島砦
迄には足が届かず個人的に事前に検討し会に提案していた
今川前軍の陣取ったと思われる中島砦の東の丘陵上先端の現名古屋市立平子小学校辺りから
中島砦を見下ろし、善照寺砦を対岸に遠望する実見は成し得ませんでしたが
其れはまた孰れの機会に訪れるとして桶狭間の戦いを再考するための
信長公記
底本には手元なる新人物往来社の史料叢書にて 桑田忠親 校注の 改訂 信長公記 を用います。 1964年4月30日発行、1991年12月5日10刷の一冊です。
此の一冊は 太田牛一[※2] の記した信長公記の諸種ある伝本の内 町田本 を基として前田元侯爵家本 元禄十一年記 と内閣文庫本 原本信長記 を参酌し校合を重ねたものと校注者が昭和50年(1975)に書かれた序文に述べています。 併せて町田本とは 町田久成 という人が秘蔵していた寛永頃の古写本であるとも述べられています。
長く、
信長公記の構成としては戦国軍事学に拠るに織田信長生涯四十九年の内先代織田信秀の晩期事績から書き起こし 永禄11年(1568)の信長上洛迄をまとめた通常 首巻 と呼ばれる前半部と上洛以降天正10年(1582)の本能寺の変迄の15年間を1年宛つ一巻にまとめられたものから便宜的に呼ぶ 十五帖 とに截然と分けられます。 本記事で扱う桶狭間は無論首巻に収められる事件にて此れには太田牛一自筆本は残念ながら伝わりません。 以上から首巻の事項について検討するには町田本を底本にするのが他に選択肢もない以上に 自筆本の内容に極めて近しく思われるものから現在では最も適当であるものと判断出来ます。
桶狭間の戦いの件 ()
桑田校注町田本信長公記から桶狭間の戦い該当部分を本記事に肝要なる箇所として下に引用します。
御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山⑨に、人馬の休息これあり。
天文廿一壬子五月十九日 午の剋 ( 、) 戌亥 ( に向って人数を備へ、鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯。今度家康は) 朱武者 ( にて) 先懸 ( をさせられて、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり。信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向って、足軽に罷り出で候へば、) 噇 ( とかゝり来て、) 鎗下 ( にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が) 戈先 ( には、天魔鬼神も) 忍 ( べからず。心地はよしと、悦んで、) 緩々 ( として) 謡 ( をうたはせ、陣を) 居 ( られ候。信長御覧じて、中島へ御移り候はんと候つるを、脇は) 深田 ( の足入り、一騎) 打 ( の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。勿体なきの由、家老の衆、御馬の) 轡 ( の) 引手 ( に取り付き候て声々に申され候へども、ふり切って中島へ御移り候。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し候。中島より又、御人数出だされ候。今度は無理にすがり付き、止め申され候へども、) 爰 ( にての) 御諚 ( には、各よく〳〵承り候へ。あの武者、) 宵 ( に) 兵粮 ( つかひて、夜もすがら来たり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは) 新手 ( なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。懸らばひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、) 稠 ( ひ倒し。追い崩すべき事、案の内なり。) 分捕 ( なすべからず⑩。打捨てになすべし。) 軍 ( に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面目、末代の高名たるべし。) 只励 ( むべしと、御諚のところに、)
前田又左衛門 毛利河内 毛利十郎 木下雅楽助 ( 中川金右衛門 佐久間弥太郎 森小介)
安食 ( 弥太郎 魚住隼人)
右の衆、手々に頸 ( を取り持ち参られ候。右の) 趣 ( 、一々仰せ聞かれ、) 山際 ( まで御人数寄せられ候ところ、) 俄 ( に) 急雨 ( ⑪、石氷を投げ打つ様に、敵の) 輔 ( に打ち付くる。) 身方 ( は後の方に降りかゝる。) 杳懸 ( の) 到 ( 下の松の本に、二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。) 余 ( の事に、熱田大明神の) 神軍 ( かと申し候なり。空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、) 大音声 ( を上げて、すは、かゝれ〳〵と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れたり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の) 塗輿 ( も捨て、くづれ逃れけり。)
天文廿一年壬子五月十九日
旗本は是れなり。是れへ懸かれと御下知あり、未 ( の) 刻 ( 、東へ向ってかゝり給ふ。初めは三百騎計り) 真丸 ( になって義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ〳〵、次第〳〵に) 無人 ( になつて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立って若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝって、しのぎをけづり、) 鍔 ( をわり、) 火花 ( をちらし、) 火焔 ( をふらす。然りと雖も、敵) 身方 ( の武者、色は相まぎれず、) 爰 ( にて御) 馬廻 ( 、御小姓歴々衆手負ひ死人) 員 ( 知れず。服部小平太、義元にかゝりあひ、) 膝 ( の囗きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐ち臥せ、) 頸 ( をとる。是れ) 偏 ( に、先年清洲の城に於いて) 武衛 ( 様を悉く攻め殺し候の時、御舎弟を一人) 生捕 ( り助け申され候、其の) 冥加 ( 忽ち来たりて、義元の頸をとり給ふと。人々風聞なり。運の尽きたる) 験 ( にや、おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、) 深田 ( 足入れ、高みひきみ茂り、) 節所 ( と云ふ事、限りなし。深田へ逃げ入る者は、所をさらずはいづりまはるを、若者ども追ひ付き〳〵、二つ三つ) 宛 ( 、) 手々 ( に頸をとり持ち、御前へ参り候。頸は) 何 ( れも清洲にて御実検と仰せ出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足) 斜 ( ならず、もと御出での道を御帰陣候なり。)
⑨桶狭間 ⑩捕えて自分の手柄にするな ⑪村雨 ⑫織田信秀
牛一の編集方法と日付の誤り
先ずはのっけから記載年に天文廿一(1552年)と明確な誤りがあるのは指摘しておかねばなりません。 桶狭間の戦いが勃発したのは日付こそ五月十九日に誤りはないものの永禄3年(1560)であるのは歴史的事実です。 而して基本的に時系列に並べられる事蹟に於いてこの後には家康の岡崎楯籠り、居城へと続き、翌年四月の三州梅ヶ坪の一件、 続いて弘治4年(1558)信長舎弟 勘十郎信行 生害の一件へと綴られますが無論此れを以てほぼ尾張は信長の元に一統され 今川方の鳴海城、大高城を圧迫する余裕が生まれ桶狭間の戦いへと繋がるのですから時系列が逆転しています。 此れには戦国軍事学に言う 首巻は日記や覚書をかなり雑駁にまとめた印象 を受け 干支の省かれ日付のみの記述が多く 、また著述としてまとめるに当たっての方法を 牛一のカードシステム と呼び、並べ違いも見受けられるとの記述に首肯せしめられる処です。 天文廿一壬子五月十九日 と言う日付の記載が此の短い中に二回も繰り返されるなどは如何にもカードを日付順に並べた印象を強くするものです。 日付が全く同じなのはメモを取る際に紙幅の都合があって分けたのかも知れません。 よってメモの時系列に依る並び替えが作者太田牛一によりなされるに誤謬が混じったものを 古写本は其の儘実直に写し取ったのではないかと思われはすれ、 それにしても御舎弟生害と桶狭間の戦いと言う織田家に取っての大事件が 牛一の記憶に前後するのは些か違和感を覚えるのも確かですが此処では以上に留め置き 以降は牛一の記述が確かな事実として読み込んで見ます。
方角、地形の記載と織田軍の進軍路
戦国軍事学では太田牛一は織田軍の戦闘員であったため著述する処の軍事的資料価値が高くなると言います。 特色の一つとして軍の向いて戦う方角、地形の記載があります。 脚色された小説などでは面倒さに比して見返りが少ないとあって省きたくなる要素でしょう。 但し見返りを求める読者の層が太田牛一の場合現代の小説家と異なり官僚化する以前の武士階級が主となりますから必須の要素とも言えます。 其の点から引用部に方角の記載を見ると此の中だけでも三度出て来ます。 先ずおけはざま山に陣した今川軍は鷲津、丸根砦攻略のため 戌亥 、即ち北西に向きます。 次に村雨が 東 向きとなる此の方角は織田軍の背中に、今川軍には正面から降り懸かるものですから 西向きの今川軍に織田軍が正面から軍勢を向けたことになります。 此の戦闘の結果今川軍を崩した織田軍は嵩に懸かり旗本迄詰め寄り 未の刻に 東 向きに追い討ちを掛けます。
次に地形が如何様に書かれるか登場する地点に併せ加えて上記の方角を鑑み、閲して見ます。 列挙すれば以下の如くなるでしょう。
- 今川軍が陣し戌亥に軍勢を向けたおけはざま山
- 今川軍の徳川勢が落とした鷲津砦
- 今川軍の徳川勢が落とした丸根砦
- 今川軍の徳川勢が兵糧を入れた大高城
- 善照寺砦に現れた信長を見て功名を争った織田方を今川軍が一蹴
- 一帯深田の中止められながら信長が陣を進めた中島砦
- 更に軍を進め山際に寄せると村雨が織田軍と同じ向きの東に降り懸かる
- 今川軍総崩れして深田のおけはざまにて織田軍に追討される
- 今川義元が頸を打たれる
- 織田軍元来た道を帰陣
時系列で両軍の向きを追えばおけはざま山から北西に向かい織田軍の拠点を落とした今川軍は西方に向き 北から南に進んで東に向いた織田軍と先ずは山際で鉾を交え 織田軍が押して今川軍を東のおけはざま迄追い落としたことになり 確かに現地を訪れれば各地点と方角は符合します。
一つ面白いのは雌雄を決し、
信長の思い込み
最重要地点での戦闘に先立ち中島砦にて信長は、
あの武者、
大高城を確保し付け城二砦を陥れ、今また寸前に織田の功名に
今川軍本隊の動き
信長公記引用文の前段には今川軍が5月18日沓掛城に参陣し 義元は大高城兵糧入れのため鷲津、丸根砦を落とすよう指示しています。
翌朝おけはざま山に陣取った4万5千の軍の内先駆けの徳川軍が指示に従い戌亥の方角の両砦を落として大高城に兵糧を運び込みました。
斯うして鳴海城の南方を制圧した今川軍の内徳川軍は大高城に休息の為居陣しました。
経緯から見て旗本を含む今川軍本隊は中島砦、善照寺砦を落とす為に制圧し西北方に押し上げた前線に位置したのだと思われます。
陣を進める際には織田方の佐々、千秋勢三百を一蹴し
大将の思い込みをも加えた不利な条件の重なる中に唯一
織田軍に有利な条件と思われる
信長の命令が時宜に応じて変化しているのも見て取れます。 中島砦に味方を鼓舞した際は分捕りは禁じて打ち捨てさせ、柔軟に前後せよと命令しています。 今川軍旗本を認識した際には是れへ懸かれと明確に標的を指示しています。 最初から最後迄首尾一貫した指示ではないのに注目すべきなのは 筋のある芝居ならねば臨機応変に変化せねば己が危ういのですから至極当然と言えるでしょう。
時を置かず崩れて敗走し始めた今川軍の内にも 旗本三百騎は義元を丸く囲み撤退戦に奮闘しましたが次第に兵は失われ おけはざまの深田辺りには僅か五十騎を数えるばかりになり衆寡敵せず義元は虚しく頸を討たれました。 撤退して追討された位置がおけはざまですので 此れも義元自ら本隊を率いて最前線とは言わぬ迄も中島砦を臨む丘陵上迄進んだと見るべきでしょう。 不案内な地に於いて敗走する際に来た道を戻るのが本能的に選択せられたのではないでしょうか。 従って本隊が前進した分此処で後退しておけはざま迄押し戻され義元は落命したのだと考えられます。 本隊が前線近くに進まなければ織田軍の様子を直接見られず、 また旗本が遠く後方に構えた儘であれば前軍が崩れても大高城に休息している 徳川軍の援護が入る猶予が生まれてしまうのも旗本を含む本隊はおけはざまよりは西に前進していたものでしょう。 この際義元公落命の地は桶狭間の戦いに於いては本稿に其れ程の重要事とは考えていません。
従来説の検証
藤本氏の戦国軍事学発表以降桶狭間の戦いを 油断した今川軍の横腹を迂回した織田軍が奇襲した とする従来説を大っぴらに唱える言及を聞くのも少なくなりました。 信長公記を読み解いて得られる当時の状況から少し従来説を考えてみます。
先ずは織田軍の迂回について、前記の方角と地形から信長公記を読む限りでは其のような事実はあり得ないものです。 また、手ゞに持った頸を御前へ持ち帰ったのを清洲にてご実検とした信長は義元の頸だけは御覧じてご満足斜ならず、と気分は上々となり もと御出での道を御帰陣 と今日来た道を帰っているのですから此れも遠回りとなる迂回路ではあり得ないでしょう。 織田軍は善照寺砦から南の中島砦へ向かわず東方へ迂回路を取ると言うのも 中島砦付近迄戦線を制圧した今川軍から見れば指呼の間、 今川軍に比して劣る軍勢とは言え2千の兵が対岸の丘上に転回すれば 全てが極秘裏に進捗したとは到底考えられません。
従来説には今川軍が勝利に酔って序でに酒宴を張って酒にも酔って油断した状態だったとされますが、
信長公記に其の様な記述は見られません。
ただ徳川軍が大高城へ兵糧入れに成功した際には謡を三番、
信長の出馬を受けた佐々、千秋隊を退けた際にも謡をうたわせてはいますが酒宴を張ったとは書かれてはおらず
信長とても此の桶狭間の戦いの出陣に当たっては敦盛を舞うや
また従来説では織田方に
簗田政綱
なる人物が在り桶狭間近辺の情報戦を制し迂回奇襲のお膳立てを以て武功一番に取り立てられたとされていますが
信長公記には桶狭間の戦いの項前後には一切登場しません。
敢えて信長公記に彼の人物を捜して見れば首巻に
梁田弥次右衛門御忠節の事
なる項が立てられ斯波義統の臣下として梁田弥次右衛門が登場します。
但し此の御仁も此の段に清洲城切り崩しに調略の功有ったとあるだけで桶狭間には一切登場はしません。
牛一が其の人物を描写するに
面白き巧みにて知行過分に取り、大名になられ候子細は
として当時斯波義統居城の清洲城を陥れるのに調略を以て信長の味方となった
以上、桶狭間の戦いに信長の密かに立案した迂回奇襲作戦が 見事壺に嵌って今川軍に完全勝利したとする従来説は信長公記には全く読み取れないものです。
因みに梁田の項は天文23年(1554)の事件、
7月12日には
引用文には引きませんでしたが其の前段には信長が出陣して熱田まで三里を一気に駆け、
とありますが願掛けをした様子はなく吉祥の鳩が飛んだりする記述も信長公記には見られません。
書かれるのは辰の刻、現代では午前8時頃に源太夫殿宮の前より東に煙の上がるのを見て
どうやら鷲津、丸根の
桶狭間の戦い勃発のメカニズム
何故桶狭間の戦いは起こったのか。
此れについても諸説入り乱れる処であるのは周知でしょう。
一つには今川義元の上洛、一つには今川軍の尾張制圧、が屡々挙げられる理由としてあります。
従来説に言われる清洲城での出陣か籠城かの議論は而して成り立つのでしたが
しかし信長公記に其の様な議論の有った旨の記述は有りません。
18日夕日に及んで佐久間大学、織田玄蕃から注進有ったものの其の夜の話として
世は澆季 ( に及ぶと雖も、日月) 未 ( だ地に) 墜 ( ちず、今川義元、山口左馬之介が) 在所 ( へきたり、鳴海にて四万五千の大軍を) 靡 ( かし、それも御用に立たず、千が一の信長) 纔 ( 二千に及ぶ人数に) 扣 ( 立てられ、逃れ死に相果てられ) き浅猿敷仕合 ( せ、因果歴然、善悪二ツの道理、天道おそろしく候ひしなり。)
世界観を己の記述に織り込むに今川方の目的を偽る必要は牛一には何もないでしょう此の記述部分には
はっきりと今川義元の目的を山口左馬之介が
少なくとも織田方として考えている今川方の目的は鳴海後詰であって、 其れは戦国軍事学にも書かれる様に戦国の当時極く一般的な通常作戦行動でした。 戦国軍事学には 合戦の起因 が項目立てられる中に、先ず今川方の鳴海城奪取があって、信長が付け城で此れを封鎖し、 後詰、即ち救援に今川方が出陣すると言う、当時としてはごく平凡な群雄間の境界争いの結果起きたローカルな事件であると述べられています。 類例も多く、例えば、海津城を巡る川中島の合戦、長篠城を巡る長篠の合戦の両例が挙げられています。 当時一般の出来事であれば信長公記首巻を見るだけでさえ類例は見られます。 桶狭間の戦いの数年前天文23年(1554)正月、未だ信長の尾張統一のならぬ頃の話として 村木の取手攻められしの事 が項目立てられますので勃発の経緯を以下に信長公記から引用しましょう。
さる程に、駿河衆岡崎に在陣候て、鴫原 ( の山岡構へ攻め) 干 ( し、乗取り、岡崎より持ちつゞけ、是れを根城にして、小河の水野金吾) 構 ( へ差し向かひ、村木と云ふ所、駿河より丈夫に) 取手 ( を相構え、駿河衆) 楯籠 ( り候。御) 後巻 ( として、織田上総介信長御発足たるべきの旨候。)
織田方の小河の水野金吾構に付け城として今川方が築いた村木砦に織田方が出陣すると言う
桶狭間の戦いと攻防を逆転するも全く同じメカニズムで争いが勃発しています。
此の時信長は小河、信長公記には直ぐ後段に小川と記されますが、小川に入り水野下野守に参会、
日を置いて此処から出陣して村木砦へ攻め込んで、手負い死人の数を知らず、目も当てられぬ有様、と言う状況下、
辰の刻、現代の午前8時頃から申の下刻、現代の午後4時頃迄、即ち8時間掛かって多くの犠牲を出しながら漸く村木砦攻略はなったのでした。
此の時信長は御本陣へ御座候て、それも〳〵と
鳴海城は現在の名古屋市緑区鳴海町にあり東の方と言えど尾張に深く食い込む城でした。
城主山口左馬之助は信長公記に
あづき坂合戦の事
と項目立てられるに初出し此の時織田は未だ元服ならざる信長の父信秀の代に織田方として鳴海城を与けられましたが後、
三の山赤塚合戦の事
では信秀
余談
此処迄記してきた様に信長公記首巻には未だ全国的な存在ならざる頃の織田信長の実像が豊かに描かれています。
太田牛一本人によるものや写本の際の記述者による誤記誤謬もあれば尚慎重な検証が必要ではあるでしょうが従来説など虚飾で脚色された主張を退ける第一級史料であるのも間違いないでしょう。
誠実真摯な記述家である牛一の幾冊か伝わる著述にも白眉たる信長公記にはまだまだ織田信長自身と彼の置かれた状況に関して精細な描写と未だ拾い上げられぬ情報に溢れています。
本記事に最後に信長公記に記される中にも特に桶狭間の戦い周辺から幾つか拾い上げてみましょう。
一つには遠江に在住する者として気になるのは信長公記に登場する遠江勢ですが
- 当代随一のドキュメンタリー作家太田牛一(2012年11月12日)
- 織田軍桶狭間に迂回奇襲せず(2012年11月14日)
- 墨俣一夜城は築城されず(2012年11月23日)
- 異例戦国大名姉川に正面衝突す(2012年12月3日)
- 攻城戦開城慣習に反する殲滅鏖殺(2012年12月9日)
- 新戦術は長篠合戦にありしか(2012年12月24日)
- 鉄甲船本願寺の補給路を断つ(2013年1月1日)
- 本能寺と甲州武田氏の滅亡(2013年1月7日)