異例戦国大名姉川に正面衝突す『信長の戦国軍事学』書評4

織田信長の戦歴の上でも、また戦国合戦史上にも極めて異常な戦国大名同士の正面衝突が 元亀元年6月26日、起こりました。 姉川の合戦 です。 近江姉川河畔に尾張、三河、近江、越前4ヶ国の戦国大名が終結、 二手に別れ、早朝に平坦な場所で正面から衝突すると言う、 両軍が大損害を出す可能性のある危険な賭けとも言うべき合戦です。 実際に戦闘の結果、京都に届いた情報を記した山科言継の日記 『言継卿記ときつぐきょうき』 には浅井、朝倉側9,600人討ち死に、織田、徳川側も多数死す、とされています。

国家に損害を補填される明治の将軍ならいざ知らず、 合戦の損害を自力で補填する必要のある戦国大名に於いては 一つの敵を倒すために一度の戦いで損害を顧みず兵を用いることなど許されませんでした。 特に信長は天下統一をスローガンとして必然的に周囲が全て敵となることから 自軍に大損害を出す恐れのある戦いは是非とも避ける必要がありました。 何故このような極めて異常な戦国大名同士の正面衝突は起こったのでしょうか。

琵琶湖*長浜 photo credit by m-louis

信長の戦国軍事学』 (以下、本書)の本第3章 「姉川合戦―誰が主力決戦を望んだのか」には 藤本正行 氏(以下、著者)が、かたむき通信にも書評をものして来た記事末尾の関連記事一覧にもある 桶狭間墨俣 とは異なり、新事実を暴き出すと言うより、 従来顧みられなかった姉川の合戦が異例の合戦であること、 そしてそれが異例であるにも関わらず如何にして発生したのか、 ということに対して、章題にもある通り、 主力決戦を強く望んだ人物があったからこそ起き得たその人物を状況から特定し、 著者の所見を述べるものとなっています。 従って『信長公記』は用いられるものの前章、前々章と比較して確認程度のものとなっています。

戦国時代の出陣準備には軍勢を集めると言った表面的なものと、 調略のような水面下で行われるものがあり、 『信長公記』には常にその両方面からの記述が為されるのは 流石に当代随一の実戦参加ドキュメンタリー作家の面目躍如たる感があります。

加えて敵を多く抱える必然性を持つ信長は特に調略を重視していました。 天正8年8月12日、信長は石山本願寺攻め総大将の佐久間信盛を追放しますが、 『信長公記』に記されるその断罪状は信長と言う人物の精神構造を考える上で最も重要な史料であり、 其処には武篇(武道)と調儀(計画)、調略(謀略)を同等に扱う様が見て取れます。 実際この姉川の合戦もこの年4月に朝倉追討に失敗し近江を失った信長が 浅井の防御ラインたる鎌刃城、長比城が調略に味方した機を逃さず出陣し、 小谷城をはだか(裸)城にする目的の出陣であれば合戦に及ぶ迄もなく目的は達せられる訳で、 損耗の激しい決戦を信長が望んでいた筈はなかろう延長上に発生したものです。 この信長の調略を重視する姿勢も『信長公記』に 太田牛一が確り書き記しておいたからこそ今に知れるでした。 著者が牛一を 優秀なドキュメンタリー作家 と評す所以です。

その信長が一方の総大将を務めるにも関わらず姉川の合戦は起こりました。 即ち主力決戦を強く望んだのは信長ではありませんでした。 此処に登場する戦国武将は信長の他には織田援軍の徳川家康、 近江軍の浅井長政、浅井援軍の越前朝倉軍の大将が在り、必然的に3人に絞られます。

無論、信長とて無理攻めを行う事例は有ります。 東美濃攻略に於ける堂洞城がそれでした。 しかし無理攻めに攻城戦を展開するには以下の如き必然性があり、 信長もこの際小谷城ははだか城にするに留め、 標的を東南10数km程に位置する横山城に切り替えています。

  • 攻める側に余程好条件が整った場合
  • 時間的余裕がない場合
  • 城主に非常な怨恨を含む場合
  • 強引な落城に大きな戦果が期待される場合

信長の兵力は圧倒的であり加えて三河徳川軍の来援もあり、織田軍の有利は動きません。 しかし小谷城下から布陣を横山城に向ければ撤退の格好となります。 当時主力同士の正面衝突を避けるのと同様、敵の移動時を狙い打撃を与え、 細かな損害を蓄積させ撤退せしむるのも常識的戦法でした。 此処に浅井が織田軍を追撃する状況が惹起せしめられるのですが、 兵力の劣勢にも関わらずその果敢さが際立つ描写が『信長公記』に雄弁に記されます。 朝倉の援軍が到着したのはこの後です。

朝倉軍の来援は勢力を拮抗させました。 避けるべき主力同士の正面衝突の状況が現出したのです。 戦国武将の忌むべき事態への進展は浅井、朝倉軍に依って後押しされました。 『信長公記』に浅井、朝倉が小谷より姉川面迄進出して来た旨記されます。 牛一は同時に浅井、朝倉が退くものと見ていたとも記してもいます。 その予想に反した浅井、朝倉の進出ですが、その予想は織田軍の認識そのものでもあったでしょう。 横山城を失う危険性があると謂えども短兵急に過ぎるのです。 これこそ此処に主力決戦を強く望む人物の存在が在りました。 従ってそれは家康には無く、浅井長政若しくは朝倉軍大将に絞られます。

『信長公記』には大軍同士が見通しの良い場所で正面から衝突し死力を尽くして戦った挙句、 兵力に優る側が劣る側を押し崩し勝利を収める経緯が簡潔な文章で見事に表現されるのを本書は引きます。 この合戦に於いて江戸時代に徳川礼賛の余り織田の弱兵振りが喧伝されたのを まともに受ける現代の史学家が居るのに苦言を呈しますが、 さておき主戦場に勝ちを収めた信長は退却する敵を小谷迄追い、 しかし再び標的を横山城に戻しています。 此処に横山城は無血開城しました。

浅井、朝倉に勝機が有ったとすれば遡ること2箇月、 朝倉追討に越前にある織田軍を浅井が裏切った際であると著者はします。 この浅井の裏切りは朝倉に依る戦国時代における空前の規模の調略であるともします。 この際果敢な用兵があれば浅井、朝倉に目は有りました。 信長であれば間髪置かず出兵したのは間違いありません。 浅井長政はどれだけ歯噛みしたことでしょうか、想像に難くありません。

そして小谷城をはだか城に剥かれた浅井の救援に訪れたのは八千の軍勢を引き連れてはいたものの 朝倉家の大名、朝倉義景にはなく従兄弟の孫三郎景健でした。 従って4人の戦国大名には朝倉軍の大将には主力決戦を望む気概は欠けていたのも無論でしょう。 もう一人、残った戦国大名の強い気持ちに引っ張られたのでした。 それは浅井長政以外有り得ません。 異例の戦国大名同士の姉川に正面切っての衝突を誰より強く望んだのは浅井長政でした。

一旦窮地に陥れた信長に降参は最早叶う筈もありません。 また長政の兵力が信長に圧倒的に劣っているのも否めません。 長政が乾坤一擲の勝負を掛けられるのは朝倉の援軍と言う 時間的にも空間的にも極めて限られた条件下にしか実現し得ませんでした。 それが姉川合戦だったのです。

著者は横山城を包囲する信長は織田軍の兵力が勝り、地の利も得ているに依って、 浅井軍側からの攻勢は五分五分、若しくはそれ以下と見ていただろう、とします。 しかし長政は打って出ました。 此処に至って信長も退けず、 信長の戦歴の上でも、また戦国合戦史上も極めて異常な戦国大名同士の正面衝突は惹起せしめられ、 水の低きに流れるが如き理を以て織田軍の完勝に終わったのでした。

使用写真
  1. 琵琶湖*長浜( photo credit: m-louis via Flickr cc
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