是非に及ばず 、この言葉を信長の末期の諦観の念の顕現した唯一無二の言葉に扱っていれば 小説、漫画、講談、売文屋ならば未だしも、 それが歴史研究に関する言説であれば先ず以て不適切、怪しげな範疇に入り 操る発信者は歴史研究者にはあらじ、と断言して宜しいものです。
その章立ては序章を零とすれば以下となります。
- 明智光秀軍の人数は?
- 光秀の動機と本能寺の変
- 「是非に及ばず」と信長の性格
- 光秀を突き動かしたもの
- 光秀と重臣たちの最期
この第2章に冒頭の言葉の扱われようが余りにも目に余る事態に 愈々堪え切れずに解説を試みたのが 藤本正行 氏(以下、著者)であり、この章立てに構成される 本能寺の変 ~信長の油断・光秀の殺意~ (以下、本書)です。 碌に同時代の文献も渉猟処か読みもせずに歴史家の名を掲げる者は 先ずはこの事項を以て篩い落とされるべきでしょうが、 中には大家として名を成しタレントの如くテレビに出演し 多くの歴史関連委員会などの重職に名を連ねる歴史学の大学教授なども含まれているから ことは厄介にて著者も重い腰を上げねばならず、 謂わずもがなの言及をしなければならなくなります。
歴史を扱う言説は森鷗外、坂口安吾などを経て大いに歪曲せられ 遂には史実を探求すべき研究者を似非詐欺作家に仕立て上げました。 真摯に学問を探求する向きも在りはすれど、 テレビ番組に出演したり書籍出版する者が大抵この範疇に入るのは勿論メディア側の要請は有るだろうものの 現代が歴史言説に頗る不健全な状態にあるのを示します。
この不健全さを一言で表すのが冒頭の霊験灼かな是非に及ばずにて、 当時一般的に使用されたこの言葉を信長の末期の専売特許にしたのが 一連の似非研究者や詐欺的大学教授タレントなのでした。 この如き連中が史実などより作家気取りで発言や著作を劇的効果で飾ろうとするのに 是非に及ばず、は以て効果を発揮するのです。
本書書評の前編にこの是非に及ばずを特に取り上げたいのは 似非研究者、歴史詐欺師を炙り出せるからでもあります。 即ちこの言葉を諦観の意として劇的に取り上げ、本能寺の変を史実として書いたもの、言われたものは 全て取るに値しないものとして黙殺されるべきものです。 それを著した人物は大概があろうことか想像を混ぜ込んで貧相な著述を盛り上げんと図り、 その想像には何ら歴史的知見が見られない上に 剰え史料の読み込みさえせず探偵小説ばかり読み耽っている節迄見られるのです。 なんとなればそれは是非に及ばずの用例さえ知らず書かれているからでした。
是非に及ばずは先ず諦観、否定的、消極的な意を示すだけではなく 時には明々白々であるを示し、肯定的、積極的な言葉であると理解しなければなりません。 近年屡登場するのが性悪説で知られる荀子の修身編に登場する 是々非々 にて良いものを良しとし、悪いものを悪とする、とあれば 是非は良いものと悪いもの、善悪が並んだ逆の意を連ねた上下、左右、大小、遠近 みたような熟語の一つとなります。 従って是非に及ばずとは良いも悪いもない、ということになります。 これを消極的に読み取れば諦観になりますし、積極的に取れば明白さを表しもします。 そして当時、両方の意で用いられていたのは用例を見れば是非に及ばないのでした。
是非に及ばずの意として著者が記す箇所が何箇所かあり、 その第一には96頁に是非とは可否とか善悪と言う意味であるから是非に及ばず、とは 可否や善悪を論ずるまでももない、と言う意になり、 此れが諦観の表れであれば議論しても仕方がない、となりはするが 肯定的に取れば議論するまでもなく明白なものとなる、と言うものです。 第二は112頁にその本来の解釈として、議論するまでもない、とあり、 更には115頁に一般の国語辞典や古語辞典には諦観の面からの意しか載せられないのは問題で 適切な三省堂の 時代別国語大辞典(室町時代編3) を引いて、其の意を以下のように記しています。
巷間言われる諦観とは逆の肯定的な文脈に捉えるに当たって著者は実際の用例を論拠とします。 先ずは著者が本書に挙げる積極的、肯定的用例を見てみれば、95頁から挙げられるのは 前田利家の長連竜に宛てた本能寺の変8日前の天正10年(1582年)5月23日の書状、 武田信玄が弘治3年(1557年)6月23日に信濃豪族市河家に宛てた書状、 信長宛ての天正3年(1575年)3月13日付けの家康書状、などを挙げ、 更には本能寺に信長を横死させ其の言葉を言わしめた当の明智光秀さえ、 天正6年(1578年)12月22日付けの本願寺攻め参陣中の奥村源内宛て書状に 諦観とは無縁の意味で是非に及ばずを用いている事例として挙げているのです。
又著者がかたむき通信に書評をものした処でもある他著書 信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像 (歴史の想像力) に主要な典拠として活用した 太田牛一[K1] の著す 信長公記 からも用例を引いています。 是非に及ばずの使用例は信長公記に14例あるとされ、 其の内3例の積極的を意味を解しながら本書に紹介されますから、 実際冒頭の本能寺の変の信長最期の台詞を語る様々な訝し気な言及者は その典拠たる信長公記さえ碌に読み込んでいないのではないかと疑われるものです。
次にかたむき通信に書評をものした[K2] 細川幽斎 (細川護貞著)について見てみました。 以下中公文庫版に依って頁数と共に列挙します。
以上は以て著者の本書第2章に於ける主張を裏付ける内容として機能するでしょう。
著者が以上を以て第2章の末尾に、 是非に及ばずの意味する処は諦めの言葉でも、潔さを示す言葉でもなく、 信長49年の人生の掉尾を飾るに相応しい、最も勇壮な言葉であった、と断言するものです。
一連の書評をものする予定に口火を切らせるその内容は本書より先ず第2章を取り上げ、 是非に及ばす なる一言の取り扱いを以て、その主張が論ぜられるに値するか如何かの判断に寄与します。 本記事にある内容を適用すれば織田信長と言う天下を統一し掛けた戦国大名について 言及する商売気に富むだけの安っぽい書籍、論文、言説等に拘う時間の無駄を省けるものです。
使用写真- Gifu Castle( photo credit: jparise via Flickr cc)
- 当代随一のドキュメンタリー作家太田牛一『信長の戦国軍事学』書評1(2012年11月12日)
- 歴史学者、研究者のための書籍『細川幽斎』書評前編(2013年2月1日)
- 書評前編~是非に及ばす(2013年2月23日)
- 書評中編~突き動かしたもの(2013年3月28日)
- 書評後編~謀叛機会と謀反人の最期(2013年8月5日)