結果が分かっている後世の人間が批判をするのは簡単だが、 そうした方は光秀を理解する気も、 さらには歴史というものを理解する気もないように思える。
世に蔓延る歴史陰謀説は兎角此の引用に尽きるでしょう。 藤本正行 氏(以下、著者)の執筆した 『本能寺の変~信長の油断・光秀の殺意~』 (以下、本書)の終章 光秀と重臣たちの最期 に著者の慨嘆として記されるものです。 歴史陰謀説は正しく浜の真砂は尽きるとも、に類するものかも知れません。
- 明智光秀軍の人数は?
- 光秀の動機と本能寺の変
- 「是非に及ばず」と信長の性格
- 光秀を突き動かしたもの
- 光秀と重臣たちの最期
本書をかたむき通信には左に序章を0と見立てた章立ての第2章、 是非に及ばず を主題として 前編 を 中編 には第1章、第3章に記される 動機 を取り扱いました。 本後編に於いては終章と共にその 機会 について主に取り扱うものです。 謀略説の主張に於いては動機、 と言うよりは物語性に富ませるべく其の背景の心理描写を追うことに重点が置かれ、 従って著者がいみじくも跋文に共通して機密漏洩に全く配慮されぬ欠点を指摘しますが、 動機に機会を優先させれば其の不備を補う思考法に 辿り着く可能性も高まるのではないかと思えるのです。
本能寺の襲撃に成功したものの其の後は三日天下と揶揄される如く周知の事態となりました。 本能寺を成功裏に導くに当たって其の肝要なるのは陰謀説が大好きな黒幕の隠れたる謀略でないのは勿論、 著者は前著 『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』 114頁に於いて 大軍を動員しなければ実行不能な謀叛計画では、 最初にして最大の難関は部隊指揮官である重臣たちの説得である と喝破しました。 著者の信頼する 太田牛一[K1] 著す処の 信長公記 の池田家文庫本には天正10年6月1日夜に謀叛を決定するに相談した5人が以下の如く挙げられます。
終章には其の章題
光秀と重臣たちの最期
通り、此れ等6名の最後が追われています。
彼等の死も著者が後世の軍記であって余り信用出来ないが引かざるを得ないとする
明智軍記
に依拠する部分が多く、判然しないものです。
此処に其の代表たる総大将明智光秀の場合を記せば、
屡ドラマに描かれる光秀の最期は、京から近江に悄然と落ち行く道すがら
跋文には本能寺に於ける信長の最期についても言及され、 フロイス記す処の灰燼に帰してなんら地上に残存しなかったと言う宗教掛かりもし、 詩的でもある文章に陰謀説や歴史探偵が踊らされるのを嘆き、 本能寺と言う巨大な木造建築が焼け落ちたのだから、其の残骸から死骸を掘り出すことは無論、 人物の特定など所詮無理な話で、 信長の死骸が若し確認できたら其れこそが謎として通用するくらいのものだとします。 終章に記された明智重臣の無残な最期を見るにつけ、 敗軍の将は遺骸を回収されぬべくよう配慮すれば、 炎上する建屋の奥に自害するのは最良であり、 勝利者は勝利の確信が持てず周囲を納得させられず躊躇いも生むだろうことに由り 信長の光秀に出来る唯一最大の復讐であったとするものです。
跋文、謀略説の奈辺が宜しからぬか申せば 蓋し横死した信長側織田家にも斃した光秀側明智家にも何も生まないこの本能寺の変は 歴史上の大きな転換点でありながら史料の欠損で黒幕説好事家の跋扈する処となるので、 中編 に記した動機などは大いに弄ばれる処となるのでしたが、 冒頭にも記した如く謀略説は機会を扱い兼ねれば従って悪影響も被り難く、 其の機会の醸成される様子を少し追ってみましょう。
本書第1章37頁に自らを
瓦礫沈淪の輩
と呼ぶ光秀は傍からも本書終章208頁の
多聞院日記
の山崎敗軍、落命の報の後の6月17日の条には
著者が記すに大いに同意したい部分でもあり、 巷間小説やドラマに大いに不満を託っていたのが、 光秀が温厚篤実な保守的教養人でありまた線が細く内省的な知識人であったと言う人物評で 此の性格に因って信長と反りが合わない、なる主張です。 この世間に通用してしまったイメージは秀吉の才気煥発で明朗闊達なイメージの裏返しに過ぎない、 と著者は喝破し、同時代人のフロイスの言を以下の如く日本史から引用します。
裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、 己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、 計略と策謀の達人であった。
何やら信長を髣髴させるではありませんか。 以て光秀と信長は馬が合ったとするのは著者のみにあらず、歴史家としての先達 高柳光寿 氏も共に合理主義者で馬が合えばこその重用であったろう、 と吉川弘文館より1958年に上梓された著書 明智光秀 に記していると本書141頁に言及されています。 価値観を共有出来る者同士、連帯感が生まれてこそ厚恩を与え、被り、 信長の冷酷な戦術の最前線での嬉々とした実行者としての光秀像が浮かび上がりますし、 実際 中編 に述べた如く叡山焼き討ちの際の大津市仰木町の撫で斬りの一件があったのでした。 斯くも似た者同士の片割れが片割れに謀叛を起したのであれば、 其れは已むに已まれぬ受動的なものではなく、 何某かの機会を得て其の似た要素の色濃い部分が強く働き実に能動的に動いた、 とした方が構造的に引っ掛かりが少なく感じられるものです。
本書第1章65頁には項目立てられるに本能寺の変を 誰がお膳立てをしたのか があり、多くの陰謀説が喧々囂々、諸説紛々飛び交う処ですが、 此れに著者が応えるのは織田信長其の人であり、 信長を襲うお膳立てをしたのが信長自身であるとは些か奇説染み、奇を衒っている 陰謀説の最たるものに思えもしますが然にあらず、 一つ一つ丹念に事跡を辿ればこれこそ運命の糸の導き為せる業とも謂えるべきものです。 66頁より引用しましょう。
この経緯を見ると、興味深いことに気付く。 それは、襲撃のお膳立てをしたのが光秀やその黒幕でなく、 信長自身だったということだ。 襲撃当日に本能寺に泊まったことも、 軍隊を連れていなかったことも、 光秀に本能寺の近くで軍隊を集めさせたことも、 光秀に対抗できる部将たちを領国各地に派遣したことも、 なにからなにまで信長の命令なのである。
中編 に 本能寺の変は偶然の産物である と強く主張する所以ですし、同時に此処に挙げられる機会出来の条件を陰謀説の黒幕連は機密を守った侭、 克服する必要があれども全て恣意的に展開するのは不可能であるのが判然するでしょう。
著者が陰謀説を強く批判する一つには其の主張者達の機密漏洩への不注意、無考慮とさえも言えない
意識の内に欠片さえも存在しない全くの埒外扱いがあります。
機密の維持に関して光秀が実に厳格であったのは本書77頁の当時明智軍中に在った
さて、では此の書評の最後に光秀はこの稀なる機会の出来を何時気付いたのかを追って見ましょう。 本書には上に引用した66頁部分の直前に言及されていますが明言は避けています。 信長自身が謀叛を成功裏に導くお膳立てを実施しているのに光秀が何時気付いたかは分からない、 としながらも、西国出陣命令が出た後だとは思うが、とし、更に 秀吉から援軍要請が来たことを知った時点で、そうした状況になることを予想した可能性もある、 としています。 更に飛んで第3章186頁には、光秀が謀叛機会に気付いたのは早くとも 信長が自身での中国出陣を決めた5月16日頃である、としています。 5月15日には徳川家康と穴山梅雪がお礼言上に安土参上、 此の15日から17日迄饗応役を務めたのが光秀であり、 此処に秀吉の援軍要請が来着、信長自ら出陣を決め、 光秀は17日に安土から坂本に戻り西国出陣の準備に取り掛かり26日に丹波亀山城に移っています。 翌27日に愛宕山参詣、明くる28日には連歌興行と良く知られた時系列となっています。 蓋し17日に光秀の脳裏に小さな雷光が走ったのは有り得ることでしょう。
しかし此処に散々に陰謀説の物語仕立てを貶めながら なかなかに此の誘惑は断ち切れぬ魅力があるのは否めず、 飽く迄妄想に過ぎないことを最初に断って、以下 違和感 をキーワードに光秀の機会認識をもう少し遡りたく思うのです。 其の典拠にしたく思うのはかたむき通信に書評をものしつつある 『細川幽斎』[K2~4] の第6章に当たる正しく章題 本能寺の変 冒頭157頁に記される部分です。 当該書にては中程、第6章の章題こそ 本能寺の変 とされ、其の劈頭が天正10年其の歳の正月にて幽斎は安土に諸将と共に歳首の嘉儀を述べ信長の杯を受けたとあり、 同7日、3行目の一文には 信長は惟任光秀と軍議数刻に及んだ後、その席に藤孝も招ばれ、 とあるのでした。 続いて此れが甲州征伐の軍議であり、幽斎には安土警護が命じられる旨記載されるのでしたが、 此の信長と光秀の仲睦まじさは如何でしょう。 『細川幽斎』 が引いた東大資料編纂所に保存される 細川家記 の元ともなっている小野武次郎の手になる 綿考輯録 に委細を当たる必要はありますが、控え目に言っても軍議の中心が信長及び其の主君と似た者同士の光秀であったのは間違いなく、 それも年頭の数刻に及ぶ軍議であれば其の歳の大方針を含まぬ筈がなく、 春の甲州の後の夏にも話しが及んだ可能性は大いに有り得るでしょう。 此の織田家の重要な意思決定会議の君主の相手が筆頭家臣、即ち光秀の織田家に於ける立場を表すものであるのも論を俟たぬ処であればまた その他関連の考察にも影響を与え得る大変重要な一文かに思えます。
此の正月7日の時点で同じく著者の著書である 『信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像 (歴史の想像力)』 への書評記事[K5] に甲信上駿の巨大な大領主が短時日に消えた後に生じた宛らブラックホールの如き大きな穴が 其の強大な引力で以て信長自らをも引き摺り込んだ、 とした如き明瞭な筋立ては無論結果の分かっている後世の人間のみ知る処ですが、 織田家の大戦力に於いて信長と似た者同士の合理主義者である光秀に何某かの違和感が生じたとしてもおかしくはありません。 甲州征伐の後には中国征伐が予定されるのは先刻、 当の主君と軍議済みですからまるで何かを信長が暗に指し示しているかの如き 引っ掛かりを光秀の脳裏を掠めしめた7日だったのではないかと思えるのです。
此れ以上は其れこそ
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