太田牛一 、一般にはおおたぎゅういちと読み下し、通称又助、実名は信定、 後に和泉守を称する人物が戦国末期から江戸初期に在りました。 当代一、織田信長的に言うならば天下一の ドキュメンタリー作家 とも言うべき人物で、織田信長を始め、豊臣秀吉、徳川家康の戦国三英傑を 同時代人のしかも身近にあった視座から捉えた著作をものしています。 その著述の姿勢は本人が直接記すに 直不除有不添無 、即ち実際に有ったことは除かず、無かったことは加えないのみ、 とドキュメンタリー作家としてのお手本の如き意が表されています。 藤本正行 氏(以下、著者)が 常識ほど始末におえないものはない と嘆く弊害を其の侭被った織田信長の軍事研究に関して 是正すべき拠り所にした史料こそ太田牛一の代表作 信長公記 なのでした。 その成果として1993年に上梓された 信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像 (歴史の想像力) (以下、本書)を本記事書評の俎上に上げるものです。
牛一は信長より7歳年長で信長、秀吉、秀頼に仕え、 秀頼に仕えたときには齢80を数え慶長15年迄は存命であったのが知られます。 生国は尾張春日郡山田庄安食で生年は大永7年(1527年)、 かたむき通信にも記事をものした 真田幸村 が活躍した大阪夏の陣は慶長20年のことですから若し牛一が生きていれば88歳、 最後の主となった豊臣秀頼の死と豊臣家滅亡は見なくて済んだのかも知れません。
牛一は寺院に成長したと伝承され、事象の確かな処となった青年期から壮年期に掛けては 織田信長の下で第一線の戦闘員として活躍します。 従ってドキュメンタリー作家と言えど現在の戦場記者、ジャーナリスト、 アナリストとも異なり、一平卒として戦闘の最前線に参加しており その著作は近代軍隊で言えば戦闘詳報に近い性質を有します。 読者が歴史文学者などではなく、同時代の武士であったならば 如何程ハタと膝を打つ場面があることやも知れぬものとなります。 地理の描写に於いては一線の戦闘員としては必須の地理把握能力の元に精密且つ具体的で これを現地の地理に照らし合わせれば極めて正確なものとして認められます。 それは近世初頭の地理書としても価値が高いと本書はする程です。
加えて著者の著した信長関連他書には
本能寺の変~信長の油断・光秀の殺意~
があり[K1~2]
其の第1章85頁には信長公記池田家文庫蔵自筆本の本能寺の変の部分と続く
女共、此時まて居申候而
そして信長の天下取りが進むに連れ、 牛一は徐々に官僚としての役割が増し、 本能寺の変以降は秀吉の家臣として婦人付き警護役や秀頼に仕える老臣と言った態で、 当時の中堅武士の理想的なキャリアコースを歩んだ一生でした。 その生涯に性質として筆まめ、整理好き、編集好みを以て幾つかの貴重な著述をものしたのでした。
著者が従って太田牛一著述書を史料に用いるには公的記録、日記、書簡など、 一般と異なった注意が必要であるとします。 それが如実であるのは本書研究に利用される信長公記自体が、 牛一自筆本だけでも4冊存在し、写本を含めればそれは20冊に上り、 異動も少なくないことに因ります。 同時代に於いて既に貴重なドキュメンタリーは同時代人にも多く所望され、 牛一はサービス精神も旺盛にそれに答えたのでした。 従って牛一著述書研究には複雑な信長公記の成立、時系列、異動、を考慮しなければならない所以です。 そして本書はこの信長公記をその如き態度で以て恐らく初めてと言っても良い 軍事研究に用いたことにこそ価値があるのでした。 本書評に多く太田牛一に紙面を割いたのは本書が巻頭に牛一の経歴、作品、 執筆態度、性質、能力、などの事跡に詳細を述べる精神に沿うものです。
信長公記には斯くも伝本が多く伝わりますが、 太田牛一の態度、性質、立ち位置から現代的な意味での決定稿はありません。 従って時系列などを始め取り扱いに注意が必要となり、 そのために著者は信長、家康に対する敬語の有無や日付に対する干支の有無に注目し、 孰れが古態を有するかを判断します。 この過程ではまた牛一の著述には巷間信長に対する家臣故の遠慮が働くとする主張に対し、 むしろ家康に対する配慮が大きいなどの内容からその心配を払拭する考察もなされています。 更に牛一は恐らくその執筆法にカードシステムとも言うべき、 書き溜めたメモを求めに応じて所謂編集し提供する手法と取ったと思われるため、 なお研究には注意を要します。 この事前の史料検討を重ねた上で著者は信長公記を第一級の軍事史料として用い、 従来定説とされた幾つかの事柄に批判を加えると共に正そうとするのが本書です。
織田信長と言う人物とその時代背景を見るに当たっては軍事的考慮が欠かすことが出来ません。 信長が尾張の一奉行の家柄から身を起こし天下統一目前迄至り得たのは その軍事的な傑出した才能を証明するものです。 しかし江戸時代を挟んでその軍事研究は大いに捻じ曲がってしまいました。 その主因たるのが永禄7年生まれの医師小瀬甫庵の上梓せる 甫庵信長記 に因るものです。 これがベストセラーとして流布してしまい、 江戸庶民ならず遂には維新後の軍部迄虜にしてしまいました。 それは 日本戦史 に正史として纏められ昭和の大戦に於いては迂回、奇襲が大好物の軍部が生まれ、 太平洋戦争は江戸時代の医師作家の創作を教科書に展開されたのでした。
戦後となるもこの状態が是正された訳では有りません。 凡そ歴史に於いては軍事史は重要な役割を持つにも関わらず等閑にされて来た状況を 著者は戦国期随一のドキュメンタリー作家太田牛一の力を借りて矯めんと試みるのです。 本書は序章に本記事に述べた太田牛一を配し先ずその研究に依った史料の作者を 考察した上で以下の7章に渡る成果を得ました。
- 桶狭間合戦~迂回・奇襲作戦の虚実
- 美濃攻め~墨俣一夜城は実在したか
- 姉川合戦~誰が主力決戦を望んだのか
- 長嶋一揆攻め~合戦のルール
- 長篠合戦~鉄砲・新戦術への挑戦
- 石山本願寺攻め~鉄甲船建造の舞台裏
- 本能寺の変~謀反への底流
実に有益と思われる各節を其々に適宜かたむき通信に書評として以降記事立てして 本書の通説に対抗する研究の概略と結果を記す予定でいます。 其れ等書評記事が戦国史に興味のある向きの本書に向き合う切っ掛けともなれば幸甚です。
信長の戦国軍事学書評記事一覧(※)- 当代随一のドキュメンタリー作家太田牛一(2012年11月12日)
- 織田軍桶狭間に迂回奇襲せず(2012年11月14日)
- 墨俣一夜城は築城されず(2012年11月23日)
- 異例戦国大名姉川に正面衝突す(2012年12月3日)
- 攻城戦開城慣習に反する殲滅鏖殺(2012年12月9日)
- 新戦術は長篠合戦にありしか(2012年12月24日)
- 鉄甲船本願寺の補給路を断つ(2013年1月1日)
- 本能寺と甲州武田氏の滅亡(2013年1月7日)
- 是非に及ばす~書評前編~本能寺の変、信長の油断・光秀の殺意(2013年2月23日)
- 突き動かしたもの~書評中編~本能寺の変、信長の油断・光秀の殺意(2013年3月28日)