墨俣一夜城は築城されず『信長の戦国軍事学』書評3

先ずは結果から述べれば此れ程周知されている出世譚もなかろうと言う程の 木下藤吉郎、豊臣秀吉に依る 墨俣一夜城 築城はありませんでした。 秀吉が城主となる処か築城の事実さえ有りませんでした。 墨俣築城と言う天下者二人に取って重要な成功譚は良質な史料には一切現われていないのです。

この主張をするのは一般に不用意に流布する戦国時代史を矯めんとする 藤本正行 氏(以下、著者)にて、その拠って立つのは書評初回(末尾一覧参照)に 取り上げた稀代のドキュメンタリー作家 太田牛一[※1] 著す処の 信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像(歴史の想像力) (以下、本書)です。 本書の白眉とした第1章桶狭間に迂回、奇襲はなかった[※2] とする主張に比肩し得るこの言及は1993年初版の本書を以てしても まだまた衝撃を受ける向きも多いように思います。 本記事は本書第2章 美濃攻め―墨俣一夜城は実在したか を受けてものする処です。

墨俣一夜城 photo credit by Kakei.R
墨俣一夜城 photo credit by Kakei.R

ご存知の通りの通説は、永禄9年(1566年)信長の墨俣築城の命を受けた 佐久間信盛及び柴田勝家が相次いで失敗した後を受け、 木下藤吉郎秀吉が蜂須賀小六などの与力を受け秘密裏に準備を進め 一夜にして美濃軍の眼前に織田の橋頭堡たる付け城を築き、 これを以て秀吉は信長にこの城主に抜擢され、 延いては翌年信長の美濃攻略がなったというものです。

本書は此れを凡そ信長らしくない用兵と一蹴します。 明治日露戦争に旅順要塞攻略の際、将軍乃木稀典の唾棄すべき下策で 多くの兵士が強攻策を強いられ命を落としました。 乃木将軍が胸が痛むと如何に申し訳なさげに述懐したとあっても、 国家に兵士を補填される乃木将軍の財布は傷むことはない処か豊かになる一方でしたが、 戦国時代の信長にはそうは問屋が卸してくれません。 自軍の損害はそのまま己に跳ね返る以上、 損耗の激しい強攻策など許されもしなかったからです。 従って高みの見物を決め込み佐久間、柴田、木下と兵力を逐次投入、 各個撃破されるなど決してあってはならない下々策でした。

では何故この空想の物語が現在多くの人の知る史実擬きと成り得たのか。 現在史実として語られる墨俣一夜城築城物語がこの形態を整えたのは明治に入ってからだと本書はします。 そしてその淵源、原型に太田牛一の執筆せる信長公記があったのは これを以て史実の矯正を図ろうと思えば 数百年に渡る遠大な伝言ゲームの如きに皮肉なものです。

信長公記に永禄年間の墨俣に関する事跡は永禄4年(1561年)5月13日、 西美濃に侵入した織田軍が翌14日に 洲俣 (墨俣)から出動した斉藤軍を森辺に破ったと言うものです。 此の後信長は斉藤軍の撤退した洲俣に 御要害丈夫に仰付けられ御居陣候 とあり、23日に出動した今回は斉藤軍の主力と十四条と軽海で戦闘、 双方決定的な動きも無く24日には織田軍は洲俣に引き取り、次いで 洲俣御引払いなされ たのでした。 これは墨俣からの全軍撤退で戦闘に備えた構えは構築されたものの 恒久的な付け城の構築ではありませんでした。 奇しくも信長公記のこの節が秀吉成功譚捏造の出発点となったようです。

例によって此の時未だ生まれていない稀代の小説家小瀬甫庵に因って話は広がります。 上に森辺、軽海と一連の戦闘を先ずは永禄4年と永禄5年に分割し、 洲俣への要害構築は後者の永禄5年に割り当てたのが甫庵信長記です。 この際五月雨に増水した洲俣川渡河の信長冒険譚も盛り込まれた処です。

この後甫庵は甫庵信長記とは別に太閤記をものしました。 此処に永禄9年9月美濃の孰れかに信長が築城し秀吉を城主に指名した話が盛り込まれました。 お察しの通りこの別のお話が合体されたのが墨俣一夜城の正体でした。 江戸中期の 遠山信春 のものした 総見記 には永禄5年5月が墨俣築城と秀吉城主指名の時期とされますが、江戸後期には 竹内確斉絵本太閤記 に築城主も秀吉として成功譚の中心に据え、一夜にして構築する奇計も盛り込まれました。

更に明治に入っては高名な歴史家と言うから始末に負えませんが、 渡辺世祐 なる御仁が 安土桃山時代史 をものして甫庵の太閤記を史実として採用した上で林羅山の 秀吉譜 から時期を永禄9年に固定してしまったのです。 秀吉譜は羅山が太閤記を元に編したものですから何をか況やです。 こうなると高名な歴史家と言うものもちょいとあてにはなりゃしません。

然るに極々怪しい墨俣一夜城もこれを強力に裏付ける新史料 武功夜話 が昭和になって発見されました。 本書は些か面倒臭そうにこの史料を検討します。 其処には永禄9年、秀吉の麾下に墨俣築城に参加した武士の覚書、関係者の遣り取りの書状が 江戸時代に書写され、築城工程明細書に城の絵図迄多岐に渡り 築城経緯が細大漏らさず分かる内容として残ります。 本書は先ずこの原文をそのまま取り上げその不自然さを指摘、 更には貴重な城の縄張図の噴飯ものの欠点を指摘して、 剰え現実的に利用可能なものに迄修正しているのは是非 読者にゆっくりと堪能して欲しい件です。 こうとなっては武功夜話の信憑性も著しく貶められるものとなり兼ねないでしょう。

信長公記を事例を挙げて順に見ていけば 織田信長と言う戦国武将の尾張統一を終え東からの今川の圧迫を退けた時点での美濃攻めに於ける特徴は 武力を背景として活発な外交戦を展開し、その勝利を積み重ねることで斎藤氏を圧倒するにありました。 敵方の属将に或いは秘密裏に交渉調略し、或いは公然と圧力を掛けて開城させるなど その信長公記に書かれた戦歴を追うだけでも損害の大きい主力決戦など行いませんし 拙劣な高見の見物作戦で配下の武将が各個撃破される作戦など行う筈もありません。

この明治に完成した史実、墨俣一夜城をどうしても史実として後世に継承したい向きは 良質な史料を発見し公に提示する必要があるのです。

使用写真
  1. 墨俣一夜城( photo credit: Kakei.R via Flickr cc
信長の戦国軍事学書評記事一覧(※)
  1. 当代随一のドキュメンタリー作家太田牛一(2012年11月12日)
  2. 織田軍桶狭間に迂回奇襲せず(2012年11月14日)
  3. 墨俣一夜城は築城されず(2012年11月23日)
  4. 異例戦国大名姉川に正面衝突す(2012年12月3日)
  5. 攻城戦開城慣習に反する殲滅鏖殺(2012年12月9日)
  6. 新戦術は長篠合戦にありしか(2012年12月24日)
  7. 鉄甲船本願寺の補給路を断つ(2013年1月1日)
  8. 本能寺と甲州武田氏の滅亡(2013年1月7日)
スポンサー
スポンサー

この記事をシェアする