新戦術は長篠合戦にありしか『信長の戦国軍事学』書評6

世に聞こえた戦国の名将 武田信玄 が生涯掛けて育て上げた甲信の精鋭は僅か半日の戦闘に壊滅しました。 長篠合戦 です。 天正3年(1575年)5月21日のことでした。 武田はこの損失を回復出来ぬまま7年後に滅亡の憂き目を見ることになります。

この長篠合戦について太田牛一の代表作 信長公記上質な軍事史料として丹念に紐解き 藤本正行 氏(以下、著者)が考察を定説に加え、ものしたのが 信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像(歴史の想像力) (以下、本書)として上梓された内の第5章 長篠合戦―鉄砲”新戦術”への挑戦 にて本記事にその書評をものする処です。

土佐前田幸左衛門火縄式銃砲(2018年11月21日撮影)
土佐前田幸左衛門火縄式銃砲(2018年11月21日撮影)

老練の将軍の作戦は肉を纏い血が流れるが如く生きたものとなります。 有機的な三路邁進に織田徳川連合軍にも特に徳川方の城は 高天神城、足助城、二俣城、野田城、と主要な城を次々落とされ、 本書283頁の図8地図に見れば参遠はほぼ海岸線に領地を押し詰められ、 徳川は壊滅的な打撃を受けていたのは明瞭です。 然るに天正元年(1573年)信玄は卒去、 誠に愁眉を開いたのは徳川家康であったのです。 この翌々年には代の替わった武田が逆に壊滅的打撃を受けるのですから 禍福は糾える縄の如しと言ったものでしょう。 自らの顰像を描かせた家康は三方ヶ原の大敗北を糧として 着々と布石を打ち長篠合戦に備えました。 長篠城は信濃、美濃、遠江の山地を抜け平地に出る接点に位置する境目の城として、 家康の必死の調略で信玄没して直後に徳川に奔った奥平の守城として 此処に決戦の地となったのでした。

著者が長篠合戦に於いて疑義を発するのは通説に 3千挺の鉄砲を1千挺づつ一斉射撃を三段に渡って繰り返すと言う手法で 騎馬突撃を主体とする旧戦術に固守する 武田を破った信長の画期的新戦術と言われているものです。 著者は連続射撃は新戦術ではなくまた一斉射撃の不合理さを説くに当たり 鉄砲の数を詳細に追い掛け、それは武田が無鉄砲には無かった旨迄言及します。 長篠に全体で鉄砲は一体何挺有ったのでしょうか。 凡そ俗に3千挺と謂われる織田軍の鉄砲隊が主戦場の何処に配置されたかを 検討した資料は皆目見当たらないのです。

実は著者が少年の頃、初めて信長の合戦の定説に納得いかない面が浮き彫りとなったのが この問題であったと跋文には記されています。 また大学の史学科を経て社会人となっていた著者が良質の伝本を多数調査出来る僥倖を得て 岡山大学付属図書館に太田牛一自筆の池田家文庫本を調査中、 その問題の鉄砲の数が千挺から三千挺に加筆訂正されているのを見て 欣喜雀躍した様も跋にには著されます。 長篠に織田軍の用意した鉄砲は太田牛一の記す 千挺ばかり として間違い有りません。

長篠城~あるみ原~野田城    大きな地図で見る

では牛一が明確に記した自筆本の千の字の右肩に三の文字を 小さく加筆せしめたものは何だったのでしょうか。 此れもまた本記事末尾に記す書評記事一覧に度々言及した例に漏れず 甫庵信長記 でした。 その後貞享2年(1685年)頃に遠山信春が 総見記 に引継ぎ拡張し、更には明治の参謀本部が 日本戦史 に纏めて定説を完成させると言う黄金ラインが此処にも働いていました。 3千挺の鉄砲の三段撃ちと言う新戦術は 此処に鉄砲数の誇張と共に戦場が あるみ(有海) から 設楽原 に変更されるという余禄付きで出来したのです。 今も尚此の小説を元に史実として語る講談師のような輩が 大学教授として禄を食んでいることを思えば 小瀬甫庵恐るべしと言うべきでしょう。 この影響を以て後世牛一自筆本に何者かに因って三の字が書き加えられたものと著者はします。

千挺ばかりの鉄砲は2kmに渡る戦線の北側半分1km、 即ち織田軍主力の前面に配置されたと見られます。 此れは信長が不用意に武田に主力決戦を挑み徒に損害を被るのを避ける為 長篠直前で進撃を止め陣地構築したのと整合性の取れるものです。 信長は決戦に拘ってはいませんでした。

そしてこの千挺以上に重要な意味を持つ鉄砲数が有りました。 それは主戦場から割かれた別働隊に配備された500挺です。 半数にも及ぶ別働隊への鉄砲隊編成はその重要性を示して余り有るでしょう。 信長公記にはこの部隊が 信長御馬廻り鉄砲五百 と記されます。 配備された別働隊こそ三河徳川の主力を率いる 酒井忠次 を総大将とし上の鉄砲隊及び織田軍を添えた都合4千ばかりの強力極まりない 鳶ノ巣山砦 奇襲隊でした。

鳶ノ巣山砦は武田軍が部隊を残し長篠城の抑えとしていました。 鳶ノ巣山砦攻撃別働隊は信長が自軍の損害を軽減する意味も含め 画期的新戦術3千挺の3段撃ちよりは遥かに現実的なものとして立案されたものでしたが、 この作戦こそが織田徳川連合軍の徹底的な勝利を決定付けたとも言える成功を収めました。 此処に鳥居強右衛門が命を懸けて援軍来援を伝えた長篠城は開放されたのです。 この作戦を以てして画期としても良さそうなものかも知れませんが、 但し此れだけの軍隊を奇襲部隊として割くのは大きな賭けでもありました。 また織田徳川連合軍陣地に構築された柵は俗に 馬防柵 と呼び信長発案とされますが戦場に柵が作られるのは珍しくありません。 せめてもの救いはこの柵が信長公記に特筆されたことで それも迎撃用に活用される巡り会わせとなったからのことでした。

長篠合戦は決して信長の天才に依って立案された計画通りに 寸分の狂い無く運んだ戦闘ではありませんでした。 勝負が決してから後考えれば必然に思えるものですが そう取れば小説家甫庵と一般で後世の歴史家をも謀る手腕が無ければ只に空しいものでしょう。 織田徳川連合軍の大勝利と武田軍の壊滅は初めから決まっていたものにないのは無論です。

本書には長篠合戦に定説となった新戦術の信長が取るべきのない不合理性を説きますが、 それは未来の読者の楽しみに取っておきましょう。 他にも浪花節的な題材ともなり易い敗戦を予期した武田重臣の水盃や 敗戦の要因として巷間挙げられる武田勝頼の君側の奸についての話などに 著者が辛辣に言及しもしているのが面白くもあるでしょう。 更に本章に次いで図説 『長篠合戦図屏風』に見る戦いの長い一日 と題して尾張徳川家に伝わった六曲屏風の図を用いて緊迫した両軍の配置や戦闘の様子を 時系列で追った再現も長篠合戦に造詣を深めるのに役立つでしょう。

長篠合戦が新戦術を用いた画期ならずとも 戦闘に参加した武将に鮮烈な印象を残したのだけは確かでした。 後に秀吉が鳥取城攻めで長篠の再現を狙ったのは信長公記にも明らかですし、 また秀吉と家康の間に勃発した小牧の役にも類似の戦術が見られます。 長篠の合戦の要諦は新戦術にあらずして 戦国末期に鉄砲の普及と大土木工事とが野戦の趨勢を決める 象徴たる処にこそある合戦だったのです。

信長の戦国軍事学書評記事一覧(※)
  1. 当代随一のドキュメンタリー作家太田牛一(2012年11月12日)
  2. 織田軍桶狭間に迂回奇襲せず(2012年11月14日)
  3. 墨俣一夜城は築城されず(2012年11月23日)
  4. 異例戦国大名姉川に正面衝突す(2012年12月3日)
  5. 攻城戦開城慣習に反する殲滅鏖殺(2012年12月9日)
  6. 新戦術は長篠合戦にありしか(2012年12月24日)
  7. 鉄甲船本願寺の補給路を断つ(2013年1月1日)
  8. 本能寺と甲州武田氏の滅亡(2013年1月7日)
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