本記事はかたむき通信2012年8月27日の記事、 真田一族2~時代に翻弄される生粋の戦国武将昌幸の決断 の後を受けています。 新人物往来社から上梓される小林計一郎氏著作の 真田一族 (以下、本書)を拝読した書評を兼ねた記事としています。
真田一族の名を日本史に確と刻み込んだのは幸村あってこそでしょう。 劇作、講談の世界では猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道など真田十勇士を率いた大将、 最早、伝説的戦国武将として国民から広く愛されている処です。 それも豊臣の落日、大阪の冬の陣、夏の陣の活躍があってこそでした。
幸村と言うは俗書の謂うもので正式な文書にその名は見当たりません。 当人の署名は 真田信繁 とされているものです。 しかし人口に膾炙しているに因って幸村とする本書に本記事は従うことにしましょう。
幸村は永禄10年、昌幸の次子として生を享けました。 昌幸は当時旗本武藤として武田に仕えていたため甲斐の産になります。 昌幸の記事に有る如く此処から真田は激動の時代に翻弄されました。 天正3年には長篠の合戦で父昌幸が真田の家督を襲い、 また天正10年には武田は滅亡しました。
幸村もその青年時代をご他聞に漏れず人質として過ごします。 北条に接近し織田に誼を通じ徳川と結んだと思えば上杉に乗り換えた後 台頭する羽柴豊臣に与することを余儀なくされた真田では 徳川と対抗する後ろ盾として上杉の力を頼む際、 19歳となった幸村を人質として上杉に差し出します。 此処に於いて父昌幸と同じく上杉から重く扱われたのは 上杉が南方と対する先鋒としての真田の地勢上の重要性もあるでしょうが、 真田一族の例外ない優秀さの証でもあるでしょう。 この時、昌幸が大軍徳川を上田に破ったその第1回でした。
このまま昌幸が武田に重用されたと同様に幸村が上杉に重用されるのは時代が許しませんでした。 翌天正14年、上杉景勝の留守を狙い幸村を呼び戻した昌幸は豊臣に そのまま人質として送り込んだのでした。 そしてそのまま豊臣家臣として立身することも時代は許さなかったのは昌幸の編に述べた通りです。 真田の本拠、信州上田城に徳川の大軍を破った第2回目も関が原の勝敗空しく、 長子信之の必死の助命嘆願で死一等を減ぜられた幸村は父昌幸と共に高野山へ配流となり、 時に34歳の幸村をその働き盛りを配所暮らしに費やさねばならなかったのです。
本書に現存する書簡などを元に述べられる配所での幸村の生活は 凡そ伝説の輝かしい武将に相応しからぬ悲しくとも侘しいとも言えるものです。 引用される幸村の余りにも率直な書簡文面からもそれは沁沁と伝わってきます。 本書には真田十勇士を集めて武芸を練ったようなことなどはなかっただろうとします。 配所の高野山に覚えた連歌と酒で無聊をかこち、 国許にしばしば無心をするような生活であったようです。 慶長16年の父昌幸の逝去に及び随身の家臣は国許へと戻り それは更に淋しいものとなったのでした。
等身大の幸村が窺い知れる配所の侘び住まいへ最後の花を咲かせよと使者の訪れたのは慶長19年、 幸村既に48歳と人生50年の最晩期に差し掛かる処でした。 音物は黄金200枚、銀30貫、本書が時価9億円と換算するその額の 其れ迄の配所暮らしと対照的な豊臣大阪城からの贈り物に 幸村は意気に感じたのは否めないでしょう。
実際ご存知の通り、大阪城に入場したのは尾羽打ち枯らした浪人ばかり、 大阪の見込みは外れ名のある大名も太閤恩顧の大名も遂に大阪方に与することはなかったのです。 中に名のあるのは幸村の他に長宗我部刑部少輔元親、毛利豊前守勝永で これ等もと大名を指して三人衆、 また明石掃部全登、後藤又兵衛基次を加えて五人衆と称したともされています。
上方へ上る東軍は20万余と神武以来の大群を擁すに対する大阪城も 織田信長の攻撃に8年間耐えた石山を本丸に秀吉が縄張りした難攻不落の堅城です。 処が不思議にも幸村はこの大阪城の南の外、平野口に出丸、 真田丸 を築き陣取ります。 幸村には勝算が有りました。 雲霞の如き大軍に対し無謀とも思えるこの堅城を出る布陣は、 若き幸村が父昌幸と上田城に徳川の大軍を二度破った戦法をなぞるべく布いた陣だったのです。 見事にこの目論見は図に当たり東軍は幸村の思う壺に嵌りました。 これを以てさしもの大軍を擁する家康も和睦を求めることになります。 二の丸、三の丸を壊平する和睦の条件は周知される処でしょう。
この和睦の条件に幸村は勿論近い再戦を覚悟していました。 束の間の平穏時の幾つかの幸村の書簡が本書に紹介される中にその覚悟が伝えられるものです。 またこの紹介される書簡には猛将幸村の印象からは遠い内容が閲せます。 それは配所で無聊を託ち孤影悄然たる等身大の幸村が記した書簡と変わりないものです。 戦場に勇名高い闘将が実にこまやかな気遣いを同族、知己に見せているのです。 幸村の人物像を本書は 幸村君伝記 にある兄、信之の評 物ごと柔和、忍辱にして強からず。ことば少なにして、怒り腹立つ事なかりし を引き伝えています。 大阪城に溢れる如何にも武将然とした荒くれ者の中にこの人物像を持つ幸村は 秀頼に慕われる処となりそれが後の伝説へ繋がるものともなったのでした。
幸村がその最も本源的な能力を発揮出来るのは戦場に於いて他、有りませんでした。 これは平時は寡黙で穏やかで奢らず飾らない、他人に細やかな気遣いを見せる人物に取っては 或る種、悲劇であったかも知れません。 大阪城に馳せ参じたのも贈られた音物に意気を感じたとするよりは、 己の才を最も輝かしめ得る戦場を幸村は求めていたのでしょう。 人はその才能を最も発揮出来る場所を希求するものです。
そして夏の陣の火蓋は切って落とされました。 初日に混乱の中、伊達の精鋭の足を止めさしめ、 東西両軍の睨みあう中、堂々自軍を大阪城中へ戻す殿を務め、 更には悠々と自らも引き上げて見せたのは幸村ならではでした。
翌日には家康、秀忠の徳川本体も出張って来ます。 齢74を数えながら戦線の中央へ自ら駒を進める家康の叱責を受けた東軍は必死の構えでした。 冬の陣に家康が本陣を布いた茶臼山へ幸村は赤一色の備えで陣取ります。 家康の前陣として展開する松平忠直越前軍1万7千と相対し、 これを突き崩した幸村は二度家康本陣に迫ります。 まさか己が前線に立ち鉈を振るうとは思わず居た徳川旗本は慌てふためき崩れ始めます。 家康は絶望の余り切腹まで覚悟したとされる瞬間です。 しかし三度目の突撃も功奏せず家康の首級を挙げるはなりませんでした。 2日間に及ぶ激戦に満身創痍の幸村は遂に戦場の露と消えたのです、享年49歳。 本書はこの幸村落命の段を、りっぱに死に花を咲かせ、佳名を後世に残した、と結びます。
前線の敗北に秀頼の運命も決まります。 幸村から場内に質として送り返されていた長子大助は 譜代にあらねば落ち延びよとする声にも耳を貸さず近臣と共に秀頼に殉じます。 本書は享年を16とします。 佩楯を帯びたまま果てたその姿は眼にした徳川方武将の落涙を誘ったと言います。
実はこの長子大助の子孫を旗本八木氏は称しているのだそうです。 幸村には一説に四男九女があるとされますが、 三男、四男の後胤も現存しているのが本書に紹介されています。 その華々しい奮戦振りから敵将からも惜しまれ、讃えられた幸村はこうして 叛将であり更には敗軍の将でありながら勝利方の徳川の御世の只中にあってさえ、 名武将たる高名を為しその血統を継ぐことを望む者が絶えなかったのです。
本書には冒頭に 六文会 が紹介されます。 昭和40年設立の真田氏の流れをくむ人々の集まりで、 その入会資格は真田の血を引くと 信じている 者は誰でも入会出来るのだそうです。 即ち日本人であれば誰であろうと皆真田の子孫を称せる訳で、 幸村も子孫達の鷹揚さに草葉の陰から莞爾たるのではないでしょうか。
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