真田一族4~信之社稷を守る

本記事はかたむき通信2012年8月29日の記事、 真田一族3~英雄幸村の等身大像を垣間見る の後を受けたかたむき通信 真田一族 関連の最終記事になります。 新人物往来社から上梓される小林計一郎氏著作の 真田一族 (以下、本書)を拝読した書評を兼ねた記事としています。

幸村と真田一族の高まらせしめた江戸時代中期の成立と思われる書物 真田三代記 はその三代を幸隆、昌幸、幸村、としています。 お馴染み猿飛佐助など真田十勇士も登場する国民的人気を博した物語とは 外れた系統に昌幸長子の信之はありました。 しかしこの信之に依ってこそ真田の家は実に明治維新まで保たれたのです。

顧みれば信之以外は徳川とは常に敵対関係にありました。 特に昌幸は上田城に2度徳川に苦渋を舐めさせ、 幸村に至っては大阪に家康を窮地に陥らせ迄しています。 否、当の信之本人さえ、天正13年20歳の砌、 上田城に籠もる父幸村と共に傍らの砥石城に在って大いに徳川の大軍を破っているのでした。 この際に自身が領する沼田の諸将に宛てた 意気軒昂たる若大将の面目の現れる書状が本書に紹介されています。

信之と弟幸村の運命が大きく分かれたのは此の後でした。 徳川と豊臣の講和がなり、太閤秀吉の天下統一が明確となるにあたり、 長子信之は徳川方に、次氏幸村は豊臣方と誼を通じるように昌幸は図ったのでした。 この父昌幸の決断は後に関が原に望む下野 犬伏の別れ に鮮明に表出します。 如何にしてこの如き事態を現出せしめたかは様々な劇作の題材ともなるものですが、 豊臣時代に於いて信之の態度は一貫していました。 実にこれこそ激動の困難な時代、真田の社稷を保ち得た信之の真骨頂と謂えるものだと考えます。

信之は昌幸、当時甲斐武田の本拠甲府に旗本武藤喜兵衛の長子として誕生しました。 幼名を源三郎と言います。 弟の幸村が源次郎と言い兄弟の順が逆転するのは真田家では長男の夭折が相次いだため 縁起を担いで長男を三郎とする習わしが本書に紹介されます。

信之は長じて信幸と名乗りました。 これが信之に改名するのは実に関が原の後、 徳川への忠信を表すものと受け取られたでしょうし、本人もその狙いがあったのは戦国の習いです。 本書には改名前後の元禄3年と明暦元年の書付が写真で紹介され、 改名だけでなく花押迄家康に似たものに改められているのがはっきり分かります。

その婚姻も家康お声掛かりのものと本書は見ます。 妻は徳川譜代の重臣、 家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八 と迄歌われた本田忠勝の娘で小松殿と称します。 この妻女は犬伏の別れのあと、上田に帰る義父昌幸が沼田を通った折に 入城を許さなかった話しが本書に紹介されるようにかなりの気概を持つ賢夫人と言われています。 この夫人の内助の功も有って徳川との関係は強く保たれたのでしょう。

豊臣政権下に於いても信之は実直に徳川に接したようです。 そしてその見事な結晶は皮肉にも犬伏の別れに続く 徳川秀忠を関が原に遅参せしめた上田城の攻防に見られるのでした。 此処に於いて戦国の非情、昌幸の謀略は我が子、信之をも陥れます。 それは偽りの降伏でした。 慶長5年9月2日に佐久郡小諸城に入った信之を従えた秀忠に昌幸は降伏を申し出たによって 3日、上田城内に使者が使わされた処、どうにも取り止めを得ず、 遂には講和は不調に終わり、秀忠は4日、これを川中島領主森忠正に書状でごちており、 上田城への攻撃を開始したのは5日ですからまるまる2日間を無駄に過ごしたことになります。

本書には態とであるかのように昌幸が撤兵させていた砥石城に信之は 嘗て天正14年には防ぎ手としてその相手だった徳川方の今度は攻め手と入城します。 そして愈々6日の戦闘に於いては周知の通り徳川方は苦杯を舐めさせられるのでした。 この体験が後の信之の弟、幸村の大阪城真田丸の戦闘に活きたのは間違いありません。 秀忠が上田城攻略を諦め押さえを配置の後、関が原に向けて歩を進めたのは8日、 実に5日もの貴重な期日を空費、家康の叱咤を受ける結果となったのは世情の詳しい処でしょう。

此処に特筆すべきは信之とその甚大な被害を蒙った秀忠の信頼関係です。 秀忠は森忠正に厳しい口調で真田を咎めているにも関わらず、 この時、信之を信じて疑いません。 それだけの忠節を尽くして来たとは言え信之の喜びは如何ばかりだったでしょう。 犬伏の別れの後、上田に向かう父弟とは逆に家康、秀忠の元へ馳せ参じた折、 家康が6月27日付けで安堵状を与え、また信之は質に次子信政を差し出したのを賞し、 秀忠が吉光の名刀を与えています。 関が原の合戦に関わる真田の書状が総て現存しているのは、 これら書状をその名刀と共に収めた 吉光の御長持 を昼夜藩士が監視する体制を真田家ではのちのち迄保っていたと本書に紹介されますから、 信之の当時の心情が推し量れようと言うものです。

いくら局地戦で大軍を退けようとも関が原に大勢が決せば 昌幸は降伏し上田城を明け渡すのを余儀なくされます。 しかしその上田城を徳川から受け取ったのは安堵状の通り信之だったのでした。 信之は従来の沼田2万7千石に加増分3万石と、昌幸の遺領上田3万8千石を手に上田城に移ったのです。 またこの時、信之は恩賞に替え父弟の助命を乞い、 昌幸、幸村が死一等を減ぜられたのは昌幸の項にも幸村の項にも記す処です。 諸々鑑みれば即ちこれは見事な代替わりであったと言わざるを得ないでしょう。 それは江戸の安定期にも稀な戦国の最中だからこその世襲であったのかも知れません。

93歳と長命を保った信之は幸か不幸か、大阪の冬の陣、夏の陣には病を患っていました。 参陣したのは長子信吉と次子信政でした。 此処迄穿って見るのは已めておきましょう。

本書には徳川無二の忠臣として忠勤を励みながらその軍制や民制については 頑なに武田時代の遺制を守る全国的にも稀な信之の姿勢も紹介されています。 それを評して表面的には徳川氏への忠節を守りながら信之は妙な処で 一匹狼的な孤独性、封鎖性を持ち続けていたとします。

真田一族の記事の嚆矢とした幸隆の項ではそのタイトルに含む真田の紋を六連銭としました。 世に通じるのは六文銭ですが本書に正式には六連銭と言うとあるのに従ったものです。 六連銭は、 真田の本流海野の嫡流が鎌倉期、海野弥平四郎幸広が木曽義仲の将として寿永2年 備中水島に平氏と戦い戦死した際の波の形が銭を連ねてあったのを模したのだとも、 武田から軍功を賞して金銭6枚を賜るのに始めるとも、説が紹介され、 その原初の特定は難しいようですが本書は孰れ仏教の六道銭から来たもので、 これが棺箱に収めるものたれば戦場に臨む真田一族の決死の覚悟を示すものとするのを 最後に紹介しておきましょう。

本書はその跋文に、 徳川の権力の重さで息もできぬくらいであった江戸時代の人々に、 戦国の終わり、徳川時代の黎明期の真田一族の奮戦が一服の清涼剤となり、 斯くて真田三代記の産まれる処となり一族の名が上がったとします。 正しく真田の名は時の政権に逆らって庶民の人気を博したもので、 其の最中に真田の家を保つ難事を見事信之は成し遂げたのでした。

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