本記事はかたむき通信2012年8月22日の記事、 六連銭の系譜に滋野氏筆頭として頭角を現した初代幸隆『真田一族』書評1 の後を受けています。 新人物往来社から上梓される小林計一郎氏著作の 真田一族 (以下、本書)を拝読した書評を兼ねた記事としています。
真田の興隆初代 幸隆 の死の翌年、一族の悲劇は続きました。 織田徳川連合軍との間に起きた 長篠の合戦 です。 この戦に真田家長を襲ったばかりの幸隆長子 信綱 並びに次子 昌輝 は落命しました。 期せずして幸隆三男である本記事主人公 真田昌幸 は家督を継ぐこととなったのです。
天文22年真田が武田に与し、秋和350貫の地を与えられるに当たり 幸隆は三男昌幸を人質として甲府へ送りました。 しかし父幸隆の忠勤もあり、昌幸当人の栴檀としての芳しさも見られたのでしょう、 信玄の近侍として仕え、加えて甲斐名家に絶えていた武藤の姓を与えられます。 その優秀さから旗本として頭角を現せば、 最早家内に人質としての感覚はなくなっていたのは確かです。 永禄4年の川中島の大合戦にも混乱の中 信玄の傍らにこの時14歳の昌幸は少しも退かず侍ったとの逸話もあります。 本書ではありませんが昌幸は 信玄の目 と迄言われたとも聞きます。 昌幸は信玄の側近、使番としてその死まで重要な役割を担ったのでした。
天正元年の信玄の死は武田を否応無く衰亡に追い遣ります。 それでも翌々年迄は余勢を駆って武田は勝頼の元に版図を広げます。 天正3年長篠の合戦が武田に取ってターニングポイントとなったと共に、 昌幸の人生も大きく転換します。 時に昌幸29歳、長兄、次兄の戦死を以て武田家中に大きな存在となった真田の跡目を継いだのでした。
昌幸の役目は旗本武藤から真田の役目を襲うべく 上野攻略を担うことになります。 幸隆の下に真田が岩櫃城、岳山城、箕輪城と版図を広げた先を昌幸は睨みます。 当時の上州の箕輪、厩橋と並ぶ要の一つ、沼田上の攻略です。 攻略の途上、勝頼の命に依って川中島地士が促された際の書状で 当時の武田軍では兵糧は原則参陣武士の自弁とするのが分かる興味深い事例も本紙に紹介されます。
そして天正8年5月、攻略は見事なりました。 真田の棟梁としてその実力を滋野一党に示す落城でもありました。 昌幸の在番への軍令からは如何にも戦国らしい実践的な条項が 幾つも見られるものとなっているのも本書の取り上げる処です。 更には昌幸の発行する宛行状などからは武田の運気衰亡もあってか 既に独立の気風が見られるのも昌幸が戦国の世の武将ならではのものです。 以降昌幸は沼田領の確立に力を注ぎ、 上州に己の勢力を扶植して行くのでした。 此処に孰れ武田からの独立を読んでの空気が流れているようです。 この時奇しくも勝頼は甲斐韮崎に新府城築城を決めて居り、信玄が唱えた 人は城人は石垣人は堀情は味方仇は敵なり の逆を行くのは武田の衰運も極まったのを現していました。
新府城の完成未だ見ぬ内、織田の攻勢が始まります。 それは宛ら熟柿の落ちるが如きでした。 木曽義昌が武田に叛旗を翻し織田に属したのです。 この時新府城に勝頼とともにあった昌幸は要害岩櫃城への退却を献策します。 その準備に自身は岩櫃へ急ぎましたが、勝頼は後を追いませんでした。 譜代の臣、小山田信茂の言を入れ岩殿へと方向を転じたのです。 道すがら小山田の変心が明白となった際には何を思ったのでしょう。 又もや方向を転じた勝頼は天正10年3月11日天目山の麓、田野に討手の滝川一益に追い詰められ全滅、 此処に新羅三郎義光に端を発する名門武田家は滅亡したのでした。 天目山の先には上州に繋がります。 本書は勝頼は岩櫃に向かおうとしたのではないかとしています。
上州に勢力を扶植し得たのも落ちたりとは言え武田の後ろ盾あってこそでした。 今それは失われ上杉、北条、徳川の三方の大勢力が思い思いに旧武田領を切り取る渦中に 真田一族は翻弄されねばなりませんでした。 幸隆が上州に追われて以来の真田一族存亡の秋と言っても過言ではありません。 少しでも判断を誤れば大勢力の只中にあって真田は瓦解する他ありません。 しかしこれは武田の譜代でも無い戦国に一匹狼として独立する 真田の面目躍如であったと言って良いのかも知れません。 心底にこの幸隆から受け継いだ気概有ったればこそ 昌幸は生き残りを掛け全身全霊で危難を乗り切るべく努められたのでしょう。
昌幸は天目山に勝頼が落ち延びる頃には既に北条に帰順の打診を両度に渡り申し入れていました。 これが天正10年3月のこと、しかし翌4月8日には織田信長に馬を贈り臣従の意を表してもいます。 旧武田領切り取り次第の中、北条は7月に小県郡海野平に進んだときには昌幸は北条軍に参陣しています。 同じとき、上杉に帰順した海津城主高坂弾正が謀反を疑われ海津城中に殺されたのを見れば 如何に武田旧臣の去就が困難を極めたかが分かります。
時代は激動します。 天正10年6月2日、武田を滅ぼして天下統一目前の織田信長が本能寺に斃れました。 家康は織田に気兼ねなく甲斐、信濃攻略をなすのが可能となったのです。 この状況下に北条、織田に靡く素振りを見せながらも何と昌幸は天正10年9月、 北条に叛き徳川に付くことを明白にしました。 本能寺以降については後の太閤秀吉を中心にした文献は多く世に流通しますが、 本書には当時の状況を家康を中心に如何に信濃攻略に心を砕いていたかが記されており参考になります。 知行安堵、宛行いに空手形の濫発は調略、勧誘を焦る家康の当時の心境が窺い知れます。 当時は信濃随一の大家となった真田の扱いは破格でしたが、 このようにあてのならない契約でもあったのでした。 しかし北条の大軍侵攻にも関わらず家康の調略が上回り甲斐、信濃に 徳川に帰順するものが弥増す内の一人が昌幸だったのです。
この時期は真田に取って地方の大名としての切り取り次第の戦から 天下の戦へとその形態を変容して行くかの如く見えます。 それは周囲の大勢力の中に実に難しい舵取りであったでしょう。 織田と北条が消え、秀吉が大きな存在として浮かび上がるなど 困難極まるのは大勢力も同様である中、 昌幸はその大勢力の事情に翻弄されならがも情勢を鋭く見抜き 時に上杉に付き、時に羽柴に付き、実に上手く真田家を切り回しました。 本書に上田城を築城し、大軍徳川を退け、信之、信繁(幸村)の両子を質に出し、 小田原の役では上野に大いに実力を発揮したのは詳しく見られます。 そして遂に秀吉の天下一統を見るに至り、 徳川さえ関東移封を余儀なくされる中にも遂に本領の東信濃及び西上野を守り抜いたのでした。
しかし漸く得られたかのこの安寧は仮初めのものでした。 天正18年(1590年)から10年も経ない慶長3年(1598年) 天下人太閤秀吉の死です。 愈々天下分け目の決戦、関が原へと時代が雪崩れ込む時、 真田は実にその最大の決断の秋を迎えたのです。 下野の国、犬伏でそれは父子3人に長時間に依りなされました。 その結果、長子信之のみ徳川に、昌幸と幸村は豊臣につくこととなりました。 本書は此処に石田光成との婚姻などに依る密な関係が影響したのではないかとも、 昌幸の家康への反発心が有ったのだろうかとも推測します。 本書の言及を閲し、此処に更に加えて思うのは昌幸は生粋の戦国武将であっただろうということです。 東軍の只中に有ってその状況も士気も知り、 尚且つ地勢上も危険な西軍への帰属は些か常軌を逸します。 これは天下と謂わずとも更なる大領地を希求する 戦国武将ならではの野心あってこそと思われるのです。
此処はまた数多の講談や劇作、小説に言及される真田一族畢生の見せ場です。 川柳の好題目としても機能しているそうで本書に取り上げられる3句を如何に引用しましょう。
上田の名産や、真田の六文戦、昌幸の役職を織り込んだ巧み作には思わず唸らされます。昌幸の智謀は上田城に発揮され、徳川の大軍はまたもや苦渋を呑ませられ、 徳川の世継ぎ、秀忠は関が原への遅参を余儀なくされたのでした。 本書には真田を主に取り上げるだけあって此の件は詳しくあります。 焦れる徳川陣内の後の不協和音、後の宇都宮の釣天井に繋がるいざこざなども記され興味深い処です。 しかし真田は勝てども関が原に西軍は稀な大敗北を喫したのでした。 昌幸は徳川方に与した長子信之の必死の助命嘆願もあって死一等を減ぜられましたが、 高野山に失意の日々をその最期の時を迎える迄、過ごさねばなりませんでした。 慶長16年6月4日、享年64歳でした。
高野山配流の望んだ昌幸はその恐ろしげな眼から涙をはらはらと流して 「さても残念だ。内府(家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに。」 と語ったとされる 真田御武功記 を本書は引きます。 西軍に付いた昌幸と家康には矢張り心底から通じ合えぬ以上の反発し合う何某かが存じ、 表には現れぬ確執が滞留していたのかも知れません。
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