主題として取り上げたのは 是非に及ばず 、この言葉の取り扱いによって取り扱った者の歴史に対する知見のほどが分かるとしたのが、 本能寺の変 ~信長の油断・光秀の殺意~ (以下、本書)の書評記事 前編 に於いてでした。 藤本正行 氏(以下、著者)の執筆した本書では 序章を零とした章立ては以下となり、 その第2章に焦点を当てた記事でもあります。
- 明智光秀軍の人数は?
- 光秀の動機と本能寺の変
- 「是非に及ばず」と信長の性格
- 光秀を突き動かしたもの
- 光秀と重臣たちの最期
NHKなどの影響力の強いメディアも然もあれ、 歴史学者を名乗る人物迄が確たる証拠もない妄説を撒き散らす現状に 愈々堪え切れずに警鐘を鳴らさんと上梓された本書の序章に先ず小手調べとして挙げられるのが 本能寺を襲った明智軍の人数であり、 此れを確定的な数字を挙げてみたり、 剰え斃された信長さえその人数を把握していたと記す愚行が 罷り通るのに批判を加えるものです。
凡そ当時に総大将が自軍に於いてさえその実働兵力を計り知るのは困難で、 況してや事前に与り知るなど論外であるのが論拠立てて記されますが、 本記事に於いては別の文献に其れを示すのを見てみたく思います。 かたむき通信に 細川幽斎 の書評中編[K1] として記したのには、天正7年7月細川家が丹後を平定しようと言う弓の木城攻めの一戦に 望外の3千の兵力が集まったのが知られます。 即ち勝利が決まりたるものであれば勝利者側の軍が膨れ上がるのが見て取れ、 其れは総大将を以てしても勝手気儘な制御は不能な自軍の兵力を窺わせるものです。 況や不測に攻められる側に於いてをや察せられる筈もないのは無論です。
攻め手明智軍の軍勢の兵数を信長が正確に知っていた如き発言を伴う言説は以てインチキであり、 時代が下って小説を参考書に歴史事実を騙る者の度し難い所業と言えます。 更には本書は駄目を押すように実際に本能寺に攻め掛かったのは 状況、常識から鑑みて先手の3,000程であったろうとし、 光秀自身は事態の変化に対応すべく主力と共に後方に陣取ったとすれば猶、 探偵小説好きの似非研究者の本能寺に関する言説の怪しさが際立つものです。
斯様に現在歴史学研究家に探偵小説が蔓延っているためからあらゆる事象に 陰謀説 が持ち込まれる結果となるのには嘆息の漏れるばかりで、 然るに著者は本書をものし、陰謀説を一蹴したのでしたが、 では本能寺の変は如何にして起こり得たのか、本書第1章第3項 事件直前の2人の行動 冒頭に変の原因を一言に約めます。 本能寺の変は偶然の産物である。 と言うのです。 偶然と言う纏め方は些か御幣があるかも知れませんが、 余りにも世に蔓延る陰謀説との対比の為に敢えてこの言葉を選んだのでしょう。 以下これを証明するために史料を引きつつ著者の論が展開されるのは 陰謀説が其々余りにも根拠の乏しい謂わば妄想に近い論を展開しているからでもあります。
何故この如き陰謀説の蔓延る様相を呈し得るのか、と言えば それは資料、史料の多くが失われ残っていないからでした。 この失われた資料の事情については本書に明智家関係者が変直後に 証言も記録も残さず殆ど死に絶え滅びたのに因があるとします。 生き残りも自らの難しい立場に生存を賭けて口を噤み、関係資料を破棄したに違いないものです。 書き換えられた関係者の日記もあるとされ、 実際京の行政に深く関与した光秀の大量に発給した筈の書状も今日に余り残されていないのでした。 本書の終章200頁には本能寺を成功裏に運ばせしめ自身は近江へ駒を進め安土城を占拠、 自身は坂本城にあって各方面に協力要請の書状を此の時書きまくったのは間違いないと推測されるのに、 現在此の類で残るのは現在の大垣市、美濃野口城の城主、西尾光教宛て唯一通であると言います。 斯様に本能寺と言う日本史上に稀な、重要な、劇的な事件でありながら、 しかも資料の裏付けがなかなかに取り難い状況となれば、 妄想の言った者勝ちとなる陰謀説を携え 一攫千金を狙う詐欺師の跳梁跋扈する場となるのは無理がないのかも知れません。
詐欺師は言い過ぎにしても、かたむき通信にものした 信長と十字架 ―「天下布武」の真実を追う の書評記事[K2] に、まるで事務所にせっつかれた崖っぷちのバラドルが 何とか出演したテレビ番組に爪跡を残したいと焦る様にも通じる、 と記した処の様子が、例えば第1章81頁の 意図的な筆跡の変化? に面白い迄に再現され、歴史新事実の発見したがりの名探偵の過剰な迄の自意識及び承認欲求の肥大化は 些か憐憫の情を催す程のものです。
其れ等陰謀説に於いて面白いのはオレオレ詐欺などの手口の一般化と同様で 定型化がされる状況が見て取れることです。 其の一つが 細川幽斎 書評前編[K3] に於いて主題とした 是非に及ばす の劇中台詞化であり、また一つ、明智光秀の気質、性格、属性があります。 光秀をして黒幕に踊らされる人物に相応しいにステロタイプの気質が採択されるのです。 小説を参考書に歴史を騙る者の落ち易い陥穽と言えるでしょう。 通説に於けるその性格は温厚篤実、教養人、文化人、勤皇家、旧守派であると共に線が細い人物であり、 理想主義者、博愛主義者であるとするものです。 例えば講談やドラマでは信長の暴挙として通用している 比叡山焼き討ち では信長に諫言、諫止したり焼き討ちに手心を加える様も描かれる処の多いものですが、 本書は此の通説に対して光秀の焼き討ちの10日前、9月2日付けの比叡山付近の土豪 和田秀純に宛てた書状を挙げます。 以下に引用しましょう。
仰木の事ハ是非ともなてきりニ仕るべく候。
恐らくは反織田勢力だったであろう大津市仰木町の撫で斬り、即ち皆殺しを命じるものです。 著者が第一級史料として大いに活用する 太田牛一[K4] の著す 信長公記 にはこの焼き討ちで恩賞の与えられたのが記されるのは光秀一人のみで 志賀郡を与えられ、坂本城を築き、此処を根拠地にして以降勢力を伸ばしていくのでしたが、 探偵小説風に言えば最も恩恵を受けた彼こそが比叡山焼き討ちの真犯人として 信長を焚き付けたとしても良いくらいのものではないでしょうか。
陰謀と黒幕の大好きな連中の言及に如何にも題材となりそうな 比叡山焼き討ちの真犯人が取り上げられないのも不思議ですが、 また少ない史料の中にも貴重な資料としてある光秀と関係が深くありながら 明治維新まで家を存続し得た細川家について記した綿考輯録が利用されないのもまた奇妙です。 綿考輯録を下敷きにし、かたむき通信に歴史学者、研究者のための、 此れは真っ当な方に限りますが、としたとは言え一般向けに上梓された 細川幽斎 でさえ探偵小説と歴史事実の区別の付かない陰謀説連の 手に余るのかも知れぬものと考えた方が良いのかも知れません。 本書には折に触れ取り上げられる処の細川家記及び細川家文書等と記されるのが奈辺かは 浅学にして判じ兼ねますが、 文面の一致などから綿考輯録及び其れが底本とした平野長看撰述の細川家 御家譜 などの拠った処と同じゅうするであろうならば 細川幽斎 は以て閲する価値を有するのは違いありません。
例えば48頁には光秀が美濃を離れた原因について、 49頁には光秀が越前に朝倉義景を既に見限り、足利義秋、幽斎主従に信長を推挙した件について、 前者は 細川幽斎 には幽斎に特化抄録されたもので特には記されませんが、 後者については28頁に物語風に記され、事情として光秀は朝倉家の家臣鞍谷と仲悪しく 讒言を受けた義景に疎んじられていたことなども記されています。 また書評前編 〔K3〕 に特に主題として取り上げた第2章にも113頁に細川家文書として収められる 信長の幽斎宛て天正元年2月23日付け及び3月7日付け黒印状が紹介されますが、これは 細川幽斎 の65頁から71頁に2月26日、2月29日書状を併せ4通が文面と共に載せられます。 更には第3章 光秀を突き動かしたもの の第2段 六十七歳の反逆 に主に取り扱われる本書が光秀の絶筆として有名な6月9日付けの覚書、と紹介する書簡は 細川幽斎 には幽斎の本能寺の変を知っての剃髪と言及に同意剃髪した忠興の元に光秀の使者として 沼田権之助光友が齎した書簡として文面と共に紹介されますので、 以下に記し置きましょう。
此の覚書には
細川幽斎
に於いて文面後の光秀の名の下に
血判
と記されてもいます。
本書は此の文面の内、第3条を扱うものです。
同じく本書第3章には史料の誤読について言及した部分があり、
古文書の日付記載を最優先しない姿勢は
細川幽斎
では、かたむき通信の書評前編[K3]
に記したように底本編者のみに拠らず他研究者の文献を参照するなど、
歴史学者になくして猶、貫かれており、所謂専門家も肝に銘ずべき態度であるでしょう。
加えて本書にも70頁に言及される本能寺前の愛宕山
以上、態々細川家文書を渉猟せずとも書店にて入手可能な中公文庫版 細川幽斎 を読めば宜しい訳で、本書を裏付けるにも、陰謀説などに走る妄挙をせずに済ませるためにも かなりお手軽に参照に供せる資料も有るのが分かります。
陰謀説の跋扈するのは其の因たる光秀の動機が窺い知られぬ処にあるでしょう。 その意味で本書第3章に 光秀を突き動かしたもの と題さるれば本書に主となり紙幅を多く割かれるのは必然です。 此処に於いて見るべき処のある論説及び妄説を取り混ぜ紹介して 対する疑義と其れを発す理由を述べ、或る時は本書の目的でもある妄説を論破しながら 光秀の動機に迫ろうとするのが本章となっています。
本章は以下5段に設えられる内、先の4段が疑わしくある他論に言及し、 最後の5段目に従来主張する自説と其れを後押しする資料の出現を紹介しています。
- 光秀が最初に告白した男
- 六十七歳の反逆
- 足利将軍黒幕説と史料の誤読
- 光秀の子孫が唱える奇説
- 注目すべき利三の息子の遺談
光秀の動機については著者自身が人間のやることを唯一の因に帰するのは難しいとするのは
陰謀説の多くが分かり易いための紋切り型の動機が採用されているからでもあります。
著者の此処に推す動機は従来著者が、かたむき通信に書評をものした処でもある他著書
信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像 (歴史の想像力)
や
信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う
などに唱えて来た当時の状況を鑑みた光秀と周辺の背景と
実に良く符合する資料の登場に負わせるものとなっています。
其の資料とは
此の利宗遺談を著者は一級資料との符合具合、常識的見地などから信憑性の高いものと位置付け、 其の内容には光秀が重臣達に謀叛を伝える箇所があり、 其処に数行、光秀の動機が語られているのを採用したいとするのです。 以下に其の部分を抜粋して其の儘記しましょう。
吾等身に取て殺さるゝ程の罪科はなけれども、
信長公吾等を誅すべしとて数箇条の罪を数へらるゝなり。
この信長の怒りを光秀が買ったのが ルイス・フロイス が 日本史 に記した処の家康の饗応について両者が密室で話した際に光秀が信長に足蹴にされた場面であろうとし、 因は饗応に限らず、当時両者に不協和音を醸し出していた 斉藤利三の取り扱いと四国政策の転換なども挙げられるべきとしています。
惜しむらくは利宗遺談は高瀬氏の筆を介してのみ世に知られ 高瀬氏の転写の拠った古文書の現存が確認されていない処です。 此れについては著者も重々承知しており疑義を発すべき部分には其れを記してもいます。 従って歴史史料を以て本能寺の変の動機の確定はならぬのでしたが、 高瀬氏が所有していたと言う江戸期の古文書に含まれる利宗遺談の発見が待たれる処です。
本書は本能寺の変を起した光秀の動機を以上の如く言い切りました。 さて事件の勃発と其の目論見の成功には動機と共に時を得るのが重要なものとなるのは論を俟ちません。 此の後者の機会と前者の動機が相俟ってこそ事件は惹起されるのでした。 なかなかに動機の特定は著者の言う通り一つに帰せられるものではなく曖昧模糊とせざるを得ませんが、 機会については動機に比較すれば状況から窺い知るのが容易で明瞭なものとなります。 謂わば機会が有って初めて動機が顕現せらる訳で、 其の意味では陰謀説に活躍する黒幕達は動機に満ち溢れてはいたのでしたが、 機会を得た明智光秀を以て連動して今の世に其れを知らしめられてもい、 陰謀の好きな歴史探偵家に持て囃されてもいるのでしょう。 此の本能寺の変を惹起せしめた機会については稿を改め 書評後編で本書終章に位置付けられる第4章 光秀と重臣たちの最期 と共にかたむき通信に言及する予定でいます。
使用写真 かたむき通信参照記事(K)- 出生から本能寺迄『細川幽斎』書評中編(2013年3月10日)
- 天下布武の武の字義『信長と十字架』書評(2012年9月14日)
- 歴史学者、研究者のための書籍『細川幽斎』書評前編(2013年2月1日)
- 当代随一のドキュメンタリー作家太田牛一『信長の戦国軍事学』書評1(2012年11月12日)
- 書評前編~是非に及ばす(2013年2月23日)
- 書評中編~突き動かしたもの(2013年3月28日)
- 書評後編~謀叛機会と謀反人の最期(2013年8月5日)