鎌倉開府と源頼朝~書評前編~武家政権揺籃期の再確認

歴史の興味を持つ者も生活に追われるうち些か遠ざかる仕儀と相成れば勘も鈍ろうと言うもの、 親しんだ筈の人物名や建築物の名称が出て来ないなどの症状がある際は、 時折手軽に読める基本的な書物に目を通すのも好いかも知れません。 教育社歴史新書の日本史第51巻に置かれる 安田元久 氏(以下、著者)の手に上梓さる 鎌倉開府と源頼朝 (以下、本書)はそのような目的にも上手く適合する 題目の時代前後を改めて概観するには好適な書籍です。 本ブログ記事は本書の書評としての前編をなすもので、 序章より第4章までを取り扱うものです。

著者は特に日本の中世前期に関する諸問題の考究にに専念する学者で、 この方面を志したのも源頼朝に依る武家政治の創始と初期封建制の成立に対する 強い関心が出発点となったものでした。 著者自身は源頼朝の武家政治の創始を 日本歴史上にも際立って重要な意義を持つ歴史事象の一つとして捉えています。 従って平氏政権と現時政権は根幹的な構造部分から峻別されているのでした。

章立ては以下となっています。 0で表すのは序章を意味しています。

  1. 「武家政治」と「幕府」
  2. 武家の棟梁
  3. 治承内乱の前夜
  4. 天下草創
  5. 簒奪の政権
  6. 平氏の没落と頼朝の政略
  7. 鎌倉開府
  8. 全国的軍事政権の成立

一般に武家政治の時代と言われるのは鎌倉幕府創設の12世紀末から 江戸幕府崩壊の19世紀末の約700年程を指しますが、 それだけの長期間に渡ればその所謂武家政治が同質のものであり得よう筈もありませんが、 往々にして均質なものと捉えられる誤解が生じてもいます。 頼朝の創始となる鎌倉の政権が武家政権であるのは論を俟たないが それは江戸の人々の体験した武家政権と同質のものではなく、 吾人は改めて12世紀末期の武家政権の歴史的存在形態を、 その時代と、その社会に対する総合的理解を踏まえた上で追及すべきであると著者は主張します。

序章には上段の如き本書を総括する主張と共に人口に膾炙した 鎌倉開府の年号についても触れられています。 従来建久3年1192年7月に頼朝が征夷大将軍に補任されたのを受け、 また吾妻鏡同年8月5日条に、 将軍に補せしめ給うの後、今日政所始あり、 と見えるのが幕府成立年号の根拠とされています。 しかし鎌倉以前からの習慣に近衛大将の居処若しくは近衛大将そのものが 頼朝の時代には幕下と同様、幕府と呼ばれたのであって、 単に名義的にいうならば建久元年1190年11月の頼朝の近衛大将補任を以て 幕府の成立と呼ぶのが正しかろう、と言うものです。 吾妻鏡には頼朝の呼称はその官職に依り始めは右兵衛佐から武衛、 従二位に叙されてからは二品、右近衛大将に任じては右大将家或いは幕下、 征夷大将軍となっては将軍家と呼んでいるのを編者の見識とします。

以上の謂わば本書の世界観ともなる主張のあった序章に次いでは 第1章、第2章は頼朝前記となり、源氏の父祖の略歴と平氏の台頭及び 頼朝雌伏の期間でもあります。 この時期12世紀中頃の武士は、平氏、源氏などの棟梁級は別にして以下3つに分けられるとします。

  • 豪族的武士
  • 根本領主的武士
  • 名主的(地主的、村落領主的)武士

これら大まかに分けても3種ある武士の系譜は実に多種多様でした。 しかし中央にあっては侍の語源がさぶらふ(仕える)であったように 貴族的権威へ臣従する者でもありました。 此処に武士階級に貴種性が尊ばれ重きをなす根源もあり、 河内源氏こそ貴種の最たるものとして登場、 前九年後三年の役の特に後三年の役に八幡太郎義家が朝廷から私闘と断じられ、 将士の恩賞も私財を以て当てては、 更に武家の棟梁としての地位を確固たるものとするのでした。

この時を鑑みれば朝廷の決定は自らの失墜を招く淵源であったのかも知れません。 しかし朝廷は源氏の興隆を歓迎出来ませんでした。 この間隙を縫ってこそ平氏の栄達はありました。 源氏に変わって勢力を伸ばした平氏の経済的基盤はしかし 院近臣の受領層、或いは藤原政権の経済的基盤に類似するものです。 その上で古代政権と比しての特質は軍事的独裁制にありました。 それでいて地頭補任は私的なものに過ぎず中央に地方権力集中の機構を構築し得なかった処に 平氏政権の限界と脆弱性があったと本書はします。 この状態はやがて何らかの因縁あれば結集し得る地方武士勢力への期待、 即ち院近臣に因る鹿ケ谷事件となって露呈します。

翻って源氏方を見れば関東に扶植された勢力は 唯に前九年後三年の役に拠るに留まるものではありませんでした。 頼朝の父、義朝の代に鎌倉亀谷に居を構え相模の国を中心に、 武蔵、上総、下総など南関東に大いに働いていたのでした。 南関東に孰れ頼朝の代に花開くそれら布石は八幡太郎義家に依るだけではなかったのです。 この時頼朝の兄、悪源太義平は義仲の父義賢の軍を武蔵大蔵館に破り 叔父義賢を討ってもいるのでした。

以上の経緯あって第3章に頼朝が華々しく登場します。 雌伏20年を過ごした後以仁王の令旨を得て治承4年1180年4月27日に山木館を討った頼朝は 石橋山に一敗地に塗れるも相模湾に逃れ瞬く間に負け太り、安房、上下総、武蔵の兵を配下に組み入れ、 敗戦から僅か数ヵ月後には大軍を率い10月6日、鎌倉入りします。

南関東を支配して更には東国支配へと関東経営に尽力する頼朝の施策は 公家政権とは対峙しないながら当時の公的権力であった平氏と直接敵対するものであり、 第4章に題目付けられるように簒奪政権の様相を呈しました。 養和元年1181年10月20日富士川の合戦の勝利に依り関東経営に打ち込む状況も整いました。 因みに巷間よく言われる 水鳥の羽音 に剣を交えることなく敗走した平氏軍も 東海道を下るに状況が思わしくないのが顕わとなって漸次軍容が崩れ、 遂に富士川畔では2千騎迄に減少するに対し、 対峙する甲斐源氏武田の4万騎に黄瀬川から進んだ頼朝の大軍が加わっては固より無理な対陣です。 源氏軍の始動に回り込まれ、包囲されるのを恐れての 上総介忠清の退却主張に続く敗走は無理からぬ処でしょう。 これを追走しなかった頼朝の判断こそ讃えられるべきです。 これを以て益々独自色を濃くする頼朝の政権は中央の改元を受けてもなお 治承と公的文書に記したことで伺われるものです。

本書に武力を以て自立、この地方政権を構築した頼朝の依って立つ 根拠は以下の2つが挙げられるとします。

  • 以仁王の令旨
  • 源氏の嫡流

そしてこれを支えるのが関東地方の豪族的武士達の新体制樹立への主体的意思がありました。 古代律令的公家政権支配に反抗、更には否定の意思さえも持たれ、 独自の所領支配方式と武力的ヒエラルキーが新政治組織の誕生を期待したのでした。 此処に至って平氏政権が保たれよう筈もないのでした。 墨俣川の合戦で雪辱を晴らすもそれ以上東国への進撃は許されませんでしたし、 以て頼朝の東国経営は着々と進行したのです。

東国経営は現時点で簒奪に過ぎない政権ではありました。 墨俣の敗戦は頼朝のこの政権の有り様にこそ影響を与えたのでした。 平氏政権否定は妥協できませんが旧来の国家権力の完全否定は不可能であり、 また頼朝にはその意識もなかったものと本書はします。 この時期初めて頼朝と院の間に連絡を取られた史実が頼朝の蜜奏として 玉葉の養和元年8月1日条に見えもするのでした。

それでも時代は着実に移り変わるものです。 今は簒奪されたに過ぎない政権もその実質を基盤として 平氏政権を妥当し公家政権と折り合いをつけ 公的に全国を覆うこととなる第5章以下は後編の記事に譲ります。

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