日本の中世前期に関する諸問題の考究にに専念する学者たる 安田元久 氏(以下著者)の執筆した教育社歴史新書の日本史第51巻にあたる 鎌倉開府と源頼朝 について序章より第4章までを拝読した上にものした書評がかたむき通信の2012年10月14日の記事 鎌倉開府と源頼朝~書評前編~武家政権揺籃期の再確認 、本ブログ記事は本書の書評としてそれに次ぐ後編をなすものです。
序章を0で表した際の章立ては以下となっており、 本記事は主に第5章以下のついて記す処です。
- 「武家政治」と「幕府}
- 武家の棟梁
- 治承内乱の前夜
- 天下草創
- 簒奪の政権
- 平氏の没落と頼朝の政略
- 鎌倉開府
- 全国的軍事政権の成立
前編に未だ簒奪政権としてあった鎌倉政権を取り扱いましたが、
第5章の平氏の没落と頼朝の政略に至るや源平の盛衰交代の対比は鮮やかに浮かび上がるものです。
寿永2年1183年5月11日には源義仲が
範頼、義経の頼朝から遣わされた大軍は京より義仲を追い落とし近江粟津に敗死せしめると
間髪入れず平氏追討に京を進発しています。
頼朝の命を受けずに進軍するのは予め予定に組み込まれていたからに相違ありません。
義経の
平氏族滅は即ち頼朝の兵馬の権完全掌握を示し、
東国に揺ぎ無い基盤を以て愈々頼朝の対朝廷の政略が進むことになります。
其れは最早朝廷政務への干渉と言えるものでした。
同時に足許を固めるにも抜かりなく、挙兵の始から馳せ参じた武士たちを組織統合する
御家人制
の推進、全国的展開に心を砕き、更には政権の機構の骨格を自らの家政機関に求め、
日本史上に悲劇の英雄として名を残す源義経です。
平氏追討に
西に憂いを断った頼朝は全国制覇の最後の砦、奥州藤原氏征伐に向かいます。 この時さえ義経は好餌として機能するのでした。 平氏追討に輝けるばかりの功績を示した同人物のその対極的な都落ち、奥州庇護下の境遇は 正しく悲劇の英雄と世に名高きその声価に相応しい対称でしょう。 そして藤原秀衡の後を継いだ泰衡は頼朝の圧迫に屈し義経は遂に落命します。 以て和平を望む公家政権に対し武家政権が止まろう筈もありませんでした。 文治5年、1189年7月19日に奥州征討のため鎌倉を発した頼朝が最終的に催した軍勢は28万4千、 古今未曾有の大軍でした。 頼朝の組織する武士団は全国的規模に達しているのです。
そして建久3年、後白河法皇に死が訪れます。 時の摂政九条兼実は自己の権限を朝廷に確立したと同時に7月に頼朝の征夷大将軍を実現させ 公武の親和が今迄になく密なものとしても確立されたのです。 この年こそが教科書的に鎌倉幕府の成立年とされる1192年でした。 公文所が政所に改められていた鎌倉では下し文の形式も 前右大将家政所下文から将軍家政所下文に改まったのでした。
しかし頼朝が公家政権を温存せざるを得なかった事由が顕わに現出します。
建久7年の政変でした。
鎌倉の圧力を巧みに避けて九条兼実と一族が権勢の座から追い落とされ、
時に京都守護一条能保、高能が死去しては頼朝の代弁者となるべき人材は京からほとんど消え、
最後の詰めを考慮する頼朝自身も建久10年正月、急逝したのでした。
頼朝の死は吾妻鏡にも玉葉にも欠落しています。
なにやら好い小説の題材になりそうですが、本書は吾妻鏡に於いては
編者の配慮に偉大なる武家政権の創始者の死を故意に記録しなかったのであろう、とします。
そして3月11日条に鶴岡八幡宮神事の延引に、
去正月幕下将軍薨じ給う鎌倉中
名月記、愚管抄、百錬抄などからその死は正月13日、
前月の落馬の一件との関連は判然しませんが名月記の、
大略
頼朝の死を以て脆くも崩れ去る如きには既にないほどに この大政治家により武家政権は練り込まれており、 鎌倉政権はその後一世紀半の、武家政権は一層の発展をみながら700年に近い命脈を保ったのである、 として長久を記しつつ本書は結ばれるのです。
追記(2018年7月4日)
源義経が元暦2(1185)年、壇之浦に平家を滅ぼしたものの、
兄、頼朝からの鎌倉帰還禁止の報を受け、鎌倉へ弁明に下る途次、停留を余儀なくされた