腰越状を読む

元暦げんりゃく2(1185)年、壇之浦に平家を滅ぼし、意気揚々と京の都に凱旋した 源義経 は思わぬ報を鎌倉から受けました。 鎌倉への帰還を許さない、と言うものです。 此れを意に介さぬ義経だからこそ、兄 源頼朝 の勘気に触れる部分も有ったのかも知れません、 京から西へ、相模国に入り、境川を渡り、右に江ノ島を見つつ、 父祖伝来の地を目前にして鎌倉入り禁止の沙汰を伝えられた義経は 腰越 に停留を余儀なくされたのでした。

腰越状二態

腰越の 満福寺 に悶々と逗留する義経は時の公文所別当、因幡守 大江広元 に宛てて、頼朝の自分への誤解を解くべく依頼の書状を認めたと言われます。 腰越状こしごえじょう です。 満福寺には其の草案が残されるとも言われ、 全文は今、 吾妻鏡あずまかがみ に見ることが出来ます。 其の真偽は定かではありませんが、 切々たる心情を訴える書状の内容は本邦名文の一つにも常々挙げられる処です。

吾妻鏡の腰越状は今、 国立国会図書館にデジタルアーカイブされたものが一般公開されていますので、ネット上から閲覧が可能です。 徳川家康が吾妻鏡を好んで伝本収集に努め、 中にも伏見版の一つとして慶長10(1605)年活字印行させたりもしましたが、 公開されているデータは無刊記本であり、 幕末及び明治初期の国学者 榊原芳野さかきばらよしの の旧蔵書で、慶長、元和年間に刊行されたものと推定されています。

初學必用萬寳古状揃大全見返し
初學必用萬寳古状揃大全見返し

また、古文書解読会でお世話になっている浜松市在住の 渡邊昌雄 さんが遅くとも天保年間に刊行されたと思われる 初學必用萬寳古状揃大全しょがくひつようばんぽうこじょうそろえたいぜん を蔵されており、其方を借り受け、ネット公開の了承も受けましたので、 画像等を交え、榊原本吾妻鏡の腰越状と比較してみたく思います。 古状揃大全は一瞥して全ての文字にルビが振られており、初学必要、 とも題されていますので渡邊さんは、 寺子屋などで学ぶ時に生徒が使用したのではないか、と考えておられます。 全体を見通しても、恐らくは所謂 往来物おうらいもの と見て良いのではないかと考えます。 腰越状は日本人であれば誰もが其の経緯を知る書状ですが、 初学者が古状揃大全の様な教本から得た知識が、一般教養としての通用を産んだものでしょう。 因みに榊原芳野は天保3(1832)年生まれですので、 此の古状揃大全に学んだこともあったかも知れません。

榊原本吾妻鏡所収腰越状

先ずは榊原本吾妻鏡の腰越状の全文を下に書き起こします。 ブログ記事での必要上、縦書きを横書きに直しています。 振り仮名、送り仮名、返り点などは刊行本に後書きしたものと思われますが成る可く忠実に再現します。 其の際、振り仮名は上に、送り仮名は右上に、返り点は右下に記します。 行頭の数字は底本に則った行数を示します。

  1. 左衛門少尉源義經乍申上候 意趣御代官
  2. ツニシテ 勅宣使 朝敵 累代弓箭 キヨム/スヽク會稽
  3. 恥辱キノ チウ之處外 依虎口ココウ讒言モクシ
  4. 義經無 ヲカシ而蒙 トカ功雖御勘氣之間空
  5. ツラ〻スルニ良藥苦言逆ナリレニ
  6. タヽサ讒者 ルノ之間 不ルニラニ
  7. 于此肉同儀既タリキニ
  8. 宿マルハタ又 感スルカナ バウ
  9. リョウンハ者誰カレレノレン
  10. シキ状雖タリト 義經受體髪 於父
  11. コウノ 殿トノナリ ナシイタカ
  12. 懐中キシ大和宇多郡ウダノコフリ龍門リウモン マキ之以日片 ノセ
  13. ナカラフルト/−ズト斐之イノチ ハカリ 京都經廻ケイクワイ 難治ナンヂ
  14. キャウ諸國々所ヲン
  15. 民百トモ幸慶忽純熟而 為メニ族追 セシム
  16. テアハセンシテ木曽義仲後 為メニンヤ平氏 アル
  17. タルカン セキ ムチウツテ駿 メニタル
  18. イタハラメントテ於海カケ カハ子アギト 加之シカノミナラス
  19. 於枕ギヤフ意併ヤスメ宿トケン
  20. 之外無アマサエ 義經フニンセラルヽデウ 之條當ショク
  21. シカンレニ リト今 愁ナリ 自非タスケ イカテカ
  22. センレニ神諸ゴワウイン ウラ
  23. 旨奉シヤウジ オドロカシ本國小神ミヤウダウマイラストキシヤウ
  24. モン猶以ユウナリウク
  25. 于他 殿ーハ廣元ヲ指ス便
  26. ユルサキヲ之旨預ラハ者 及ホシ於家
  27. 於子孫
  28. セイ候畢ント 賢察義經恐惶謹言
  29. 元暦二年五月日
  30. 左衛門少尉源義經
  31. 進上 因幡前司殿

榊原本吾妻鏡所収腰越状読み下し文

榊原本腰越状訓読文を読み下せば以下の如くなるでしょうか。

左衛門少尉源義経恐れ乍ら申し上げ候意趣は、御代官の其の一つに撰ばれ、 勅宣の御使として朝敵を傾け、累代弓箭の芸を顕し、会稽の恥辱を雪ぐ。
抽賞せらるの処、思ひの外、虎口の讒言に依て、莫大の勲功を黙止せられ、義経、犯す無くして咎を蒙り、 功有り誤無きと雖も御勘気を蒙るの間、紅涙に空しく沈む。
つらつら事の意を案ずるに、良薬は口に苦く、忠言耳に逆う先言也、 茲に因りて、讒者の実否を糺れず、鎌倉中へ入られざるの間、 素意を述べるに能わず、徒らに数日を送る。
此の時に当たって永く恩顔を拝し奉らず、骨肉同胞の儀、既に空しきに似たり、 宿運の極まる処歟、将又、先世の業因感する歟、悲哉。
此の條、故亡父、尊霊の再誕し給ずんば、誰人か、愚意の悲嘆を申し披かれ、 何れの輩か哀憐を垂れん哉。
事新しき申し状、述懐に似たりと雖も、義経、身體髪膚しんたいはっぷを父母に受け、 幾く時節を経ず、故頭殿、御他界の間、實無の子と成り、 母の懐中に抱かれ大和国宇多郡龍門の牧に赴きしよりこのかた、一日片時も安堵の思いに住せず。
甲斐の無き命許りを存うと雖も、京都の經廻、難治の間、 諸国に流行せしめ、在々所々に身を隠し、辺土遠国を栖と為し、土民百姓等に服仕せらる。
然れども、幸慶忽に純熟とて、平家の一族追討の為に上洛せしめ手合わせん。
木曽義仲を誅戮して、後、平氏を責め傾ん為めに、或る時は峨峨たる巖石に駿馬に策って、敵の為めに亡命を顧みず、 或る時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈めんとて痛わらず、骸を鯨鯢のあぎとに懸け、 加之しかのみならず甲冑を枕とし、弓箭を業とす、 本意しかしながら亡魂の憤りを休め奉り、 年来の宿望を遂げんと欲す、之の外、他事無し、剰え義経五位の尉に補任せらるるの條、当家の重職何事か之れに如かん哉。 然りと雖も今、愁え深く、嘆き切なり、自ずから仏神の御助けに非ざるの外は争でか愁訴を達せん、 茲に因りて諸神諸社牛玉寶印の裏を以てさしはさまざるの旨、請じ奉り、 日本国中の大小神祇冥道を驚ろかし、数通の起請文を書き進らすと雖も、猶以て御宥免無し。 我が国は神国也、神は非礼を禀くべからず、憑む所ろ他に非ず、 偏に貴殿広大の御慈悲を仰ぐ、便宜を伺い、高聞に達せしめ、秘計を廻らされ、誤り無きを優さらるの旨、芳免に預からば、 積善しゃくぜんの餘慶を家門に及ぼし、永く栄花を子孫に傳え、 仍りて年來の愁眉を開き、一期の安寧を得ん。 愚詞を書き盡くさず、しかしながら省略せしめ候い畢んぬ、 賢察を垂られんと欲す、義経、恐惶謹言
元暦二年五月日
左衛門少尉源義經
進上因幡前司殿

渡邊本初学必要万宝古状揃大全所収腰越状

万宝古状揃大全腰越状一頁目、二頁目
万宝古状揃大全腰越状三頁目、四頁目
万宝古状揃大全腰越状五頁目、六頁目
万宝古状揃大全腰越状七頁目、八頁目
万宝古状揃大全腰越状九頁目
万宝古状揃大全腰越状九頁目

両本の相違点抜粋

  1. 冒頭、源義經の前に官職の記述の有無
  2. 1行目、「申上」の後の「候」の有無
  3. 2行目の「雪」の字の振り仮名が榊原本では「キヨム」と「ススク」で2候補挙げられるが揃大全では「ススキ」のみ
  4. 3行目の 「抽賞」と「忠賞」で「チウちゅう」の漢字が異なる
  5. 4行目と6行目の「間」は揃大全では「際」と「間」になっている、11行目の「間」も同じく
  6. 7行目に榊原本には「此時」の前に「于」の字が入るが揃大全にはない
  7. 7行目の榊原本の「既似空すでにむなしきににたり」の部分は 揃大全では「已終すでにたゆ」とされている
  8. 8行目の「先世」は榊原本にはないが揃大全では「ぜんせ」と振られている
  9. 8行目の「感」の字の位置が異なり揃大全では其の前に「所」字が有る
  10. 8行目の「條」の字は揃大全では「条」につくっている
  11. 8行目の「故」の字は揃大全では「古」につくる、11行目も同じく
  12. 9行目の「不再誕給者さいたんしたまわずんば」は揃大全では 「再誕之非縁者さいたんのえんにはあらずんば」とつくられている
  13. 11行目の「無實之子」は揃大全では振り仮名は同じで漢字が「孤」に直されている
  14. 12行目の「之以來」は揃大全では「以來このかた」となっている
  15. 12行目の「住」は「のせ」と振られているが揃大全では「じうせ」と振られている
  16. 13行目の「在々所々」と「隠身」が逆になっている
  17. 14行目の「雖存無甲斐之命許」が揃大全では「無甲斐雖存命」となっている
  18. 15行目の「然而」は榊原本では「しかれども」と振られるが揃大全では「しこうして」と振られる
  19. 16行目に「誅戮」の前に榊原本にない「先」が揃大全にはある
  20. 18行目の「不痛」は榊原本では「いたわらず」と振られるが揃大全では「いたまず」と振られている
  21. 19行目の「業」は榊原本では「ぎょう」と振られるが揃大全では「わざ」と振られている
  22. 19行目の「憤」字の前に揃大全では「鬱」の異体字が入る
  23. 20行目の「剰」は榊原本では「あまさえ」と振られるが揃大全では「あまつさえ」と振られる
  24. 20行目の「當家之重職」が揃大全では「當家面目稀代之重職たうけのめんぼくきたいのぢうしよく」とされている
  25. 22行目の「諸神諸社」が揃大全では「諸寺諸社」につくられている
  26. 23行目の「請」は榊原本では「しょうじ」と振られるが揃大全では「うけ」と振られる
  27. 23行目の「日本国中」の後に揃大全では「六十余州」が入る
  28. 24行目の「我国」の前に揃大全では「そ連」が入る
  29. 24行目の「不可禀うくべからず」が揃大全では「不禀うけず」とされている
  30. 26行目の「被ゆるされ」が揃大全では「ユルシ」につくられる
  31. 28行目の「候畢」が揃大全では「をわんぬ」につくられる
  32. 28行目の「欲垂」が揃大全では「諸事仰」につくられる
  33. 29行目の日付が五月と六月で異なる
  34. 30行目は冒頭と同じく揃大全には義経の名の前に官職がない
  35. 31行目の宛名の因幡の後が榊原本では「前司」、揃大全では「守」とされている

なお、上の箇条書きに於いて、行数は榊原本に準じています。 ご覧の通り、毎行の様に何処かしら異動が見られますので、 書写は版を重ねる内に変化が生じただけとも思えない部分があります。 異動を以下列挙の様に大きく分けて見ました。

  • 書写若しくは別版を重ねる内に異動が生じたもの(2.4.6.16.25.29.30.31.33.)
  • 振り仮名の異動(3.8.15.18.20.21.23.26.)
  • 分かり易さの為に字を補ったのでは無いかと思われる部分(12.19.24.27.28.)
  • 読者、使用法を鑑みて敢えて変えた部分(1.9.34.35.)
  • 現代(江戸)風に読みを直したと思われる者(10.11.13.22.)
  • 分かり易さの為に表現を変えたと思われる部分(7.32.)
  • 簡略化して読み易くしたと思われる部分(14.17.)
  • 漢字学習のため敢えて同訓で異なる漢字を記したもの(5.)

考察

異動には版を重ねる内に生じたもの、振り仮名の異動が多く見られるようです。 字を間違えたように思える部分もなきにしもあらず、ですが、 時代時代に慣習的に用いられた用法が異なることも多く、 間違いを明言できる処ではありません。 集計して統計的に考察すれば時代の慣習を浮き上がらせられますが、 此処にはデータが足らず及ばないのが残念ではあります。 以下には異動に見られる個人的に面白い、興味深いと感じた部分を書き置きたく思います。 但し、異動類系は各々重複する部分も多くありますが、飽く迄任意にて分類したものです。

先ず、異動の多く見られる振り仮名については、 振り仮名が振られたのは両本其れ程時代は異ならないと思われる点に留意したく思います。 最大離れても榊原本の江戸初期と揃大全の江戸中期であり、 榊原本では所有者が書き込んだものと考えれば、 共に天保期と非常に近い時代に書かれた可能性も高いものでしょう。 揃大全で学習し、成長した成果も踏まえて榊原芳野が書き込んだと想像して見れば楽しくもあります。

振り仮名の異動に於いては異動23番の「剰え」について、 榊原本の「あまさえ」は「余りさえ」が語源とされる其の「り」が促音便となった「あまっさえ」の促音無表記と思われます。 或る程度学習を重ねたものには語源を意識させる促音無表記が、初学者には明瞭に「あまつさえ」と指導せられたもの、と言えるかも知れません。 現代では明確に「あまつさえ」と「つ」が意識されて発音されますから、 両本の異動からは天保年間期が「剰え」の読みの端境期であり、其の過渡期に振られた両振り仮名である時代感が見えるようです。

異動4番の榊原本の記述「抽賞」は現在も熟語として見られますが、 揃大全の「忠賞」は辞書に掲載される様な熟語化は見られないようです。 江戸時代には此の漢字が用いられた上で現代に「抽賞」が復活したものである可能性が低く思われますので、 間違えて版刻された可能性が高いものと思われます。

異動8番の「先世」は今も「前世」と同意で用いられますが、 読みとしては「せんぜ」と振られることが多い様です。 管見にも「ぜんせ」と濁って振られる古文書が見られます。 漢字としては前世より先世の文字が使われるも、読みは全く同じであったのが窺える様です。 現在の「前世」は江戸時代以前には「先世」の字を用いるのが普通だったのかも知れません。

揃大全は初学者向けの教科書ですので、 読者たる初学者への分かり易さを鑑みて変えたと思われる部分も見られるようです。 すると、例えば異動7番の 「既似空」を「已終」としてあるのは、 「虚しきに似る」とは初学者の、特に若年層には難しい表現であると判断したのかも知れません。 異動32番などの「諸事仰」と直されるのは余りに分かり易さが優先し、 些か元の「欲被垂」からは感興が失われているようにも感じられます。

異動12番では「不再誕給者さいたんしたまわずんば」 が説明不足の感が否めず、一瞥した際には少々意味が受け取り難かったのですが、 揃大全に 「再誕之非縁者さいたんのえんにはあらずんば」 と「非縁」が補われると意味が滑らかに通る気がします。 また異動24番では「當家之重職」に揃大全で「當家面目稀代之重職」と「面目稀代」が補われているのは、 歌舞伎など伝統芸能を通じて現代にも受け継がれて耳慣れたリズムに感じます。 異動27番の「六十余州」も、異動28番の「それ」も全く同様です。 江戸時代に此等常套句の嚆矢が見られたのかも知れません。 分かり易さの為の補字は、重版、振り仮名、に次いで多いのは道理だと思います。 此れには初学者向け、時代の要請、など他の異動類系に重なる部分も多いものです。

「みなしご」の語源と変容について

さて今回、特に興味深いと感じたのは異動13.、榊原本の11行目に書かれる「 ナシ 」です。 連用修飾の役割をなす之に続く子には「ご」と態々濁点付きの振り仮名が振られているのには、些か違和感を抱かずにいられません。 此処は音便的な濁音化でもありませんし連濁にもあらずして濁る場面ではありません、 にも関わらず実無しの子の最後の一字「こ」に対してわざわざ濁点をつけて「ご」と濁らせているのは、 何某かの理由があるに違いありません。 此れは江戸期以前「実無しの子」は未だ熟語化しておらず、 江戸期には熟語として連濁を帯びた発音でなければ通じ難い迄に充分熟語化が進んだもの、と考えれば合点が行きます。 「実無しの子」の用法が巷間流布して人々に常用される内に格助詞の「の」は省かれ、 いつの間にか「みなしこ」と言う熟語となり、連濁したものでしょう。 「実無しの子」の格助詞「の」は熟語として熟成していない状況が窺われ、 江戸期に入っては、熟語として確立し、 斯うして江戸期以降みなしごの最後の一字が濁る慣習を表す証左とであるとも考えられます。

「みなしこ」は熟語化される内に連濁に仍って最後の「こ」が濁音化し、 又、熟語として成立する内に意味も変容した様子も読み取れるでしょう。 此の用法は遅くとも既に江戸中期には成立したいたものであるのは、 揃大全に「みなしご」と 「孤」の一字を以て「みなしご」と振られていることからも明らかです。

此処に本来「孤児こじ」と振られるべき 漢字の「孤」に「みなしご」と振られているのも「みなしこ」の内容の変容を考える際、注目すべきです。 現在「みなしご」は熟語となり、身寄りの無い子を指します。 即ち、一般的に父母共に失われた状況を指しますが、 腰越状では義経は父のみが失われ母は生存している状況の自らを指して「実無しの子」と称しています。 すると古くは「みなしこ」、父系、男系社会に於いて父方が失われた状況が、実の無い、と表現されていたのかも知れない、と推測出来ます。 熟語化する内に意味も変容し、江戸期には身寄りの無い子、としての意味も熟し、 当初「孤」の字が当てられたのかも知れません。 両本の比較精読では古来の使い方と現代の用法との意の間でぶれていたのかも知れない様子も窺えます。

而して、現在「みなしご」には「孤児」の漢字が当てられます。 古くは「みなしご」は「無實之子」と書かれ、父を失った御曹子を指したものが、 江戸時代には一般的に敷衍され身寄りのない意を強くした「孤」の字が当てられ、 遂に現代、一般に「孤児」と書かれ「こじ」とも読まれる一連の流れからは、 「みなしご」の語源が知られるようで実に興味深い内容が読み取れたものと考えます。

結言

今回、改めて腰越状を比較もする必要からよくよく読み込んで見れば、 勿論、自らの無実を肉親の情を頼って訴える切々たる名文には違いありません。 しかし何処かしら傲慢、と言えば言い過ぎですが、或る種、高慢ちきな感じを受けるのも確かです。 源氏の御曹子、義経から見れば宛て処の大江広元は格下にも当たりますので、 目下に対する姿勢の現れと見られないでもありませんが、其れ計りとも言い切れないように思います。 何となれば内容から義経の性格を察するに、割と身勝手で自己中心的であると思われるからです。 良く言えば鷹揚で大らかで愛さるべき性格で、悪く言うと好い加減でズボラ、杜撰な面が伺える様です。 例えば格上たる人物に対しても此の姿勢は出たのではないでしょうか。 後白河法皇然り、兄、頼朝然りです。 後白河法皇は勿論愛すべきキャラクターを自然と寵愛した部分もあるでしょうが、 人は単純明快に割り切れぬもの、老獪な政治家としての謀りごともあったでしょうし、 其の目論見が見事当たっては、頼朝に取っては愛すべきキャラクターでは済まされない事態を招かれた、とも思えたでしょう。

義経の華やかな合戦の様子を見ても用意周到に作戦を練る、 と言うよりは、即興インプロヴィゼーションを旨とするタイプで、 刹那刹那の直感インスピレーションを多少無茶でも即座に行動に移し、 其れが平氏との戦いで大当たりして大勝利を得た感もあります。 此の様に実際の合戦との照合の視点から見るなどすれば、 義経の性格が腰越状には整合性を以て存分に現れて、真偽の疑われる書状が確からしく思えて来るのも正直な処です。 勝手の任官を咎められているのにも関わらず頓着せず、 剰え、自らの補任を当家筆頭の名誉と誇らしげに訴えるのは如何なものか、と思わずにはいられません。 未だ政権の不安定な黎明期に屋台骨を構築せんと腐心する頼朝から見れば、些か問題児であったのも確かでしょう。 兄弟でありながら、片や長い人質生活からか用心深く深慮遠謀が効いて猜疑心の深い頼朝と、 片や鷹揚で自由奔放、天真爛漫な義経が見事な対照をなすのを読み取れる腰越状を実に面白く思います。

さて、若し自分が大江広元であれば此の腰越状、 主家御曹子たるのみにあらず、平家追討の立役者として大手柄を立てた義経から此の様な依頼状を受け取れば困惑するのみです。 正直言えば、こんなものを見せれば唯さえ神経質で政治的にも難しい局面を迎えていた、 御所様のご機嫌を益々損ねるだろう、 延いては今後義経の側に立てば自らの身をも危うくするだろう、と密かに握り潰すだろうと思います。

実際に今回、二つの腰越状を比較精読して見て、 此の様に異動が生じ、其の点に付いて考察するだけで、 自らに此れだけの知見が得られるとは思いませんでした。 機会有らば孰れ又、此の様な比較精読を実践しようと言う強い動機が自らに生じたのを感じているものです。

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