腰越状二態
腰越の
満福寺
に悶々と逗留する義経は時の公文所別当、因幡守
大江広元
に宛てて、頼朝の自分への誤解を解くべく依頼の書状を認めたと言われます。
吾妻鏡の腰越状は今、
国立国会図書館にデジタルアーカイブされたものが一般公開されていますので、ネット上から閲覧が可能です。
徳川家康が吾妻鏡を好んで伝本収集に努め、
中にも伏見版の一つとして慶長10(1605)年活字印行させたりもしましたが、
公開されているデータは無刊記本であり、
幕末及び明治初期の国学者
また、古文書解読会でお世話になっている浜松市在住の
渡邊昌雄
さんが遅くとも天保年間に刊行されたと思われる
榊原本吾妻鏡所収腰越状
先ずは榊原本吾妻鏡の腰越状の全文を下に書き起こします。 ブログ記事での必要上、縦書きを横書きに直しています。 振り仮名、送り仮名、返り点などは刊行本に後書きしたものと思われますが成る可く忠実に再現します。 其の際、振り仮名は上に、送り仮名は右上に、返り点は右下に記します。 行頭の数字は底本に則った行数を示します。
- 左衛門ノ少尉源ノ義經乍ラレ恐レ申上ケ候
意趣
者 ( 被レ撰ハ二御代官ノ) - 其ノ一ツニ一
為 ( 二 勅宣) 之 ( 御−使ト一傾ケ二 朝敵ヲ一顯シ二 累代弓箭) 之 ( 藝ヲ一) 雪 ( 二會稽ノ) - 恥辱ヲ一可キノレ被二
抽 ( 賞セ一之處ニ思ノ外 依テ二) 虎口 ( ノ讒言ニ一 被レル) 黙−二止 ( 莫−大) 之 ( ) - 勲−功ヲ一義經無トレ
犯 ( 而蒙リレ) 咎 ( ヲ有レ功雖レ 無トレ誤リ蒙ル二御勘氣ヲ一之間空ク) - 沈ム二紅−涙ニ一
倩 ( 案スルニ二事ノ意ヲ一良藥苦クレ口ニ 忠−言逆フ耳ニ先−言) 也 ( 因テレ茲レニ不) - レ被レ
糺 ( 二讒者ノ実−) 否 ( ヲ一不ルノレ被レ 入二鎌−倉−中ヘ一之間 不レ能レ述ルニ二素−意ヲ一 徒ラニ送ル二) - 數−日ヲ一當テ二于此ノ時ニ一
永ク不レ奉レ拜シ二恩−顔ヲ一
骨−肉同−胞
之 ( 儀既ニ 似タリレ空キニ) - 宿−運
之 ( 極マル 處) 歟 ( ) 将 ( 又 感スル二先−世) 之 ( 業−因ニ一) 歟 ( 悲−) 哉 ( 此ノ條) 故 ( −) 亡 ( −) 父 ( 尊) 靈 ( 不ンハ二再−誕シ給一者誰レ−人カ 申シ−二披カレ愚−意) 之 ( 悲−嘆ヲ一 何レノ−輩カ垂レン二哀−) - 憐ヲ一
哉 ( 事−新シキ 申シ−状雖レ似タリト二述−懐ニ一 義經受ケ二身−體髪−膚ヲ 於父−母ニ一不) - レ經二幾ク時−節ヲ一
故 ( ) 頭 ( ) 殿 ( 御−他−界) 之 ( 間) 成 ( 二) 無 ( レ) 實 ( 之) 子 ( ト一 被レ) 抱 ( 二母) 之 ( ) - 懐中ニ一赴キシ二大和ノ國
宇多郡 ( ) 龍門 ( ノ) 牧 ( ニ一之以−來タ 一−日片−時モ不レ) 住 ( 二) - 安−堵
之 ( 思ニ一 雖レ) 存 ( 二 無キ甲−斐之) 命 ( −) 許 ( ヲ一 京都) 之 ( ) 經廻 ( ) 難治 ( ) 之 ( 間) - 令メレ
流 ( −二) 行 ( セ諸國ニ一 隠シ二レ身ヲ在−々所−々ニ一 為シレ栖ト二邊−土) 遠 ( −國ヲ一 被レ服−二仕セ) - 土−民百−姓
等 ( ニ一 然レ) 而 ( 幸慶忽ニ純熟ト而 為メニ二平−家ノ一−族追−討ノ一) 令 ( ) - レ上−洛セ
手−合 ( 誅−二戮シテ木曽義仲ヲ一後 為メニ責−二傾ンヤ平氏ヲ一) 或 ( −時ハ峨−) - 峨タル
巖 ( −) 石 ( ニ) 策 ( 二駿) 馬 ( ニ一不レ顧二為メニレ敵ノ 亡−命ヲ一或−時ハ漫−々タル 大−海ニ凌キ二風−波) 之 ( 難ヲ一 不レ) 痛 ( レ沈メントテ二 身ヲ於海−底ニ一) 懸 ( 二) 骸 ( ヲ鯨−鯢) 之 ( ) 腮 ( ニ一) 加之 ( ) 為 ( 二甲−冑ヲ) - 於枕ト一
為 ( 二 弓−箭ヲ) 業 ( ト一 本−意併ラ奉リレ) 休 ( 二 亡−魂ノ憤ヲ一 年−来ノ宿−望ヲ 欲レ) 遂 ( ト) - 之外無シ二他−事一
剰 ( 義經) 補−任 ( セラルヽ二 五−位ノ) 尉 ( ニ一 之條當−家) 之 ( 重) 職 ( 何−) - 事カ
如 ( レ之レニ) 哉 ( 雖レ然リト今 愁ヘ−深ク嘆キ−切ナリ 自非ル二佛−神ノ 御) 助 ( ニ一) 之 ( 外ハ) 争 ( ) - 達セン二愁−訴ヲ一因テレ茲レニ
以テ二諸−神諸−社
牛−玉 ( ノ 寶−) 印 ( ) 之 ( ) 裏 ( ヲ一不ルレ挿マ 二野−心ヲ一之) - 旨奉リレ
請 ( ) 驚 ( 二日−本國−中ノ 大−小神−祇) 冥−道 ( ヲ一 雖レ書キ二−) 進 ( 數−通ノ) 起−請 ( ) 文 ( ヲ一猶以テ 無シ二御−) 宥 ( −免一 我カ國ハ神−國) 也 ( 神ハ不レ可レ) 禀 ( 二 非−礼ヲ一所ロレ憑ム非二) - 于他ニ一偏ニ仰ク二
貴−殿 ( 廣−大) 之 ( 御−慈−悲ヲ一 伺ヒ二便−宜ヲ一令メレ達セ二 高−聞ニ一被レ廻ラ二) - 秘−計ヲ一被レ
優 ( レ 無キヲレ誤リ之旨預ラハ二芳−免ニ一者 及ホシ二積−善) 之 ( 餘−慶ヲ於家−門ニ一) - 永ク傳ヘ二栄−花ヲ
於子孫ニ一仍テ開キ二年−來
之 ( 愁−眉ヲ一 得ン二一−期) 之 ( 安−寧ヲ一不) - レ書−盡二愚−詞ヲ一併ラ
令メレ
省 ( −略セ候畢ヌ 欲スレ被ントレ) 垂 ( 二 賢察ヲ一義經恐惶謹言) - 元暦二年五月日
- 左衛門少尉源義經
- 進上 因幡前司殿
榊原本吾妻鏡所収腰越状読み下し文
榊原本腰越状訓読文を読み下せば以下の如くなるでしょうか。
左衛門少尉源義経恐れ乍ら申し上げ候意趣は、御代官の其の一つに撰ばれ、
勅宣の御使として朝敵を傾け、累代弓箭の芸を顕し、会稽の恥辱を雪ぐ。
抽賞せらるの処、思ひの外、虎口の讒言に依て、莫大の勲功を黙止せられ、義経、犯す無くして咎を蒙り、
功有り誤無きと雖も御勘気を蒙るの間、紅涙に空しく沈む。
つらつら事の意を案ずるに、良薬は口に苦く、忠言耳に逆う先言也、
茲に因りて、讒者の実否を糺れず、鎌倉中へ入られざるの間、
素意を述べるに能わず、徒らに数日を送る。
此の時に当たって永く恩顔を拝し奉らず、骨肉同胞の儀、既に空しきに似たり、
宿運の極まる処歟、将又、先世の業因感する歟、悲哉。
此の條、故亡父、尊霊の再誕し給ずんば、誰人か、愚意の悲嘆を申し披かれ、
何れの輩か哀憐を垂れん哉。
事新しき申し状、述懐に似たりと雖も、義経、
甲斐の無き命許りを存うと雖も、京都の經廻、難治の間、
諸国に流行せしめ、在々所々に身を隠し、辺土遠国を栖と為し、土民百姓等に服仕せらる。
然れども、幸慶忽に純熟とて、平家の一族追討の為に上洛せしめ手合わせん。
木曽義仲を誅戮して、後、平氏を責め傾ん為めに、或る時は峨峨たる巖石に駿馬に策って、敵の為めに亡命を顧みず、
或る時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈めんとて痛わらず、骸を鯨鯢の
元暦二年五月日
左衛門少尉源義經
進上因幡前司殿
渡邊本初学必要万宝古状揃大全所収腰越状
両本の相違点抜粋
- 冒頭、源義經の前に官職の記述の有無
- 1行目、「申上」の後の「候」の有無
- 2行目の「雪」の字の振り仮名が榊原本では「キヨム」と「ススク」で2候補挙げられるが揃大全では「ススキ」のみ
- 3行目の 「抽賞」と「忠賞」で「
チウ ( 」の漢字が異なる) - 4行目と6行目の「間」は揃大全では「際」と「間」になっている、11行目の「間」も同じく
- 7行目に榊原本には「此時」の前に「于」の字が入るが揃大全にはない
- 7行目の榊原本の「
既似空 ( 」の部分は 揃大全では「) 已終 ( 」とされている) - 8行目の「先世」は榊原本にはないが揃大全では「ぜんせ」と振られている
- 8行目の「感」の字の位置が異なり揃大全では其の前に「所」字が有る
- 8行目の「條」の字は揃大全では「条」につくっている
- 8行目の「故」の字は揃大全では「古」につくる、11行目も同じく
- 9行目の「
不再誕給者 ( 」は揃大全では 「) 再誕之非縁者 ( 」とつくられている) - 11行目の「無實之子」は揃大全では振り仮名は同じで漢字が「孤」に直されている
- 12行目の「之以來タ」は揃大全では「
以來 ( 」となっている) - 12行目の「住」は「のせ」と振られているが揃大全では「じうせ」と振られている
- 13行目の「在々所々」と「隠身」が逆になっている
- 14行目の「雖存無甲斐之命許」が揃大全では「無甲斐雖存命」となっている
- 15行目の「然而」は榊原本では「しかれども」と振られるが揃大全では「しこうして」と振られる
- 16行目に「誅戮」の前に榊原本にない「先」が揃大全にはある
- 18行目の「不レ痛」は榊原本では「いたわらず」と振られるが揃大全では「いたまず」と振られている
- 19行目の「業」は榊原本では「ぎょう」と振られるが揃大全では「わざ」と振られている
- 19行目の「憤」字の前に揃大全では「鬱」の異体字が入る
- 20行目の「剰」は榊原本では「あまさえ」と振られるが揃大全では「あまつさえ」と振られる
- 20行目の「當家之重職」が揃大全では「
當家面目稀代之重職 ( 」とされている) - 22行目の「諸神諸社」が揃大全では「諸寺諸社」につくられている
- 23行目の「請」は榊原本では「しょうじ」と振られるが揃大全では「うけ」と振られる
- 23行目の「日本国中」の後に揃大全では「六十余州」が入る
- 24行目の「我国」の前に揃大全では「
夫 ( 」が入る) - 24行目の「
不可禀 ( 」が揃大全では「) 不禀 ( 」とされている) - 26行目の「被レ
優 ( 」が揃大全では「) 優 ( 」につくられる) - 28行目の「候畢ヌ」が揃大全では「
訖 ( 」につくられる) - 28行目の「欲レ被レ垂」が揃大全では「諸事仰」につくられる
- 29行目の日付が五月と六月で異なる
- 30行目は冒頭と同じく揃大全には義経の名の前に官職がない
- 31行目の宛名の因幡の後が榊原本では「前司」、揃大全では「守」とされている
なお、上の箇条書きに於いて、行数は榊原本に準じています。 ご覧の通り、毎行の様に何処かしら異動が見られますので、 書写は版を重ねる内に変化が生じただけとも思えない部分があります。 異動を以下列挙の様に大きく分けて見ました。
考察
異動には版を重ねる内に生じたもの、振り仮名の異動が多く見られるようです。 字を間違えたように思える部分もなきにしもあらず、ですが、 時代時代に慣習的に用いられた用法が異なることも多く、 間違いを明言できる処ではありません。 集計して統計的に考察すれば時代の慣習を浮き上がらせられますが、 此処にはデータが足らず及ばないのが残念ではあります。 以下には異動に見られる個人的に面白い、興味深いと感じた部分を書き置きたく思います。 但し、異動類系は各々重複する部分も多くありますが、飽く迄任意にて分類したものです。
先ず、異動の多く見られる振り仮名については、 振り仮名が振られたのは両本其れ程時代は異ならないと思われる点に留意したく思います。 最大離れても榊原本の江戸初期と揃大全の江戸中期であり、 榊原本では所有者が書き込んだものと考えれば、 共に天保期と非常に近い時代に書かれた可能性も高いものでしょう。 揃大全で学習し、成長した成果も踏まえて榊原芳野が書き込んだと想像して見れば楽しくもあります。
振り仮名の異動に於いては異動23番の「剰え」について、 榊原本の「あまさえ」は「余りさえ」が語源とされる其の「り」が促音便となった「あまっさえ」の促音無表記と思われます。 或る程度学習を重ねたものには語源を意識させる促音無表記が、初学者には明瞭に「あまつさえ」と指導せられたもの、と言えるかも知れません。 現代では明確に「あまつさえ」と「つ」が意識されて発音されますから、 両本の異動からは天保年間期が「剰え」の読みの端境期であり、其の過渡期に振られた両振り仮名である時代感が見えるようです。
異動4番の榊原本の記述「抽賞」は現在も熟語として見られますが、 揃大全の「忠賞」は辞書に掲載される様な熟語化は見られないようです。 江戸時代には此の漢字が用いられた上で現代に「抽賞」が復活したものである可能性が低く思われますので、 間違えて版刻された可能性が高いものと思われます。
異動8番の「先世」は今も「前世」と同意で用いられますが、 読みとしては「せんぜ」と振られることが多い様です。 管見にも「ぜんせ」と濁って振られる古文書が見られます。 漢字としては前世より先世の文字が使われるも、読みは全く同じであったのが窺える様です。 現在の「前世」は江戸時代以前には「先世」の字を用いるのが普通だったのかも知れません。
揃大全は初学者向けの教科書ですので、 読者たる初学者への分かり易さを鑑みて変えたと思われる部分も見られるようです。 すると、例えば異動7番の 「既似空」を「已終」としてあるのは、 「虚しきに似る」とは初学者の、特に若年層には難しい表現であると判断したのかも知れません。 異動32番などの「諸事仰」と直されるのは余りに分かり易さが優先し、 些か元の「欲被垂」からは感興が失われているようにも感じられます。
異動12番では「
「みなしご」の語源と変容について
さて今回、特に興味深いと感じたのは異動13.、榊原本の11行目に書かれる「
「みなしこ」は熟語化される内に連濁に仍って最後の「こ」が濁音化し、
又、熟語として成立する内に意味も変容した様子も読み取れるでしょう。
此の用法は遅くとも既に江戸中期には成立したいたものであるのは、
揃大全に「
此処に本来「
而して、現在「みなしご」には「孤児」の漢字が当てられます。 古くは「みなしご」は「無實之子」と書かれ、父を失った御曹子を指したものが、 江戸時代には一般的に敷衍され身寄りのない意を強くした「孤」の字が当てられ、 遂に現代、一般に「孤児」と書かれ「こじ」とも読まれる一連の流れからは、 「みなしご」の語源が知られるようで実に興味深い内容が読み取れたものと考えます。
結言
今回、改めて腰越状を比較もする必要からよくよく読み込んで見れば、 勿論、自らの無実を肉親の情を頼って訴える切々たる名文には違いありません。 しかし何処かしら傲慢、と言えば言い過ぎですが、或る種、高慢ちきな感じを受けるのも確かです。 源氏の御曹子、義経から見れば宛て処の大江広元は格下にも当たりますので、 目下に対する姿勢の現れと見られないでもありませんが、其れ計りとも言い切れないように思います。 何となれば内容から義経の性格を察するに、割と身勝手で自己中心的であると思われるからです。 良く言えば鷹揚で大らかで愛さるべき性格で、悪く言うと好い加減でズボラ、杜撰な面が伺える様です。 例えば格上たる人物に対しても此の姿勢は出たのではないでしょうか。 後白河法皇然り、兄、頼朝然りです。 後白河法皇は勿論愛すべきキャラクターを自然と寵愛した部分もあるでしょうが、 人は単純明快に割り切れぬもの、老獪な政治家としての謀りごともあったでしょうし、 其の目論見が見事当たっては、頼朝に取っては愛すべきキャラクターでは済まされない事態を招かれた、とも思えたでしょう。
義経の華やかな合戦の様子を見ても用意周到に作戦を練る、
と言うよりは、
さて、若し自分が大江広元であれば此の腰越状、 主家御曹子たるのみにあらず、平家追討の立役者として大手柄を立てた義経から此の様な依頼状を受け取れば困惑するのみです。 正直言えば、こんなものを見せれば唯さえ神経質で政治的にも難しい局面を迎えていた、 御所様のご機嫌を益々損ねるだろう、 延いては今後義経の側に立てば自らの身をも危うくするだろう、と密かに握り潰すだろうと思います。
実際に今回、二つの腰越状を比較精読して見て、 此の様に異動が生じ、其の点に付いて考察するだけで、 自らに此れだけの知見が得られるとは思いませんでした。 機会有らば孰れ又、此の様な比較精読を実践しようと言う強い動機が自らに生じたのを感じているものです。