去る2018年6月10日に静岡文化芸術大学の講堂に於いて、 公開シンポジウム「静岡県と周辺地域の官衙出土文字資料と手工業」の催されると聞き及んでは、出向き拝聴して来ました。 主催は、地域と考古学の会、静岡県考古学会、浜松市博物館、にて 共催は、木簡学会、静岡文化芸術大学です。 地元浜松で催される公開シンポジウムには伊場遺跡などと関連した 実に楽しみな提示、報告がなされるものと雲が重く垂れ込める下、馳せ参じたものです。
伊場遺跡は全国でも早い時期に木簡[K1]
が出土して広く知られました。
伊場遺跡を中心とする伊場遺跡群は
発表議事次第
研究成果発表及び発表者、等の次第は以下となっていました。 敬称は省略して記し置きます。 なお、此の公開シンポジウムは事前の申込は必要なく入場は無料で資料集は受付で一冊2千円で入手可能でした。
基調報告と東海地方を包括する報告に挟まれ、 東海地方を西から順に東漸する様な格好を取り 最後は発表者が全員参加する討論会の形を取るべく、 次第は構成されている様でした。
基調報告
皮切りは当シンポジウムの基調報告に位置付けられる東村氏の 「古代の在地社会における織物生産像」でした。 開催地を鑑みた伊場遺跡の発掘成果を中心に古代織物技術に関する報告がなされました。 古代手工業でも紡織に特化された考察は実に参考になるものです。 今は衰退してしまいましたが、当地、浜松は戦後高度経済成長期に紡織業は主要産業の一つでした。 携わる人間も多かったため、一族の誰かしらは業界関係者であることも多く、エピソードを聴く機会も従って多いものでした。 誰あろう、本記事を記す執筆者も母方は見付に戦前より反物屋を営んでいました。 見付に出掛ければ加茂川を渡ると聞こえた織機の音を懐かしく思い出します。 少しく触発されて近いうちに遠州織物の記事などものしたくも思います。
閑話休題、律令制下の税制の確立では絹、
東村氏の報告では、
発掘された出土物から織機の歴史を考察されており、
最も古い
特に今回開催地でもあり東村氏が取り上げた伊場遺跡伊場40号木簡には
表に「若倭マ五百国布二」、裏に「丈八尺縹」と墨書され、
若倭
伊場40号木簡は中央へ納めるための荷札木簡にて、 通常織物に直接墨書されるため布の荷札木簡は珍しいとされます。 恐らくは郡家に運ばれる際に用いられ、検収され中央へ転じる際に荷からは破棄されたものだと考えられるものです。 すると既に郡衙に運ばれる以前に染められていたのは必然で、前述の通り、東村氏が其の点に注目されており、 在地に麻を藍染する発酵建て技術が運用され延いては地方発の技術であった可能性も指摘されています。 基本的には染められない白布で運用された筈の此の藍染庸布は物品として価値を持ち得たのかも知れない、と推測されます。 更には従来一括りにされ勝ちな調布と庸布は異なる技術的系統を保持する点に迄、考察を進められます。
中にも個人的に印象深かったのは織機の変遷です。 前述した様に織機は原始機、地機、高機と大まかに分類されます。 原始機は新石器時代の長江下流域に其の萌芽が見られ、 日本には弥生時代の始め頃には大陸から水稲耕作と共に導入され古墳時代後期迄は集落に定着したもの、と考えられてるそうです。 地機は徳島県の観音寺遺跡に古墳時代後期の確実な出土例が見られ、 此の時期に原始機から地機への移り変わりがあったのではないかと考えられているそうで、 此れは伊場遺跡にも出土例があり、一般的に広い範囲で長く使われた織機であるのが確認されているのだそうです。 最後に高機は古墳時代中期から後期の出土例が見られると言いますから、ほぼ地機と同時期の出現時期となります。 現在、確実な出土例としては6世紀中庸の滋賀県生源寺遺跡からの出土物があるものの出土例は少なく、 しかし文献には其れを補う事例が伺えるとのことです。
今回、東村氏からは明確な変遷時期に関連する言及はありませんでしたが、 高機は実際には織り手に負担が掛からず文様の自由度が上がるなど機能性が高く、 地機に続いて用いられる様になったのであろう、と考えられている様です。 当日司会を務められた鈴木敏則氏が1999年10月に発行された 「浜松市博物館報」 第12号に寄稿されている報告文 「遠江における原始・古代の紡織具」 中には、明確に古代織機の変遷に言及している部分があります。 45頁の「おわりに」項目の当該部分を抜粋し、以下に引用します。
当初、刀杼や筬関係の他、経巻具、布巻具などを丹念に調べることで布幅を推定し、原始機から地機へ、 そして高機への変化をつかむことができるのではないか、 そこから弥生時代が原始機、古墳時代前期から中期前半までが地機、 古墳時代中期以降には高機が存在したとする証拠が得られるはずだと考えて作業を始めた。 ところが、分析に耐えうる資料の数は極めて少なく、また経(布)巻具なのか綜絖棒なのか、中筒なのか、ほとんど確定できない状況であった。 そのため、まとめに示した程度の曖昧な結論となった。
古墳時代中期と言わずとも確実な出土例の6世紀中庸と言えば 古代、飛鳥時代のもので古墳時代終焉の頃、 歴史の試験でお馴染み誰もが暗記している645年は大化改新、律令時代以前ではある訳です。 高機などと言うものはつい此間迄、遠州見付の在所にも利用せられており、 泊まり掛けに出掛ける折りには子守唄替わりでもいたものですから、 ちゃんから 、 バッタン 機構など画期的改善は盛り込まれていたものの、 基本的構造は其れが古代からの連綿たる歴史を有するものであるもの、 とは思いもよりませんでした。
未だ未だ今後の発掘調査の成果を待つ必要があるのでしょうが、 弥生時代に始まる原始的機械式用具が古墳時代の終焉時には高機能に形を整え、現在でも利用されている事実は興味深くあり、 今後の更なる研究と其の報告を待ちたく思います。
尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、相模
基調報告に続き、東海道各地の文字資料と手工業生産に関する現状成果報告が西から順番になされました。
全てに関して感想を交えてものすれば、一ブログ記事を超えた大部になってしまいますので此処では細かくは触れませんが、
孰れも具体的な事例、最新の事例を伴うもので、
斯うした地道な作業を積み重ねてこそ
尾張、三河の永井氏は全体討論では自らの報告も受ける形でなお、 墨書土器の吉祥句に関して発言されており、 一文字の墨書は従来解釈が難しい様で未だ決定的なものは示されていない様ですが、 一般には吉祥句と解釈されて来たのを、 矢張り其れには違和感を感じられている様で、 集落の象徴としての其れである可能性など示唆されています。 最後の全体討論では其の旨の発言を以て、而して、 一文字墨書 は主要な論点と一つとなりました。 この点については井口氏も或る程度の同意を以て今後の追加検討の必要性に言及しています。 一文字墨書が吉祥句を示す主張は決定的な主張のない中での暫定的な解釈であるようです。
また駿河、伊豆の佐藤氏も 課題の駿河伊豆の文字資料と手工業に関する現状報告を詳細に実践した上で、 後の全体討論では一文字墨書を受ける形で 墨書土器の墨書の属性が東漸するに連れ変化する旨、述べられます。 例えば駿河、伊豆に於いては遺跡が東に移るに連れ、 西では顕著だった役職名の墨書が逓減する傾向に言及されました。 数が限られる上での印象に過ぎないとの断り付きながらも、 人名、役職名、一文字墨書など幾つかの属性が見られる墨書土器も、 東に進む度に一つづつ其れ等の属性が抜け落ちて遂には一文字墨書に収束する傾向に言及せられました。 一つの国の中でも墨書土器に書かれた属性には地域性が見られる訳です。 相模の押木氏は、佐藤氏が少し触れた時代の進むに連れて一文字墨書が増える傾向について後押しする様に言及されました。 8世紀から10世紀の出土物が多く見られる墨書土器には、 一文字墨書の観点から見ても、地域性、時代性が感じられるのが共通した認識であるようです。 墨書土器については以前、向坂先生からは例えば鳥居松遺跡から多く出土している人名と思しき「稲万呂」と墨書された土器では、 花押のはしりであるような印象を受ける、との意見を拝聴したことも此処に記し置きましょう。
手工業生産に関して一つ、本項目に付け加えたく思うのは、食物に関する報告です。
当該報告はシンポジウムのテーマにはあまりそぐわなかったのか、少ないように感じられはしましたが、
無論、皆無ではなく、墨書土器での報告内に含まれていはいたものの、
相模の押木氏の報告では延喜式に見られる
此れ等、詳細もあり、また 東海地方に於いて、郡家が成立以前、前代から存在した有力集落の存在が想定され、 郡家、官衙などは其れを取り込む形で成立した様子が各地の報告から伺い知れる知見が得られたのも収穫でした。 さては孰れも東海道の国々のことで地元浜松からも近く、 折りあらば、今回入手したシンポジウム用の資料を携えて出掛けてみたく思っています。
浜名郡郡家南北騒動及び地元所感
東海各地域にも地元の代表たる井口氏の報告の冒頭には,勿論、会場の空気を和ませる諧謔混じりの謂い様ではありますが、 発表者自身は浜名湖北岸の三ヶ日町の出身なのだそうで、 当日司会を務められた鈴木敏則氏は湖西市出身の前浜松市博物館々長にて、 決定的な史料の発見されていない浜名郡郡家の位置については三ヶ日と湖西に候補地が有り、 此処に地元愛に端を発する浜名郡郡家南北騒動が勃発し 当シンポジウムの資料に於いては浜名郡郡家に関しては湖西̚̚比定が採用されたのは鈴木氏の意向であるそうで 井口氏は決定的証拠を見つけるべく奮起されたと話されたのは、 まんまと発表者の思う壺に嵌って此処に記した次第ですが、 以て余程、自ら資料を閲覧する際には気を付けなければならない,と諧謔を交えて此処に記しておきましょう。 発掘、出土と言う厳然たる事実にも実は発掘者の強い意向に些少にも左右される面のあるのも確かではありますが、 発掘者諸氏の接した多くの文献、発掘現場の経験上の知見の上に立っているのは、兎も角も言う迄もありません。
井口氏の遠江の報告に於いては執筆者の地元なれば、
折々出向いた遺跡なども含まれ、此の目で見た光景を容易に思い浮かべながら拝聴出来たのは幸甚でした。
東村氏と重複すると断りながらも紡織業の分業など言及され、大溝[K2]
の流れていた伊場遺跡は無論、
一例として一定の場所で集中的に操業される傾向の伺える窯業の紹介に於いては、
湖西古窯群に端を発した遠江大規模窯業は9世紀以降灰釉陶器生産の開始に伴い漸次縮小したものが
移行した先の一つが麁玉郡内の
なお井口氏は、前述の鈴木敏則氏の明言を避けた報告書を引用しつつも、 織機具について、明確な時期こそ示さないものの、 古代に於ける原始機、地機、から高機への変遷に言及していますから、 個人的に興味深くある織機具の変遷に関しては、 弥生時代は兎も角、古墳時代、遅くとも律令時代には高機が国衙、郡家など一部にせよ利用せられたのは 今では研究者の間では周知、了解されている事象なのだと思います。 そして此の思い出深い織機を有する在所の見付は其れこそ井口氏の報告の一つでもある国府、国衙、国分寺の間近でもあるのでした。
官営か民営か
「文献史料からみた地方官衙と手工業」に於ける古尾谷氏の提言はなかなか刺激的でした。 当シンポジウムの題目の一つである手工業生産について、 勿論、白黒判然たる二者択一の議論ではないのは承知の上で、官営であるか、民営であるかの命題に、 明快に民営の色が濃い点を指摘するものでした。 古尾谷氏が官衙、郡家に手工業の跡が見られるや、 凡そ当然たる様に官営と判断される状況に明快に否を突き付け、 否定しておられた姿勢は印象的です。
聴いていた身としては恥ずかしながら当時の手工業生産の民営、官営の区別など考慮の外で、 其れが例え先入観に因るものとしても官営たるを脳裏に研究に取り組まれる向きよりは下位のものながら、 会場が、即ち考古学会、木簡学会のコンセンサスとして、 官営当然が主たる空気が感じられたのは確かだった点が、驚きでもあり、興味深くもありました。 此の提言は、東村氏の報告とは矛盾点がありますので、 報告中にも全体討論では当該事項の擦り合わせを図りたいとの古尾谷氏の発言があり、 此処から既に次第の最後に置かれる全体討論が楽しみではありました。
古尾谷氏は伊場遺跡群鳥居松遺跡から出土した糸の貸付に関する第3号木簡を取り上げられてもいました。 其の表面には、 「□〔耳ヵ〕糸一斤 貸受人 赤坂郷嶋里 忍海マ石□□□□□」 と書かれており、以て郡の直接生産にあらず、との例証の一つとしていた訳です。 此れは全体討論で会場からの質問で、以て官営の証左ともなり得るとの主張もなされるのであり、 古尾谷氏は官営民営議論の為にこそ挙げた事例ではあります。 処で偶々、個人的に参加していた古文書解読会で、江戸時代には貸借の混用が目立つ話など出ていて、 古文書解読会では貸すも借りるも出鱈目な用法がされている感があるとの話でしたが、 此処では明確に貸し手側、借り手側が意識されています。 古尾谷氏は通常官営に於いては生産素材を調達するのに 充 の字を以て充てており、此処では其れではなく 貸 の一字が使用されているための官営民営の考察を、斯様な余所事を考えながら興味深く拝聴したのでした。
全体討論
全体討論の論点には二つ挙げられるようです。
前者については「尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、相模」の項目に前述した処の 吉祥句として属性に関する考察を含む上での取り扱いです。
後者は古尾谷氏の提言に依るものであり、 当該提言は現時点で学会内でも一般的ではないようです。 現場にあられる向きに非官営主張に対する強い反発が覗えたのも正直な感想です。 どうやら発掘などに携わったであろう会場のご仁からの古尾谷氏に対する質問には、 古尾谷氏の挙げた資料が逆に官営の色濃さを表している、 と明確な反定立が示された一場面もありました。 議論では東村氏は不測の方面から突かれた感も有りますが、 勿論門外漢にて両意見は互いに周知され、 公開の場ではプロレスであるのかも知れません。 真剣な討論を展開するご当人達には失礼ながら但し、其れだけにエンターテインメント性も感じられた処で、 もう一時間も延長して議論を展開して欲しいくらいの楽しい時間でした。
個人的には官営か、民営かの議論については 分業体制化も考慮すべきであろうと思います。 紡織業に於いては紡錘車と織機の発掘状況から一部には製糸と織子との分業体制が律令時代には敷かれていただろうと、 東村氏、及び重複するとしながらも井口氏から提示されています。 井口氏は鉄生産に於いても律令時代に古墳時代後期、飛鳥時代の延長上に運営状況はある、としていますから、 先進地域から全てを一括に導入したのではなく、 地域の生産状況を織り込みながら漸次、鉄器生産は官衙に運営が移れば、 中央の影響下に組み込まれる遷移状態は即ち、自然と分業状態を示していたのかも知れず、と考えます。 若し、古尾谷氏の主張の如く民営の比率が高いものであれば、 其れは即ち分業体制の普及にも繋がり、 延いては民間で活発に流通が営まれていた証左にもなり得るものと考えます。 ちょうどジンギスカンのユーラシア大統一に依り、東西の交通が発達したように、 大和朝廷の支配の広がりは其の儘、民間流通の活発化を促したのではないか、と考えるのです。
いにしえの文字と浜松
公開シンポジウムに先立っては浜松市博物館で テーマ展「いにしえの文字と浜松」 が催されており、2018年6月8日の金曜日には全国から集まった 主催、共催の会の面々で博物館は満員御礼状態でした。 次の日には伊場遺跡群、特に発掘調査の、 特に未だ日を経ない第19次梶子遺跡発掘調査現場など現地を訪れもした様です。 研究発表会に先立ち、現物や新しい発掘状況などを直接見てシンポジウムに知見を備えようと言うものでしょう。 テーマ展は引き続き来月、2018年7月8日浜松市博物館で開催中でもあります。 なかなか生の木簡は見られないものですから、 興味のある向きは此の機会を活かし、是非とも出掛けられたが宜しいでしょう。
テーマ展に直接出向く効験には、 折良ければ此の様な場では観覧者が殆ど専門家ですから漏れ聞こえる話もまた面白いものです。 エピソードとして例えば、 頃日の調査成果としての梶子遺跡から発掘された木簡が展示されており、 発掘調査に携わった学芸員の方が、 此の木簡の上下に穴が穿たれているのは反故の琴への転用との考察が一笑に付されたと木簡学会の方数名に諧謔交じりに訴えるのを、 傍から聞いたのは面白い収穫でした。 因みに木簡学会の方は此の場で一笑に付される状況に疑義を呈していましたから、 人に依っては可能性は有りと考えられるなど研究人間模様は様々です。
待たれるIT活用
有態に言えば、公開シンポジウム参加者に偏りが感じられました。 なかなか此のようなシンポジウムは公開とされながらも一般には周知され難く、 残念ながら一般参加の向きは少なかったようです。 全体の雰囲気として参加者が役人であり、サラリーマンである為の強いバイアスも感じられました。 多く文化財の調査は税金で賄われます。 調査に直接当たるのも基本的には役人の方々でしょう。 会場出席者の多くに、特に前方に陣取る面々には恐らく役人上がりが含まれたのも確かだと思います。 例えば伊場遺跡発掘の中心人物であり、 本ブログにも度々登場いただき当シンポジウムにも出席されていた向坂先生にも其れは例外ではなく、其の属性は時折感じられるものです。 限られた属性の中で閉じられた雰囲気は歓迎すべきものとは考えられません。 一つ、一般周知の方法としてIT活用の待たれる処です。 IT関係の仕事に従事する者としては、 先ずは手始めにメールマガジンやメーリングリスト、またRSSフィード、などを活用すれば宜しかろうと思いますが、 現状、興味の有る向きにもなかなか此のような情報は届きません。 相変わらず近所の回覧板状態で情報伝達が如何ともし難いのは改善すべきと考えます。 考古学会に衝撃を与えたであろう捏造事件にはとやかく言いません。 しかし閉じられた環境は決して褒められたものでもなく、 此れを打破するに一般公開は前進には違いありませんが、 正直な処、何某か一歩足りないのも確かです。
加えて現代社会を見渡せば最早当たり前となったSNSへの写真投稿やエピソード投稿は考慮されて然るべきです。 写真撮影を許諾してくれたテーマ展主催の浜松市博物館には感謝の意を表したく思いますが、エピソードとして、 撮影写真のインターネット公開許可を職員の方に直接其の場で訪ねた処、 すんなりとは会話が通わなかったのは想定外であるからの様でした。 人々の閲覧風景写真ならば良いけれども中には未公開のものもあるので、しどろもどろ、と言う感じで、 逆に此方が人の写っているものこそ公開は拙いと指摘する状態です。 インスタ映え など一般的な状況を持ち出せば互いに苦笑いして、 此方が、先ずはそんな五月蝿い映え連中は斯ふ云ふ処には来ないでしょう、分かりました、自重しましょう、 と話柄をブログに研究成果として掲載したい旨に進めたら、 然れば問題ないでしょう、と有難くも急に物分かりの良くなられて、此処に記事配信の一端を飾る写真があるのでした。
更に進めれば度々お話しもする当該関係者が意を砕いて、苦労なさっているのは承知の上で、 文化財のデジタル化、及びアーカイブと其の公開を進めて欲しいものです。 実は折り有らば文化財の保存は戦後以降、進められているものの、マイクロフィルムでの撮影であったりします。 マイクロフィルムは経年劣化を免れませんし、コピー劣化も著しいものですから、 万一に備えデジタル保存を進めて欲しいものです。
加えて古文書の解読には此れからはAI(人工知能)が活用されるべきと考えます。 奈良文化財研究所 から提供される 解析:木簡・くずし字解読システム は日頃感謝しつつ活用していますが、もう少し精度の向上が図られて欲しくもある処です。 ディープラーニングを以てすれば精度の高い判断材料が解読者に提供されるでしょう。 其の為にはかなりの分量を数え始めた文字資料のデジタル化は必須です。 今回新発表となった木簡、墨書土器など新規発掘物データも随時併せればデータ量はディープラーニングに堪える充実を見せるでしょう。
また文化財のデジタル化に於いては二次元ばかりでなく、 現代では三次元化も求められます。 模造されたレプリカさえガラスケースの中に収められているのでは観覧者には何とも物足りません。 3Dデータ化された文化財はVR、ARを通して、 直接博物館のガラスケースの前に足を運ぶ迄もなく、 文化財を眼前に現出せしめます。
もっと言えば分析さえどうでも良いので、 税金を以て文化財を扱う以上、担当者は学芸員、其の名の通りキュレーターに徹し、 一般インターネットにデータを広く展示、公開するのに腐心され、分析は民間に、集合知に委ねるべきとさえ個人的には考えます。
文化財の経済的担保
官営か民営かが争点の一つとなった今回、
少しく全体の空気として感じられたのは、
関連研究が凡そ公共の費用を以て賄われている一事です。
研究者諸氏の鋭意努力は敬すべきですが、
しかし各自が自費で研究する心持ちは保たれねばならない、とも思います。
周囲を見渡せば、文化財を公的支援で保護すべき、と声高に叫ぶ所謂意識の高い向きに有り勝ちで、
何処に財源が失われているのかには考慮しない発言には常日頃違和感を感じ、辟易してもいます。
斯くある提言は、 様々な思惑が絡み合い訴訟沙汰となり、政治的敗北から史跡指定が解除され、 遂には大半が線路の下に埋まってしまう顛末を招いた伊場遺跡を中心として催された今回、 公開シンポジウムに関連し記し置くべき深刻事と考えます。 頃日、東洋経済オンラインに共有された記事[※1] は文化財保護について非常に示唆的な内容となっています。 小西美術工藝社社長のデービッド・アトキンソン(David Atkinson)氏の文責になる記事から下に一部、引用しましょう。
日本にある文化財は、日本人すべての尊い財産であり、次の世代につなげていくべきものです。これら文化財の維持管理には当然ですが、おカネが大変かかります。今、日本は社会保障の負担がどんどん増え、いろいろな分野の予算が削られているという実態があります。文化財の維持管理に充てられる予算も潤沢にあるわけではないのです。
つまり、維持管理のための費用を、文化財自身が自ら稼ぎ出さなくてはいけない時代を迎えてしまっているのです。
こういう話をすると、「文化財とはそういう下世話なものではない」「文化財をビジネスに利用しようとするなんてとんでもない」などの反対意見や、批判の声をあげる人が必ず出てきます。実際、委員会でもそういう意見が出ることがありました。
しかしそういう人は、日本が直面している「予算の逼迫」という厳しい現実が理解できていないのです。過去の余裕があった時代が終わっていることがわからず、非現実的な理想論を振りかざしているだけだと思います。
文化財の魅力を高めて、増えた収入をその文化財そのものの保存のために利用する。これこそが文化財の魅力をアップさせ、稼げる施設にすることの目的です。
昨今、国家財政が逼迫するにつれ文化財保護に確保される予算も厳しい状況にあるのは周知でしょう。 文化財保全の為の予算は文化財自身が稼がねばならない時代に推移しています。 経済的逼迫は孰れ後の代に文化財を残す仕事を困難にするでしょう。 無論、文化財に携わる向きの献身的な仕事への取り組みは重々承知した上で敢えて申し上げれば、 文化財保護には其の積もりで関係者には取り組まれたく、切に思います。
結言
苦言など、思う処を敢えて文字に起こした部分もある本記事ですが、 文化財の研究は興味深い上に楽しくあるものだと思います。 関係者の皆さんが侃々諤々遣り合っているのを見ると、 成る程、一事実に関しても解釈とは一筋縄ではいかないものだ、難しくあるものだと実感もします。
伊場遺跡の上には今、堀留運河も流れています。 此の開掘は江戸後期からの水運利便を請う居住民念願の運河にて、明治になり漸く開通したものです。 恐らくは此の時、木簡など相当数失われたものでしょう。 此れを残念には思いながらも、当世住民の利便の為の掘削を決して怪しからん、などとは言いません。 以前、向坂先生に訪ねた処、 矢張り、開掘当時は文化財の認識などはなかっただろう、とのことでした。 考古学は明治に漸く本邦に開闢し戦後に著しく発展して歴史学を始めとする他学問に多大なる貢献をしました。 伊場遺跡の開いた古代地方の研究が、 今大きく展開している感を強くせられた公開シンポジウムでした。
全体討論を聴き終えると、重く垂れていた雲から雫が溢れ落ち始めていました。 小雨のそぼ降る中、用意していた折りたたみ傘を開いて、 今日手にした知見を満足気に反芻しながら帰途に着いたものです。
かたむき通信参照記事(K)- 故きを温ねる新しい学問『木簡から古代がみえる』書評(2017年2月15日)
- 遺跡に於ける大溝命名について(2017年5月20日)
- 二条城が「半世紀ぶりの集客」に成功したワケ(東洋経済オンライン:2018年6月12日)