問題提起
折に触れ議論百出し賑やかな談義となるのも楽しい古文書解読会ですが
『東海道名所
輿が上下に位置する尊卑関係を想起させ、梁が構造物を連想させると言う塩梅で転がったのが下の付く敬称論議であり、
其の際、解読会参加者から思い思いに呈示されたのが標題に代表に挙げた、
「
「下」の字義
従前、敬称に下の一字が用いられるのを聞くにつけ 如何しても敬する人と敬される人の位置関係が気になったものでした。 尊敬を表すのに位置関係を利用するについては 矢張り其の手の疑問を抱えていた向きも解読会の中には多いようで話柄は其方に傾きます。 様々な意見が出される中に電子辞書を引いた意見に、 下は自分でも貴人でもなく貴人の近く侍る取次ぎを指す、 なる意見が呈示されました。 今、手元の手元の角川漢和中辞典を繰ってみれば 「陛」の項目に「陛下」も用意され以下引用の如く記されます。
天子の敬称。きざはしの下の意。
直接天子に奏することを避けて、きざはしの下の近臣に告げて奏することからいう。
秦 ( に始まる。)
此のようにあれば電子辞書は角川の内容を受けたものだったのかも知れません。 此れは成る程と腑に落ちたリもしました。 貴人の居場所を基に下を付けるのが此の一連の敬称の成り立ちで、 従って構造物に下の一字を付加する構成となっており、 「殿下」や「閣下」は御殿や楼閣であれば「陛下」に於いては階段を示すものですので、 では前者は取次は門番に当たり、後者では殿上人でなければ敬称を発することも出来ないのだ、と妙な納得もしたものです。
何故敬称に下の一字を用いるのか、 に関して会参加者から様々な意見が出され大いに会も盛り上がったのでしたが 事由は端的に直接の応対を控える為に、 相手の下方を指す、 自分の位置を示す、 の二つにまとめられるようです。 前者については又、 取次を呼ぶ、 漠然と相手の下方を指す、 の二つに分けられました。
「陛下」に付いては古文書解読会の中心人物で本稿執筆者塚本の古文書の師匠でもある
渡邊弘
氏から、
活字を拾うに時折「階下」と間違えて新聞が刷られたのを不敬と指摘され金銭的損失も蒙る困った事態が招かれるのも
戦前には
「下」字を伴う敬称其の他
ところで下の一字を伴う敬称は他にも様々聞かれます。
以下に主だったものを挙げて見ますが此処では其の言葉は比較的時代が下ってからのものと考えられる為、考察の対象にはしません。
先ずは皇族にも「
猊下
さて「猊下」については 宮城県栗原市にある曹洞宗寺院の副住職と言うお方が自らのブログに興味深い一記事[※1] を寄せておられます。 当該部分を下に引用します。
なお、この「猊下」についてですけど、「竜文堂上禾上猊下」という使用例が『器之為璠禅師語録外集』にあるので、 15世紀(器之禅師の生没年は[1404~1468])には、既に使われていたということなのでしょう。拙僧の拙い検索では、 中国の禅語録には使用例を見付けられませんでしたし、曹洞宗の両祖大師にも使用例はないようなので、その後ってことになるでしょうか。 江戸時代の日本の語録には、幾つかあるようです。
曹洞宗に端を発する敬称であるのが知れますが鎌倉初期の 道元禅師 迄は遡れぬものの此れから見れば少なくとも室町、戦国時代には遡り得るようです。 従って其の用例は比較的新しく微妙ですが 古文書解読会でも出たように充分に人口に膾炙している言葉ではあります。 此の意として恐らくは同氏に仍るだろうWiki[※2] には其の義が解説されています。
閣下
次に「閣下」については
群書類従 20(合戦部)
の
『
殿下
では「殿下」はと言いますと平凡社から刊行されている
『日本史大事典 第四巻』
を見れば「殿下」の項目が橋本義彦氏の文責にて記されており、
本来は御殿の下を言ったものが敬称に転化し、
更に吉川弘文館から刊行された
『国史大辞典 第九巻』
を繰れば加藤友康氏の文責で上の橋本義彦氏の著作を参考文献の一つとする「殿下」の項には
『養老令』儀制令皇后条の当該部分の条文が記され、
また『養老令』公式令
孰れにせよ『養老令』に斯様に収められているとすれば「殿下」は八世紀の本邦、奈良時代に定義されたことになります。 すると日本に発明された言葉になると考えても宜しくはあるようです。 現代中国にも辞典を見ると用例が有るようですが、日本の発明を逆輸入した可能性も無きにしも非ず、 判然しないながらも先ずは此処では日本に於ける発明と考えておきます。
陛下
「陛下」については前出の手元の角川漢和中辞典の陛の項に
『史・始皇紀』の
「海内頼二陛下神霊一」
が用例として挙げられ、
此れは字源の「一統」なる項目[※3]
に仍れば「一統皆爲二郡縣一」のように続きます。
即ち秦の始皇帝が国内統治に中央集権化を求め郡県制を布くに神霊に依ったとするものでしょう、
司馬遷が著した『史記』に出て来るものですから
遅くとも前漢時代紀元前100年頃には既に用例があることになります。
中国から漢字、政治機構と共に本邦に仕入れた言葉であるのは間違いないようです。
すると時代的には恐らくは飛鳥時代、
中央集権律令国家の考え方が取り込まれた頃に輸入されたものである可能性が高いでしょう。
飛鳥
以下に平凡社の白川静による字統から陛の項を引用します。
陛 ヘイ きざはし
形声 声符は坒 ( 。 坒は土上に人の並ぶ形。 〔設文〕一四下に「高きに升るの) 階 ( なり」とあり、 宮廟の堂室に升る階段をいう。 天子を陛下とよぶのは、直接に指称することを避けたもので、〔戦国策〕にみえる。 君権が著しく強大なものとなった時期の語である。)
『戦国策』に出典が求められていますので『史記』同様、前漢に初出は遡り得るものです。 此の解説からは白川は下の義を漠然と下方を指すものと考えていたのが窺われます。
敬称に於ける位置関係
階段の上に皇帝が位置するのは実に中華的な発想だと思います。
管見には中国の歴代皇帝は確かに秦の始皇帝から
結言
以上から下の一字を伴う敬称に於いては「陛下」が最も古く古代中国に発明され、 其れが律令制と共に日本に輸入されると飛鳥流にアレンジされた「殿下」が其れに続いて、 以降は「閣下」、「猊下」、などが日本に次々発明され、 其の後此の手法を襲って様々な下を伴う敬称が誕生したものではないかと考えます。 時代を遡れば皇帝及び皇族以外に下の付く尊称を用いるのは其れこそ不敬な行為だったのかも知れず 時代が下る毎に其の不文律は緩み遂には気軽に書簡に相手を呼ぶ際にも用いられるようになったものかも知れません。
下の付く敬称については一般に直接の呼び掛けを控えるのに間違いはないようですが、
考察しながら調べると様々な事象が浮かび上がり興味深いものです。
本稿は
- 故きを温ねる新しい学問『木簡から古代がみえる』書評(2017年2月15日)