陛下、殿下、閣下、猊下に関する敬称少考

問題提起

折に触れ議論百出し賑やかな談義となるのも楽しい古文書解読会ですが 『東海道名所圖會ずえ』の遠江国部の駿遠両国の堺の章に 「いにしえより徒杜とかう輿梁よりやうも なりが」 とあるのは駿河国するがのくに遠江国とおとうみの国境の大井川の渡河の くだりでした。 「徒杜輿梁」とある漢字の右には仮名で「とかうよりやう」と振られていますので現代仮名遣いでは「とこうよりょう」と読まれるものです。 なかなか目にする言葉ではなく調べてみれば『孟子』の 離婁りろう篇に「徒杠輿梁」がありました。 「杜」の字は「こう」とは読めませんので「杠」の誤りではないかと思われます。 恐らくは版木に起こす際に誤ったものではないでしょうか。 管見に目についた書籍に仍っては「徒杠」も「輿梁」も共に橋梁名なりとするものもありますが、 どうもセットで用いられる言葉ではあるようです。 名所図会の魁たる秋里籬島あきさとりとうほどになれば 四書五経は誦じるのは当たり前、『孟子』にも通じており、 渡河のシーンに自然と引用されたのではないでしょうか。 解読会の催された時点では『孟子』に出典のあるのは未だ気付いていませんので、 取り敢えずは徒歩にて渡河するを「徒杜」、輿に乗って渡河するを「輿梁」と解したのでしたが 話柄は「輿梁」から面白い方向に転がり議論百出の様相を呈したのでした。

東海道名所圖會テキストと下の付く敬称の資料数冊
東海道名所圖會テキストと下の付く敬称の資料数冊

輿が上下に位置する尊卑関係を想起させ、梁が構造物を連想させると言う塩梅で転がったのが下の付く敬称論議であり、 其の際、解読会参加者から思い思いに呈示されたのが標題に代表に挙げた、 「陛下へいか」、 「殿下でんか」、 「閣下かっか」、 「猊下げいか」の四つだったのです。

「下」の字義

従前、敬称に下の一字が用いられるのを聞くにつけ 如何しても敬する人と敬される人の位置関係が気になったものでした。 尊敬を表すのに位置関係を利用するについては 矢張り其の手の疑問を抱えていた向きも解読会の中には多いようで話柄は其方に傾きます。 様々な意見が出される中に電子辞書を引いた意見に、 下は自分でも貴人でもなく貴人の近く侍る取次ぎを指す、 なる意見が呈示されました。 今、手元の手元の角川漢和中辞典を繰ってみれば 「陛」の項目に「陛下」も用意され以下引用の如く記されます。

天子の敬称。きざはしの下の意。
直接天子に奏することを避けて、きざはしの下の近臣に告げて奏することからいう。
しんに始まる。

此のようにあれば電子辞書は角川の内容を受けたものだったのかも知れません。 此れは成る程と腑に落ちたリもしました。 貴人の居場所を基に下を付けるのが此の一連の敬称の成り立ちで、 従って構造物に下の一字を付加する構成となっており、 「殿下」や「閣下」は御殿や楼閣であれば「陛下」に於いては階段を示すものですので、 では前者は取次は門番に当たり、後者では殿上人でなければ敬称を発することも出来ないのだ、と妙な納得もしたものです。

何故敬称に下の一字を用いるのか、 に関して会参加者から様々な意見が出され大いに会も盛り上がったのでしたが 事由は端的に直接の応対を控える為に、 相手の下方を指す自分の位置を示す、 の二つにまとめられるようです。 前者については又、 取次を呼ぶ漠然と相手の下方を指す、 の二つに分けられました。

「陛下」に付いては古文書解読会の中心人物で本稿執筆者塚本の古文書の師匠でもある 渡邊弘 氏から、 活字を拾うに時折「階下」と間違えて新聞が刷られたのを不敬と指摘され金銭的損失も蒙る困った事態が招かれるのも 戦前にはしばしばだったそうで此の為 二字活字 が発明された、 などの雑学も供出され古文書解読会はとても楽しい 百家争鳴ひゃっかそうめい の様相を呈したのでした。

「下」字を伴う敬称其の他

ところで下の一字を伴う敬称は他にも様々聞かれます。 以下に主だったものを挙げて見ますが此処では其の言葉は比較的時代が下ってからのものと考えられる為、考察の対象にはしません。 先ずは皇族にも「妃殿下ひでんか」が聞かれますが、 此れは「殿下」と同時発生とは思えず、また「皇后陛下」と同様の属性も有すると考えられますので、 殿下に準ずるものとして「殿下」に含めて考え此処では扱いません。 聖下せいか座下ざか台下だいか などは西洋の宗教的含みが強く本邦には後付けの感が否めないので此処では省きます。 また余り人口に膾炙していないためか古文書解読会でも呈示はありませんでした。 他にも机下きか貴下きかも後付けの感が否めませんし巷間多く使われもしますが、 同輩以下への使用が慣例となっているため調査、考察を省きます。 幕下ばっかは将軍の敬称として用いられもするそうですが出典が判然せず 一般的には将軍の指揮下の家来を差し、 また麾下きかも同様の理由で此処には扱いません。 此処に省くものは其の意を軽んじるものではなく 其々一編の稿をまとめ得るものだとは思いますが、 此処では其の言葉の新しさから考察対象としては便宜上除いているものです。

猊下

さて「猊下」については 宮城県栗原市にある曹洞宗寺院の副住職と言うお方が自らのブログに興味深い一記事[※1] を寄せておられます。 当該部分を下に引用します。

なお、この「猊下」についてですけど、「竜文堂上禾上猊下」という使用例が『器之為璠禅師語録外集』にあるので、 15世紀(器之禅師の生没年は[1404~1468])には、既に使われていたということなのでしょう。拙僧の拙い検索では、 中国の禅語録には使用例を見付けられませんでしたし、曹洞宗の両祖大師にも使用例はないようなので、その後ってことになるでしょうか。 江戸時代の日本の語録には、幾つかあるようです。

曹洞宗に端を発する敬称であるのが知れますが鎌倉初期の 道元禅師 迄は遡れぬものの此れから見れば少なくとも室町、戦国時代には遡り得るようです。 従って其の用例は比較的新しく微妙ですが 古文書解読会でも出たように充分に人口に膾炙している言葉ではあります。 此の意として恐らくは同氏に仍るだろうWiki[※2] には其の義が解説されています。

閣下

次に「閣下」については 群書類従 20(合戦部) の 『将門記しょうもんき』 に 「閣賀」 の用例が見られ、又続群書類従 13下(文筆部・消息部) では「閣下」の用例が見られます。 群書類従に収められれば 塙保己一はなわほきいち の生きた江戸中期迄時代が下るということもないでしょう、 判然せず確言は出来ませんが 『将門記』となれば大凡平安末期まで遡り得ます。 先ずは此処では遅くとも平安後期に初出を求めて宜しいものとしておきます。

殿下

では「殿下」はと言いますと平凡社から刊行されている 『日本史大事典 第四巻』 を見れば「殿下」の項目が橋本義彦氏の文責にて記されており、 本来は御殿の下を言ったものが敬称に転化し、 三后さんこう、皇太子を呼ぶものから段々と 中宮ちゅうぐう尚侍ないしのかみ等へ敷衍し、 遂にはただ「殿下」と言えば摂政、関白を呼ぶものとなり、 現在では明治の皇室典範に三后以外の皇族の敬称となっているとしています。 御殿の下との指摘は貴人の坐す所を示すことになるでしょうか、もう一つ位置関係の増えたもので混乱が増し、 また「閣下」は兎も角「陛下」が階段の下に位置するのでは下の意の一貫性を欠き些かおもしろくありませんが、此処ではさておき、 其の稿に三后、皇太子の敬称と定義された出典として 養老儀制令ようろうぎせいりょう公式令くしきりょう が挙げられています。

更に吉川弘文館から刊行された 『国史大辞典 第九巻』 を繰れば加藤友康氏の文責で上の橋本義彦氏の著作を参考文献の一つとする「殿下」の項には 『養老令』儀制令皇后条の当該部分の条文が記され、 また『養老令』公式令闕字けつじ条も挙げられ 幾分詳細に及んだ出典が知られます。

孰れにせよ『養老令』に斯様に収められているとすれば「殿下」は八世紀の本邦、奈良時代に定義されたことになります。 すると日本に発明された言葉になると考えても宜しくはあるようです。 現代中国にも辞典を見ると用例が有るようですが、日本の発明を逆輸入した可能性も無きにしも非ず、 判然しないながらも先ずは此処では日本に於ける発明と考えておきます。

白川静による陛の字の篆文をベクターデータ化したもの
白川静による陛の字の篆文をベクターデータ化したもの

陛下

「陛下」については前出の手元の角川漢和中辞典の陛の項に 『史・始皇紀』の 「海内頼陛下神霊」 が用例として挙げられ、 此れは字源の「一統」なる項目[※3] に仍れば「一統皆爲郡縣」のように続きます。 即ち秦の始皇帝が国内統治に中央集権化を求め郡県制を布くに神霊に依ったとするものでしょう、 司馬遷が著した『史記』に出て来るものですから 遅くとも前漢時代紀元前100年頃には既に用例があることになります。 中国から漢字、政治機構と共に本邦に仕入れた言葉であるのは間違いないようです。 すると時代的には恐らくは飛鳥時代、 中央集権律令国家の考え方が取り込まれた頃に輸入されたものである可能性が高いでしょう。 飛鳥石神いしがみ遺跡の出土木簡から天武朝には天皇号の使用が確認されています[K1] ので、若しかしたら「天皇陛下」の尊称誕生は飛鳥に遡るものと想像を逞しゅうしたりもします。

以下に平凡社の白川静による字統から陛の項を引用します。

ヘイ きざはし
形声 声符はヘイ。 坒は土上に人の並ぶ形。 〔設文〕一四下に「高きに升るのきざはしなり」とあり、 宮廟の堂室に升る階段をいう。 天子を陛下とよぶのは、直接に指称することを避けたもので、〔戦国策〕にみえる。 君権が著しく強大なものとなった時期の語である。

『戦国策』に出典が求められていますので『史記』同様、前漢に初出は遡り得るものです。 此の解説からは白川は下の義を漠然と下方を指すものと考えていたのが窺われます。

敬称に於ける位置関係

階段の上に皇帝が位置するのは実に中華的な発想だと思います。 管見には中国の歴代皇帝は確かに秦の始皇帝から しんのラストエンペラーに至るまで階上の椅子に腰掛けているイメージがあります。 飛鳥の本邦には此の形式が当初は輸入されたかも知れませんが、 江戸期まで連なる平安朝以降の朝廷での天皇の着座のイメージでは御簾の向こうに位置しますので、 日本式に言えば 簾先 とでも言ったような気もします。 即ち空間を高低で捉える中華的発想と遠近で捉える本邦的発想とに表現が分かたれる感を受けます。 蓋し上下方向に位の差を求めるのは中華的と言えるのでしょう、 中国古典に最初期の用例が求められるのは当然と言えるかも知れません。 併せて考えれば位の差を言うに 左上右下さじょううげ のあり此の価値観は本邦のもので国に仍っても時代に仍っても異なり 本邦とて戦時には右が上に変わるとの言説も仄聞そくぶんしたこともあり 調べ考察すれば又面白いかも知れぬように思います。

結言

以上から下の一字を伴う敬称に於いては「陛下」が最も古く古代中国に発明され、 其れが律令制と共に日本に輸入されると飛鳥流にアレンジされた「殿下」が其れに続いて、 以降は「閣下」、「猊下」、などが日本に次々発明され、 其の後此の手法を襲って様々な下を伴う敬称が誕生したものではないかと考えます。 時代を遡れば皇帝及び皇族以外に下の付く尊称を用いるのは其れこそ不敬な行為だったのかも知れず 時代が下る毎に其の不文律は緩み遂には気軽に書簡に相手を呼ぶ際にも用いられるようになったものかも知れません。

下の付く敬称については一般に直接の呼び掛けを控えるのに間違いはないようですが、 考察しながら調べると様々な事象が浮かび上がり興味深いものです。 本稿は管見かんけんに手短な史料とネットを繰っただけに基づく論考ですので深みも足りず、 勿論中国古典などに使用例が認められれば 追記に此の稿を改訂するにやぶさかではありません。

参考URL(※)
  1. 大聖人と大禅師(つらつら日暮らし:2009年4月2日)
  2. 猊下(つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉:2009年05月02日)
  3. 一統(字源)
かたむき通信参照記事(K)
  1. 故きを温ねる新しい学問『木簡から古代がみえる』書評(2017年2月15日)
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