文学が現実社会に大いに影響を及ぼすのは論を俟ちません。 なんとなれば司馬遼太郎氏の執筆になる 竜馬がゆく の主人公 坂本竜馬 に範を倣う現代の政財界の大立て役者は枚挙に暇がないからです。 凡そ司馬氏に創造された竜馬以前にその歴史上に占める位置付けは高いものではありませんでした。 小説あればこそ坂本竜馬は現代に英雄として蘇り 数多の人々の生き様に影響を与えているのでした。
司馬氏はその筆名が著すように 歴史小説の始祖、中国漢の武帝の御世を生きた 司馬遷 に由っているとします。 遼に及ばぬ太郎か、遼時を隔てた太郎か、遼に秀でるを意味する太郎かは判然しませんが 大いに姿勢に影響を受けているのは確かでしょう。
翻って日本の歴史小説家を見れば維新後には大インテリ 森鴎外 がありました。 本人は気の赴くままに題材を史料に求めたのかも知れませんが、 時代背景もありそれは日本小説史上に画期であったでしょう。 司馬氏もこの影響を免れ得ない処です。
この森鴎外と司馬氏を繋ぐ位置に本記事に書評をものす 安吾史譚―七つの人生について を創作せし 坂口安吾 があります。 連綿たる文壇にあってこの歴史小説が定型となる創作活動をなしたと言えるでしょう。
この史譚、七つの人生の冒頭に著されるのが歌聖と呼ばれ親しまれる 柿本人麿 です。 この歌人の物語の僅か冒頭の数ページに日本古代史が凝縮され概観出来るのは その謎の多き生涯を象徴するかのようでもあります。 そして大国主命の後裔物部氏の支流としての人麿の出自故、 大化の改新 に天智天皇に与したこれも物部支流の中臣鎌足の要請に応じ東国から逢坂の関を越えた一平卒が 門づけ に流れ流れて石見で所帯を持つのでした。
此処に古代の歌聖の詠いは 高橋竹山の津軽三味線 宜しく扱われるものとなっているのです。
その詠いようは馬鹿馬鹿しくも大仰であり、 安吾自身が人麿の詠った土地を訪れるにつけその思いは強くいたされるのでした。 人麿に於いては微々たる土の盛り上がりに過ぎない丘とも呼べぬ丘を 大君は神にしませば天雲の雷山に宮敷きいます と詠んだり、人麿の作にはあらねども野原の小川に過ぎない飛鳥川に 転地自然の変化や世の移り変わりの激しさを擬えるに託したりと 古代の歌謡の創作神経を云々する処です。
これをして人麿の連れ合いに ホラフキ と謂わしめる所以たる訳です。 当時国家中枢の事業として、現代では国語の主要項目に取り上げられる歌聖の歌謡も まったく形無しとなる着想は愉快です。 この連れ合いを石見に残し人麿は時の中央政権の求めに応じて 幾星霜を国家の礎を築く事業に投じていたのでした。
長年を過ごした都を離れる決心をしたのはその石見に帰るためでした。 固より故郷にあらぬ地を故郷とも思う乾いた恋慕は不思議な感興です。 帰る道すがら詠む詩の空しさ、空々しさは安吾の当時の文壇への批判であるでしょうか、 それとも自己批判、内省であるでしょうか。 誰の葬式を見ても感動するタチは門づけの根性かも知れない、 と人麿は思うのです。 自らをホラフキと呼ぶ連れ合いの暮らす石見を目指す今は 嘗ての感動も今は紙を噛んだように面白くもなんともありません。
さて石見の地に立ち戻ってみれば既に連れ合いは果敢無い者となっていました。 人麿は当地を終の棲家とします。 その終焉の虚無感を醸し出す筆致は安吾独特の境地です。
現在、柿本人麿の終焉の地は石見と比定されています。 安吾は此れに歌聖の虚無を肉付けし手法として連れ合いを使用したのでした。 作中には、 特殊な時代感情の把握なしに歴史の動きは理解不能であり、 時代感情が現実を支配するということに於いては歴史も現代も区別がなく、 史書からそれを知り得るのではなく、もっと生々しく、また強烈に、 現代と自分との結びつきやその内省によって省察しうる事柄であり、 安吾自身が歴史に興味を持ったのもそのためである、 と記されています。 歴史小説の真骨頂が此処に著されています。
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