女帝3名、持統、元明、元正のリレーで育て上げられた太陽の子、 聖武天皇と3女帝の信任を与った稀有なる才女、橘三千代に育て上げられた太陽の娘、 光明皇后の太陽夫妻の間に生まれ育てられたのは必然的に地上唯一の太陽たる女神 高野天皇 でした。
作家 坂口安吾 が著す 安吾史譚―七つの人生について (以下、本書)に 柿本人麿 の次に綴られる物語の題目たる 道鏡童子 を押し退け主人公として機能する史上6人目の女帝にして重祚に前後し 孝謙天皇 、 称徳天皇 と尊称され、崩御の後 高野天皇 と諡号されるに至って本書がこの号で通すに本記事も従うものです。
本書の道鏡童子に於いては坂口安吾は俗書にまことしやかに囁かれる 姦通説などの俗説を真っ向から両断、 高野天皇及び弓削道鏡の汚辱を拭い去らんとするのは、 作家として読者の興を惹起するためでしょうか、 それとも人格として堕落に努めよと叫んだ生来の天邪鬼の故でしょうか、 両名を共に高潔な人格を備えた唯一絶対者であるとして稿を進めるのでした。
高野天皇を日本の古今に随一の人造乙女であり、 祖先3代の女帝の才気も父母の光と勢いもまさしく身にこもっていたような 決して出来の悪くはない作品だった、と安吾は評します。 その存命中は何者もその威風を貶めること適いませんでした。 当時陰謀を能くするのは勿論藤原氏であり、しかし孰れもその能力を 高野天皇には発揮し得なかったのです。 斯様な状況下に重祚以前に重用された藤原一族である 恵美押勝 については策士の揃った一族中に最も単純なお人好しなればこそ 寵を受け得たとするのでした。
複雑なのは藤原氏が一族間にも反目し合っていたに因り 恵美押勝は一族からも繭を潜める存在となれば その権勢を失墜さすべく対抗馬として藤原氏が道鏡の高野天皇への 引き合わせを画策したのでした。 因って乱は引き起こされ恵美押勝は滅亡しました。 藤原氏の陰謀が成就した格好になったのですが、 これとて安吾は成功とは呼びません。 後世の俗書に書かれる如き乱れた女帝であれば他に如何様でも乗じられただろうとします。 安吾の主張には唯に高野天皇の高潔と絶対性が保たれるのです。
更には道鏡についてもその出自を物部大臣の娘が天智天皇の皇子 施基皇子との間に儲けた即ち皇孫とする喜田博士の説を取ります。 その登場には彼自身に何ら陰謀的な陰が感じられず、 女帝崩御後の失脚に至り都を追われるも一切の策略の影は差しません。 そして藤原氏の都合に由っては帝位は道鏡でも構わず、 その資格も天智嫡流として充分有していたのです。 しかし終ぞ道鏡は天皇並みの扱いを受けようと帝位に就くことはありませんでした。
高野天皇を唯一絶対太陽の女神足らしめた基盤は 3代の女帝のリレーに築かれました。 而して太陽の子たる聖武天皇は国を傾かしめる大仏建立と言う大事業を行いました。 この時に藤原氏の時代へと移り行くのは定められたのかも知れません。 移り行く時代の最後を飾ったのが高野天皇と道鏡の高潔さだとすれば床しいものです。 然るに藤原氏の時代になった正史がこの両名を巧みな筆致を以て徒花足らしめ、 俗書の餌となってしまったのかも知れぬ、と安吾の主張に思いを至らされます。
安吾は俗書と逆に高野天皇は終生童貞ではなかったかと推測、 根のないこととしながらも、この時代と時代の人々とをどのように解しているか、 他の人や事についていの理解を知ってもらえば史料上に的確な実はなくとも、 そのために全然根がないことにもならない、 という文学的な真実を認めていただけるかも知れない、とします。 此処に安吾の歴史小説に対する姿勢が如実に表れています。
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