天草四郎~安吾史譚書評~遣る瀬無き史上最大の一揆

幾つかの物語を内包する 安吾史譚―七つの人生について (以下、本書)にも本一編は珍しく作者 坂口安吾 がその主人公の精神にスポットを当てられないものです。 然らば孰れに気を用いて物語が構成されているのかと言えばそれも判然しません。 敢えて言えば島原の乱に焦点を当てたものですが、 それとて曖昧模糊の内に没し、前編にそこはかとない遣る瀬無さが漂うだけの 悲しい物語となっています。

Christian Statue in Amakusa

悲劇と言って良いでしょう。 然し本編主人公の 天草四郎 その人の悲劇性に因るものではありません。 否、安吾がその人物を俗人であると批判する程に それを取り巻く周辺及び乱の悲劇性は高まるのでした。

安吾は一般には聖母マリヤに似た16歳の紅顔の美少年と謂われる天草四郎を評するに 少ない、と言うより皆無に近い史料を以て 演技力抜群の名犬 とします。 妙に大人染みてただ身振りと口振りのみに巧者な知識犬、 頭が悪くて妙に演技に通じている知識犬、 技巧に励み演技の腕を上げて自己陶酔を深めてゆく知識犬、 と散々です。 乱鎮圧側に於いて戦争商売人たる武士を率いて農民相手に多大の損害を被った初代総司令官 板倉重昌 を猪突とすべきを名将、猛将と誉めそやし、 被害を最小限に乱を鎮圧せしめる才覚を示した知恵伊豆 松平信綱 を文弱者と笑い者にする蒙昧な時代に、神童四郎の神童たる内容が何を指していたか 分かったものではないとします。

島原の乱は島原、天草の乱とも称される如く、 一個に収束せしめられる理由の下に起こったものではありませんでした。 島原に於いては乱の後に領地没収、江戸時代を通じて只の1件の斬首に処された大名 松倉勝家 の苛政への反抗でしたし、 純然たる切支丹一揆と安吾が目する天草に於いてさえ 後にお家断絶となった寺沢家の石高僭称に起因する重税が理由の多くを占めるようです。 更には関が原に敗戦した 小西行長 が領有していたのが天草でしたし、 小西行長自体が先祖伝来の地ではなく秀吉の命で赴任した土地に過ぎず、 その以前には佐々成政とて同様です。 島原に於いても有馬家は肥前に転封となっていますから、 必然的に多くの浪人を産み出す状況となっていたのでした。 此処には関が原以降の大阪冬の陣、夏の陣と同様に 不満分子の拠り所として機能していた性質も伺えるものです。

島原の乱の勃発は寛永14年(1637年)10月、 その終結は寛永15年(1638年)2月とされていますから 関が原からは既に40年近く、 大阪の陣からも20年以上が過ぎています。 因みに島原の乱には57歳となり功成り名遂げた 宮本武蔵 が鎮圧側に参陣しており、関が原には功名せんと必死の思いで敗戦側に参陣している若き日の 新免武蔵があったと思えばその時の流れに思いを致すのも如何許りか。

さて一般に天人、安吾に言わせれば知識犬の16歳天草四郎にも親兄弟が有りました。 その本名を益田四郎時貞と言う四郎の父は 益田甚兵衛好次 と言い小西行長の遺臣が宇土に土着したものでした。 島原の乱の首謀者の一人と目されています。 知識犬を飼い慣らし好い様に扱い得たのは無論この父あってのことだったでしょう。 しかし小西家滅亡からしかし37年、 甚兵衛は当時は千軍万馬の戦場往来の古強者にはなかっただろうと言います。 暗に安吾はこの父を島原の乱の黒幕に比定しはしないものです。

鎮圧側の総大将知恵伊豆は勿論、開城降伏の条件に一揆農民はこの一命を許す旨申し出ています。 天草四郎は此処で己の身を捨ててその条項に寺沢家の僭称した石高を現状に合うものへの是正を以て 条件とすることも充分可能であったろうと思われます。 然るに徹底抗戦し全滅への道を選びました。 安吾は此れを以て下の下策と評し四郎を知識犬と迄貶める所以と思われます。 従って遂にこの石高が是正されるのには代官が身を呈して尚30年の歳月を要すことになってしまいました。 本来一揆に対して体制側は責任者の処分を以てのみに済まして、 その言い分は受け入れられるものです。 しかし遂に島原、天草の苛政に苦しんだ農民は皆殺しの憂き目にあったしまったのでした。 この下衆で最下級の下策を取ったのが四郎を取り巻く黒幕浪人達であったろうと安吾はするのです。

島原の乱は以て伝える史料も無いものとされて来ましたが、 ご維新を過ぎ遣りて2度の大戦も収束した安吾の時代に至り 漸く壊滅と思われた島原半島原城から密かな脱出に成功している落ち武者の 少なくない事実が判明して来たようです。 安吾に依ればこれ等の殆どが乱を主導した参謀格の黒幕の浪人連で、 地元に根の生えた百姓は城を枕に討ち死にするしかなかったろうと言います。 保身に長じた参謀格の黒幕は幕軍へ伝手を頼んで落ち延びて お江戸の時代にはついぞ名の出ることなく安吾の時代迄隠し覆されたのでした。 この意味からすれば天草四郎もその父甚兵衛も被害者であったでしょう。 それが分かるだけに、また余りの救いようの無さに 敢えて安吾は甚兵衛を深く取り上げはしなかったのかも知れません。

安吾は父の代わりに四郎の姉に注目しました。 四郎の姉は洗礼名を レシイナ (レジナ)と称したそうです。 その良人の 渡辺小左衛門 は一揆に加わらず幕府方に捕らえられ城内の四郎と矢文交換しました。 彼等も刑死したのですがこんな時だけ望んで一味に加わって その立案段階では父と弟に強固に反対しただろうとします。 黒幕浪人とはまるで行動が逆です。 此処に全てに度し難い物語に唯一安吾は救いを見るのです。

庄屋の当主たる小左衛門も知識犬の姉たるレシイナも聡明を想像するに難くなく この夫婦は弟や父とその周囲に黒幕がことを進めるのを身近に見て 全てのカラクリも見え透いては付いていけないのは尤もでした。 この二人ほど真剣にまた真面目にこの悲痛な顛末を始めから終わりまで見届けていた目はなかった、 と安吾は考えます。 またこの目の存在がなければこの事件は救いようがない、ともするのです。

安吾はこの目を以て小説に仕立てようとしたこともあったようです。 この切支丹騒動に幕政批判の意味を持たせそれが農民一揆と正義の根底に不可分として 四郎を英雄仕立てにするのも立派な小説の一手法であると安吾はします。 此方を作者の思想に依って作られた歴史小説とするならば、 しかしそれは安吾の好みではありませんでした。 史実に英雄的な処がちっとも見当たらない天草四郎は 其の侭に歴史小説とするのが安吾の好みにあった手法でした。 しかしその歴史小説はついに吾人の読める処ではなくなりもしたのです。

使用写真
  1. Christian Statue in Amakusa( photo credit: JoshBerglund19 via Flickr cc
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