此の写真は 勝海舟 、言わずと知れた幕末の偉人にて、作家 坂口安吾 は 近代日本に於いては最大の図抜けた傑物 、そして 歴史が生んだ偉大な傑作 と迄称揚します。 確かにこの人物ほどすっぱりと潔い負けっぷりを示した敗軍の大将も居ません。 日本史上最大の内戦と言っても過言ではないでしょう幕末の大乱に その中心地たる江戸城を無血開城に至らしめたのでした。
本記事末尾に記す安吾史譚書評記事一覧にある書評の元は坂口安吾作の 安吾史譚―七つの人生について (以下、本書)にて、最後の物語となるのが本記事の書評の元となる一編なのですが、 さてそれは勝海舟にあらずしてその父親 勝夢酔 その人を取り扱ったものであります。
七編の史譚はその発表時固より史上に現れた順に書かれたものではありません。 これを纏めて一冊とする際に時系列に並べ替えられたもので、 時代的に期せずして大トリを務める仕儀と相成ったのですが、 それでもこの勝夢酔の一編は敢えて選んでも掉尾を飾るに相応しいものです。 探偵眼に歴史を探索すれば勢い陰鬱な印象も少々、この一つ前に置かれた 天草四郎 に至っては尚更ですが、 それもこれも最後の最後に夢酔旦那が全て吹き飛ばして 安吾史譚なる書物の読後感をいっそ爽やかなものにさえしてくれます。
この物語を一言に約めれば 痛快無比 、これに尽きるでしょう。 夢酔を語るに従って安吾も特別詮索したりなどはしません。 小細工を用いたのは冒頭、息子の海舟を持ち上げて其の親父こそ、 と遣った件だけと言う塩梅。 夢酔のものした奇怪で抱腹絶倒の自叙伝 夢酔独言 から適当に引っ張り出して遣れば如何遣っても面白可笑しいお話が出来上がってしまうのでした。
勝夢酔がこの自叙伝をものした理由には、 おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有まいと思う故に孫やひこのために話してきかせるが、 よく不法もの馬鹿もののいましめにするがいいぜ、 と言うんですから振るってるじゃありませんか。 安吾が言うには孫や曾孫のためと称するのは子たる海舟やその妹の出来がよかったからだそうで、 更には子孫が真面目に暮らす戒めを残しながら己自信については、 未だ天罰が降り懸からんのは不思議だと首を傾げながら無頼純粋の一生を終えたと言いますから ちょっとこれ以上の滑稽譚にもなかなかお目には掛かれません。
勿論夢酔の御仁、そのものする文章も一通りではありません。 序文の末尾は次のように結ばれています。 先にも言う通りおれは之までなんにも文字のむずかしことはよめぬから ここにかくにもかなのちがいも多くあるからよくよく考えてよむべし、 とは想定されるのが子孫とは言え何たる読者依存か。 本文も夢酔其の侭勝手気ままに文字が当てられるべらんめぇ調で設えられていますから 作者の保証の通り難解を極め、よくよく考えても一通りでは分からない、 と安吾は困惑した文章に目を輝かせているのが透けて見えます。 世には坂本竜馬の口語体の書簡や二葉亭四迷の言文一致体が持て囃されますが どうしてどうして此処に江戸時代、唯我独尊に言文一致を自然体で行っていた御仁が居た訳です。
かたむき通信に 短文信仰 に関して記事を起こしたのも短くて通りの良いばかりの文章など、 この如き文章の前には全く色褪せ、魅力の無い読む価値も無いものに陥り易い 特色を持っていると断じた上での筋書きでした。 世の中、甘いお麩菓子ばかりじゃどうにもなりゃしません、 少しくらい歯応えが有って苦味の有る文章の方が身体にも好いってもんです。
さてでは安吾氏が本書に紹介する夢酔史譚にも幾つか其の侭此処に紹介しましょう。 此処は安吾氏が下手に小細工しなかったのに習うのが最良の策ともなると考えるからです。
先ずは何しろ 金玉 でしょう。 安吾氏もこの親子はよくよくキンタマに祟られていると呆れる程でした。 海舟がその幼年期に狂犬にキンタマを噛み破られたのはかなり知られる処ですが、 この治癒に七十日間寝て過ごすに夢酔の献身的な看病があったのでした。 自身も患者も震えてキンタマを縫うのに難儀する医者の脇から海舟の枕元へ 刀を突き立てれば患者は泣き止み医者の震えは停まり無事縫い上げが成ったと言います。 命を請合えない旨医者に申し出られようと毎晩毎晩水垢離に金比羅様へのお参りを欠かさぬのは まだまだ一般なれど海舟を抱き抱えて寝るに、海舟ではなく、 夢酔殿が毎晩毎晩暴れたと言うのですから訳が分かりません。 近所の口さの無い者には子供を犬に食われて親父の剣術使いの気が狂ったと言われたそうですが、 発狂状態を親父様が引き受け遂には海舟は完癒、夢酔曰く、 それから今になんともないから病人は看病がかんじんだよ、 と子孫に戒めます。
処で夢酔先生、実は己も若い十四の頃、乞食をしながらブラブラ歩いていて崖から落ち、 キンタマをシコタマ打って腫れて膿が出て崩れて起居も侭ならず、 二年間外出もならない過去を持っていました。 安吾氏の呆れる所以です。
近所から剣術使いと目されていましたが、 この剣術使いも並大抵ではありません。 言ってみれば喧嘩剣法で力任せに相手を叩きのめして負けなしなのですから 回りの始末に負えない悪餓鬼でもありました 三度の飯より喧嘩好きな夢酔殿は実兄の息子、夢酔の甥に当たる二人の相棒と その家の用人源兵衛なる剣術使いに率いられた喧嘩指導もまた頗る奇矯なものでした。 祭礼の人混みに出向き相手を物色、手頃な数人に唾を吹っ掛け喧嘩を売れば 遂にはエスカレートしてこの4人対60人の鳶小揚連合軍の大喧嘩に発展、 相手は18人の手負いが出るものの殿を引き受け何食わぬ顔で帰宅して 何事も無かったように玄関で酒を遣っている源兵衛以下無傷の夢酔側でした。 これより源兵衛を師匠に喧嘩の稽古、イヤさ、正式の剣術に身を入れれば それはそれで同流のみならず他流の道場迄出向いて無闇に試合う始末、 当時他流試合は流行らなくなっていたものから おれが中興の祖だ、と夢酔先生威張っています。
以降も21の秋から24の冬迄丸3年余り座敷牢生活を送ってみたり、 加持祈祷を伝授されてインチキ臭い小銭を稼いで見たり、 貸家の大家の1,500石取りの旗本を助けてみたり、 と無軌道、破茶滅茶なエピソードの数々が紹介されます。
然るに勝夢酔の一編を一言に縮めれば 痛快無比 の物語となる塩梅で、安吾史譚の書評の最後の最後に何ですが、 安吾氏が選りすぐったって夢酔独言の幾つかに過ぎませんから、 夢酔独言も出版されて多く世に出回ってもおる折、 興味の湧いた向きはこの一見解し難くも抱腹絶倒の奇怪至極な怪自叙伝、 一度読んで見るのも一興でしょう。
使用写真- Katsu Kaishu 勝海舟 銅像( photo credit: Dick Thomas Johnson via Flickr cc)
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