大物外交官を史上に炙り出す『小西行長/安吾史譚』書評

高価なワインを傾ける前には豪華なディナーの用意された貴賓室の日常、 世界を飛び回り様々な国の人と交流するなど何やら子供の将来の夢の中にある如き 華やかしい印象が語られるだけが外交官ではないのは無論です。 異文化の中にも海千山千魑魅魍魎の跋扈すれば 厳しい交渉事を常とする過酷さをごちる時もあるでしょう。 しかし外交官として名が残れば未だしも、 史上には已むに已まれぬ事情で本意とはせずとも政権上に重要な外交官となり、 そして遂にその業績は闇に葬られた者もあるようです。 安吾はこの物語にその傑出した外交官を探偵の如き推理で以て歴史上に浮かび上がらせんと試みます。

かたむき通信には本記事末尾の安吾史譚書評記事一覧にある一連の書評をものしたは 坂口安吾 の手になる 安吾史譚―七つの人生について (以下、本書)に収められたる物語群にて今回続いて綴られるのは 豊臣秀吉の政権下に活躍した戦国武将 小西行長 の物語が四つ目となります。 行長の外交官として活躍した場は平和な大使館には無論なく、 更には後方の兵站にもあらぬ最前線、戦場のしかも先陣でありました。

太閤豊臣秀吉の催した 文禄慶長の役 は秀吉の発狂の所為であると巷間囁かれます。 本書冒頭には信長に中国をやろうと言われた秀吉がそんなものより 朝鮮、明を平定するから朝鮮をいただきましょう、と大言壮語したその延長にこの役はあり、 自らが天下を獲るや日本人の嘗て成し得なかった日本、朝鮮、明の3国平定に依って 己を名を南蛮天竺の向こう迄轟かせしめようという寸法です。 中国が歴史上どんな大国で本邦との関係がどうであろうとも そんなことは問題にもならぬ、自らが出向けば一蹴であるとテンから決めて掛かっているのでした。

漸く長く打ち続いた戦乱も収束した処に催されるこの大戦争に周りは気が気ではなく、 しかし天下統一の主体たる独裁者に表立って反抗出来る者もなく、 僅か徳川家康が秀吉の意に反した僅かの手勢での参陣がせめてもの抵抗でした。

対馬の領主宗氏を通して交渉がなされたのですが、 如何ともし難い状況に宗氏は頭を抱えるばかりで、 遂には秀吉方の交渉者、小西行長と語らって 主権者たる秀吉を騙るしかない、という結論に達したのでした。 朝鮮及び明との使節の遣り取りが支離滅裂な由縁です。

…とこのような顛末が世上出回る定説となっているのは、 日本の史伝と中国、朝鮮の史料の食い違いを池内宏博士や 徳富蘇峰らが整理したものを元にしていますが、 安吾はこれに納得がいきません。

秀吉発狂の主因は世子で一粒種の鶴松の夭逝であり、 その直後大陸遠征発令がなされてはいるのですが、 しかしその5年前、鎮西征伐時に既に秀吉は宗義調に朝鮮出兵の用意を命じています。 また日本の小領主とておいそれと掛け合い一つで攻略の適わぬのに、 統一日本と並ぶ国家たる朝鮮や明が対馬領主の働き掛けでの帰服など有り得ぬだろうことくらい 秀吉が幾ら発狂していようと分からぬ筈もなかろうでしょうし、 この目で見れば朝鮮使節の国書の事務的な読み誤りようもない内容に対し 大いに気負った返書をものしているのは 余りにあっさりした朝鮮国書を或る目的を以て秀吉がそれに沿う様に補っているようにも見える、 と安吾はするのです。 秀吉が怒りの余り引き裂いたとされる国書も破られた形跡もなく現存しているのです。

秀吉の目的とはズバリ、 貿易再開 にあったとします。 明国は当時下海通蕃の禁、所謂 海禁かいきん の状態にあったのでした。 日本人に馴染みの言葉で言えば鎖国でこれが日明貿易に支障があったのでしょう。 秀吉は謂う迄もなく信長の極く間近にあり尾張領主の頃より交易での蓄財が大いに戦局を有利に働かせ、 時にヨーロッパとの交流が始まり、堺が貿易港として栄えれば 海外貿易の重要性を知悉していたに違いありません。 明及び朝鮮との交易を渇望したのは実にあり得べき事情です。 然もあらばこそ中国側が一切の秀吉の言及がないにも関わらず早い時期から 秀吉の真意が貿易再開にあろうと見たのだろう、とするのです。

処が海禁状態にあった明との交易は一朝一夕では再開がなりません。 天下様たる秀吉に取っては辞を低くして臨むのは憚りがあっただろうし、 その気質に合った遣り方が一戦交えての後の貿易再開ではなかったかと安吾は見るのです。 秀吉としては大軍を動かす損失も貿易再会に拠り取り返せると計算したもので、 徒に戦線を拡大して損耗を招かぬよう運ばせるのが秀吉の所望だったろうとします。 ここに戦場の最前線に最も優秀な外交官の必要な状況が出来したのでした。

此処に秀吉の要請に応えるべく人材は小西行長その人しかありませんでした。 行長はそれこそその出自は堺の貿易商人の倅であり、備前の商人の元へ養子に行った素性ですが、 備前宇喜多を秀吉が攻めた際に降伏の使者として商人ながら出向いて来た折に 秀吉がその外交手腕を買って取り立てた経歴の持ち主なのでした。

従ってこそ行長は最前線の第一陣に配備されてなお、 深く深く敵陣に先頭を切って入り込もうと尽力し、 勇猛果敢さでならす加藤清正も嫉視するほどの働きを見せたのでした。 しかし行長に取っては一番槍などこの際問題ではありません。 常に先頭に在って他に先駆けて相手方と接触し和議の交渉をするのが目的なのです。 勢い余って自軍を不利に導くほど陣形を伸ばしてしまう致命的なミスを犯したにも関わらず、 秀吉からは何のお咎めもなく嫉妬から行長を誹謗しただけの清正がきつい咎めを受けたのも 誰にも知り得ぬ行長の困難を秀吉のみ知り得ただろうからだと安吾はするのです。

この戦場の最前線での秘密裏の困難な外交交渉の明側を担当したのは一介の市井人 沈惟敬ちんいけい でした。 この行長と肝胆合い照らした世情に通じる無頼漢は 日本の狙いは貿易再開にある、と見抜き、 両社の和議交渉は恐らくまるで商談の如きであったろうとします。 この自国の将軍をものともしない大胆不敵な市井人は又 別に一箇の物語が出来るだろうと謂う程興味深いものが本書には記されています。

文禄元年1592年から慶長3年1598年、 足掛け7年に渡り行われたこの16世紀最大のアジア戦争は 一代の英雄秀吉の死を以て漸く終息を見、 行長の役割も終わりを迎えます。

行長をして秀吉が己の意中を安んじて一任し得た当代抜群の外交家であったとするこの推理は 歴史を探偵小説宜しく捉え、その通り実践している坂口安吾の面目躍如たる一文に反映されています。 さて、この方式は当世にも広く採用されているのですが、 大いに広まった分、薄まってもしまったのか、 矢鱈思い付きのままの自説を振り回し 安吾の如き深みのないものが当世多く出回るが残念ではあります。

安吾史譚書評記事一覧
  1. 柿本人麿~歌聖大法螺を吹く(2012年10月17日)
  2. 道鏡童子~高潔たる童貞童女の濡れ衣を晴らす(2012年10月19日)
  3. 源頼朝~顔大短身御曹司が化ける(2012年10月21日)
  4. 小西行長~大物外交官を史上に炙り出す(2012年10月24日)
  5. 直江山城守~光風霽月の策戦マニヤ(2012年11月1日)
  6. 天草四郎~遣る瀬無き史上最大の一揆(2012年11月4日)
  7. 勝夢酔~一生涯ガキ大将(2012年11月7日)
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