光風霽月の策戦マニヤ『直江山城守/安吾史譚』書評

毘沙門天の旗を掲げて戦場を駆け巡ったのは彼の 上杉謙信 の百戦して無敗なるに軍神と呼ばれる所以です。 またかたむき通信に新人物往来社から上梓せらる小林計一郎氏執筆の 真田一族 に特に 真田幸村 の段を取り上げ書評記事[K1] もものしましたが、此方も大阪夏の陣に散ったとは言え、 ほぼ体勢の決した天下に消え行く豊臣方に立った鬼神の如き戦働きは 天下統一の主体者徳川家康を震え上がらせたのでした。

この戦国の世にも戦闘能力随一の両者を一本の線で繋ぐのが本編の主人公 直江山城守 にて、かたむき通信には本記事末尾の安吾史譚書評記事一覧にある一連の書評をものした 安吾史譚―七つの人生について (以下、本書)に収められたる物語群にて今回は 小西行長 の次なる五つ目となります。 作者は 坂口安吾 、なかなかの天邪鬼振りの発揮がその文章を面白く読ませてくれるこの作家は 新潟県の出身でその分越後の戦国武将直江山城へも一層思い入れが深いものかも知れません。 この段の冒頭では同郷の維新後の軍人 山本五十六 も謙信の系譜を遠く受け継ぐ末の弟子として登場させています。

謙信と幸村を一本の線で繋ぐというのも 直江山城守兼続 (1560~1619)なる人物は謙信 (1530~1578)の弟子であり、幸村 (1567~1615、諸説有)の師匠であったからでした。 少年時代に謙信の小姓に侍してその死に至る19の歳迄薫育を受け、 またかたむき通信の幸村の記事[K1] にも記す如く19の歳に幸村は上杉に質として出され翌天正14年迄の一年余りの間に 直江山城の教育を受けたらしい節が有るからです。

謙信を祖とする系図に脈々と受け継がれたのは 全く天下に無欲でありながら戦場にあっては嬉々とした戦働きを見せる処にあります。 この系図上の者に取っては戦は頼まれて、行き掛かり上するもので、 然るに一旦戦場にあれば戦略に熱中し勇みに勇んで働き戦上手として決して人後に落ちはしません。 彼らの大好物は謙信流戦争憲法第一条に鎮座する 大義名分 、と言えば聞こえは好いですが、詰まりは義を立てて一肌脱ぐのが大好きな連中なのです。

謙信流一派は最早滑稽譚に感じるほど従って相手方を大いに弱らせる存在でもあったのです。 謙信に於いては武田信玄がそうでした。 天下の大将軍などからっきし頭になく只管好敵手の信玄とことを構えるのを望み、 かと言って困っていれば塩を送って遣り、遂にその死を聞けば手の箸を零して 嗚呼好漢を失ったと一嘆き、なんぞもう破茶滅茶です。 これほど手に負えない相手もありません。 直江山城と幸村の相手を引き受けたのは徳川家康でしたから 狸親父と謂われながらその英傑振りは天下一品と申して差し支えないでしょう。

北条早雲(~1519)を嚆矢とし斉藤道三(~1556)に継承が見られる如く戦国の世は 下克上 と共にありました。 100年間もの間、下から上を引っ繰り返す大騒動の渦中に世の中はあったのです。 直江兼続は上杉家家老でしたがしかし代替わりした 上杉景勝 を引っ繰り返してやろうと言う気持ちは終ぞ起こしませんでした。 師匠が天下の大将軍なぞ欠片も欲していないのに似ています。 安吾は本当に天分のある者は道を楽しみ本来の処世には無策であるとします。 信長が横死する迄は秀吉は一の家来で満足であったし、 家康は格別の盟友でこれも満足であっただろうと喝破します。 この考え方などは歴史に直ぐ様陰謀説を持ち込みたがる 本当の天分ある人の本来の心根を知り得ない一部マニヤには 若し届けばの話ですが耳の痛いものでしょう。 安吾は新井白石などの捻くれた史家には分かりっこない、と言いますので 白石以下の陰謀史家には耳の痛痒も致し方の無い処、ご寛恕ありますよう。

この如き天分を発揮する人物は実に当然な理屈、 凡庸の人には遂にこの按配が分かり兼ねるものにあるものを 当たり前の如く実践出来る人物でもあります。 このエピソードとして本書は関が原の役後の上杉直江主従を懐柔したい徳川秀忠の事例を挙げます。 秀忠が懐柔を目論んで上杉邸を訪問したくともつい今し方迄敵方の屋敷に出向くのには躊躇いのあったのを 直江山城は見て取り、上杉側から来臨を乞い且つ上杉家臣は屋敷から遠避け 準備一切を徳川家臣に当たらせたに由って秀忠は安心して交歓したと言います。 これは奇策にあらずして、策を弄する処かむしろ面倒な部分、捻くれた部分を一切取っ払って 甚だ明快に手っ取り早く目的を達したい本質を突いているだけで、 これがなかなか通常には見えないものだ、と安吾は評価するのです。

直江山城は大名ならぬ上杉家120万石の家老でありながら豊臣政権時代には30万石を領し、 この上は徳川、毛利は上杉の上ですから勿論として、 前田、伊達、宇喜多、島津、佐竹、小早川、鍋島の10家に継ぐもので 堀秀治と同格、加藤清正、石田三成より上のもので名実共に大名以上の家老だったのです。 秀吉から見ればこの厄介な策戦マニヤも天下に恬淡たれば騒乱のメッカ、 奥州の喉元を押えるに実に有用だったのは言う迄もありません。 秀吉も家康も直江山城には陪臣に関わらず殿付きで呼ぶ特別待遇であった所以です。

関が原の合戦の戦略に於いては三成と肝胆相照らした直江兼続の立案だとされます。 言ってみれば主家を差し置いての天下分け目の戦の首謀者なのでした。 しかしこのA級戦犯は家康からは特別なお咎めも無く、 更には120万石を30万石に減封された主家景勝からも毫も怒りを買うことはありませんでした。 5万石は兼続に与えられたものであったにも関わらず固辞した上で5千石しか受け取りませんでした。 関が原に天下を確たるものとした英傑家康も直江山城に厳罰を課す処か 米沢に其の侭留め置こうとしたのも今回は自らが大汗を掻かされる羽目となりましたが、 次回は己に歯向かう者が大汗を掻く羽目となるのを熟知していたからであると本書はします。

伏見城に大名が会した際、伊達政宗が取り出した金貨を面々珍しそうに手に取って眺める中、 直江山城だけは扇の上に転がしているので陪臣、家老の身分を案じてだろうと 政宗が遠慮なく手に取りたまへ、と述べたのに対し直江は 先公謙信以来、先鋒の任について兵馬をあやつる大切な手に金貨なんか握られないね、 と扇を一と煽ぎすれば金貨は政宗の膝元迄飛んでぽとりと落ちた、 なるエピソードを本書は紹介します。 安吾が直江山城を評するに用いる 光風霽月こうふうせいげつ なるこの言葉は 宋史 から引かれるもので直接には 日の光の中を吹き渡る爽やかな風と雨上がりの澄み切った空の月の意を表しますが、 黄庭堅が周敦頤の心がさっぱりと澄み切ってわだかまりがなく、 爽やかな人柄を褒めた言葉であるそうで、 世の中がよく治まっている形容に用いられもするのでした。 下克上の戦国の世が収束するには此の 直江山城守兼続の如き処世に恬淡無欲で光風霽月なる人物が必要不可欠であったのかも知れません。

安吾史譚書評記事一覧
  1. 柿本人麿~歌聖大法螺を吹く(2012年10月17日)
  2. 道鏡童子~高潔たる童貞童女の濡れ衣を晴らす(2012年10月19日)
  3. 源頼朝~顔大短身御曹司が化ける(2012年10月21日)
  4. 小西行長~大物外交官を史上に炙り出す(2012年10月24日)
  5. 直江山城守~光風霽月の策戦マニヤ(2012年11月1日)
  6. 天草四郎~遣る瀬無き史上最大の一揆(2012年11月4日)
  7. 勝夢酔~一生涯ガキ大将(2012年11月7日)
かたむき通信参照記事(K)
  1. 英雄幸村の等身大像を垣間見る『真田一族』書評3(2012年8月29日)
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