木簡が木簡として此の世に現出せしめられたのは1961(昭和36)年1月24日の午後2時頃[K1]、 此の世紀の発見は歴史学会に大きな衝撃を齎し 二旬経ずして1979(昭和54)年には木簡学会が組成され新学問たる木簡学の創始となりました。 今や初期に発見された木簡群は国宝の指定の諮問を受けるほどです。 木簡は書かれた時代的にも多岐に渡りますが 特に他に一次史料の乏しい古代史に与える価値は絶大です。
さてでは木簡発見以前の古代史の研究は如何様に進んでいたかを把握するに
絶好の一冊があります。
1917(大正6年)生まれにして昭和を生き、1983(昭和58年)に泉下の客となった昭和の歴史学の泰斗
以下に本書の目次を記します。
上記から本書が前後篇に大きく二つに分けられているのが見えます。 前篇では西暦起源前後から4、5世紀に渡り史実を主眼に記述されています。 後篇では推測の要素をあまりにも多く含み過ぎているとしながらも、 日本国家の起源の問題を他諸民族との比較、関連の検討により把握しようと試みるものです。
前篇 国土統一の過程
前篇は史実を主眼に据えるに当たり中国史書が主に利用されるに 記紀の脇に追い遣られるのを訝る向きに向け 同時代史料を尊ぶ と言う 史学の鉄則 が主張されています。 狭義には三、四世紀の本邦を鑑みるに八世紀に成立した記紀よりは同時代に成立した中国史書を尊ぶ此処に於ける姿勢であるのですが 広義に歴史に向かう重要な姿勢と受け取れもするでしょう。
前篇に取り上げられる題材は以下の二つとして良いものです。 前者に於いても後者に於いても中国史書が縦横無尽に活用される学界の様子が活写されています。
前者の
邪馬台国論争
ではお馴染みの
畿内大和説
及び
九州説
が両者合間見えて
前篇、後者では従とする記紀の史実性を漢書、後漢書、魏志倭人伝、百済記などの中国、朝鮮の同時代的史料、
及び銅鐸や銅鏡、鉄剣などの存在と其の金石文から批判します。
主に対象となるのは目次にあるように、神武東征であり、
神武東征については井上自身の考えは前篇に明言せず保留します。
読者の叱責を招きかねない此の保留も多くの学者が議論を重ねているにも関わらず史実としては分明ならぬ状況を嘆きます。
しかし
神功皇后の新羅征伐については記紀に日本書紀を特に取り上げ 其の内容を古事記に相通ずる前半部と朝鮮の記録、 百済記 を用いたらしい後半部に分けられるとし、 神功皇后を主体と捉えるには疑義を差し挟みながらも其処に四世紀の史実が発見出来ると結論付けています。
皇室系図については先ず中国の記録を鑑みて帝紀の信憑性を検討します。
かなり改作が加えられた様子が窺えながらも
倭の五王
に関しては遣使年表を呈示するなどして史実性と天皇諡号とを結びつけるのに成功しています。
そして遂に倭の五王に先立つ第15代
後篇 二つの国家起源論
斯くて史実性を主眼たる前篇について井上は記したのでした。 続く後篇については史実の検証だけでは語り得ない国家の形成を促すものは一体何か、と言う設問に対して 深く社会の内部構造に立ち入り且つ世界史的に視野を拡大すべく仮説の域を出ないのを已む無しとしますが 当時提唱された所論を何某かを得るべく問題点等を考慮しながら考察を重ねます。 後篇は其の分前篇に比べて普遍性が薄れ幾分1950年代と言う時代性が感じられるようにも思います。 取り上げられるのは以下の二つの所論となっています。
結論を先に書いてしまえば井上の本書に通底する主張としては応神天皇を皇統の開祖としており、 後篇は応神天皇を中心に前者を以前、後者を以降と捉えると把握し易くなるでしょう。 此の際一つ歴史資料の時系列検討に於いて一般に、 雑多なものより統一的なもの、生活的なものより政治的なもの、具体的なものより抽象的なものの方が後世的である との井上の判断基準が記されており 吾人の態度にも大いに参考に供されるべきではなかろうかと考えます。
前者の英雄時代論とは1930年代
高木市之助
の
日本文学に於ける叙事詩時代
の発表から漸次本邦に盛り上がりを見せたもので
古代貴族の英雄時代
を1948(昭和23)年書いた
此の英雄には目次にある処の ヤマトタケル と オキナガタラシ姫 、即ち神功皇后が挙げられているのです。 此処に英雄物語としての神武東征の扱いがないのは其れが英雄時代の記憶ではなく 六世紀以降に成立した階級社会の自らを肯定するための作り出された英雄であるからです。 井上は神武を以て 理念の化石の如き作り出された英雄 と評しています。 此処で井上は英雄の紡ぎ出す物語の判断基準に叙事詩的な、所謂生々しさを重視しています。 決して理路整然とした因果説に基づいてはおらず筋立てのある小説が如きものではないのです。 叙事詩的英雄物語に於いては事件の信仰を支配するのは明日をも知れない運命であって 時々刻々に周囲の状況が主人公の運命を指示し行動規定していくもの、と記しています。 無論ヤマトタケルもオキナガタラシ姫も其の実在は疑われる処で 前記した英雄時代の氏族族長の活躍をまとめて架空の個人に仮託した説話上のものとされます。 ヤマトタケルについては多くの族長達の活躍が英雄ヤマトタケルに集約されたものですが 神功皇后については特に応神天皇の成し得た事跡の写像となっている部分が多いものとなっています。
英雄時代の項では終始邪馬台国が、即ち応神以前の体制が、
専制国家ではなく緩やかな連合体であったと言う井上の主張に貫かれているのも考慮しておくと本書の理解が進むでしょう。
目次にこそ邪馬台国は専制国家か否かなる項目が立てられていますが
井上はむすびの項目で其れは無理であると結論づけています。
此処にも中国等他国の史書を引いて緩やかな連合体を率いているのが盟主権の弱い邪馬台国であったのを論証しています。
緩やかな連合体から逸早く王権と隷属民の世襲的階級社会を構築し得た大和朝廷が諸国から抜きん出て
地方国家の王の系譜を引く
英雄時代論については些か文学的に傾くためか文壇を超えての般世間的な広がりはなかったようですが、
征服国家論、
好意的とは言えない騎馬民族説に対する学会の反響を鑑みるにでは何処に問題点を包含するのか
井上は沈黙した日本史家は措いて概ね批判的な東洋史家、考古学者、言語学者達の意見を列挙した上で
ミマキイリヒコ、即ち
先に最も早い時期の実在性が信用にたる葛城氏と並んで倭の五王の時代に外戚として勢力を張った日向氏がため
皇室は遥か日向の地を発祥地と考えるようになったのではないかとの仮説も此処では提唱されます。
応神の実在と九州説を採る井上はまた此処で
応神を九州に起こった征服者とし、
南九州の
もう一つの主張
さて此処迄本書に於いて本編を見て来ましたが本書には今一つ重要な主張が書かれていると考えるのは まえがき に於いてです。 日本国家の起源を天皇制を神聖視して記された記紀は明治の政治家に都合良く利用され、 江戸期に始まり、明治、大正から昭和の初期に掛け数多の学者が明らかにして来た真実は隠蔽され 遂には記紀の厳正な文献批判の礎石をつくった津田左右吉の純学問的著書さえ 出版法違反の憂き目を見たと言い恰も焚書坑儒の如き感を覚えます。 太平洋戦争後は其の反動から考古学偏重に傾き、 即ち学生の知識は大国主命や日本武尊から弥生式土器や古墳文化の偏重していると言います。 しかし記紀を聖典化する社会と考古学ブームに踊る社会の中庸にこそ其の華やかならぬ研究の速度も遅々たれども 日本国家の起源を探る唯一の方法があると著者は言います。 大凡国家の起源は孰れにも曖昧模糊なるも本邦に於いては如何なる状況にあるか、 出来得る限り包括的、体系的に紹介するのが本書の述作の狙いであるとします。 本書を古代史まとめと標題する所以です。
付記
ところで井上光貞は明治の元勲 井上馨 及び 桂太郎 の孫に当たるそうで 六次の隔たり 宜しく僅かな人数を経て遠く知っていた歴史に描かれる当事者に当たるのは歴史を通した歴史なる 歴史学と言う小世界の奇妙で心弾む不思議な縁を思わせられもするのですが、 其れ以上に両長州傑物の血を直接引く自身の専門分野に於いて誠実たらん為に 両祖父を含むでしょう明治の政治家を悪し様に言うのは歴史の織りなす綾の上に現出した風変わりな文様にも感じられ趣深くあります。
本記事執筆者は伊場遺跡発掘の責任者であった 向坂鋼二[K2] 先生に教えを受けています。 伊場木簡の指導を受ける際には屡々井上光貞の名が先生の口から漏れるものです。 名前と共に語られるのは向坂先生が調査主任として携わった伊場遺跡の発掘で出土した木簡群について井上光貞が当地に視察に訪れた際の言葉です。 其れは 木簡一点は正倉院文書一通に匹敵する というものです。 向坂先生の心には此の言葉が深く心に刻まれ残っているのでしょう、 伊場木簡のお話をされる際には折に触れ聴講者に伝えられます。 本書の上梓されたのは1960年、木簡が木簡として初めて発掘されたのは其の翌1961年、 発掘前には思ってもいなかった伊場から木簡が出土したのは1975年でした。 歴史学会の泰斗の言葉が現地発掘者たる向坂鋼二先生にどれほどの力を与えたか窺いしれる処です。 また同時に此の言葉を発せられた井上光貞自身に取っては 議論百出しなお閉塞感の漂っていたとも思える古代史に光明を投げかけた木簡がどれほどの希望を与えたか察するに余りあるエピソードに思います。
かたむき通信参照記事(K)- 故きを温ねる新しい学問〜書評〜木簡から古代がみえる(2017年2月15日)
- 遺跡に於ける大溝命名について(2017年5月20日)