浜名湖南部陸地説と古代浜松地名比定地

静岡県西部に位置する 浜名湖は嘗て其の南部は陸地に覆われていた とする学説が 向坂鋼二 氏(本稿執筆者塚本との関係により以降向坂先生とします)により提唱されています。 当地は過去の大地震で水没してしまいましたので現在は湖底となっています。 当地を水没せしめた大地震は応永14(1408)年の 応永の大地震 とも明応7(1498)年の 明応の大地震 とも言われています。 向坂先生に依れば 明応7年を境に浜名湖南部一帯では人の暮らしを示すような遺物は全く発見されていない とのことで此れは当地の当時陸地たるを証明する人々の集住した遺跡と同様の逆側からの論理となります。 孰れにせよ嘗て人の暮らした跡の発見された浜名湖南部の陸地は15世紀終わり以降水面下に沈んで現代を迎えています。 現在の弁天島は西野や西之島浦など諸島の水上に残り覘いた陸地周辺を昭和初期に埋立、造成した土地です。

埋立地である弁天島に立地するホテル・ザ・オーシャンから浜名湖南部を望めば遠く今切口に架かる浜名大橋、左には弁財天伝説に因むモニュメントの赤鳥居も見える(2016年12月18日撮影)
埋立地である弁天島に立地するホテル・ザ・オーシャンから浜名湖南部を望めば 遠く今切口に架かる浜名大橋、左には弁財天伝説に因む昭和48年竣工のモニュメント、赤鳥居も見える(2016年12月18日撮影)

浜名湖南部陸地説 は浜松博物館報などにも公開され また反論及び其れに対する向坂先生の反論まで各所に公開されており、 浜松市立図書館などに関連冊子が保存されておりますので 詳細を知りたい向きは閲覧をお薦めするものです。

第一の典拠向坂説

本稿執筆者は幸甚にも向坂先生にお願いして直接 浜名湖底遺跡と東海道 と題された此の説の講義を今年2017年1月14日に受けられました。 向坂先生の許可を得て其の際の図表を以下に転載します。 此処では現在の浜名湖の2.5メートルの水深より浅い部分を陸地に転じて図示されてます。 向坂先生は地質学者などに問い合わせて浜名湖近辺は地盤が下がる傾向にあり北に向かうに従い其の傾向は大きい、 との意見を得たそうですが此処で決定された数値は 伺った所大凡の目安で此れでなければならないという確たるものではないとのことです。 浜名湖の水深を見ると2.5メートルを境に急に等高線が詰まって急落しており 敢えて言えば其処が判断基準となり下の作図をされたようです。 向坂先生が所属している時期の浜松市教育委員会の 伊場遺跡発掘調査報告書第一 には伊場遺跡と同様に浜名湖南部の地盤も今日と相対して少なくとも 1、2メートルは高かったものと推定しており、 現在の村櫛半島と表鷲津を結ぶ線より北側へ浜名湖は押し込まれ、 弁天島以北には広大な耕地が確保されることになる、と報告されています。

2017年1月14日講義資料「浜名湖底遺跡と東海道」より転載
2017年1月14日講義資料「浜名湖底遺跡と東海道」より転載

作図は現在の磐田市に迄及んでいるのは 大之浦 を地図内に収めるためで静岡県西部の領域を持つ 遠江国 の語源となった 遠淡海(とおつあわうみ) は通常浜名湖を指すものとされますが 此れも向坂先生が最初に提唱された 磐田原の南一帯に広がっていた大之浦こそ遠江の語源である との考えを説明するためのものです。

向坂先生は伊場遺跡発掘の責任者であり地方木簡の嚆矢たる 伊場木簡 を最初に直接発掘された方でもありますので木簡に関する講義をお願いした所快くお引き受け下さり 今年2017年5月13日には 伊場木簡 I ー年代・地名・人名についてー 、続いて翌々月の7月8日には 伊場木簡 II ー国の制度と地方木簡ー と題された受講が叶いました。 特に前者では地名が扱われ本稿の第一の典拠となっています。

敷智郡と浜名郡分置

本稿のもう一つの主な典拠『伊場木簡の研究』
本稿のもう一つの主な典拠 伊場木簡の研究

伊場遺跡は敷智郡郡衙と目されますから 敷智郡一帯の荷札の輻輳地ともなり聚合して発掘された木簡からは 敷智郡一帯の地名が集まる道理です。 また律令国家の初期、敷智郡は大郡で浜名郡は後に敷智郡から分割されましたから 古代に於いて分割までは敷智郡に浜名湖一帯の地名も集まることになります。

此処で分割と書いたように敷智郡、浜名郡と両郡が古代から截然たりて両者連綿たる存続があったとは一般に考えられておらず 其の時期について、延いては分割其のものについても定説がある訳ではありませんが、 現在では郡域は行政の都合に因って随時変化するのは勿論律令国家初期に於いては大郡だった 敷智郡から一部割譲して浜名郡を生ぜしめたのが現在の大方の一致する見解となっています。 従って敷智郡の郡衙たる伊場遺跡には現在通常浜名郡及び引佐を想起させる 京田(みやこだ)(都田)、 贄代(にえしろ)(鵺代(ぬえしろ))、 新井(居)などの地名の記された木簡が出土しています。 比較的新しい研究成果が記されている2010年に六一書房から刊行された 伊場木簡と日本古代史 の20頁には此の三地名が孰れも里制下での地名であることから 701年以降大宝律令が制定施行される過程で敷智郡から浜名郡と引佐郡が分置されたと考えられるとしていますし、 本稿で向坂説以外にもう一つの主な典拠とする所の東京堂出版から昭和56(1981)年に上梓された 竹内理三 氏編の 伊場木簡の研究 では 松原弘宣 氏の文責の段に現在一部が正倉院文書などとして残されている遠江国浜名郡輸租帳は天平12(740)年成立であることから其の以前の分割であるとの 米田雄介 氏の見解が紹介されてあります。

浜名湖周辺採取古代地名

ともあれ土地があり人が住めば地名がない筈はありません。 然るべくして浜名湖南部には古代地名が置かれる筈です。 浜名湖南部以外にも敷智郡の古代地名は検出されますので以下表に採取のなった其れ等地名を列挙します。 なお和名類従抄は成立年代の古く史料的確度の高い高山寺本を採用しています。

和名類従抄伊場木簡
・墨書土器
郡名高山寺本
敷智敷知郡淵評・敷智郡
蛭田比留太蛭田郷
赤坂安加㔫賀赤坂郷
象嶋象嶋
柴江之波江柴江五十戸・柴江郷
小文小文里・小文郷
竹田竹田五十戸・竹田里
雄蹋烏文
海間阿万−
和治和治
濵津濵津□・濵津郷
−−栗原
−−入野
−−中寸里・中寸
濵名坂本
大神
驛家驛家
贄代贄代□
英多
宇智
−−新井里
−−宗可□
※□は不明一字
※㔫は左の異体字
※蹋は踏の異体字

上表にある 淵評 は ふちのひょう 若しくは ふちのこおり と読み 淵 は和銅6(713)年の 好字二字令 に縁って二字の 敷智 に改められたと考えられ、 また 本ブログ2017年2月15日の記事 故きを温ねる新しい学問『木簡から古代がみえる』書評 に郡評(ぐんぴょう)論争の解決として記したように 評(こおり) が大宝元(701)年の大宝律令の施行で 郡(こおり) に改められたに縁って伊場木簡には幾つかの表記がなされており 墨書土器には 布知厨 や 布智厨 なども確認できます。 因みに此の淵の語源としては通常浜名湖、即ち都田川の淵、として考えられていますが 伊場木簡の研究 には根拠を前頁に述べられた後の3頁に敷智郡の淵は浜名湖の淵ではなくて、 当時麁玉河と呼ばれた天竜川であると結論付けています。

浜名湖周辺古代地名比定地図

木簡から地名が検出されれば現在では其れが何処なるものかという課題が得られます。 向坂先生は其の課題に一定の回答を早い時期から提示されています。 下に2017年5月13日の木簡講義で示された敷智郡古代地名の比定地図を作図者の向坂先生の許可を得た上で転載します。

2017年5月13日講義資料「伊場木簡 I ー年代・地名・人名についてー」より転載
2017年5月13日講義資料「伊場木簡 I ー年代・地名・人名についてー」より転載

考古学界に齎した成果に比して控え目で其の奥床しい気質からか向坂先生は現在の地図上に比定地を置くにも 申し訳程度に柴江さえ海の上は避け昭和初期以前は海であった埋立地に置いていますので返って後学は其れを慮って気を付ける必要があるでしょう。 此の図を元に 伊場木簡の研究 に竹内氏が述べられた比定地を本稿執筆者の解釈にて加え、 其の土台となる地図を国土地理院のデータに基づいて浜名湖の水深を図示した上に於いた図が下図となります。

「浜名湖水深図(及び古代周辺地名)」この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の地理院タイル(湖沼図)を使用した。(承認番号 平29情使、 第362号)
「浜名湖水深図(及び周辺古代地名比定地図)」この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の地理院タイル(湖沼図)を使用した。 (承認番号 平29情使、 第362号)

国土地理院の地理院タイル(湖沼図)は昭和40、41年に測量されたデータです。 水深は必要のため0.5mから2mの間を水を水色に土地を白にして段階的に可視化して図に反映してあります。 浅くなるほど水色から白に近付くという塩梅です。 其の数値は前段で2.5mとした図と其の理由を聞いて、更に実際に線を引いて見て充分と思える数値として決定しました。 2mの水深を見ると其の境界線は庄内(村櫛)半島から鷲津に繋がっているのが見え 明応年間以前浜名湖の南端は此の辺りではなかったかと思わせるものです。 境界線から今切口に向かって深瀬が繋がるのは現代の航路確保の為に人工的に浚渫されたものだと思われます。 埋め立てて土地造成の叶うほど浅瀬であった弁天島に加え 水深50センチメートル以下の大瀬や碇瀬が広く広がり 此の部分だけでも水面上に現れていれば広い耕地となるのは疑い得ないでしょう。

赤坂公会堂(2017年5月21日撮影)
赤坂公会堂(2017年5月21日撮影)

佐鳴湖及び新川は水深とは無関係で比定地の現代に於ける位置確認の便宜の為に其の位置だけ示してあります。 四角で括った横書き黒文字は現代の参考となる地名等を意味します。 黒丸は伊場遺跡等、比較的狭い領域で示せる地を示し名称は四角文字に線を引いて紐付けています。 横書きの青文字は水筋の名称を示します。 縦書きの黒文字は向坂先生の木簡から採取した地名を比定地に置いたものです。 中に赤坂郷は少し原図と位置が異なりますが講義の際に向坂先生から直接現在残される赤坂の地名を比定地をした旨お聞きしましたので 伊左地地区でも現在赤坂公会堂などの建つ地区に合わせ東北にずらして図示しています。 現在の赤阪はしかし浜松市教育委員会の 伊場木簡釈文 に、此の地は三方原台地の上で奈良時代に人の集住した場所とは思えない旨述べられてもいますので注意が必要でしょう。 一般に三方原台地上は維新後から開拓を重ね、昭和に土地改良事業を重ね漸く人が住めるようになった土地です。

もう一つの典拠竹内説

前述の 浜名郡輸祖帳 や 邨岡良弼(むらおかりょうすけ)の 日本地理志料、 内山真龍(うちやままたつ)の 遠江風土記伝、 清水正健の 荘園志料、 などを参考にした竹内氏の提示するものを本稿執筆者の解釈を加えて上で加えた比定地は緑字で示しました。 以下に其の説明を図との照合が容易であるように番号付きで列挙します。

  1. 蛭田郷
    其の名から蛭の多い低湿地帯と推定され内山真龍の古地図を参照した日本地理志料の記述から浜名郡橋本の東であり 応永の大地震で柴江と共に海中に没したものと考えられています。
  2. 赤坂郷
    上述したように伊左地町赤坂平は可能性が低い旨述べられ、 遠江風土記伝の言う伊場遺跡に近い説を取り上げています。 後述するように図に黒字の比定地は和治郷に含まれる可能性もあり再検討が必要となるでしょう。
  3. 入野里
    遠江風土記伝、日本地理志料の採る伊場其のものを含むとする説に異議を唱えています。 和名抄に見えないながらも現入野が遺名であるとする考えに特に異論は見えません。
  4. 象島(きさじま)郷
    式内岐佐(きさ)神社の存在から浜名郡舞阪に当てられています。 なおキサは鼻の長い大型哺乳類の象ではなく古語に貝類を意味する旨も述べられています。
  5. 柴江郷
    蛭田郷の項にもあるように蛭田と相隣りして応永大地震で水没したとされており 遠江浜名淡海図 の柴江堤防遶巽の記事から浜名湖湖心より東南に位置する蓋然性が高い旨述べられています。 遠江浜名淡海図は滋賀県石山寺に空海書と伝領されたものとされ原本は失われたものの詩文の記録は残るものです。
  6. 息神社神額(2016年8月7日撮影)
    息神社神額(2016年8月7日撮影)
    小文郷
    内山真龍の古(小)人見、日本地理志料の大久保、志都呂、古人見、大人見、 池辺弥 氏の 和名抄郷名駅名考證 から式内 息(おき)神社 、等々の説が挙げられていますが孰れも納得せしめるには不充分であるとしています。
  7. 竹田郷
    伊場遺跡近傍説は有力であるとしながらも 式内許部(こべ)神社の比定地小沢渡町や米の音の通ずる米津町を挙げる 日本地理志料の説も再検討に値するとしています。
  8. 烏文郷
    日本地理志料の比定に小文郷と雄踏郷は相接続し両郷ともオフミと訓める点から 木簡の小文、烏文についてはなお検討の余地がある旨述べられています。
  9. 和治郷
    浜松市和地町に旧名を留めるとする説に大きな異論はないようで 日本地理志料の和地、深萩、東西大山、伊左地、須木沢に渡るとする説を取り上げています。 此の範囲に渡るとなると赤坂郷との関係が考慮されなければいけなくなるでしょう。
  10. 濵津郷
    向坂先生が 浜津は浜松の古名であると断じた地名です。 濵松は和名抄の元和古活字本に見られ 波万万都(はままつ) と仮名が振られますが此の成立年代は江戸期迄降るため信頼性の高い高山寺本の浜津を江戸期に流通していた浜松に書き改めたものと考えられます。 浜松は平安時代以前には使用例が認められません。 竹内氏は特に此の郷名を取り上げ私見の開陳に一章を割いておられ興味深く読めます。 此の点には些か本稿執筆者の私見もありますが記すにしても稿を改めたく思います。
  11. 駅家郷
    大宝律令以前に遡り栗原駅と深い関係があるのは疑い得ないとしています。
  12. 海間
    浜松市教育委員会木簡釈文に海間(あま)を庄内村櫛半島に比定するのに対し 元和古活字本の 尾間(おま)との関係の判断の困難を論じています。 此れを 乎萬(こま) と読んで現在の 馬郡町(まごおりちょう)に比定する内山真龍の説や 此れを受けて坪井町、篠原町に比定する邨岡説を紹介しています。
  13. 宗我里
    故地を今日探るのは困難であるとしながらも宗宜部の多い新井里に近接していたであろうか、との所見が述べられます。 上図上には本稿執筆者が新井里近傍で付会覚悟で強いて嘗て陸地だった可能性のある領域で開いている庄内半島と表鷲津の間に置いています。
  14. 新井里
    今日に新居町が遺名を襲っているとして問題ないだろうとして 此処では其の位置よりも属する郡は敷智郡であり延いては浜名郡立郡への言及に多くを割いています。 其の論拠には向坂先生の浜名湖南部陸地説が大きく影響しています。 またこの名が 津筑 と共に和名抄には見えず浜名郡輸祖帳に記載される点から郡編成について言及されています。
  15. 宇智郷
    伊場木簡67号の 内郷 を一文字の郷名はあり得ないとしながらも和名抄浜名郡の宇智郷との関連を示唆しています。 宇智郷の比定地については明確さは欠くものの試案として日本地理志料に現在の庄内半島の村名が列挙されるのを紹介していますので 上図には海間と干渉しはしますが強いて庄内半島に置きました。 宇智郷については特に以下に一段を設け記述します。

以上向坂説以外に木簡に見られる地名の宗我里と他古文書から採取可能な古代地名を基本的に竹内説に基づき比定地図上に置いたものについての説明を列挙しました。

伊場木簡第67号
伊場木簡第67号

宇智郷

本稿では敢えて庄内半島に比定していますが宇智郷は和名抄に浜名郡に属すと記されることもあり今日一般に浜松市北区三ヶ日町宇志に比定されるようです。 竹内氏の紹介する日本地理志料には 按図、有内山村、亦入敷智郡、亘堀江、白洲、和田、村櫛、平松、呉松諸邑、其故地也、風土記傳為宇志村、非是、祀典所秩曽許乃御立神社在呉松村 と記されますから三ヶ日町宇志とするのは内山真龍に従うもので 邨岡氏は其れに異を唱えて呉松村の 曽許乃御立(そこのみたち)神社の存在から 庄内半島に比定しています。 上図で宇智郷を庄内半島に比定したのは邨岡説に依拠するものです。

伊場木簡第67号には伊場木簡釈文に □□郷戸主石部… とあり二文字目には( 内 カ)と記載され内郷と記されていると解釈できる木簡で 右に編著者の向坂先生より許可を得て浜松市教育委員会発行の 伊場木簡 より当該図を転載しました。 上述したように竹内氏は一文字の郷名はあり得ず上の一字と合わせ二字で示される筈であるとする言及も図を見れば分明かと思います。

庄内半島や庄内村、庄内湖に見られる庄内の地名の起源については庄内郷土史研究会が昭和47年に上梓した 庄内の歴史 に庄内と荘内とも書き最勝光院へ寄附された村櫛荘内の事務を司った庄司という役名が見られることから 庄内という言葉は相当に使われており、孰れにせよ荘園に関係した言葉だとしています。 木簡の記述を見ても内の前が庄と考え、庄内郷と見れば古代から庄内なる地名があったものとできますが 漢字の一部がムの形に見える一字ではどうも其のように考えるのは難しいようです。

また庄内半島の根元、舘山寺の北側から西へ展開する湾は 内浦 と書き うちうら と発音し、 宇智(うち)に繋がります。 其処で地元の 浜名湖かんざんじ温泉観光協会 に問い合わせて見た所、与謝野晶子が舘山寺を訪れた際に詠んだ歌に内浦が読み込まれていることから 昭和の初期には内浦の名称が通用していたようですが 徳川家康が堀川攻めの後堀江城に迫った時の戦国末期の記録などでは 小引佐(こいなさ) と表記されるのが知られているそうです。

舘山寺を背景に内浦を遊覧船が走るのを舘山寺八景水神の森址の足湯から見る(2016年6月18日撮影)
舘山寺を背景に内浦を遊覧船が走るのを舘山寺八景水神の森址の足湯から見る(2016年6月18日撮影)

残念ながら宇智郷を庄内半島に比定する邨岡説を追確認するには至りませんでしたが 向後の課題として脳裏に含み置くのも面白かろうと思っています。

付言

伊場遺跡の発掘は木簡出土に留まらず弥生時代の三重環濠や柳の短甲などの発掘で 世の中に大きなセンセーションを巻き起こしました。 向坂先生は当時夜討ち朝駆けのメディア記者に追いかけ回されて大変だったそうです。 従って随分東大、京大などの歴史学、考古学の指導者的立場の先生方に直接の面談、質疑応答を求められたそうで 竹内氏も其の一人であったそうです。 伊場木簡と日本古代史 に於いては向坂先生も執筆者のお一人ですし 伊場木簡の研究 では勿論竹内氏他執筆者の方々の長年の研究成果や知見も堪能出来るものの 相当量向坂先生の成果の影響下にある一冊と言って宜しかろうと思うものです。 竹内氏の著作に留まらず 当時木簡学が立ち上がったものの未だ認識され研究の俎上に上るのは中央たる奈良の木簡群であった中に 地方行政の詳細を知る得る木簡が思ってもいなかった浜松伊場遺跡から忽然と姿を現したのですから 学者連が情報を求むるに向坂先生の暇なき様子は察するに余りあります。 本稿執筆者の木簡関係等の論文を幾つも閲するに其の論文執筆者の名前を向坂先生に問えば 大抵は奈良まで出掛けて説明したとか、浜松に来られた折に随分話を求められた、などなど どれ程の向坂先生の挙げた成果が関連論文に織り込まれているかが知られます。 此の如き衝撃的な発見である伊場木簡の出土は 向坂先生にお尋ねした所伊場遺跡発掘に携わった当初は思ってもおられなかったそうなので面白いものです。

様々向坂先生に直接のお尋ねをする中で 蛭田 については 蛭田と命名するには湿地が連想されるから嘗て湿地帯であった佐鳴湖北辺の富塚を比定したもので其れ程強い主張をするものではない との所見を得られましたので此処に記しおくものです。 21世紀最新の学説が閲せる 伊場木簡と日本古代史 でさえ特別な説明もなく蛭田が富塚の位置に置かれていますので注意が必要かと思います。 以前本ブログの2017年4月29日の記事 杉浦国頭の書き残した浜松の二つのうとう坂 に配信したように杉浦国頭の何気なしに書いた一説が 強い論となって世を占拠する例は多々見られますので 高名な学者諸氏の本意ならざる自説の拡散の不名誉を防ぐ為にも後学は気をつけたく思うものです。 後学は各自鋭意努力して本稿の掲載図を改訂する必要があります。

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